今日も変わらぬ朝がやって来る。有子は
数日ここで"超高校級"の生徒たちと過ごしていることで、有子も段々と彼らのひととなりをかなり知り得ることが出来た。
「おはよう、みんな」
「おはようー!」
「おはよう、国中さん。佐渡もね」
「はようぃ! 今日も目覚めはスッキリしてたかぃ?」
「うん、ありがとう。お陰様でね」
「おはよう、笛吹きくん!」
「おはよう佐渡。……朝から騒ぐんじゃない、そこに座れ」
「はぁい〜。えへへ〜」
「おはようございます。朝食の準備をしていますから、少々お待ちくださいね」
「おはよう」
「おはよー! ゆーこちゃん、しょーへーちゃん!」
まずは、いつも有子たちより前に食堂に集合している、規則正しく、真面目な人たち。
漁師の伊海田と介護士の星永は今日も一緒に体操をして、それを眺めるモデルの白雪と人類学者の泡淵。傍らでひとり離れたところにいるフルーティストの赤柳に、厨房で朝食の支度をする執事の猫塚。
そして、次に入って来るのは、有子たちと同じく平均的に健康な生活リズムの人たち。
「おはよぉ〜。猫塚ぐん、手伝うよー」
「おはようございます、綿貫さん。今日もご教授宜しくお願い致します」
「……お、お、おお、お、おは、おはよっ……!」
「おはよう、火燈さん」
「……あ、あうっ、あうぅ……!」
到着早々猫塚の元へ駆け寄って行く家事代行の綿貫。おどおどしながら懸命に挨拶をする火燈。
そして少し待ってやって来るのが……割と時間にルーズな人たち。
「…………おはようございます……」
「おはよう青錆くん。……大丈夫?」
「…………え? ああ、いえ……ご心配なく……」
「やっぱ朝はテンションひっっっくいね〜、青錆ちゃん。あ、みんなおはおは〜」
「はよ〜……。ねみぃ〜……」
「きくね起きて〜♡」
「起きてるから、顔寄せんなやめろぉ……」
城主の青錆はほとんどいつもローテンションだが、決まって朝は最低だった。対して、朝からにこやかに挨拶をするのは靴職人の加連。まだ眠い目をこするアントルメンティエの菊音と、片割れを見つめて上機嫌に笑うコンフィズールの夜羽。
……そこからかなり時間を置いて訪れるのが……。他人の時間を気にしない人たち。
「ふむ、今日も皆生きているようだな」
「おはよう、姫ヶ原さん」
「ああ、お早う。猫、茶を持て」
「かしこまりました」
「みんなはやいの……」
「茨木さんは相変わらず寝坊助さんね」
毎日見紛うことなき出で立ちの姫ヶ原。眠い目を擦りながらあくびをする茨木。
以上、16名。本日も、全員健在である。
そうして16人の生徒たちが勢揃いすれば、いつも通りの食事会が始まり、進行し……。今日も賑やかで楽しげな話題が飛び交っていく。有子もいつも通り、自然とこぼれた笑顔で会話を楽しんだ。
そう、いつも通り。これは、もうすっかり慣れてしまった(非)日常。個性豊かな生徒たちの内面が少しずつ垣間見え、仲が深まり……有子は彼らにもうすっかり警戒心を抱いていなかった。
――そう、この瞬間までは。
――キーンコーンカーンコーン。
――只今より、朝礼を行います。生徒の皆さんは、至急、体育館にお集まりください。繰り返します。朝礼を行いますので、至急体育館にお集まりください――……
◇
「皆様、お揃いになりましたね」
放送を聞いて、すぐさまリーダーの赤柳の指示で揃って体育館に集まる。そうして全員が到着すれば、そこには初日の……そう、
「ワタクシ、ジェントゥメェンではございますが……。やはり、何度も同じ茶番劇を見せられるというのは耐え難いものでして。まあ言うなれば、さっさと展開を早めてしまおう、ということです。そう、登場人物たちの行動を促すこと。それがワタクシの与えられたお役目で御座いますから――……」
「前置きはいい、お前は僕たちに何をするというんだ?」
要領を得ない回りくどい口上に痺れを切らしたフルーティストの赤柳は、眉間に皺を寄せて狐紳士を睨みつける。しかし、やはり自称理事長のぬいぐるみは少しも怯まないどころか、彼らの強がる様子を嘲笑うようにくつくつと笑う。
「くししし……。では、遠慮無く。前座すっ飛ばして本題です。ワタクシから皆様に提示させていただきますのは、"行動理由"……つまり、コロシアイを行うにあたっての……"
――ピロリン!
場違いな、やけに軽快な効果音が一斉にそこかしこで響く。有子の近くでも鳴ったので、その出処はすぐに判明した。制服の、ポケットの中……そう、
すぐさま反応した生徒たちに倣って、有子はおそるおそる自分の電子生徒手帳を起動する。新着メールのお知らせを表示するように、何故か「秘密の欄」のアイコンに誘導するように……これまで見られなかったマークが表示されていた。狐紳士の思い通りに、有子はそれをタップする。……そこに表示されたのは……。
「え……!」
「うっそ……マジ?」
「ほぉ……。成程な」
他の生徒も同じようで、しかし反応から察するに
「これ……は……」
「大丈夫かぃ? 青錆……」
「…………だい、じょうぶ……な、わけ……ない、じゃ、ないです、か…………!」
いつも白い顔からは、ほとんど血の気が失せてしまっていた。そんな可哀想になるほどに震えている城主の青錆の身体を、漁師の伊海田が支える。
「……これって……これって……! ぼ、僕……! 僕の、"秘密"も……! いま、
「え……」
彼が気付いた
質問を受け取ったモノヴォルは、ひとり、満足そうに笑う。
「くしし……。察しが宜しくて助かります。ええ、勿論。その通りで御座います。皆様が今この瞬間まで隠していた
――絶句。
その言葉を耳にした全員が、時を忘れて静止する。頭の中で反響する言葉の意味を、有子がようやく飲み込んだ頃には……各々の生徒がそれぞれ、焦りと戸惑いの表情を浮かべていた。
「……嘘、だろ……!?」
「な、な、……っ! なんてことするの!?」
「ああ……。ああ! そんな……っ! そんな…………。……ご、ごめんなさい……! ごめんなさい、ごめんなさい……! な、なんでも、します……。なんでも、するので……黙っていて、くださいませんか……!」
「お、おい……。落ち着けよぃ、青錆……。まずは一旦、深呼吸してぃ……」
「お願いです、お願いですから、……どうか……どうか、……っ、う、ぅ…………」
伊海田が両手で支えてやっても、青錆の震えは止まらない。会った時からおどおどとしていた城主であったが、こんなに怯えてしまっている彼の様子は、まるきり初めて見た。
……それこそまさに、尋常ではないほどに。
彼につられるようにして、他の生徒たちも数人が取り乱す。そんな彼らを落ち着かせようと慌てる生徒。呆然とするだけの生徒……。それぞれ混乱している中、凛として声を張る男がひとり。
「……お前たち。全員聞け。見てしまったものは仕方ない。しかしそれを口外するな。一旦自分の内だけで完結するんだ。たとえそれがどんなにくだらないものだったとして、全員が黙っていろ。内容について詮索もするな。いいな」
「うん! しこくちゃんの、言う通りにする! ……だから、れーちゃん。安心して〜……?」
笛吹き男と赤ずきんの言葉に、一同ははっと現実に帰ってくる。その内の一人である城主は、乱れた呼吸を整えるように息を着いて、ずっと傍に居てくれた漁師に感謝の言葉を絞り出した。
黙ってその様子を観察していたモノヴォルは、生徒たちの混乱が早々に収まってしまったことに面白くない顔をして、しかし挑発するようにまた笑う。
「おや、おや。冷静なリーダーがいらっしゃるのですね。くしししし。それではついででございますし、皆様お待ちかねの"
そうして少しもったいぶって、狐紳士は赤い左眼をギロリと輝かせる。確実に、絶対に。それが有子たちの行動を起こさせるものだと、確信して――……。
「ワタクシが示す"
両手でこぼれる笑みを隠すように口元を覆って、ぱたぱたと慌ただしくぬいぐるみはその場から消える。まるで用が済んだら役目は終わりだと言わんばかりに、素早く。初めて共同生活を提示した、あの時のように……。
じろ、と他の生徒の視線を感じる。有子はごくりと唾を飲み込んだ。
……そう。誰が何を考えているのか、おかしな行動を起こそうとする者はいないか。相手を探る、不信のまなざし。ここ数日で生徒たちと築き上げた信頼関係は、いとも簡単に。音を立てて崩れていくのが、有子には分かった。
――そうして、疑心暗鬼の沈黙が、再び有子たちを襲った……。
◇
「……俺の秘密送られた奴誰だよ」
「僕だよ、きくね!」
「……よはね? あー、ならいい……」
口火を切ったのは、パティシエ双子の仕上げ職人・菊音だった。探るように、それでいて控えめに……恐らく勇気を出して振り絞ったその問いは、隣にいた片割れがあっけらかんと挙手をすることで解決した。
……場の空気を知ってか知らないでか。飴細工職人の夜羽のこのさっぱりした返答は、片割れだけでなく……他の生徒たちの肩の力をも、一瞬で脱いてしまった。明らかに数人の生徒たちの肩の位置が下がっていくのを、有子も確認出来た。空気を変える力を持っているのは、白うさぎだけではないようだ。
夜羽はそのままきょろきょろと周囲を見回して、ことりと首を傾げる。
「他の人も、誰が誰のを持ってるか確認しておいた方が安心かな?」
「いや、待て。それはやめた方がいい」
「えー? どして? しこくちゃん……」
真っ先に制止の声を上げたのは、我らがリーダー・赤柳である。介護士の星永はきょとんとして彼を見上げた。
「各々が所持している"秘密"……。わざわざ殺人の"動機"としてモノヴォルが本人以外に配布したということは、その"秘密"それ自体が、ことに及ぶきっかけになりうるものだと推測できる」
「……理屈だけでしたら肯定出来ますね」
「理屈だけ?」
「それ以外を肯定したら、内容が危険なものだって自分で言ってるようなものでしょ」
静かに頷く執事の猫塚に、意味があまり理解出来なかった靴屋の加連が首を傾げる。その疑問には、モデルの白雪が代わりに答えた。
赤柳は再び有子たち全員を見つめると、真っ直ぐな瞳で口を開く。
「……今の点を踏まえて、お前たちに確認すべきことがひとつある。
「俺ちゃんは別に……。言いふらして欲しくはないけど、だからって人を殺してまで守りたい秘密じゃないよ……」
「加連様に同じくです。僕もこの内容でしたら、殺人を犯す理由はありませんね」
「他にはあるってこと?」
「……あるでしょう、それは。人間ですもの。まあ……今のところ思い付きませんけれど?」
「僕もこの秘密自体は殺人に繋がらないよ。まあ、詳しく聞かれたらどうか分からないけど」
「不穏なこと言うなよぃ……。あ、オレも別に、これじゃ誰も殺さねぇぞぃ!」
有子はふと、先程大層取り乱していた城主を見やる。まだ呼吸は落ち着いていないようで、こころなしぐったりしながら漁師の伊海田にしっかりと支えられている。いつもよりやはり具合が悪そうで……蒼白な顔をしていた。こうして生徒たちでの議論が始まってからというもの、俯いて黙り込んでいる。彼は何も言わない。『お願いだから、なんでもするから、黙っていて欲しい』と、そう訴えた彼は――
「これ、申告する意味って何かあるのかしら?」
彼らが次々に赤柳への解答を口にしていく中、ひとり腕を組んで異を唱える女がひとり。不服そうな表情をしているのは、同じくリーダーシップのある白雪だ。
「白雪ちゃんは動機になっちゃうの? そういえば、最初にモノヴォルに暴かれそうになったときも……」
「馬鹿言わないでよ、おいそれと言いふらされるのが我慢ならないだけ。それにあいつは首謀者で、人間じゃない。あの場ならあんただってそうしたでしょ?」
「まあね〜」
そういえば、と加連の言葉で有子も初日のことを思い出す。あの時、真っ先にモノヴォルに"秘密"を暴露されそうになった彼女は……勇敢にも奴の首根っこを掴んで阻止したのだった。
気を取り直して、白雪は続ける。
「もちろん、あたしも殺人動機にならない秘密だわ。……でも、もしかしたら
「いまここで、自分の秘密が問題ないということを、口頭で確認する意味は無いって……そういうことかい? 白雪ちゃん」
「そうよ、佐渡。話を理解していて偉いわね」
「えっへへ〜ん!」
彼女の主張の要点を整理したうさぎは、本人に褒められ上機嫌だ。このうさぎ、意外と理解力があるのだ。……もっとも、話をきちんと聞いている時に限るのだが。
茶々入れが済むのを待っていた赤柳は、相変わらず姿勢を崩さず、先程の白雪への返答を凛として発言する。
「意味ならある。たとえ嘘でも関係ないと口にすることで、疑心暗鬼を回避出来る」
「そうかな? 確実にいるってことはモノヴォルが行動することで、既に証明しちゃってるんだし。逆に疑心暗鬼にならないかな。赤柳君って意外とロマンチスト?」
「そうしようと提案することで団結を促したつもりだったが。……はぁ。……お前たちには、この方法は難易度が高かったようだな」
「あ〜ん? お前が勝手に見当違いしてただけだろーが!」
「その通りだ、悪かったな。ここまで協調性が無いとは思わなかった」
双子に噛みつかれた赤柳は、そう言い捨ててくるりとひとり踵を返す。彼はつかつかと迷いない足取りで、そのまま体育館の扉に手をかけた。勝手に会話を切り上げられた双子の片割れ・菊音はじろりと彼を睨み付けて言う。
「おい、てめーどこ行くんだよ」
「施設の探索だが。……見落としがあるかもしれんからな、改めて出口を捜す。聞く耳を持たない連中とここで議論しているより、よっぽど有意義だろう」
「待って、赤柳君。もう少し話を――……」
人類学者の泡淵が引き止める言葉を出力し終えるより早く、赤柳はさっさと出て行ってしまった。ああと肩を落とす彼女に、傍に居た介護士の星永が駆け寄る。
まとめ役が去ってしまい、ふうと頭に手をやった白雪は、率先してその役目を請け負うことにした。
「……まあ、いいわ。あいつがいなくても議論は出来る。ねえ、みんな。
「
「"秘密"の件はさほど重要じゃないわ。あたしたちにとって最も重要なこと――"
"
そう、この"コロシアイ"では、他の生徒を殺すこと以外に……"
「確か、『人を殺したことがある』って……。こ、この中にもう、人殺しがいるってこと……?」
その"
白雪は深刻そうにこくりと頷く。
「そう、そっちが問題なのよ。あたしたちはコロシアイをすることで、脱出を報酬に受け取ることができるけど……正直、衣食住が脅かされていない今の環境じゃ、他者を害するまでの行動は起こしにくいわ。だからあいつは、
「モノヴォルは、私たちが疑心暗鬼に陥るよう、ふたつの動機を投下した……ということね」
「そう……。たしかに"秘密"を他人に握られてしまうことは、人によっては由々しき事態だけれど……。
「そう、だね……。衣食住どころか、今まさに命が脅かされているって、示されちゃったんだもんね……」
有子は彼女たちの言葉に、不安ながらも同意する。この中に、
「でも、その人はこれまでぼくたちに何もしてこなかったよ? ならきっと、これからも大丈夫なのさ!」
「佐渡……」
「そ……そうだぜぃ! 佐渡の言う通りだよぃ。ホントに人殺しに慣れてるんならよぃ、とっくに誰か殺して外に出てるだろぃ? そうじゃねぇってこたぁ、それはモノヴォルの嘘なんじゃねぇのかぃ?」
「嘘、ねぇ〜? 僕はそうは思わないな。だってモノヴォルは主催者で、その主催者がそんな嘘をつくのは――」
「だー! もー! よはね! 黙ってろ! いーんだよ、犯人探しなんて不毛だろ! 何もしてこないならシロもクロもねーんだ。だったら、全員が気にせず過ごすのがイチバンだろ!」
「んー、まあ、きくねがそう言うのならそうするのがイチバンだろうね!」
「ま〜、さ? フツーにさ。今まで通り過ごしてたら何も起こらないってことっしょ? 疑心のタネなんて初日に撒かれてたんだし、まだ芽吹いてないなら大丈夫だよ」
「加連様は前向きですね」
「前向きってか、ノーテンキでしょうよ」
「俺ちゃん、それが取り柄〜」
「みーんなで、なかよく! すればいーの?」
「ええ。そうよ、せつなちゃん」
やんややんやと、なんだかんだで全員が意志を持ち直す。"コロシアイ"なんかには屈しない。動機がなんだ、"秘密"がなんだ。先程出て行った赤柳にも見せてやりたい光景だった。有子も少しの希望を胸に抱く。……そう、こうやって全員が同じ心持ちで、一緒の方向を目指していれば、必ず――……。
「死ぬの」
「え?」
のんびりとしたいつもの口調で、眠そうな目を擦りながらふわと小さな欠伸を一つして、夢占い師の茨木は言った。周囲にいた全員が、その言葉に目を白黒とさせる。茨木は聞こえなかったと思ったのか、静かにもう一度繰り返した。
「死ぬの。みんな、一人残らず」
さも当然の事のように。当たり前の事実を、一般常識を、ただただ述べるように……。彼女は平然とそう言ってのけた。もちろん、それを聞いた彼女のクラスメイト達は言葉を失い、動揺の色を隠すことが出来なかった。
「死ぬ……って、ど、どういうことだよぃ……」
「死ぬのは死ぬなの。生命の終わりなの」
「……茨木テメェ、タチの悪い冗談言ってんじゃねえぞ……」
「冗談じゃないの。見えたの。それは運命なの。夢はまことなの」
狼狽えながらも言葉を口にするクラスメイトたち対して、丁寧に受け答えをしながら。口元に手を当てて、茨木は再びくあと欠伸をする。彼女の口ぶりは、深刻なことを語っているようには思えなかった。それははじめから、もうずっと前から知っていた、さも当たり前のことを口にするかのよう。
「御前の得意な夢占いとやらか? 未来の予測は結構だが、断定するに至った科学的根拠を提示しろ」
「占いを信じるかどうかは、その人次第なの。タリアはただ見えたものを伝えるだけなの。それが占い師のタリアなの」
「し、死ぬってそんな、どうして……」
「みんな殺されるの。この"コロシアイ"でみんな死ぬの。それはもう決まっているの。逃れられない運命なの」
それは、決して冗談を言っているようには見えなかった。
それが、
有子は目の前がずっと歪んでいるような心地がして、急に気分が悪くなっていくのを感じた。他の生徒たちもそれは同じなようで……。先程まで明るくあろうとした雰囲気が、全て崩れていってしまうようであった……。
◇
「ショウくん、ショウくん自身の秘密ってどんなものだった? 聞いても良い……?」
「うん?」
あれから……気まずい雰囲気のまま、モデルの白雪の指示で、一旦解散の流れになった。有子は章平を部屋に連れ込んで、ひとまず冷静になることにした。そこで少し白うさぎと話をしての……先程の申し出だ。
うさぎは突然の有子のお願いにぱちくりと瞬きを繰り返していたが、すぐに有子の思い通りにこりと頷く。
「もちろん良いよ、ありす! ……あ、でも……笛吹きくんが見せ合うなって言っていたから、内緒にしていた方がいいのかな?」
「他の人の秘密は内緒にした方がいいだろうけど、でもわたしたちの間には隠し事は必要無いよ。わたしのも見せるから……ショウくん……」
「うん、それもそうだね! じゃあ、はい! これがぼくの"秘密"? みたいだよ!」
『秘密のこと・佐渡章平』
『癇癪を起こすと自傷をもするほど凶暴になる』
「…………」
これはまずい。
有子は、ひとまずこれを確認することが出来て良かったと安心した。それと同時に、大変な問題に気が付いてしまった。
「ありす? どうかしたのかい?」
硬直してしまった有子を、心配そうに白うさぎが覗き込む。有子ははっとして無理やり笑顔を作って見せた。
「う、ううん! 懐かしいことが書いてあったなって……」
「そうだねえ! でもぼく、今はぜんぜんだよ? あんまり関係ないことだから、ぼくの"秘密"って、こんなのなのか〜って思ったなあ。ありすはどんなのだったの?」
「そうだね、わたしのは……これだよ」
次は有子が電子生徒手帳を操作して、白うさぎに文字を読ませてやった。『5歳の頃、佐渡と離れるのが嫌で泣き喚いたことがある』……。目の前の幼馴染は既に知っていることだとはいえ、こうして改めて幼い頃の出来事を振り返るのは、なんだか気恥ずかしかった。
「あはは! そうだねえ、こんなこともあった! はじめてありすがすっごく泣いちゃって……ぼく、びっくりしたなあ!」
「えへへ……。なんだか恥ずかしいね……」
「あの後ちっとも泣き止んでくれないから、もうちょっとだけ遊ぶのを許してもらえたんだよね! その時ありすがくれたクッキー、美味しかったなあ〜。頑張ってお母さんと作ったうさぎさんのクッキーだったよね!」
「ああ……そうだったね。ショウくんはうさぎさんだから、うさぎさんがいいってお母さんに頼んで……」
「白うさぎなのに黒うさぎの子が混じっていて、あとは、おくちが崩れて涎を垂らしているような子もいて……。食いしん坊のぼくだって、笑っちゃってさあ!」
「え? そ、そうだったっけ……。ごめん、そこまで覚えてないや……」
「そっか! それからね、お庭でアリスごっこをして……。いっぱい泣いてくたくたになってたありすは、急に芝で眠ってしまって……」
「わ、わぁー!? そんなだったっけ!? やめて、恥ずかしいからもういいよショウくんっ!」
有子は顔を真っ赤に染めてぶんぶんと大きく手を振る。
それから有子と章平は、懐かしい昔話に花を咲かせ……昼間の最悪な出来事など、いつの間にかすっかり記憶から抜け落ちていたのだった……。
◇
そうして一夜明け。
"動機"が提示されたからといって、"行動"を起こさねば平穏は崩れない。脱出する手段も依然として見つからないままなので、ひとまず有子は昨日までと同じ生活を続けることとした。章平の部屋を訪ね、身支度を手伝い、食堂へ向かう……。
どうやら他の生徒たちも、有子と同じ考えであったようだ。いつも見る面子がそこに揃っていて、厨房からは朝食の支度をする香ばしい匂いが漂ってくる。食事の準備が出来るまでの間、生徒たちは昨日の出来事を拭うかのように、いつもよりこころなし賑やかに歓談をしていた……。
「国中、少しいいか?」
「え? うん……」
会話の合間を見計らって、有子を呼んだのは意外にもフルーティストの赤柳であった。昨日……あれから赤柳は、黙って単独行動をしていた。夕食時にも姿は見えたが、挨拶以外の一切の発言をせずにまた自室へ帰って行ってしまったのだった……。
そうでなくても、今まで彼が有子に用があった試しがなかった。彼は輪の中から有子を連れ出して隅の方へ呼び寄せる。何の用だろうと不思議に思いつつ、有子は素直にそれに従った。この笛吹き男が用だと言うのなら、それは重要なものなのだということを理解していたからだ。
皆の会話が盛り上がっているのを横目で見つつ有子に向かい合う様は、会話の内容を他者に悟られないようにしようとする仕草のようだ。
「話したくない内容なら答えなくていいんだが」
彼はそう前置きをして、一呼吸置く。相変わらずの真剣な眼差しに、有子はごくりと唾を飲み込んだ。
「
「あ……」
ひそりと耳打ちするようにさらに小さくなった声も、この距離にいた有子にはきちんと聞き取る事が出来た。――章平の腕。それは今もずっと、だらしなく羽織ったカーディガンで隠れている。話題の当事者である白うさぎは、呑気なことに皆との会話に夢中でこちらに気付いていないようだ。有子は章平と赤柳を数回交互に見て、観念したように視線を落とした。
「小さい頃は……ショウくん、今よりずっと、不安定で……」
「……あいつが自分で?」
「…………うん」
有子の脳裏に、幼い日の記憶が蘇る。泣きじゃくって、喚き散らして暴れるあの子は、カッターナイフをその手にぎゅっと握って、その切っ先を自分に向けて傷を創った。赤と白の鮮やかなコントラストを、今でも有子は忘れない。隠れているあの白い腕には、今でもあの頃創ったおびただしい数の傷痕がある。それはおそらく、この先も一生消えることは無い章平の苦しみだ。
有子のことを「ありす」と呼び始めた頃から落ち着き始め、最近はめっきり癇癪を起こすことも減った。しかしそれは有子が常に傍にいた時の話だ。学園に入学してからの章平はどうだったのだろう。少なくとも、赤柳が知るところでは、自傷は行っていなかったようだった。
「……そうか」
赤柳は、目を細めてそれだけ言った。そうして今も変わらず楽しそうに級友と会話をする章平を見つめる。その横顔は、少しだけ……心を痛めているかのように写った。しばらくしてまた有子に向き直る。
「すまない、本人に直接聞くのも憚れてな」
「ううん、いいよ」
「……お前も苦労したな」
「え……」
「佐渡が今ここに居るのはきっと、お前があいつの傍に居たからなんだろう」
「…………」
「こう言うのは何様だと思うかもしれんが、……あいつの代わりに礼を言うよ。ありがとう、国中」
「……う、ん……」
彼の口から飛び出た言葉が、あまりにも優しく有子を包み込むものだから……有子は目の奥がぎゅっと熱くなるのを感じた。思わずぐっと唇を噛み締めて、俯く。赤柳は、そんな有子の様子も構い無く続ける。
「お前も何か困ったことがあれば頼ってくれ。僕は馴れ合う気は無いが、助け合いは厭わない。力になれることがあれば、いつでも手を貸そう」
「ありがとう……。やさ……しいんだね……。赤柳くん……」
「は?」
彼の言葉に浸って、やっとの事で絞り出した有子の感謝の台詞に返ってきたのは、いつもの……いや、それ以上に不機嫌な感情を孕んだ声だった。びくっとして有子は思わず顔を上げる。予想通り、いつもの眉間に皺を寄せた表情がそこにあった。心底心外だ、とも言わんばかりの態度で、赤柳は有子をじっと見ていた。
「……僕は無償の奉仕を申し出ている訳では無いんだが。何故そうなる?」
「う、ううん! ご、ごめん変なこと言って……。そう……面と向かって言ってくれる人って、なかなか居ないから……」
「必要な事だから口に出したまでだ。この状況なら尚更、疑心は種に成りうる。それを払拭する意味でも……。……いや。時間を取って悪かったな。僕の用はそれだけだ」
怯える有子の様子を汲み取ってか、赤柳はそれ以上の会話を中断し、すぐに離れて行ってしまった。彼の姿が完全に遠くなってやっと、有子は深いため息を着くことが出来た。……悪い人じゃないんだけど……なんだかすごく、疲れちゃったな……。彼にしてみれば、普段通りの些細な事なのかもしれない。けれどいつでも彼の態度は、怒りを体現しているように見えて……。わりと繊細な有子は、彼に対して少し苦手意識を持っていた。
◇
「猫」
不意に聞こえて来た声に、顔を上げる。見れば、丁度科学部の姫ヶ原が食堂に現れたところだった。優雅に席に着いた彼女は、わざとらしく手を煽って厨房にいる執事の猫塚を呼ぶと、首の後ろの髪紐を解いて彼に差し出す。
「我の髪を結え」
「……かしこまりました」
従順な執事はにこやかに返答し、差し出された髪紐をその手から受け取る。腰のポケットに仕舞っていたのであろう櫛を取り出して、慣れた手つきで姫ヶ原の髪を撫でる。……わざわざ朝自力で結った髪を解いて、押し付けるように猫塚に結い直させるようになったのはいつからだっただろうか。詳しく思い出せないが、有子にとってはこれももう見慣れた光景であった。
気が付くと、ほとんどの生徒が揃っていた。タイミング良く家事代行の綿貫が顔を出して、配膳を始める。今日も賑やかな様子の他の生徒たちも、それぞれ席に着く。彼らは、数日の間でほとんど決まった位置に座ることが多くなっていた。有子もすっかり定位置となっている端の方に座る。
いつもの様に赤柳が章平に声を掛けたところで、それを制止する声が上がった。
「あれ、茨木さんが来ていないけど」
「茨木は気にしなくていい」
「……気にしなくていいってことはねーだろ。そりゃあまだなんもねーけど……俺ら、異常な空間に閉じ込められてんだぜ?」
「本人が気にしないでって言ってたら、そこまで勘繰らなくてもいいでしょ」
「白雪さんも、何か知っているの?」
「ええ。たぶん赤柳と同じことをね、言われたのよ。彼女の口から。まあ、念のため後で様子を見ておくわ」
リーダーシップのある二人が揃ってそう言うのなら、有子たちにそれ以上突っ込む理由は無かった。モデルの白雪もしっかりしていて面倒見が良いので、彼女が様子を見ると言うのなら任せた方がいいだろう。
そうして今日も、いつも通り唸るほど美味な朝食を堪能する有子たちなのであった……。
◇
片付けも終わり、各自自由時間となる。今日も章平はフルーティストに
なんだかちょっぴり、ジェラシー。有子はそんな心持ちで、無意識にも頬を少しだけ膨らませながら、改めて校内の探索をしていた。色々な場所を改めて見て回るのは、気分転換には丁度良かった。
「あー! 国中ちゃん、ちゃお〜」
「ちゃおちゃお〜」
「加連くん、せつなちゃん。火燈さんも」
そんな風にぐるぐると設備を巡り。声を掛けられて振り向けば、可愛らしい少女たちと、呑気な神父。介護士の星永に、奇術師の火燈、そして靴職人の加連がにこやかに立っていた。火燈は相変わらずあわあわとしていたが、人懐こい二人はひらひらと手を振る。
「3人でどうしたの?」
「あんなちゃんのね、さいのー! 見せてもらおーってね、おはなししてたのー!」
「才能? えーと、奇術師……だっけ……」
「う、うんっ……!」
「国中ちゃんも、おひまならいかが〜? 俺ちゃんちょっと気分転換したいんよね〜」
「うん。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「わーいわーい! みんなであそぼ〜!」
特別しなければならないこともない。願ってもない誘いに、有子はもちろん頷いた。なんなら、"超高校級"の才能を目の当たりに出来るまたとない機会だと、とても心が躍った。
そうして有子もパーティーメンバーに加わり、食堂へ向かう。広々とした空間で、椅子も机もあり、明るい内装であるから、そこは歓談するに最もふさわしい場所なのだ。
食堂へ着けば、早速火燈を中心に椅子を並べて、有子たちは腰掛ける。注目されて緊張気味の奇術師は、少しだけ震える手をスカートのポケットに突っ込んで、そこからマッチを取り出した。彼女の奇術に必要なアイテムである。マッチの火を使った奇術を行うことから、火燈杏菜は"カゲロウの奇術師"とも呼ばれていたことがあるのである。そしてそこから生み出される幻は、その人にとって最も幸福なものであるらしい。有子はこれまで機会がなく目にしなかったものだったが、それが今まさに現実になる。いよいよだ、とますます期待が高まった。
「ぇ、えと、ね。……じゃ、……この、ま、まマッチ、する、から……ゆっくり、息を吐いて……見て、てねっ……」
そう言って何度か深呼吸をしたのち、奇術師はマッチに火を灯す。ゆらり、と小さな炎が燃える。……とても綺麗だと、有子は思った。ぼんやりと、柔らかく周囲を照らす小さな灯火……穏やかな風に揺られ、ふわふわりとシルエットを変える。煌めく灯りを見つめていれば……有子はだんだんと……意識が遠のくのを感じた。身体の感覚が鈍くなり、重力を感じなくなってゆく。……そうして再びまばたきする頃には、もう既に幻想の世界に入っていた。
明るく、何故だかとても安心する……何処なのかわからない、不思議な空間。迷い込んだ有子が辺りを見回せば、やはり……知っている顔がそこにいた。有子の愛しい、白うさぎだ。彼は有子に気が付くと、まるで探していた四葉のクローバーを見つけたかのようにぱっと顔を明るくして、無邪気に抱き着いてきた。その感触も、体温も、匂いも、全てがそっくりそのまま……まるで本物の章平だった。有子も手を回して幻を抱く。……ああ、思っていた通りだけれど。自分にとっての幸福とは、これなのだ。有子は改めて、自分がどれだけ章平の存在に救われていたのかを知った……。
心ゆくまで幻覚を堪能すれば、ゆっくりと現実世界に帰ってくる。一緒に旅立っていた加連と星永も、同じく無事に戻ってきたようだ。……とはいえ、至上の幸福を味わった一同は、しばらくうっとりと余韻に浸る。
「……すごい、ねえ…………。火燈ちゃんて…………」
「ぼく、とーっても、うれしくなったあ〜」
「ほんとうに、すごく……幸せな気持ちになれたね」
「ねー! 俺もぉ。ハマっちゃう人めっちゃいそう〜。ねね、これみんなにもやったげようよ、火燈ちゃん! きっとヘンなこと考えなくて済むようになるよ〜」
「え、えっと……で、でも……っ。わ、わわ、わ、わた、し…………」
これはまさしく"超高校級"の才能である、と有子も素直に頷けた。そもそも、幻術を扱うことが出来るというのも素晴らしい特技だし……。
……と、一同がきゃっきゃと幻術師を持て囃しているところに、誰かがおやと声を掛けた。
「珍しい組み合わせですね」
「あ、猫ちゃんちょうどいい所に〜」
「如何なさいました? つまみ食いでしたら、綿貫様に許可を取って頂きませんと。僕からは差し上げられませんよ」
「やだなぁ〜。つまみ食いなんてしないよぉ」
「おやぁ? この前唐揚げで火傷をした靴職人さんは、一体何処のどなたでしたでしょうかねぇ?」
「う、うぐ……! それはナイショにするって言ってたじゃあん!」
厨房からひょこと顔を出したのは、予想通り執事の猫塚だった。彼は加連を見やると、相変わらず仲の良い言い合いをして、有子たちの元へ近づく。おそらく夕食の仕込みをしていたのだろう執事はその仕事もひと段落したようで、捲っていた袖を元に戻しながらその場の人間の顔を見渡した。
「皆様、本日はどのような遊びを?」
「あんなちゃんのね、さいのー! おもしろいよ〜!」
「……はい?」
星永がにぱと機嫌良く答えれば、意味が理解出来なかったのか、猫塚は怪訝な顔をして赤ずきんの方を向き、ことりと首を傾げる。それを見てか、後ろから彼女の頭をぽんと優しく叩いて、加連がにこやかに口添えした。
「火燈ちゃんの奇術だよ。その人が一番見たいものを見せるまぼろしなんだって〜!」
「なるほど。加連様のご機嫌が良いのは、魅力的な女性の脚部をご堪能なさったからなのですね」
「……猫ちゃん、俺のことなんだと思ってんのぉ?」
「うふふ。慎ましやかで大層立派な紳士であられると認識しておりますよ」
「絶対嘘じゃぁん〜」
いつもの慣れたやり取りを再びして、猫塚は口角を上げる。ため息混じりの加連の突っ込みをよそに、星永がとてとてと大振りの仕草で執事の手を取る。
「ねーねー! せーじちゃんもやろー?」
「世絆さん……」
「猫ちゃんも一緒にやんない? 仕込み終わったんでしょ?」
「僕は現状に満足しているので、特に見たいものも何も御座いませんよ」
「いーからいーからっ! せーじちゃんはどんなのみるのかな〜!」
「ね〜! 気になるよね〜! そう口では言う猫ちゃんの見たいものって何だろね!」
「いえ、僕はまだ片付けもありますから……」
「それもさっき終わってた……よね? 他にも何かする事あるの?」
「庫内掃除をしなくてはならないので……」
「いーじゃんそんなの後でさぁ〜! ねね、ほら、だって幸せな気持ちになるんだよぉ〜? 猫ちゃんもやろ〜よ〜!」
「…………はぁ……」
困ったように笑う様子から察するに、猫塚はあまり乗り気では無いらしい。本当に見たい幻というものに見当がつかない様子だ。わざわざそんなものを見るより、仕事をしていた方がよほど有意義な時間だと考えているのだろう。しかし、こう加連と星永に挟まれてしまうと、彼にもはや逃げ道は残されていなかった。すぐ終わりますよね、と観念したように執事が問えば、術者は慌ててこくこくと頷く。
改めて火燈の前に一同が腰掛ければ、彼女はまたマッチを擦る。ふわりと優しい光がゆらゆらと辺りを照らす。猫塚だけでなく、有子たちもそれを見つめる。催眠術に掛かったように、頭がぼんやりとして、景色が揺らぐ。そうして見えてきたのは――……。
やはり、例の幼馴染の顔。
無邪気にありすと呼んで有子に手を伸ばしてくる表情は、相変わらず無垢であどけない。有子が手を取って握り返してやれば、史上の幸福に満たされたような笑顔を浮かべて、有子に笑いかける。有子は心が溶かされていくような充足感で胸が満たされていくのを感じた。有子にとっての幸福とは、やはり彼がいる時間であるのだと改めて思う。事実このうさぎが隣にいないここ数ヶ月は落ち着かなかったし、言い様のない寂しさが胸を締め付けていたのだ。目の前の幻は、そんなことも露知らず。無邪気に微笑んでいる。有子も微笑み返して、愛しいうさぎの名を呼ぼうと口を開いた。
――その瞬間。
大きな物音がして、突如有子は現実に呼び戻されてしまった。今までそこにいた幼馴染はとっくに消えており、替わりに目の前には驚くべき光景が広がっていた。
「っ、猫ちゃん!?」
「え、え、なに、どしたの!?」
加連と星永も驚きの声をあげる。彼らも有子と同じ状況だろう。心地よい幻覚から強制的に引き戻され、目を疑う光景を目の当たりにしたのだ。
そう、今まさにそこにある現実。なんと、猫塚が火燈の胸倉に掴みかかっているではないか。掴まれている火燈も、その顔に驚愕と困惑の色を浮かべる。興奮した様子の猫塚は、けれども深呼吸を繰り返して溢れる感情を無理に抑え付けると、およそ彼のものとは思えない低い声で唸る。
「……これが僕の見たいものだと言うんですか?」
「せ、せーじちゃん……?」
「こんなものが僕の望んだ光景だと言うんですか!!?」
「ぅ、けほっ……!」
「猫ちゃん落ち着いて!」
顔を苦しげに歪める火燈を見て、これはまずいと判断した加連は咄嗟に二人の間に入って、猫塚を引き剥がした。靴屋が間に入って距離をとっても、執事は憎々しげに奇術師を睨みつけ、収まらない怒りを顕にしている。有子はこんなにも彼が激怒する理由がまるで分からなかった。そうでなくとも、いつもどんな時もにこにこと笑みを浮かべるこの長靴をはいた猫が感情を剥き出しにする所など、全く初めて目の当たりにしたのだから、驚愕と衝撃で動けずにいるのも無理はない。
加連がとんとんと幼子をあやすように猫塚の背中辺りを叩いてやって、ようやく我に返った彼は、ふーふーと荒い呼吸を整え込み上げる感情に蓋をすることに専念している。星永は解放されてよろめいた火燈を支えて、噎せた息が整うまで背中をさすってやっていた。猫塚の様子が落ち着いたのを見計らって、加連は火燈を振り返ると、再び猫塚に向き合う。
「……俺ぇ、ちびのころの幻覚見してもらったんだけど。猫ちゃん、一体何見たの?」
「……話したくないです」
「せつなちゃんと国中ちゃんは? ちゃんとうれしいやつだった?」
「う、うん。さっきと一緒の……」
「ぼくもだよぉ。……うゅ、せーじちゃん、やなものみたのぉ……?」
「…………」
猫塚は、まるで先程見せられた光景を拭いやるように顔に手を当て首を振ると、まだ心の整理が出来ていない表情で有子たちを見やる。いつもどこか冷たいライトブルーの瞳が、より一層鋭く見えた。彼は気持ちを静めるべく再びはあとため息を吐くと、今度は眉を下げて苦々しげに呻く。
「……お見苦しいところを、申し訳ありません」
「だいじょぶ? 猫ちゃん……。後で……」
「ん……。そうする……。……皆様、すみませんが、僕はこれで……」
よろよろとした頼りない足取りで椅子にかけていた上着を手に、猫塚は気まずそうにそそくさと食堂を出て行く。視線だけで彼を心配するように見送った加連は、今度は火燈の方へ歩み寄った。星永に介抱されて呼吸が落ち着いた彼女は、しかし気持ちが乱れたままのようで、いつもより情けなく眉を歪め、今にも泣き出しそうである。
「ごめんね、火燈ちゃん。びっくりしちゃったよねぇ」
「わ、わ、わた、し……」
「よしよーし。あんなちゃん、こわかったよねぇ……」
あやすように、甘えた声で星永が火燈の頭をふわふわと撫でる。安心したのか、ぽろりと大きな瞳から雫が落ちた。彼女の涙に二人とも慌てることなく、彼女を労って安心させようと声を掛ける。
「何を見たとしても、だからって手を出すのは良くないよね。猫ちゃんが悪いよ」
「ぅ、ち、ちが……ちがう、わたし、わたし……ひ、ひどいことを……」
「あんなちゃんのさいの、ぼく、だいすきだよぉ〜! あんなちゃんのまほうで、ぼくいっぱいぽかぽかのきもち、なったの〜。だからー、あんなちゃん、いーこいーこ」
「う、ぅう……せ、せつなちゃん……」
加連が肩を支え、星永が頭をそっと撫でてやる。そうして火燈が落ち着くまで、有子も一緒にしばらくその場に留まった。
……一体、彼は何を見たんだろう……。一人そそくさと出ていった執事のことを、有子は不審に思って眉をしかめた。
◇
翌朝。
ほとんどの生徒たちが揃ったのを見計らって、それぞれいつも通り朝食を摂るため席に着く。……そこで、ようやく、有子は空席が二つあることに気が付いた。
「おい、猫塚はどうした」
「あ、猫ちゃんは……」
「おいら起きでからずっど厨房いだげど、今日は猫塚ぐん見でないよお」
フルーティストの赤柳の不機嫌な問いかけに、話題の彼といつも朝食の支度をしている、家事代行の綿貫が困ったように首を振る。夢占い師の茨木は引き続き今日も姿が見えないが……それ以外にもう一人。あの執事の姿も無かった。有子は昨日の出来事を思い出して、奇術師の火燈の方を見やる。彼女も詳細を知らないのか、心配そうな表情をしているだけだった。
その場の皆がここには居ない彼のことを認識して、各々口を開こうとした瞬間、靴職人の加連が我先にと発言権を得るべく挙手をした。
「はいはーい、俺ちゃんが説明しまーす」
「わざわざ説明するようなことが起こったのか?」
リーダーの赤柳が眉間の皺を濃くすれば、一部始終を知っている加連はこくりと頷く。
「うん。あんねー、火燈ちゃんとせつなちゃんと国中ちゃんは知ってると思うけど。ちょーっと昨日いざこざがあってねん。しばらくそっとしといてあげてほしいな〜」
「……はぁ」
「何それ、いざこざって? そのメンツで争うようなことがあったの?」
「うにゅ……。大変だったねえ……。びっくりしちゃったよぉ……」
「そ……そんな穏やかそうなメンバーで……?」
「あったんす。一悶着が」
「そうなのかい? ありす?」
「まあ……うん。色々あったね」
くるりとうさぎが振り返ってまじまじとこちらを見つめるので、有子も当事者の一人として発言せざるをえなかった。
まあ、大したことではないだろうけれど……。一悶着あったのは事実だしな。有子はそう思いながら、しかしそれ以上言及せずに頷く。
「ちょっと、わ、わたしが……お、おおお、おおこらせ、ちゃって……ごご、ごめ……なさい……」
「あんなちゃんわるくないよぉー!」
「ああ……。火燈お前、鈍臭そうだもんなあ」
「うう……」
「ちょっと! そういうこと言わないでよ。気にすることないわ、火燈さん」
「いや、別に火燈のこと責めてるんじゃねえって。だーってあの胡散臭執事、見るからに完璧主義の効率厨じゃん。頑張ってるからってその頑張りを評価するような奴じゃねーだろ。ぜってーお前ら相性良くねーって」
「言われて見りゃあ、水と油って感じだなぁぃ……」
「流石の観察眼だね、きくね!」
瞳を潤ませる火燈をよそに、双子はきゃいきゃいと話を盛り上げた。無駄な時間を許せない赤柳は、その様子を見ながら呆れたようにはあとため息をつく。
「放っておけというのなら、茨木と同じく放っておくぞ。佐渡、号令」
「はあい! それではみんな、今日もおいしいごはんに感謝して〜……いただきまぁす!」
「いただきます」
そうして、本日もいつも通り。朝食会が始まった。
「加連君って、やっぱり猫塚君と親しいの?」
「うぇ? んー……まあ? この中じゃあ、そう言えるんじゃないかなぁ〜。どして〜?」
「いや、なんで加連君から猫塚君の説明があったのかなーってちょっと思っただけだよ。だって当事者だったのは火燈さんも、国中さんも、せつなちゃんも一緒だよね?」
パティシエ双子の飴細工職人の方、夜羽の疑問はもっともだった。けれども、有子はやはり、加連の口からそれを述べるのが妥当だと思った。有子は当事者ではあるが、彼らのことを未だよく知らない。かといって星永から、猫塚に関する説明がなされるのも不思議な心地だ。火燈はいちばんの当事者だが、彼女に皆が集まるこの場で発言が出来るとは思えない。やはり、話題の彼と最も近くにいることが多く、いつも親しげに会話をしている加連が適任だろう。
同じ結論に至ったのか、夜羽の傍で会話を聞いていた、彼のきょうだいの菊音が口を開く。
「お前らキショいくらいいつも一緒に居るもんな。デキてんの?」
「えへ……。そう見えるぅ?」
「え゛」
「靴屋くん、嬉しそう!」
「二人ども男の子だよねえ……?」
ぽぽっとほんのり桃色に頬を染めた加連の反応があまりに予想外で、菊音は石のように動きを止める。ぽやんと見ていたうさぎは、彼のありのままの様子を述べた。隣にいた綿貫は、その異常さを指摘する。有子も目を丸くした。
「ほーらきくね。そういう質問は軽々しくしちゃいけないんだよ」
「俺墓穴掘った? なんで? そう返ってくると思わんだろ普通」
やれやれと肩を竦める片割れに、菊音はいやいやと言い訳をする。その一連の流れを見た当の本人は、高揚していた顔色も元通り……どころか少し落胆した様子でため息をつく。
「なんだぁ、からかわれただけか……」
「ちょっと残念そうにするのやめろよぃ……。ガチっぽいだろぃ、それ……」
漁師の伊海田が困惑したように突っ込む。有子は苦笑いをして誤魔化した。まあ、それだけ仲が良いってことなんだな、ふたりは……。
◇
本日も白うさぎを笛吹き男に取られてしまった……。
有子は暇を持て余しながら、しばらく自室にある本を読んでいたが、ふと喉が渇いて食堂に向かう。この前のように、歓談するために誰かしら居るだろうと思っていたが、そんなことはなく。食堂は静まり返っていた。
別段有子は気にすることも無く、冷蔵庫から冷えたペットボトルの水を取ろうと厨房に入る。視界の端に人影が現れた。
「……青錆くん?」
「へァ……!?」
ぼんやりと厨房に佇む人影の正体は、城主の青錆であった。有子が声を掛けると、彼は驚いたような声を上げて振り向く。
「く、国中氏。ど、どうも……」
「どうしたの? まだごはんの時間じゃないけど……お腹空いた?」
「
いつにも増して真っ白で血の気のない肌の城主を見て、有子は眉を下げた。そうでなくとも、彼には"秘密"のこともあったので……有子が特に気掛かりにしていたうちのひとりであったのだ。あわあわと首を振る青錆に、少しでも力になれることがあればと、有子は迷いなく一歩踏み込む。
「……すごく顔色悪いよ、青錆くん……。誰か呼んでこようか?」
「っそ、……そんな、そんなこと。……皆さんのお手を、煩わせる、わけには……。……っそ、そ、それじゃ、わ吾輩、こ、このへんで……! ではっ…………」
そそくさと厨房を離れて行った青錆は、そうして食堂の扉から出て行ってしまった……。良かれと思った発言は、かえって彼を困らせてしまったようだ。
それにしても、何をしていたんだろう? 有子はそう思って、先程まで彼が向かっていた調理台を見てみる。しかし、そこには何も無い。綺麗に整頓され、くもりひとつ無く磨きあげられた作業場だけがあった。執事の猫塚がいつも清潔を保っているのだろう。顔を上げても、そこには壁に掛けられた包丁セットが変わらず並んでいるだけだ。
……包丁。
「まさか……ね」
有子はそう呟いて、目の前のひとつに手を触れる。曇りひとつなく丁寧に手入れされたそれは、ただただ、有子の不安を閉じ込めた顔を反射させるのみだった。
◇
「いつも通りのお時間です……が、皆様お揃いではないようですね」
「あれ! 本当だね、なんだか人が少ないようだよ!」
翌朝。いつも通りのルーティンで今日も食堂へ真っ直ぐに向かい、いつも通りのメンバーと食事がはじまるまで歓談して待っていた……のだが。
配膳をしようと顔を出した執事の猫塚と家事代行の綿貫は、トレーを手にしたまま立ち尽くす。猫塚はすっかり本調子に戻ったようで、いつも通り食事の支度を行っていたのだ。
有子もその声に気付いて見回せば、なるほど、章平の言う通り。いつもより人が少ない気がした。漁師の伊海田が指差し数えて、んんと首を傾げる。
「居ねぇのは、茨木と……双子……あと青錆かぃ?」
「茨木はともかく、青錆も来ていないのか?」
「うーん、来る気配もなさそう〜」
「少なくとも青錆は、いつも時間通りに来ているはずだけれど……」
「れいちゃん、朝はね、おきるのたいへんなんだってぇ〜! おねぼうしちゃったのかなぁ?」
「そうなんだあ。青錆ちゃん、寝坊かな〜」
扉の外へ顔を出していた靴職人の加連が、のんびりと帰ってきて席に着く。青錆といえば、いつも具合の悪そうな顔色をしているあの城主だ。生真面目な気質であるためか、今までこんなに遅刻をしてきた事はないのだが、言われてみれば早起きは不得意そうである。介護士の星永が可愛らしくこてんと首を傾げれば、隣にいた人類学者の泡淵がその頭を優しく撫でてやる。二人のその様子は、本当に仲の良い姉妹のようであった。
腕を組んで立っていたフルーティストの赤柳も、ひとつため息をつけば他の生徒と同じように自分の席に着いた。
「来ないものは仕方ない。先に食事を始めてしまおう」
「そうね……。折角のお料理が冷めてしまうのは、もったいないわ」
「そだなぁ、お寝坊さんにはまたあっだめで出したげればいいもんなぁ」
「僕のこんなにも素晴らしいお料理を、出来たてで味わうことが出来る皆様は本当に幸福ですね! 存分に感謝してお召し上がり頂いて結構ですよ!」
「その言い草が毎回腹立つけど、美味ぇモンは美味ぇから文句言えねぇんだよなぃ……」
「無駄口はもういい。佐渡、号令」
「はぁい! それではみんな、今日もおいしいごはんに感謝して〜……いただきまぁす!」
「いただきます」
章平の号令に続いて手を合わせ、いつも通り食事に手をつける。有子はなんだか嫌な予感がしつつも、みんなに合わせて食器を手に取った。人数が揃っていないのは、今日始まったことではないのだ。今更心配したってしょうがない。全員で食事を摂ろうだなんて、誰かが決めたルールでもなければ、義務でもない。まして、こんなよく分からない集団生活。昨日の猫塚のように、たまには一人になりたい時だってある。
無理やり自分を納得させて、そのまま料理を口に運ぶ。それは、有子の不安もまろやかに溶かしてゆくほど、深く、魅力的な味わいであった。美味しいものを食べると元気になるというのは本当にそうだと有子は思う。しかし、一人幸せに浸っている彼女をよそに、顔をしかめる者がいた。それは、最初にスープを口に運んだ伊海田だった。
「……なぁ、なんか今日のスープ、変な味しないかぃ?」
「え」
「そんなはずはありません。昨晩仕込みの際にきちんと味見をしましたよ」
「ん……。本当ね。いつも通りの味付けをしたのかしら?」
「俺ちゃんよく分かんないかもぉ〜?」
「馬鹿舌は黙ってなさい」
「んぇ、白雪ちゃん辛辣ぅ〜……」
伊海田の発言を聞いてまず、モデルの白雪がスープを口に運ぶ。彼女も同じように顔を顰めたのを見て、他の生徒たちも興味本位で次々とスープに手をつけて行った。有子ももちろんそれに続く。一口含めば、いつもの優しい味わい……の中に、得体の知れない雑味が混じっていた。スープの味付けと到底合わないようなそれは、なるほど、彼らの顔を歪ませるほどに十分なものである。
スープを飲んだほとんど全員が首を傾げ、そうだねと同意を示し、スプーンを置く中でひとり、調理した本人である猫塚だけがなんとも言えない表情をしてその光景を見つめていた。
「そんな短時間で僕の味覚が狂ったということですか? 綿貫様、今朝温める際に何かひと工夫なさいました?」
「えっ、……ひ、人のぜいにずんのやめでぇ? おいら温めだだげで何もじてないよぉ……?」
「そこまで言うなら猫塚も飲んでみろ。お前にしては酷い味付けだぞ」
「ふむ、そうさな。猫の手料理はそこらの料理人に負けず劣らず、どれも至極美味であると思っていたが、この汁だけは我の口には合わぬようだ」
「いつも通り僕は完璧な味付けをしましたよ? 酷いとまで言われるお粗末な仕事はしていません。他の料理も変な味がしますか? 僕は皆様のためを思って腕を奮ったというのにあんまりではありませんか? 文句がおありなら召し上がらなくて結構で……」
「うっ……」
かしゃん、と。金属音を立てて、何かが床に落ちた音がした。全員がそれに気付いたのか、猫塚は反論を途中で止め、有子も、そして隣の章平までもが食事の手を止め、音を立てた彼女を見つめた。彼女の隣に座る泡淵が、心配そうに彼女に手を差し伸べる。
「どうしたの、せつなちゃん? 気持ち悪い?」
「……だよ」
「え?」
口を抑えた彼女、星永の顔は、みるみるうちに真っ青に染まっていく。小刻みに震えるその様は、尋常ではない。まさか毒? と尋ねる声も聞こえたが、彼女はふるふると首を振る。もちろん、同じ料理を口にしたのに、様子がおかしいのは赤ずきんただ一人だけだ。隣の席の泡淵は心配そうに星永の背中を優しくさする。
赤ずきんはおもむろに抑えていた口を手に突っ込むと、掻き出すように口に含まれたものを吐き出した。泡淵はぎょっとしたが、すぐさまポケットからハンカチを取り出して、星永の口元を拭ってやる。星永は、ぜひゅぜひゅと苦しそうな呼吸を整えた後、涙ぐんだ瞳をきっときつくして、有子たちを責めるように睨んだ。
「……
◇
「っ!?」
星永の告白を聞いて、ガチャンという音が机の至る所から響く。有子も思わずスプーンを取り落としてしまった。気付いた章平が屈みこんで、有子の代わりにスプーンを探す。
今……なんて言った? じん、にく……? 人の、人間の、肉って……! 有子は先程彼女がそうしたように、思わず口を塞ぐ。頭から血の気がさっと引いていくのを感じた。今、有子が口に含み、咀嚼し、飲み込んだものは……。込み上げてきた吐き気を何とか堪えて、呼吸を整える。辛うじて目だけで周囲を見まわせば、同じように複数人が口を抑え真っ青な顔をしている。
まだしっかりと食器を手に握っていた猫塚は、真っ直ぐに星永を見つめ、その鋭い瞳をさらに細めて探るように首を傾げた。
「……今何と仰いました?」
「人肉だってぇ、これ。猫ちゃん、食べんのやめたほうがいーよぉ」
「は!? 人肉……? まさか、冗談でしょう!?」
ワンテンポ遅れて驚愕を顔に表す猫塚の手から、隣の加連がするりと食器を取り上げる。それから、猫塚の食事を自身に出されたものと合わせると、いつもの食後の動作のように、食器をまとめて片付け始める。それを見た赤柳も、ため息をついて同じように食器を片し始めた。
「はっは! 猫ぉ、御前、本当に我を飽きさせぬな? 一体どいつを食料と数えておったのだ? なぁ、そやつはどうした? 殺したのかぇ?」
「そんなことするわけないでしょう!? タチの悪い冗談はよして下さいッ!!!」
「ひ、ひ、人の肉、なんて……!」
「……佐渡。来れるか」
「あ、待ってね笛吹きくん。ありすのスプーンがどっかいっちゃって……」
「そんなものは後でいい。佐渡、今居ない奴らの個室に行くぞ」
「ほぇ? いてっ……。どうしてだい?」
こつんと机に頭をぶつけ小さく悲鳴をあげつつ、机から顔を出した章平は、きょとんとして赤柳を見上げる。有子は呆然とするしかなかった。身体が動かない。何も言えない。
状況をまるで理解していない章平に、赤柳は深くため息をつくと、つかつかと章平の目の前に立ち、無理やりその手を掴んで立たせる。
「お前たち。僕と佐渡がやつらを呼んで回ってくる。それまでここで大人しくしていろ。いいな」
「え、な、なんでそんなごど……」
「まだ分からないのか? 食事に混入された人肉……。数名が不在……。考えられることはひとつだ。殺人事件が起こった可能性が高い」
「まさかそんな……!」
「殺し合いが、本当に……!?」
「いいな、大人しくしていろ。三度目は言わん。行くぞ佐渡」
「え、ちょ、笛吹きく……。あ、ありす〜! いってきまぁす〜」
すたすたと出ていく赤柳を慌てて追いかけ、大事な幼馴染に簡単に声を掛けてから、章平も食堂を後にした。
◇
「あ、青くん。おはよう!」
「ひぃっ!」
赤柳の後ろについて、章平は男子寮へと移動した。そこですぐに見覚えのある後ろ姿を発見したのだった。
彼は章平の声掛けにびくりと肩を強ばらせ、おそるおそる振り向いた。あまり手入れのされていない長い髪。いつものようにロングコートでその身を隠すように縮こまっている。彼は紛れもなく、城主の青錆であった。
「遅かったな、青錆。ひとまず無事でよかっ……」
「赤柳氏ッ……! わ、わ、吾輩、実は低血圧でして……! その、本ッ当に朝は苦手なんです……!」
「ん、ああ、そうなのか……。まあそういうことも」
「ここ数日は物凄く頑張ってたんですがついに限界を迎え、今朝は身体がちっとも動かなくですね、それでこんな時間になってしまって、ああ、遅刻してしまい本当になんとお詫び申し上げたら」
「青錆?」
「集団生活だというのに皆さんとの生活リズムを合わせることがこんなに困難だとは思わなくて、その、早寝も心掛けていたんですが、どうしても寝付きの悪い時もありましてまあそれが昨夜だったというわけなんですけれども」
「青錆」
「気を付けているつもりでも身体が言うことを聞かないと言いますか、どうしようもないと言いますか、いえあの言い訳をしている訳ではなくて、ああいえ、本当に、本当にすみませんあの、今後はこのようなことがないよう努めていく所存でありますのでどうか今回ばかりは目を瞑って頂けたらと」
「一旦落ち着け。分かった、分かったから」
早口で言い訳と謝罪の言葉を捲し立てる青錆を、赤柳は取り敢えず制止する。自分の失態に気が動転してしまっているようなので、赤柳は章平に「青錆の肩をさすってやれ」と言った。もちろん章平は素直にその指示に従う。青くんがとても混乱しているのは分かったけど、どうしてだろう? そう思いながら、いつも有子が自分にしてくれるように、章平は青錆に大丈夫だよとにっこにっこ声を掛ける。しばらくそれを続けていれば、青錆は乱れていた呼吸も落ち着いて、気持ちも穏やかになったようだ。
「ひとまず、青錆の無事は確認出来たな」
「ぇ……。何か……問題が生じたんですか……?」
「まあな。……いや、後でしっかり説明しよう。青錆、ここに来るまでに他の奴らには出会わなかったか?」
「……? いえ、慌てて飛び出したのも、あるかとは思いますが……。吾輩は、どなたも見ていませんね……」
「そうか。佐渡、このまま行くぞ。青錆も着いて来い」
「分かったよ! 笛吹きくん!」
「……ぇ、吾輩も、ですか? ……はぁ。承知、しました……」
青錆は不思議そうに首を傾げたがそれだけのリアクションで終わらせ、大人しく章平と共に赤柳に着いていく。
「青くん、青くん」
「……ぇ……な、なんですか佐渡氏……」
「さっき低血圧って言っていたけれど、それはどのくらいつらいものなんだい?」
「ぁ、え……。そんな、つらい、と、言いますか、身体が、言うことを聞かないと言いますか……」
「ふんふん?」
「…………『起きよう』と思って実際に身体を起き上がらせるまでに……1時間はかかります……」
「わあ」
「それは……頑張ってくれとしか言えん。まあなんだ、あまり無理はするな」
さすがの赤柳も哀れみの視線を青錆に向ける。章平は、青くんは毎日1時間もはやく起きているんだなあ、えらいなあと思って、青錆の頭をなでりなでりと優しくさすった。当然城主は、突然の章平の奇行にきょとんとするばかりであった。しかしそれが悪意からのものでは無いことが明らかだったからか、意外にもそのまま受け入れていた。
そんなふうにしていれば、赤柳が個室のチャイムを鳴らす。しばらくしても返答がないので、もう一度チャイムを鳴らしたが返答は無い。
「留守か」
「ここは……ヘンゼルくんのお部屋だね」
「ご自分の部屋にいないとなると、菊音氏の個室でしょうか……」
「そっか! ここにいないならグレーテルちゃんのお部屋に一緒に居るかもってことだね!」
「双子さんて本当に仲がよろしいんですな……」
「一応確認するが……異性の部屋に出入り禁止されていたのは夜時間だけだったよな」
「そうだよ! 間違えて入ってしまったら、朝まで出られないんだよ!」
「その仕様も破綻しているよな。不純異性交友を排他するならば、まず前提として立ち入らせないようにすべきだろう」
「結構な矛盾ですな……。しかも夜羽氏がお泊まりするのが許されているのなら、何故わざわざそんなルールを用意したんでしょうかね……」
「しかしまあ、女子部屋に泊まろうとする奴はあいつくらいなものだろう」
はあとため息をついて、赤柳はくるりと踵を返し、一歩踏み出す。予告通り件の片割れ・菊音の部屋へ向かうのだ。部屋の配置は名簿順ではなく、ランダムな配置だった。歩きながら電子生徒手帳を確認し、全く面倒なことをと肩を竦める赤柳に、章平と青錆が着いていく形で移動する。
その時、聞きなれない軽快なメロディと共に、あの紳士風の狐の音声でアナウンスが流れた。
――ピンポンパンポン♪
――死体が発見されました。一定の捜査時間の後、学級裁判を始めます。
「…………いま、のは……」
「死体が発見された? ……笛吹きくん、学級裁判って……」
「……。佐渡、青錆。一旦戻るぞ」
「も、戻るとは、何処へ……」
「決まっている。僕たちは他の奴らに食堂で待機しているよう指示して来たんだ。"発見された"のならば、場所はそこしかないだろう」
赤柳はそう言えば、状況を呑み込めていない青錆に背を向け、すたすたと早足で来た道を戻っていく。章平はそれを見て、足をもつれさせる青錆の手を引いてやりながら、尊敬する級友の後を追った。なんだか今日は朝から色々なことがあって、正直混乱しているけれど。しかし章平は、目の前の笛吹き男が自分を導いてくれるのだと確信しているので、穏やかなままで足を動かせていた。
◇
「戻ったぞ。全員いるか? 状況を説明しろ」
食堂の扉を開くなり開口一番、赤柳はそう言い捨てた。しかし、出発前までそこに座っていた生徒の多くはそこにはおらず。大半が厨房の中へ移動しているらしく、入りきれない数人が厨房の出入口のところでそわそわとしている。赤柳はそれを見やると、まだ食堂のテーブル席の方に残っていたモデルの白雪と科学部の姫ヶ原に目を向ける。姫ヶ原に至っては先程の放送が聞こえていなかったのか、呑気に茶を啜っていた。
「……ああ、青錆は部屋にいたのね」
「お、おはようございます、白雪氏……。これは一体、何の騒ぎですか……?」
「先の放送が耳に届いていないのか? 未だ夢の世界で戯れているのなら早いうちに帰ってきた方が良い。面白い事になりそうだからな」
「さっきのって、死体が、どう……とか言っていたね? 死体って、あの死体かい?」
目をぱちぱちとさせながら章平が赤柳に問えば、彼は険しい顔をしてすぐに人集りの方へ向かう。姫ヶ原の口ぶりから、どうやら彼女にもあの放送は聞こえていたようだが、それが事実だと受け止めている様子にはとても見えない。周りの生徒と比べ、明らかに心に余裕のある仕草だった。
「被害者は誰だ」
「あ、赤柳くん……」
「第一発見者は誰だ」
「お、おい、あんま見ねぇ方がいいぜぃ……」
「…………」
「笛吹きくん、みんな、一体何を……」
赤柳は漁師の伊海田の制止も構わず突き進み、強引に厨房へ割って入って行く。彼について行かねばと、章平もそれに続いて行った。奥に辿り着いた赤柳がぴたりと静止したのを見て、章平もその視線の先を追う。冷凍庫の扉が開け放たれ、手を添える執事の猫塚と、驚いたような表情の家事代行の綿貫を中心に、周りの生徒は皆恐怖の色を顔に表していた。
全員が注視する冷凍庫の中。
――そこあったのは、生首。
そう、見間違えようのない、人間の頭部である。しかしそれだけだ。あるべきはずのその首から下はそこには無く、綺麗な切断面からは凍っているのか血液の一滴も流れてこない。本来そこに保存してあるはずの食用肉の代わりに、彼女のものと思われる四肢が器用に収められ、冷凍庫は冷凍庫というよりも、いまは棺桶として機能しているようだった。その光景に、章平は目を見開く。なぜならその頭部こそが、その顔こそが。
その顔はーー見間違えようもない。
"