温かで優しい、いい匂いがする。
ママの匂い。
「マ…マ……」
小さな声で呟き、汐はうっすらと瞳を開けた。
そこは薄く夕闇に染まるレースのカーテンが揺れる、汐の部屋だった。
畳の上には小さな蒲団が敷かれ、その上に薄黄緑色しただんごを抱えるように体を預けて汐はいた。
——どうして……
早苗さんやあっきーに内緒で家を出て、幼稚園の先にあるあの長い長い坂道を登った筈なのに、何時の間にか部屋に戻っている。
「…………」
窓の方に目を向けると、そこから見える空はもう茜色に染まっていた。
家の前の公園の方からだろうか。遠く木霊するようにヒグラシの声が聞こえてくる。
部屋の中まで赤く染め、そして暗くなっていく中で独り、もの淋しいヒグラシの声を聞いていると胸が締め付けられ、汐は泣きたい気分になった。
——あれは、みんなゆめ……
だから現実は何も変わらない。淋しく悲しいままに。
「うっ………」
汐の瞳に、じんわりと涙が
「うっく………」
だが、しゃくり上げながらも、汐はだんごに顔を押し付けて泣かなかった。
——がまん。ないちゃダメってさなえさんいってた。ないていいのはトイレと、それから……
と、汐が涙を
ハッとしてだんごから顔を上げ、振り返って見ると、そこには大きな人影が立っていた。
廊下の暗がりに立つそれは、背の高い男の人のものだった。そして、この家に男の人は一人しかいない。
——あっきー……
涙を
だが——
「汐、起きてたのか」
と、投げかけられたその声は、祖父のものではなかった。
もっと若く、そして、夢の中で聞いていたあの声にとてもよく似ていた。
優しく包み込んで守ってくれるような、とても安心できる温かなあの声に。
——でも、ほんとうに……?
涙を溜めた瞳を大きく見開いて、汐は恐る恐る呼んでみた。
「…パ……パ?」
と、夢の中でも、ずっと言いたくて言えなかった一言を。
「ん? どうした、汐?」
声の主が、廊下の暗がりから部屋の中に入ってくる。
赤く染まる夕日に照らされ、その姿が
アルバムの写真に写るそれよりも更に大人びた父親の、いつも見慣れたその姿が。
そして、暗く悲しみに沈んでいた筈の顔は穏やかで優しく、いつも合わせようとしなかった目は、汐をしっかりと捉えていた。
「おまえ、ひょっとして泣いていたのか?」
ぽんっと汐の頭に手を乗せ、屈んで覗き込んだ娘の潤んだ瞳を見て微かに眉を寄せた朋也は、すまなそうに汐に笑いかけた。
「悪かったな、ずっとおまえを独りにさせて。淋しかったか?」
「………」
——わらってる。うしおをみてわらってくれた。
「……パパ」
「ん?」
「パパっ」
顔をくしゃりとさせ、汐は抱えていただんごを放すと、勢い良く父親の胸に飛び込んだ。
「お、おい!?」
いきなり体当たりのようの娘に抱き付かれた朋也は、支えきれずに後ろに倒れそうになり尻餅をついた。
「どうしたんだ、おまえ」
「パパ、パパっ、パパ——っ」
驚く父親にかまわず、汐はただ泣きじゃくりながら同じ言葉を繰り返した。
ずっと拒絶されるのが怖くて、言いたくて言えなかった言葉を。そして、ずっとしたくてできなかった——パパの胸の中で泣くことを。
「汐……」
自分が居なくて淋しかったにしては少し様子が変だった。
だが、自分の首にしがみつき、求めるようにパパと連呼して泣く娘を訝しく思いながらも、朋也は娘のその小さな体を優しく抱きしめ、頭を撫でてやった。
汐の気が済むまで、ずっと——
そして、泣き声が収まる頃、朋也は汐の耳元で優しく訊いた。
「何か怖い夢でも見たのか?」
「こわい……ゆめ……」
父親に言われて、汐は今日の事を思い出してみた。
さっきまであんなにはっきりと憶えていたのに、今は
ただ初めは怖かった。誰も居なくて淋しく悲しかった。暗闇の中に独り取り残されたようで不安で一杯だった。
だけどそんな自分を安心させ、明るく楽しい場所へと連れて行ってくれたのは、このパパの温もりだった事だけは憶えている。
だから汐は「ううん」と父親の首にしがみついたまま、小さく首を横に振った。
そこへ——
「ただいまです。朋也くん。しおちゃんは、まだ眠ってますか?」
温かくて優しい声がした。
微かに残るあの夢の場所の記憶の中でも、その人だけは自分の事を「しおちゃん」と呼んでいた。
「ああ、渚。さっき起きた処だ。ただ、ちょっと変なんだこいつ」
と、朋也は部屋の戸口に顔を向けて応えた。
——なぎさ……ママのなまえ……
父親の言葉に、ハッと汐は弾かれたように顔を上げ、声の方を見た。
「変って……。しおちゃん、どうかしたんですか?」
部屋に入ってきて朋也の傍らに
アルバムの写真より髪が長くなっていたが、全然変わらない優しくて温かなママの顔がそこにあった。
「しおちゃん、大丈夫ですか?」
そう自分に呼びかけるその声は、まだ耳に残るあの声とそっくりだった。
——あぁ、だからパパはもうかなしくないんだ……
そして、うしおも——
「ママ……ママっ」
大きな瞳から止まった筈の涙を溢れさせ、汐は渚の胸に飛び込んだ。
あの夢の場所でパパから教えて貰ったあのおまじないは、ちゃんと自分が会いたかった人達に会わせてくれた。
ママと、そしてその傍らで笑っているパパに——
汐の願いは叶いました。
アニメでも、最後渚は生きていた事になっていたし……
良かったけど、人の涙返せっ。
そして、話はまだ続く。