有馬かなが刺された世界(そして前向きイマジナリー重曹ちゃん) 作:settu
(この章には強めの描写が含まれています)
この場所には、何か見覚えがあった。
ただっぴろいトタンの廃倉庫。吹き込む雨。雷鳴が時々響く。
ああ、そうか、ここはロケ地で。
確か……、俺は。
そうだ、それを頼まれて。
俺は屋内を進む。
だけど、おかしいな。誰も居ない。
雨音だけが聞こえる中を、俺は一歩一歩進む。
時々吹き込んでくる雨粒が額におあらぱらとに降りかかる。ひんやりと冷たい。
水たまりが目に留まる。水面が、雨粒によって引き起こされる波紋で微かに沸き立っている。
ああ、これ、演出に使えるな……いや、もう使ったんだっけ。
よくわからない。
稲光。
雷鳴と共に、視界の端でなにかが光る。
そちらに視線をやると、開け放しになっている窓枠に、数羽の烏が止まってるのが見えた。その瞳が小さく光っている。うちの一羽と目が合った。雨宿りでもしているのだろうか。
いや……
小動物は……、こちらでは制御できないから、小道具としては扱いが中々難しいな……、などと思っているうちに、ばさっ、と羽音を立てて、彼ら、もしくは彼女らは、一斉に雨中に飛び去ってしまった。
それにしても、不自然だ。
誰もいないし、そもそも機材が何もない。
時間でも、間違えたかな。
いや……間違えたのは、
よくわからないまま、進む。
すると、奥に、良く知っているひとが立っていた。
そうか、このドラマ、有馬かながヒロインだったんだっけ。ということは……、ここで
おおい。
俺は声を掛けようとした。
有馬が、こちらを見る。
彼女は、漆黒のドレスを身に纏っていた。ほっそりとした両肩に見せている素肌は、白磁のように白く。胸元には小さな、黒い宝石があしらわれており、繊細なテクスチャの生地が、小柄な、絞り込まれたウエストにぴったりとまとわりつき、その曲線を際立たせていた。そこから流れるように広がる、微かに透けたスカートが、黒い霧のように彼女の足元で揺れていた。
どこか執拗にその体にまとわりついているようにも見える黒い布地が、かえってその下に隠されたもののありようを想像させてしまう。
纏わりつく、闇。闇。闇。
全ての光を飲み込んでしまうような。
闇の眷属。そんな形容が思い浮かんだ。
あるいは、冥府の祝福を受けた女神。
魅力的ではある。
ただ、なんだか、有馬にはちょっと似つかわしくない。
いや、ドラマの役なんだから、
でも、どうにも、暗いな。
そう思いつつ、近づこうとしたが、動けない。
足が、いきなり、止まってしまった。
有馬は、じっと、こちらを見ている。表情は無い。生気の無いその瞳は、どこか禍々しいものを感じさせた。
ただ、静かに。
澄んだ、昏い双眸をただこちらに向けて。
そういう役なのか。
流石だ。
……にしても、なにか、こう、
生気がないというか、
既に命の失われた体が、その身の情念だけで動いているかのような。
昏く美しくも、何かこちらをざわつかせるようなその視線に射すくめられて、足が止まる。
そして、そのまま、どこか芝居がかった口調で、有馬は、ひとことひとこと、語り始める。
「私は……誰にも必要とされていなかった」
……俺には、必要だったよ。
「身の程をわきまえず、夢しか見ていなかった」
……そういう
「私の人生は、ろくな事はなかった」
……どうして、過去形なんだ? 妙なことを言う。有馬の人生は、これから長いんだぞ。
「最後まで、真っ暗闇だった」
………………………………闇。
はは、随分と暗いセリフだ。演技は流石だけど。引き込まれてしまった。
でも、
動悸が止まらない。
顔から汗が噴き出すのを感じる。
何か、何か大切なことを、忘れている。
そして、有馬は続けた。
「光は……無かった」
そのセリフと共に。
全てが、闇に沈んだ。
静寂。
ただ、闇の中で。ひとり立つ、有馬の姿だけがあった。
そうか、光が無いから、闇になるのか。
おかしいな。確か
何で、有馬が、闇をやっているんだろう。
有馬は、表情の欠落した、生気のない顔でこちらに近づいてくる。
俺の足は動かない。
いや、動かせない。
有馬はぽつりぽつりと語る。
「とても、痛かった」
そうか、そうだよな。
「とても、辛かった」
そうだよな。
「私は、まだ、生きたかった」
それは、そうだろう。
当たり前だ。
当たり前すぎる。
「でも、もう終わってしまったから」
一歩。
「
一歩。
「私は……
一歩。
「だけど……本当は。一人で沈むのは、寂しいこと」
一歩ずつ、有馬はこちらに近づく。
「このままでは……沈むことすら、できない」
苦悶に満ちた、声。
気が付くと、俺の右手にはナイフが握られていた。
ああ、これ、確か撮影の時の獲物だったな。結構本格的なナイフに見える。
「だから、お願い」
有馬は、哀願する。
「ちゃんと殺して」
意味が、理解できなかった。
「殺して」
有馬は、もう一度繰り返す。
俺は言葉にならない悲鳴を上げた。
金縛りのようになっていた体を無理やり動かし、よろけるように、後ろに倒れこむ。
腰をいささか強く打った。湿った床の気持ち悪い感触。それに構わず、地面を蹴って、後ずさろうとする。
ざり、ざりと無駄に床をひっかくばかりで、うまく動かない。
何を言っているんだ。俺が? 有馬を?
何を言っているんだ。
「殺して」
い、嫌だ。
「『作品』は、完成させなければなりません」
突如、有馬の口調が変わる。どこか芝居がかった声で滔々と歌い上げる。
ドラマというよりは、歌劇のような、立ち居振る舞いで。
「『作品』は、完成しなければ意味がありません。
私は、いつでも、その為に全力を尽くしましょう。
それが世の人に三文芝居と嘲笑されるようなものであったとしても。
あるいは、それが、どのような悪しきものであったとしても。
悪しきものなら、悪しきものなりの、終わりが必要なのです。
なればこそ、完成の為に、私
有馬の声が、頭に響く。
「私は……、この身を、この命を、あなたに捧げましょう」
良く整った旋律のようなそのセリフに突き動かされるように、俺はふらりと立ち上がる。
右手には、しっかりと凶器を握りしめて。
……いや、
俺は、誰に向かってかもよく分からない抗議をする。
確か、
というか、有馬のセリフ自体が真逆だ。
有馬は肯定する筈だ。それでも、
そうだ、これは、
つまり、待っているのは、
有馬は、まるでこちらを招くかのように、すべてを受け入れるかのように、両手を大きく広げる。
無表情だった顔に、僅かに笑顔が浮かんでいる。
嫌だ。やめろ。
ただ、俺の意志とは無関係に。
俺は、ナイフの刃を
本来ある筈の阻止は、
やめろ。
その身に降りかかるその総てを、受け入れようとするかの如く、迎え入れようとするかの如く、そこに立つ有馬に向かって。
やめろ。
迷い無く、その禍々しい切っ先を突き出し。
やめろ。
ほんの一瞬のことなのに。鈍く輝く刃が、彼女の体に、とてもゆっくり、ゆっくり向かって行くように見えて。
やめてくれ。
そのまま、その切っ先が、届いて。
まるで、遠い日の、この上なく忌まわしい、あの光景を再現するかのように。
ぐず。
何か、そんなくぐもった音がした。
有馬のの体を貫く感触。
肉の感触。
柔らかくも、複雑な構造をしているからこその、鈍い抵抗があって、でも、そのまま、構いもせず、力を込めて、凶器を突きこむ、破壊の感触。
どこまでも暴力的で、どこまでも背徳的な感触。
この、どこまでも輝いているべき存在を。その女性を。その価値を一顧だにせず、失わしめてしまう感触。
人体を扱った経験は色々とあったが、こんなに無理やり、力任せというのは無かったな。患者の為にも、侵襲はあくまで最低限に。現実から逃避するかのように、場違いな感想が頭に浮かぶ。
どこか麻痺した感覚で、さらに思う。ああ。せっかくのドレスに穴が開いてしまっている。良い仕立てだろうに。大変だ。
ただ、視線を上げると。
有馬が、微動だにせず、微笑んでこちらを見ていて。
もう一度、視線を、落とすと。俺の手で、確かに刃が、有馬の小柄な体に突き立てられていて。
そこから溢れる血が。俺の手にまで伝ってくる血が。その生暖かい感触が。否応もなく、俺の意識を引き戻す。
汗と。それと、それ以外の何かのにおい。
なん……で。
俺は、震えながら、抗議する。
誰に抗議しているのか。俺自身にか。有馬にか。それとも、それ以外の何かにか。
「嗚呼」
有馬は、
「今、あなたは私の内に。あなたは私を
有馬は嬉しそうに微笑む。
「嗚呼、あなたを感じる。あなたの愛を感じる。愛があるからこそ、あなたは、私を殺す」
俺はただ、有馬の言葉を。ただ、聞いて。
有馬は、両手を、優しく俺の体に回す。抱きしめるかのように。
有馬の口調が戻る。
「これで、『作品』は完成。ありがとう、アクア。良い作品を
その声は本心から嬉しそうで。
「感じるよ……アクアを……」
その声は、とても淫猥なものに聞こえて。
「ずっと一緒だね……」
そのねっとりとした声に。あまりにも感じるべきでない何かの感情を感じてしまい。己の穢らわしさに耐えきれなくなったその時に、体に自由が戻る。
俺は声にならない叫びをあげながら、情けなくよろめき、しりもちをつく。
俺の体が、有馬から離れると共に、俺が握りしめていたナイフも、有馬の体から引き抜かれて。
引き抜かれたその刃に釣られるように、ぱしゃっ、と、傷口から、勢いよく血が振り向かれて。
その血が、俺の額に、頬に、唇に、降りかかって。
何かの味が、口中に染みて。
取り落としたナイフが、からん、と転がる。その刃は、有馬の血で塗れていて。
何をやっているんだか。馬鹿だな、
ああ、やっぱり馬鹿なんだな。
俺の中の意識のどこかが、俺自身にそんな侮蔑を投げかけて。
有馬に目をやる。
有馬の腹部に。禍々しい傷ができていて。
そこから、鮮血が、とめどなく、溢れて。
有馬は、それを気にした風もなく。
むしろその傷を、血にも構わず両手で愛おしそうに撫でて。
その撫で方は、まるで、新たな命の誕生を告げられた婦人が、己が下腹を撫でるかの如き手つきで。
あるいは、為すことができなかったわが子の代わりとして、それが得られたことを悦ぶかのようでもあり。
右手を、血液で真っ赤に滑らせながら、有馬は撫で続ける。
ぬらぬらと、ぬらぬらと、血を、塗り広げる。
それが、俺の手によって、俺によってなされたことを、その事実を、かみしめているようでもあり。
朗らかに言う。
「ああ、殺されちゃった」
そうか。
これは、
結局のところ。余分なものを剃刀でそり落としていけば。
そこに残る
そこに残る事実は。
俺が、有馬を殺したということ。
そうか。すぐ、真実から逃げようとする俺には、これが必要だった。
都合の悪い事実から逃げようとする俺には、これが、必要だった。
わかっていても、気づかないふりをするような卑怯な俺にはこれが必要だった。
だから、
俺は……、卑怯だから。だから、
目の前に、俺が殺してしまった人が居て。
その人は、むしろ嬉し気にその傷を眺めていて。
「嗚呼。あなたは私を殺した。これであなたの心は、私のもの。あなたの罪こそ、私のよすが。己を責めれば、永遠の鎖となりましょう」
そこまで歌い上げて、有馬はこちらを見た。
少し皮肉を込めたような声。
でも、少しだけ、こちらを責めるようにも聞こえる声。
「あのさ…、私、こうならなきゃいけなかったのかな。アンタの為には、こうならなきゃいけなかったのかな。こうでもしないと、繋がれなかったのかな」
そんな筈はない。
繋がりの為に、有馬をこのようにしなければならないなんて、そんなことは。
「でもまぁ、いっかな」
有馬は明るく言う。
「アクアは私を殺した。
これでアクアは私から離れられない。
アクアの心は、私のもの」
確認するように続ける。
「アクアは私を殺した。
これでアクアは、私から目を離せない。
アクアの視線は私のもの」
数え上げるように、言葉を繋ぐ。
そして、こちらを見る。
「アンタは私を殺した」
いつのまにか、有馬の声は喜びに満ちている。
「これで私は…アンタの永遠の『推しの子』」
ここでは、あまりにも場違いな、その言い方。
何を馬鹿な。
こんなことが無くたって、俺にとって、お前は。
「ねぇ、アクア……。これが、アンタの罪というのなら。アンタは、私に、償ってくれるのかな」
有馬が、こちらに手を伸ばす。自身の血で塗れた、右手を。
「……じゃあさ。アクアも……一緒に、沈んでくれる?」
聞くまでもないこと。
他に、どう、償う、方法が。
むしろ……それは、こちらから、願うことだ。
俺が……有馬を、殺したんだから。
「ずっと……一緒に、居てくれる?」
それが、俺に……、許されることなら。
俺は、立ち上がり。
また、自らも、有馬の血に染まったその手を。
ゆっくりと、差し出し。
そうやって、有馬の問いに応えようとしたとき。
有馬の手を取ろうとしたとき。
真後ろから、声が響いた。
『あーくん』
どこか熱に浮かされたようになっていた自分は、混乱する。
なぜ、後ろから。
『あーくん』
前からは、有馬が近づく。でも、後ろからの声は大きくなり、俺は混乱する。
『あーくん!』
もう一度、呼ばれた。同時に、俺は良く分からない力でがくんと後ろに引かれる。
首根っこでも掴まれたかのように、そのまま無理やり引きずり倒された。
有馬の姿が、一気に遠ざかる。
どんどん遠ざかる。
有馬は、ただ遠ざかるこちらを見つめている。
そのうち、有馬の姿が見えなくなる。
ただ、響く声だけが続く。
『お願い、あーくん』
『受け入れないで』
『受け入れれば、終わってしまう』
『認めないで』
『アンタは、罪なんか、犯していない。私を殺していない。それは、アンタの、罪じゃない』
『……ああもう。アンタはいつもそうやって。意味がないのよ。存在しない私を作りだして、存在しない罪を作りだして。それで、自分を責めて。どんなマッチポンプよ!?』
『アンタ、何もやってないじゃない。それを、死なせただの、殺しただの。拡大解釈甚だしいわ……』
『なーに勝手に悲劇の主人公やってんじゃないわよ……全く……』
『ああ、もう……本当は色々大事な話があるのに……ああ、なんかもう……』
『ホントに、まったく、何なのよこの地獄は……』
『しかもその地獄の中心に居るのが私ときたか……、冗談にもならないわよ……』
地獄、という言葉を心底うんざりそうに彼女は繰り返す。
『とにかく、よ……』
『だから……聞かないで』
『その声は聞かないで』
『私は……そんなこと、望まない』
『分かっているでしょう? 私よ? 私が、望むとでも? アンタが
『迷惑なのよ。自分の責任でもないことで、勝手に負い目に思われるのは』
『それは……私じゃない』
『存在しない罪に、理由を与えないで』
『どうか、覚えていて』
『どんなに……狡猾で。どんなに……酷い、卑怯な、誘いがあっても』
『どんな、醜い、罠があったとしても』
『それがどんなに、辛いことであっても』
『どうか……、アクアは、最後までアクアで居て』
『アクアが、アクアで居る限り、私は、私で居られる』
『勇気を』
『
『拒む、勇気を』
『お願い、アクア』
『最後まで……、私を、私のままで居させて』
『もしも……ほんのわずかでも。私が、アンタの人生に意味のある存在だったというのなら』
『そんな、馬鹿な、つまらない、凡人の女が居たとして、少しでも、覚えていてくれるのなら』
『……だから、さ。私のことを、さ。ほんの僅かでも、想ってくれるのなら』
『せめて、それは。それだけは』
『お願い……』
どこまでも続く、有馬の哀求。
だけど、その必死な声は、何故か、どこまでも、温かく感じられて。
その声に意識が満たされるのは、なんだか、とても心地よくて。
そうしているうちに、意識が、遠のいて。
『アンタは、大丈夫』
『アンタが……そうしてくれるなら。どんなに酷い、哀しいことになっても』
『まぁ……あれよね。とりあえず、こう言っておこうかしらね』
最後は、少しだけ、楽し気に。
『それでも……
* * *
ある日の夢。もしくは毎日見る夢。あるいは遠き日の夢。
存在している夢。もしくはそもそも存在していない夢。
あるいは、夢ですらない、ただの幻。
分からない。
ただ、それは、ただの夢。
俺が、俺を自ら責める為の夢。
俺が、俺の罪を
自分を責めることしか能の無い俺が、ただ、それを繰り返す為の夢。
だけど、その夢から。そこから。
彼女は、俺を、救い出してくれて。
本来は、なによりも俺の罪を糾弾する権利を持つ彼女が、本来真っ先に俺を裁くべき彼女が、俺を救い出してくれて。
罪に押しつぶされそうになる俺が、この世界で、かろうじて踏みとどまれるよう。
自責で壊れそうになっている俺が、そうならずに、俺のままで居られるよう。
そう、彼女は、すべきこととして、確かに、
そして、彼女はこの夢を地獄と呼んだ。
これを、地獄とするならば。
それは、かつて、俺が、
彼女は……俺以外には決して認識も、理解も出来ない筈の
そして、俺は、また、呼び起こされる。
あの、優しい声に。
こんな俺が、まだここに居て良いと思わせてくれる、あの愛おしい声に。
『おはよう、あーくん』
評価や感想等、色々と反応有難う御座います。大変励みになっております。また、続きを投稿していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。
万葉集引用元:
『講談社 万葉集 全訳注原文付(三) 中西進』