まどろみの向こう~メモリーズ―夏―    作:飛鳥 螢

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資  格

 事の起こりは去年の暮れだった。

 仕事を終えて帰ろうとしていた俺を、会社——光坂電気の社長である親方が呼び止めたのだ。

「岡崎君、ちょっといいかね?」

「あ、はい。また伝票整理っすか?」

 忙しい時など、親方はよく俺に経理関係の仕事の手伝いを頼んだりしていた。

 その時も俺はてっきりそうだと思い、お先にと挨拶して帰ろうとする芳野さんや他の同僚の人達に挨拶を返し、親方に呼ばれるまま奥のテーブルを囲むソファに腰を下ろした。

 皆が出て行ったのを見て、親方はぽつりと独り言ちるように口を開いた。

「君がここに来て、もう随分になるね。五、六…七年くらいか……」

「はぁ、もうその位になるっすかね」

 突然そんな事を言われ、俺は少し面食らう。

 そんな俺の途惑いなど気にせず、社長は懐かしそうに目を細めて話を続けた。

「実のところ、最初私は、君がこんなに長く居てくれるとは、思ってなかったんだよ」

「——っ」

「君も知っての通り、この仕事はきついからね」

 顔色を変えて思わず言い返そうとした俺を片手を上げて制し、親方は言葉を継いだ。

「若い君ならこんな所で働かなくとも、もっと条件がいい働き口は幾らでもあるからね。でも君は辞めないでうちで働き続けてくれた。しかも君はとても優秀で、今ではうちになくてはならない人材だよ」

「………」

「だからこれからも、うちで働いて欲しいと思ってるんだよ」

「それは勿論っ、俺だってそう思ってますよ」

 親方の方に身を乗り出し、勢い込んで俺は言った。

 それを見て、親方は満足そうに頷いた。

「でね、これから将来(さき)の事を考えて、岡崎君には色々と取って貰いたい資格があるんだよ」

「資格っすか?」

「そう、これなんだけどね」

 親方は資料の冊子を幾つか取り出してテーブルの上に置き、説明した。

「まあ、無理にとは言わないけどね。あれば今までさせられなかった仕事なんかもやって貰えるし、もっと専門的な知識も身に付くし、君にとっても悪い話ではないと思うんだけどね」

「はぁ……」

 俺はその資料の一つを手に取って見た。

 ずっと先輩の芳野さんに一から教えて貰い、今では自分一人だけでも手早く一通り仕事をこなせるようになっていた。

 だが、それでも未だに知らない事の方が多く、自分なりに専門雑誌などで勉強したりしていたが、所詮は素人に毛が生えたような知識でしかなかった。

 だから俺は、後は現場で一つ一つ覚えていくしかないと思っていた。

 それにさっき親方が言ったように、難しい工事などで資格がないと出来ないものもあり、もう一人で全部できるのに、そこだけ芳野さんに代わって貰わなければならない事があった。

 でも、元ロックシンガーだった芳野さんが、最初からその資格を持っていた訳ではないだろう。この仕事に就き、必要に応じて取ったに違いなかった。

「本当はもっと早くこの話を出しても良かったんだけど、君今までは色々とあって大変そうだったからね」

 確かに色々とあった。親父の事件の事や渚との結婚。そして汐の出産など、本当に様々な事が。今思い返せば、この七年間で一生分の喜怒哀楽を一度に体験したかのようだった。

 そんな俺を、親方は仕事を通じて今まで温かく見守ってくれ、俺の負担にならないよう、本当ならもっと早く取って欲しかった資格の話をせずにいてくれたんだ。

 そう思うと、親方の気遣いが嬉しかった。

「——判りました。俺頑張ってみます」

 俺がそう言うと、安堵したように小さく息をついて親方は細い目を更に細めた。

「そうかい、助かるよ。でもまぁ、無理しなくていいからね。少しずつ勉強して取れる時に取ればいいんだからね、他のものは」

「は?」

 他のものは……って?

 俺が頭に疑問符を浮かべると、親方はテーブルの上に置いた資料の中から、一枚の案内書を取って俺の前に置いた。

 それは自動車学校のパンフレットだった。

「君、自動車の運転免許持ってないでしょ。今はまだ芳野君と組んでやってるから問題ないけどね。この先仕事の関係で、一人で現場に行って貰うことも出てくると思うんだよ。でもその度に誰かに乗せて貰ってというのはちょっとね」

 親方は言いにくそうに首の辺りに手を回して言った。

「この仕事は、どうしても工具など色々車に積んでいかないと出来ない仕事だからね。足である車が運転出来ないと困るのは、君もよく判ってると思うんだ。だからね、これだけはなるべく早く取って欲しいんだよ。大変だとは思うけど」

「あ……はい……」

 懇願するような親方の切実な口調と表情に、俺はそう応えるしかなかった。

 実際、この会社で運転免許を持ってないのは俺だけだし、それがこの仕事に必要不可欠なのは分かり切っていたことだから。

 だが、経済面など色々と考えると、これはかなり苦しく難しい注文だった。

 受講料にしても、俺一人の給料では一家三人を養っていくだけで精一杯で、貯金なんてない。ましてや余分な金など一銭もなかった。

 それならわたしも働きますと渚は言ってくれたが、それ以外に時間的にも厳しく、車の運転など要は馴れ、体がそれを覚えている内に一気に取ってしまうのが一番らしいが、俺の場合、仕事のある平日は疲れてとてもじゃないが講習など受けてられない。

 受けるとしたら休みの日に集中してやるしかないだろう。そうなると免許を取るまで汐と全然遊んでやれない事になる。それを汐が我慢してくれるかどうかが大問題だった。

 そんな様々な問題を抱えつつも、取り敢えず俺は運転免許を取る為に教習所に通い出した。

 

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