有馬かなが刺された世界(そして前向きイマジナリー重曹ちゃん) 作:settu
アクアは、有馬かなに、必死に心臓マッサージを試みる。
そんなアクアの脳裏に。
有馬かなのとの日々、が思い浮かぶ。
イメージが、溢れ出す。
出会いの日。
ひたすら生意気だった子役の幼き少女。
再会の日。
その美しい瞳の少女は、かつての名前を名乗って。それはアクアもどこか心に刻んでいた名前で。
今日あま。
一度は離れていた、役者への誘い。彼女の期待。そして得た、闇の中で苦闘してきた同志としての、言葉。
アイドル勧誘。
それは、間違いなく、アクアとしての信頼の表明でもあって。
なんだよこれは。
初のアイドルコンサートに向けての訓練の日々。
被りものをしてでも、彼女との会話は、嬉しいもので。
JIF後の車内でのやり取り。
彼女にばしばしと肩を叩かれて。
やっぱり、なんだかそれが、とても嬉しくて。
なんだよこれは。走馬灯じゃないんだぞ。
縁起でもない。
情景が。
そして、彼女の表情が。次々と、思い浮かぶ。
別れを告げた日。
雨中の出来事。
和解の語り。
むしろ逆だ、とアクアは思わず本音を語りそうになり。
ただ、それは彼女には全く伝わって無くて。安堵とあわせて、少しだけ、肩透かしのような、がっかりしたような気持ちもそこにはあって。
なんだよ、なんだよこれは。
アクアはイメージを振り払う。
そうだ、今は、『作業』に専念しなければならない。
強い圧力で胸骨を押し込まれ、有馬かなの体が大きく揺れた。押し込み、そして、完全に力を抜いて解放する。その繰り返し。腕と手首を棒状に固めて、腰の、上半身の上下の動きで、圧迫と解放を繰り返す。胸骨圧迫。圧迫の深度は約5cm。ペースは100回/分。彼女の体に残されていた禍々しい凶器には、その部位には、影響を及ぼさないよう、注意しつつ、圧迫を続ける。
心マだ。とにかく心マだ。アクアはそう思いつつ行動を継続する。
それは、まず初めに行うべき一次救命措置(basic life support)としての、CPR───心肺蘇生法(cardiopulmonary resuscitation)───。心肺蘇生。心臓マッサージ。心マ。つまり、心肺機能が停止した傷病者に対しての、生命維持の為の、試み。その用語の意味の深刻さを頭から振り払い、アクアは圧迫を継続する。
「8…9…10…」
実際に圧迫回数を声に出し。
全力で、押し込む。腰を落として、体重を乗せ、押し込む。
ある意味、暴力的に、彼女の体に圧を加える。
アクアの両手に、有馬かなの体温が伝わる。
そうだ。有馬は、まだ、生きている。
有馬かなの体が、圧迫されるままに、リズミカルに揺れる。
いつのまに、MEMが傍に戻ってきていた。
アクアの行為を、じっと見守っている。
「かなちゃん……」
MEMが、不安そうに有馬かなの名前を呼んだ。
アクアはそれを無視して、ひたすら圧迫を続ける。
救急、早く来てくれ、ただそう思いながら。
アクアの手の動きに、ただ受動的に有馬かなが揺れる。その美しいボブカットの髪も揺れる。
回数を数えながら、圧迫を続ける。
「15…16…17…」
俺が学んだ頃は15回だったんだがな。
どこかで思考の冷静さを保つために、あえてそんな内心の呟きを行いつつ、アクアは行動を続ける。だが、それが、同時に、自分が今の医学知識からは離れていた存在であることを密かに痛感させるものでもあったが。
「かなちゃん……かなちゃん……」
MEMが相変わらず有馬かなを呼んでいる。
泣いているのかもしれない。
ただアクアには今そちらに気を配る余裕はない。
「…29…30!」
30回の圧迫を終えたところで、アクアは有馬かなの頭を後ろにのけ反らせ、顎先を上げる。気道確保。
そしてアクアは口を開き、有馬かなの口を覆い、密着させる。彼女の鼻をつまんで空気が漏れ出ないようにしてから、大きく息を吹き込む。アクアの肺から送り込んだ空気が、有馬かなの肺に確かに到達し、彼女の胸が上がるのを確認してから、口を離す。
彼女の口から、吹き込んだ息が静かに出てくる。ゆるゆると。あくまで、受動的に。
そしてアクアは、もう一度、息を吸い込んでから、己の口で彼女の口を覆い、息を吹き込む。
願いを込めながら。
ふぅ、と吹き込む。
それは、どこか、命を送り込もうとしているような想いでもあり。
そして、合計2回の人工呼吸を終えた後、再び、胸骨圧迫を開始する。
「かなちゃん……!」
その時MEMが、もう一度有馬かなに呼びかけた。
「かなちゃん……お願いだよ……戻ってきてよ……かなちゃん……」
アクアは、MEMの声を聞き流しながら、少しだけ皮肉のような、自嘲のような感傷に捕らわれる。
……戻ってくる?
MEM、これは、
これは。
……俺は、有馬を呼び戻そうとしているんじゃないんだ。
せめて。せめて救急が到着してくれるまでの間。救命の確率を上げる為に。それが手遅れにならない時間を一秒でも伸ばす為に。
その為に、やっているものなんだ。
無理やりにでも、体に血液を回して、時間を伸ばそうとしているものなんだ。
欲しいのは、ただ、心拍出量なんだ。
欲しい結果は。有馬かなの体に。とにかく血が、酸素が巡ることなんだ。
それ以上は、今は、求めていないんだ。
ほとんど循環すべき血液が失われたかもしれないこの状況で。
何とかわずかでも残ってる血液を、無理やり動員して、巡らせようとしているだけなんだ。
俺は……有馬を、呼び戻そうとしているのではなくて。
せめて、その、後ろ髪を掴んで。なんとか、もう少しだけ、とどまって貰おうとしているんだ。
血さえ。
血さえ巡っていてくれれば。
その希望が、持てるから。
俺には、その程度しか、出来ないんだ。
ああ、そうだ、分かってるんだ。
失血なら。
内出血で、血が、失われているというのなら。
そもそも、もはや、心臓に、巡るべき血液は。
この有馬かなの体に、循環できる血液は。
一体、どれほど残っているというのか。
そう思いながら、また、アクアは、有馬かなの口を覆い、息を吹き込む。
だが、そんなアクアの感傷を預かり知らぬMEMは、叫び続ける。
「お願いだよ、お願いだよ、かなちゃん……! ダメだよ、こんなこと。こんなこと、ダメだよ、あっちゃいけないんだよ……かなちゃん、こんなに、こんなに頑張ってきたのに。頑張ってきたのに、こんな。だからお願いだよ……」
そうだ、そうだな。だとしても、諦める選択肢は無い。
それでも、諦める選択肢は絶対にない。
なんとか、なんとかしないと。
なんとかしなければ。
なんとかしなければ、有馬は。
失われてしまう。
俺の前から、消えてしまう。
有馬が。
俺の……光が。
俺なんかに微笑んでくれた…光が。
こんな、価値の無い、俺を見てくれた、有馬が。
俺と同じように闇の中で戦い。
俺と同じように闇の中で苦しみ。
そして、俺に、その苦闘を、そのことそのものを、肯定してくれた、有馬が。
俺に、その道の価値を、肯定してくれた、有馬が。
俺の、光が。
失えない。
失うことが出来ない。
そんなことは、許されない。
光が、失われることは、決して許されない。
だから、やるのだ。
疲労なんか感じない。
今は俺しかこれはできない。
だから俺がやり切る。
それでいい。
とにかく、医療チームに、なるべく良い状態で有馬かなを引き渡す。
そんな自らの行為の有効性を信じようとするアクアの頭に、外傷性心肺停止 Traumatic Cardiopulmonary Arrest(TCPA) の生存率、というどこかで見たデータが思い浮かぶ。
予後として生存率はわずか数パーセント。神経的なダメージを残さないものに限れば、その救命可能性は、更に。
……分かってるさ。そういう話は。
でも、ゼロじゃない。
なら、やるだけだ。
「かなちゃん、かなちゃん、かなちゃん……! アクたんが……アクたんが、助けてくれてるから……だから…戻ってきて……!」
でもさ、だから、MEM。
俺がやってるのは、その程度のことなんだ。
期待を、俺に、かけてくれても。
心臓マッサージを続けるアクアの頭の中に、MEMの声が響く。
「それに……ダメだよ。こんなことになったら……かなちゃんがダメになったら。アクたんも、本当に、ダメになっちゃうよ……
アクアは思う。そうか。そういえば、MEMには、見せてしまったんだったな。俺の、情けない姿を。
……それにしても「この子」呼びかよ。そりゃまぁMEMに比べたら、俺は年下だろうけど。
本来、
だが、アクアは。
まったく疲労を感じなかった。
疲労を感じる部分が壊れていた、というべきなのか。
ただ、ひたすら、継続する。
継続する。
そしてただ、MEMの声だけが、アクアの頭に響く。
「私さぁ……知ってるんだよ……見てるんだよ……アクたんが、どれほど、かなちゃんのことを……知らないでしょ? かなちゃん? 凄いんだよ、アクたん、本当にかなちゃんのことを、さ。だからさ、だからさぁ…ちゃんと知ってあげてよぉ……」
なんだか、恥ずかしいことを言い始めたな。そう思いながら、30を数え終えたアクアは、再び有馬かなの気道を確保する。
口と、口を、密着させて。
また、息を、有馬かなに吹き込む。
受動的に、有馬かなの胸が膨らむ。
あくまで、吹き込まれた息に応じて。
受動的に。
「ほら……こんなに、こんなにアクたん、頑張ってくれてるよぉ……。かなちゃん、恥ずかしくない? これ、キスだよ? アクたんのキスだよ……!? ほら、ビックリして、起きないとさぁ……」
何を言っているんだか。冗談のつもりなんだろうか。ははは。
そうか、キスか。
色気の無いキスもあったもんだな。
有馬もこれは心外だろう。ははは。
「だから……ほら、起きようよ……! 戻ってきてよ……戻ってきてよぅ……」
でも、良いな。戻ってきたら、良いな。本当に、良いな。
「アクたんがさ、かなちゃんを呼び戻すんだよ。最高の話じゃん! だからさぁ……」
確かに最高だな。そうだな。誰も助けられなかった俺が。誰も救えなかった俺が。とうとう救うんだ。有馬を救うんだ。うん、確かに最高だ。本当に最高だな。
いつの間にか、アクアの感情は、MEMの言葉、その願いに捕らわれていた。
そう、アクアは、捕らわれ、そして、囚われていた。
優しい夢に。
それは、常に罪と無力感の意識に縛られ続けていたアクアにとっては、至上の夢のかたちだった。
無力だった自分が、自分の力で、有馬かなを、救う。
救うことができる。
そんな、夢。
そんな、ハッピーエンド。
「だからさぁ……お願い……かなちゃん……戻ってきて……」
唐突に。
唐突に、かつて、有馬かなに言われた筈の言葉を、声を、アクアは
アンタなら。
きっとアンタなら多くの人の命を救って。
多くの人の人生に希望の光を照らす、良いお医者さんになれるでしょうよ。
あれはいつのことだったか。
というか、あれは、実際あった出来事だったのか。
どこか幻を見ているような気すらしてくる。
有馬かなの救命を試みながら、有馬かなのことを想うという状況が、そうさせるのか。アクアにはそこもはっきりしない。
いや、とアクアは思う。
確かにあれは、有馬の言葉だった。
あの時。
アクアは自らの希望を言った。
彼女は、ただ、純粋に、そのことを肯定してくれた。
純粋に、そのことを、喜んでくれた。
それが、アクアの言葉だからこそ、ただ、それを、肯定してくれた。
有馬かなの声が聞こえる。
助けたがりのアンタにはピッタリ。
……なるほど。
だとすれば。
まず、お前は救わないとな。
それでこそ、医者になるのも一歩前進という訳だ。
なぁに、昔取った杵柄だ。
やるぞ。
やってやるさ。
頑張れば。
そうすれば、きっと。
有馬は。
アクアは見えている。
その情景が、見えている。
ひたすら救命行為を繰り返したら。
突如、けほっ、けほっ、と有馬かなは急にせき込んで。
目を開いて。
こちらを見て。
ゆっくりと微笑むのだ。
それが、アクアには、見えている。
アクアの、辿り着くべき奇跡が、見えている。
いいよな、最高だな。アクアは思う。
そしたら、俺は、驚かせるな、とか有馬を叱り飛ばして。
それでも有馬は優しく笑って。
そうだな。そうしよう。呼び戻そう。有馬を。有馬を呼び戻そう。呼び戻すんだ。呼び戻すんだ、俺が。頑張ろう。疲れてる暇はない。続けないと。頑張ろう。
頑張ろう。
頑張れば夢はかなうんだ。
願いは現実になるんだ。
頑張れば、きっと。
きっと、有馬は。
いつのまにか。
いつのまにか、アクアの心は、ただ、わけもわからぬ希望だけに満たされていた。
(「有馬かなが刺された日」⑨ に続く)
参考文献
MSDマニュアルプロフェッショナル版
www.msdmanuals.com/ja-jp/professional
外傷性心停止
INTENSIVIST
2巻3号
doi.org/10.11477/mf.3102100317
ねじ子のヒミツ手技 森皆 ねじ子 2nd Lesson 改訂版
book.impress.co.jp/books/1119600007
JRC蘇生ガイドライン2020
www.jrc-cpr.org/jrc-guideline-2020/
肝損傷の病態と外科的治療
日本臨床外科医学会雑誌
41巻 6号
doi.org/10.3919/ringe1963.41.6_895
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