有馬かなが刺された世界(そして前向きイマジナリー重曹ちゃん)   作:settu

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はじまりの章 有馬かなが刺された日
第0話 「有馬かなが刺された日」①


 

 

「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」

───『薤露行』夏目漱石

 

 

 

 

 

「有馬!」

 アクアは、ただ、有馬かなの名前を呼んだ。

「おい! 有馬、おい!」

 アクアにとっては、それはいまだに信じられない何かだった。

 自分は床に座り、有馬かなの背中を支えており。

 有馬かなは力なく体を自分に預け。

 その顔には、苦悶の表情を浮かべ。

 そして、苦痛を堪える彼女の体には、ナイフが深く突き刺さっている。

 シンプルにまとめれば、それが二人が直面している状況だった。

 屋外に設けられた仮設ステージ、そのステージと控室の間をつなぐ回廊。遠くからは雨の音。

 二人の周囲の床には、倒された小箱からこぼれたケーブル類、引き倒されたマイクスタンド等が散乱している。逃走の痕跡。

 アクアはひたすら自身の焦りを無理やり抑え込み、有馬かなの状況を確認する。

 有馬かながリハーサルの為に着込んでいた衣装は、かつて新生B小町がJIFでデビューした、まさにその時のデザインのものだった。明日の記念すべきライブに備えて、敢えてその衣装が選択されていたのだった。

 そして。アクアは彼女のその場所に、目をやった。彼女の衣装、その深紅のトップス。明日の為に、多くの人の想いと共に準備されていたその装いに、深々と、禍々しいその刃が差し込まれていた。傷口の周囲の衣装はほつれ、その下から僅かに、彼女の皮膚、そして赤い何かを覗かせていた。

 瞬時、アクアの精神は、暗黒に飲み込まれた。ナイフの刃が。彼女の体に残忍に差し込まれたその刃が。血が。アクアを、その日に、引きずり込む。

 

 暗転する。

 

『多分これ、無理だぁ』

 

 その声。

 アクアの脳裏には、かの、『母』の姿。幼児の体の制限の中、己による救命の試みも叶わず、去っていった、アイの姿。

 

『大丈夫? アクアは怪我とかしてない?』

 

ダメだ。それは、ダメだ。

 

 アクアの前には。

 アイが。

 目から涙を流し。口からは、血を流し。うつろな瞳で、こちらを見つめる、アイの姿が。

 

 

 くそっ。

 

 

 アクアは、必死に、その思考を脳内から振り払う。

 

 その姿に、謝罪しながら。

 ごめん、アイ。今は、今だけは、囚われる訳には、いかない。

 

 アクアは意識を取り戻す。

 自らの、心臓の鼓動が激しい。

 とにかく、落ち着かなければ。

 トラウマで動揺している時間などない。

 そうだ、今は、有馬を。

 このひとを。

 

 アクアは心を奮い立たせ、視線を走らせた。状況を確認する。

 腹部刺傷。凶器は体内深部留置。刺された場所は、腰に巻かれた黒いスカートのすぐ上。身体的な、刺入部位として表現するなら右腹部、肋骨の下辺り。刃は地面と平行、刺入角度はやや上向き。ナイフの刃渡りははっきりしないが、グリップは大きく、かなり殺傷力の高さが予想される。刃の刺し込まれた深さは、8cm……10cm……いや、もっとか。……分からない。傷口の周囲のほつれた赤い布地が、赤黒く変色している。そこが血液が染み出た部分、ということになる。ただ、その範囲は僅か。つまり、出血は……それほどではない。むしろ……この状況にしては、実に少ない。少しばかりの安堵。

「おい! 有馬、しっかりしろ、おい!」

 観察を続けながら、アクアはもう一度呼ぶ。

「うっさい。聞こえてるわよ……」

 有馬かなが、気丈に応じた。意識清明。問題なし。

「首、触れるぞ」

 アクアは、自由になっている右手でとりあえず総頚動脈に触れ、脈拍を確認する。僅かに頻脈。

「何よ……、手つきがプロっぽいじゃない…」

 楽し気ながらも、少しばかり、息苦しさを感じる声。

「苦しいか」

「……まぁ、さ。この服、こんな感じにピッチリだから、結構キツいのよ…首とかもさ…」

 有馬かなは荒く息をしている。

 その呼吸は少し浅く、早い。ひとまず、安定した呼吸を確保した方が良い。

「服、開くぞ」

 アクアは、左腕で彼女の体を支えたまま、右手でその衣装の首周りを触って確認する。

 首元に縫いつけられていた白い布を引く。飾りつけでしかなかったそれはあっさりと引きはがされる。そして首筋の装飾品の辺りの金具を確認し、指先で留め具を外してから、一気に開いた。びり、と音がして衣装が避け、飾りの宝石が飛び、からんと床に転がる。本来はファンの皆に感謝も込めて披露する筈だったその衣装は、あっけなく破壊された。勿論、別の場所は、既に凶器により傷つけられていたものではあったのだが。しなやかな彼女のからだごと貫くという無粋な手段で。

 有馬かなは、小さく息をついた。少しだけ楽になったようだった。

「うわ、大胆」

 そして、どこか楽しそうにそう言った。

「うるせーよ。真剣なんだ」

 まだ苦しそうだ。もう少し楽にさせた方が良い。

 アクアはさらに衣装を引いた。びり、という衣装はインナーごと裂け、彼女の胸の谷間がいくらか露になる。結果、その谷間を覗くようなかたちになる。その肌は、汗ばみながらも、少し色白かった。

 少しだけ、彼女はうつむく。

 僅かな気まずさ。

「悪い」

「……あら、私を助けようとしてやってくれてるのでしょう?」

 呼吸が楽になったせいか、有馬かなには多少の余裕が戻ってきたようだった。

「何なら、どさくさ紛れにもっと派手にやってくれても良いのよ。理由はいくらでもつくし」

「何をだよ」

「何をでしょうね?」

 それから、有馬かなは、どこか楽し気に言った。

「……でも、色々皮肉」

「だから何がだよ」

「何がでしょうね」

 そう言って苦笑する。

「……なんていうの? 殿方にこんな風に服をはだけられるの、初めてなのよ。そういうドラマとかもやったことは無かったし」

「……そうか」

「でもまぁ、別にさ。アンタにこうされるのは……なんていうの? まぁ、別に、ね?」

「別に……なんだよ」

「なんでしょうね。でも、やっぱり皮肉」

 有馬かなは、皮肉、という言葉をひたすら繰り返す。

 アクアは、その言葉の裏にあった感情を、少しだけ察する。彼女の想い。彼女は言っているのだ。これが、もし、このような状況で、このようなかたちのことでなければ、と。

 もし、ただ、彼女自身を求められた故の何かであったのなら、と。

「やっぱり、皮肉よね」

 少しだけ寂しそうに、彼女は続ける。

「あれよ。まぁ、いいわ、これはこれで」

 沸き起こる様々な感情。だが、今はそんな感慨に耽っている暇もない。

「痛みは」

「まぁ……そりゃ……刺されてるしね……。痛いは痛いわ……」

「どこが、どんな風に痛いとか、あるか」

 有馬かなはしばらく黙りこくる。

「……分かんないわよ。ただ、やたら痛いわ。刺すように痛い。……いや、実際刺されてるけど」

「余裕あるじゃねーか」

 もう一度、刺入部位を確認する。ナイフ自体は幸い、動くこともなく、安定している。出血も相変わらず少ない。

「姿勢、このままで大丈夫か?」

「……このままがいい」

「そうか」

 アクアはうなずいた。今は成り行きで、床に座った自分の体と左腕で、有馬かなを支えるような姿勢になっている。理想を言えば、床に寝かせた方が良いのかも知れないが、体を動かせば、有馬かなの体内深部に留置してしまっているナイフの刃がどうなるか分からない。今は凶器が蓋になって出血を止めている部位もあるかもしれない。姿勢を変えたことで、そこが僅かに動くことで、言わば蓋が外れ、一気に出血が拡大する可能性だってある。本人にとって耐えられない状況でないのなら、極力動かしたくはなかった。

 最も、有馬かなの返答は、むしろ、アクアに寄りかかったままでいたいという、要は繋がりと温もりの継続を求める返答であったのだが。

「しばらく辛抱してろ」

「そ……」

 有馬かなは、少しだけ疲れたように小さくため息をつくと、目をつむった。

 アクアに寄りかかってくる。

 彼女の背中の感触。その重さ、そして、その温もりを感じる。かすかな、汗と、フローラルな香水の香りが混ざった匂い。

 そのまま、有馬かなは再び目を開くと、アクアの方を見つめた。

「あーくん」

 有馬かなが、そう小さく言った。

 彼女が、ある日のやり取りを機会として、使い始めた自分の綽名。多分それには、有馬かなとしての、彼女なりの、感情的な符丁の意味がきっとあるもので。

 つまりそれは、彼女にとって、何かの会話を始める、という合図。

「……どうした」

「なんていうかさ。私とアンタの付き合いも、まぁまぁ長いじゃない。最初の映画。『今日あま』。……そして、それから、色々」

「ああ」

「だけど、あれよね。こんな風にアンタに体を預けたのは、多分、これが初めて」

「……そうなるか」

「そうなるわ」

 そう言って、有馬かなはくすりと笑う。

「……って言葉だけだと、なんだかヘンな意味にきこえちゃうけどさ。ふふ」

「違いない」

 アクアは、有馬かなを見下ろしながら、応じた。自然に彼女の胸元が目に入り、一瞬そこに目が囚われ、急いでそらす。

「まぁ、普通は、そんなものだろう」

「そうね、普通は、そんなものよね」

 そこでしばらく有馬かなは、言葉を切った。

「私にとっては……まぁ、普通よりは、もう少し、その、ね」

「……ああ」

 アクアは、俺もだ、と言いかけ、逡巡する。それは、言っていい言葉なのか。

 このようなことになってしまった彼女に、自分が言う資格のある言葉なのか。

「……何黙ってるのよ」

 その有馬かなの声は、叱責と言うよりも、どこか親愛と、僅かばかりの寂しさを感じさせるものだった。

「……悪い」

「いいのよ」

 有馬かなが、もう一度、深く体を寄せてくる。

 小柄なその体。

 こいつは本当に小さいな。

 そんな妙な感慨を抱く。

 愛おしい。

 彼女を撫でてやりたい。そんな気持ちになる。多分、普段の自分だったら取らないであろう行動。ただ、この状況が。その特殊性が。そして、何とか、彼女を元気づけたい、それ以上に、なによりも、自分自身が何かの安心を得たい、そんな気持ちが、その行動を促す。

 アクアは、空いている右手を、思わず、彼女の頭に伸ばす。

「何よ」

 有馬かなが、その手を見上げながら、どこか楽しそうに言う。

 そして、アクアは、震える手で、彼女の頭に触れた。

「……どうしたの」

 有馬かなは、アクアの行動をただ見つめる。

 普段の有馬なら、もっと違った反応するだろうにな。そんなことをアクアは思う。『いきなり何すんのよ!?』とか、慌てた、楽しい反応をしてくれるんだろうな。それで、俺は『ダメなのか?』とかまたからかってみせたりする訳だ。そんな思考を弄ぶ。

 だが、今の有馬かなは、勿論、そんな素振りを見せることなく。

 アクアの手を、そのまま受け入れていた。

 アクアは、その愛おしさの気持ちのまま、有馬かなを見つめながら、彼女の頭を軽く撫で、その髪の毛をくしぐ。

 気持ちが、あふれた。

 一瞬、何故か、アクア自身が泣きだしそうになった。

 何をやってるんだ俺は。

 俺が、何よりも冷静にならないといけないのに。

 そんな感情と葛藤がない交ぜになった気持ちのまま。アクアはさらに手を彼女の頬に滑らせた。優しく頬を撫でる。指先に、彼女の体温を感じる。

 それでも、相変わらず、有馬かなは、ただ、アクアにされるがままになっている。

 むしろ、どこか、嬉しそうに。

「……ふふ」

 そんな楽し気な声まで漏らして。

 その素直さは、かえって不安を感じさせるようなもので。とりあえず、気持ちを無理矢理落ち着けながら、アクアは会話を繋ぐ。

「別に。なんか……撫でやすいと思った」

「何よそれ」

「いや……そうとしかいえない」

「そ」

 有馬かなは、小さく、ため息をついた。

「私はさ。性格悪いから。だから、みんな離れてく。私は本気で、ずっと、そう思ってたのよ。お金にならない私なんて、嫌味で性格の悪い女でしかないし」

「……それは違うぞ。前にも言ったが」

「そうね。前にも聞いた。……だから、アンタだって私の事を嫌っていて。だから、拒絶するんだ、って思ってた」

「……それも違うぞ。前にも言ったが」

「そうね。それも、前にも聞いた。ありがとう」

 有馬かなは、少しだけ楽しそうに笑う。アクアは思い出す。あの時の会話。伝えきれなかったこと。説明しきれなかったこと。

 多分、それは。

 そこにあったアクアの気持ちを、全てを正直に、明らかにしてしまえば、二人の関係が色々変わってしまいかねないもので。

 アクアが最優先事項とすべきとしていた、『復讐』にもまた、影響が出てしまいかねないもので。

 だからこそ、そこから先は明らかにされることも無かったもので。

 ……だが、今になって思えば。

 有馬かなが、このような状況になってしまうことに比べれば。

 そこで、すべてを明らかにした方が、どんなに、良かったことか。

 すべてを有馬かなに伝えてしまって。それで、その先の出来事をただ受け入れた方が、どれほど良かったことか。

 勿論、そんな夢想は、今、この場では何の価値も持たないもので。

 そして、有馬かなは言った。

「私から、離れずにいてくれて、ありがとう」

 アクアは、戸惑った。

 それは、礼を言われることなのか。

 結局は、ただ、有馬を苦しめていただけだというのに。

 その結果が、今日のこのことにも、繋がってしまったというのに。

 ただ、そのことを言えば。

 きっと有馬かなは怒るのだろう。

 アクアは、やっとのことで、少しだけ冗談めいて声を出す。

「一部除外時期があるかもしれないが」

「ノーカンよ、ノーカン。今、こうしてくれているだけで、ノーカン」

「そうか」

「そうよ」

 そして、有馬かなは、優しく言った。

「また、ちゃんと、話しましょ」

「……ああ」

 その通りだった。

 また、ちゃんと、話せばよい。

 その時こそ、すべてを、ちゃんと話せばよい。

 話せる時に話すのは、とても大事なこと。

 それは良く分かった。こうなってみれば、本当に良く分かった。

 だったら、そうしよう。

 必ず、そうしよう。

 なにより、この先はあるのだから。

 

「先輩……」

 

 その時、震える声が聞こえた。そちらを見る。

 ルビーが、そこに立っていた。

 

 

 

(第0話 「有馬かなが刺された日」②に続く)




 ここまでお読み頂き有難う御座いました
 本作のいわば始まり、「有馬かなが刺された日」のシリーズの投稿を開始しました。

 久々の更新となり大変恐縮です。
 近日中に次話を投稿したいと思います。

※1話より前に置いていましたが、分かりづらいので最新話の位置に修正しました。
このシリーズを投稿し終えた段階で、位置の変更を検討したいと思います。
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