有馬かなが刺された世界(そして前向きイマジナリー重曹ちゃん) 作:settu
アクアは、心が冷えるのを感じた。右肩への放散痛。腹部の膨満感。ありていにいえば……、腹腔内に血液が溜まってきていることの、サイン。
いや、とアクアは思い直す。こう言うべきだ、と。多分、
ナイフの位置と、角度を再確認する。
有馬かなの呼吸に合わせて、僅かに揺れる、突き立てられたナイフ。
彼女の体に埋まった刃、その先にあるのは。
「MEM」
アクアは小声でMEMを呼ぶ。
「どうしたの?」
MEMもアクアの調子に尋常ではないものを感じて、小声で応じた。
「救急はまだか。内臓が……」
そこで少しだけアクアは口ごもる。迷いと恐れ。自分がこういうことを言ってしまって良いのかという戸惑い。そして、そう言ってしまうことで、何か、不確定だった状況が確定してしまうのではないかという恐れ。
だが、続ける。
「……肝臓の辺りが傷つき、内出血している可能性もある、と伝えろ。急ぐよう、言ってくれ……」
どこか、哀願するかのようにアクアはそう言った。
MEMは頷いて、顔を強張らせたまま、静かに立ち上がった。少し離れたところに居るスタッフの方に向かう。
「……なんかさ……焦ってる?」
有馬かなが、あくまで楽し気に言う。ただ、その声は、少しだけ疲労感を感じさせる。アクアの表情に、何かを察したようだった。
「まぁ、そりゃ、この状況だしな。急いだ方がよいに、越したことは無いさ」
つとめて、冷静に見せようとしつつ、そう語る。
嘘は言っていない。
ただ、アクアの声は震えている。
有馬かなにも、そんなアクアの気持ちは伝わっているのだろう。それでも、彼女はただ、短く答えた。
「……そ」
MEMはすぐ戻ってきた。アクアに耳打ちする。
「あと少し。雨で事故。道が混んでる。それと……」
MEMは、質の悪い例の流行り病に言及した。それはアクアにもよくわかっている。救急もひっ迫している。
アクアは頷いた。
とにかく待つしかない。
初めから、気づくべきだった可能性。
今になって、判断が誤ってたかもしれない、と思う。
刺入部位と角度。その先に想定される臓器。
どこかで、症状が軽いと、信じようとしていたのかもしれない。
アイとは違うから、問題ないと、信じようとしていのかもしれない。
確かに体外への出血は少ない。ただ、内部も、そうとは。
随分と、いい加減に楽観したもんだな。
自嘲する。
結局のところ、アクア自身の医療知識というものは、どこか遠い、前世の知識に依拠したものだった。知見の補充はしていた。だが、そこに経験はない。誰かの知識を朧げに遠くから見て。そして、自ら学びなおして、そこを補強しただけの知識。なにかこう、実感の伴わない、現実感の無い知識。自らが、適切に運用できるかどうかも分からない知識。それだけで、医者の真似事をやろうとしているようなもので。
今も色々と分析しているが、結局それはまったくの的外れかもしれない。
内出血? 肝臓が傷ついている? それは本当か? なぜ有馬かなはこうなっている? お前は本当に分かっているのか? 知ったかぶりで適当なことを言っていないか?
お前は……、
判断の根拠は? 理由は? ちゃんと説明できるのか? おい、それは正しいのか?
ただの素人が出しゃばって、むしろ有馬かなを危機に追い込んではいないか?
お前が光を見た存在を、お前が消そうとしているんじゃないか?
幻聴が聞こえた気がした。
そういうことなのだった。
アクアの思考。アクアの判断。アクアの行動。
それらは、それこそ前世たる『雨宮吾郎』にとっても噴飯物の判断と動きなのかもしれない。むしろ、有馬かなの危機を速めてしまっているのかもしれない。
要は、前世知識があるという設定で、見様見真似で、医者を演じているようなものなのだ。
それで、いっぱしの医者のように診断をしようとしているのだ。
真似事というよりも、もっと酷い。
堂々と、医者でござい、という風に彼女を診断し、可能なら応急処置のような何かすらしようとしている。
要は、偽医者だ。
だが、半端な俺にはそんなどうしようもない存在なのがちょうどよい。つまるところ、俺はただの冴えない役者崩れで。
そこまで考えを進めたところで、アクアは逡巡を打ち切った。
結局のところ、その事実に気づいていようが、気づいていまいが、今、やれることに、変わりはなかったからだった。
仮定自体がそもそも無駄。いや、どっちにしろ考えを巡らす時点で無駄なのだが。
「辛いだろうが、もうすこし辛抱してろ」
「言ってくれるわね……」
その声には、少し疲労感があった。
呼吸が少し浅い。脈も少し早くなっている。肌の色も、以前より白く。
「先輩……」
ルビーが、不安そうに呟いた。
必死に維持していた明るさの仮面が、剥げかけている。
「……ルビー、MEMちょ」
有馬かなは、二人に呼びかけた。
「……一応言っておくけどさ……色々と、感謝してるのよ、アンタ達には……」
二人を、ゆっくりと、見上げる。
「一緒に……やれて、……楽しかった」
その口調は、明らかに以前とは異なり、ゆっくりとしたものになっていた。
「先輩、なんでいきなりしんみりした調子になるかな? そんな挨拶みたいなの、やめてよ……」
「そ、そうだよ、かなちゃん。縁起でもない」
二人は、有馬かなを窘めるように、少し必死になって言う。
そんな二人を見て、有馬かなは、明るく笑う。
「……気分よ、気分。…………その、さ。一応……、今のうちみたいな……、ね?」
アクアは、何も言えずに、三人のやり取りを見つめる。
己はただ、彼女の症状に注意を払う。
やれることは、ただ、待つだけではあったが。
とにかく、救急がたどり着いてくれれば、それでいい。
「……なんていうの……かしら。別に……、このまま、なんていうの? そうなっても、別に……私は……、ふふ、どうでもいいんだけどね。……アンタ達が気にするのも、悪いから、さ」
強気なセリフ。
ルビーは、それには応じず、有馬かなの手を、両手で握る。
「ルビー……?」
強張った顔のまま、ルビーはぎこちなく笑い、震えた声で言う。
「先輩……、また、嘘ついた」
有馬かなは、少しだけ驚いたように、ルビーを見た。
「先輩、手が冷たい。とっても怖がってる。震えてる。痛い、辛い、怖いって言ってる……」
ルビーは、握った手に力を籠める。
「先輩、本当に憶病だからさ……」
有馬かなは、どこか楽し気に苦笑した。
「……アンタ、本当に遠慮が無いわね、そういうとこ」
「えへへ……」
「そうね。私はアンタにとっては、只の小娘だしね?」
「違うよ」
ルビーは否定する。
「先輩は……、私達B小町のセンターだよ。頼れるセンター」
その言葉に、MEMも、二人の上からさらに手を被せ、しっかりと握った。
「アンタ達……」
有馬かなは、少しだけ意表を突かれた表情を浮かべ、それから微笑んだ
「……そ」
有馬かなは、ルビーの方を見て、言った。
「ルビー、私はね、アンタに『可能性』を見た。『本物』の可能性を」
「先輩……?」
「アンタはアイドルをやっている。そして、アイドルとして、私よりずっと上に行っている。そんなことは分かってる。でも、まだ、アンタは、そこまででは、ないでしょう。アンタが目指す場所はもっと遥かな高みでしょう」
有馬かなの、ストレートな言葉。
だが、その真剣な口調は、ルビーに世辞のような否定を行うことを許さないものだった。
「……先輩」
「証明してみせて。私の嗅覚が間違っていなかったと」
「……分かった」
「……あら、良い子。良い子過ぎてちょっと心配」
「心配しなくたって、私先輩程ビビりじゃないし大丈夫だよ」
ルビーは、強張った口調で、そんなことを言う。
「……言うじゃない」
それを聞き、有馬かなは、楽し気に笑う。
「ま、なら安心よね」
そして有馬かなは、MEMちょの方を見た。
「ねぇ、MEMちょ……」
「うん……」
「私が色々と酷かった時さ……今更だけどさ……本当に有難う」
「かなちゃん……」
「私、MEMちょが気にしてくれなかったら……ダメになってたかもしれない」
「そんなこと……」
「それより、さ」
有馬かなはそこで口調を変える。
「私はもうすぐ卒業するんだし。アンタだって、ルビーに負けてんじゃないわよ」
「にゃはは……」
MEMちょは少しだけ苦笑してから、ニッコリ笑った。
「私は、いつだって挑戦してるんだ。それで、いつだって上手くやってきた」
満面の笑み。
「だから、問題ないね!」
「そ」
有馬かなは、満足そうに言った。
「なら……二人とも、安心ね。安心して……卒業できる……」
ルビーが、どこか必死に、その言葉に抗議する。
「先輩、何一人でしんみりモードしちゃってるかな!?」
MEMも涙目で強く言う。
「そうだよかなちゃん、そんな言い方ダメだよぉ、縁起でもない」
「……悪かったわね……なんていうの? ほら、一応やっぱりお約束っていうか……」
そこで、会話が途切れる。
「有馬?」
雰囲気がおかしい。アクアは有馬かなに呼びかける。
「おい、有馬?」
「……ああ、ごめんなさい。」
有馬かなの様子の変化に、アクアは何かを感じる。二人に目配せする。
ルビーとMEMは、アクアに促され、ゆっくりと手を放す。
「……で、なんの話だったかしら」
「先輩……?」
少し要領を得ない応答。ルビーが不安そうに有馬かなを見る。
……記憶の混濁。
つまり、ヴァイタルとして言うのなら、意識レベルの変動。
呼吸も少し浅い。
アクアは、有馬かなの総頚動脈に触れる。頻脈。……かなり早い。
「MEM、救急にもう一度催促してくれ。早く来てくれ、今どこだ、と」
そうMEMに言ったアクアの声は、焦りをもはや隠し切れないものになっていた。
(「有馬かなが刺された日」⑦ に続く)
ここまでお読みいただきありがとうございました。
引き続き早めに続きを投稿して行きたいと思っています。
またお楽しみ頂けますと幸いです。