パン屋でバイトをする私のもっぱらの仕事は接客や品出しなど、客から見える場所での仕事だった。
私自身は至って真面目にキッチン志望なのだが、あまりそのポジションを任されることはなかった。その代わり空き時間にはパン作りの練習を店長の好意でさせてもらっている。
だけど今日は他のバイト達のシフトの調整がつかなかったみたいで、店長と二人っきりで店を回すことになってしまった。
パン作りの練習はいつも店長に傍でついてもらっているから、二人しかいない今日そんなことをすればレジに誰もいなくなってしまう。
だから今日は練習はなしで店番をひたすらすることになってしまった。
唯一助かったのは、今日は閑古鳥が鳴くほど店が暇であることだった。
接客する機会もなく、私はひたすらレジでお客を待ったり、暇を持て余した時は店内の掃除をしたりしていた。
店長は裏で事務とか他の仕事でこもりっきりだった。
そんな暇な日だったからなんだろう。普段は店の中のことで手一杯の私の視界に、向かいの店の様子が見えてしまったのは。
「あ、フータローだ」
店の外、道路を挟んで反対側にはケーキ屋がある。お店の前に大きな看板があって『REVIVAL』という名前が書かれている。
私が勤めるパン屋『こむぎや』よりも前からある店で、その店ではフータローと二乃が働いている。
確か今日は二乃もバイトだと言ってたはず。つまり今も二人で働いている真っ最中なんだろう。
「いいなあ」
うっかり口から漏れ出た言葉だった。
だから、呟いた後に自分は何を言っているのだろうかと頭を振った。
元々自分は風太郎が目的じゃないだろう自分を叱ったのだ。
私の目的は人に美味しいと言ってもらえる料理を作れるようになること。そのために料理ができるこの店をバイト先に選んだはずだ。
だけど今日はそれが全くできていない。ただ暇を持て余してばかりだから、そんなことを考えてしまうのだろう。
だから、フータローを目で追ってしまうのはきっと仕方ないのだろう。
「フータロー、お客さんに頭を下げてる。何かミスしちゃったのかな」
「あ、今度は二乃だ。調理着のままフロアに出てきてる。エプロン汚れすぎ。取ってから出てきたらいいのに……忙しいのかな」
ガラス二枚越しの遠目では店内はあまりよく見えない。
初夏の日差しが強いこの時期、日光も真上から照らしているせいで店内が影になってしまっているのも見えづらい理由の一つだろう。
だからお客さんの入りがどの程度とか、店内の全貌が見えないのが退屈な今の自分には歯がゆかった。
それからしばらくは向こうの店を眺め続けていると、通りから歩いてくる姿の一つに見覚えのある影があった。
「あれ、五月だよね。マスクにサングラスって……何あの怪しい恰好」
「あ、注文取りに来た二乃に全部取られてる。何か説教してるみたいに二乃話してるし、五月怒られてるのかな」
まあ、自分の家族があんな怪しい恰好でお見せに来たら嫌だよね、と私も二乃に同意した。
しばらくすると、五月の席にフータローがパンケーキを運んできた。四段重ねの結構大きいやつだ。
「あれは、私じゃ食べきれない……見てるだけで胸やけしそう……」
パンケーキの皿には他にもフルーツやクリームが山のように盛られており、下手したら一人用ではなく複数人でシェアすることを前提にしたパーティー用なんじゃないかとすら思うボリュームだった。
だけど五月はその皿に対し、当然のように一人でナイフを入れた。
一口サイズに切り分け、パクリ。頬っぺたに手を当てると幸せそうな顔をして咀嚼をしていた。
「そういえば、二年の最後のテストの後でみんなで食べたケーキ、美味しかったな」
目の前にある店だというのに、私はあまりお店に入ったことがない。
別に避けているつもりもないけど、それほどケーキが好きというわけでもないからだ。そもそも甘いもの自体苦手だし。
いつでも行けるのだから気が向いたら行こうと思っているうちに大分時間が経ってしまった。
だから五月が慣れた様子でお店に馴染んでいる様子(ただパンケーキを食べているだけだけど)を見ていたら少しだけ寂しい気がした。
そう考えている間にも五月は食べ進めていたが、おもむろにスマホを取り出すとケーキを撮りだした。
撮影した後もスマホで何か操作をしていて、眺めていると自分のスマホが鳴った。
「もしかして」
三玖はスマホを取り出すと、通知をタップした。
恐らくそうだろうと思いながら表示させると予想通り五月から姉妹のグループ宛への連絡だった。
「やっぱり今日忙しいんだ。というか、二人はすぐ近くにいるんだから直接話せばいいのに」
そう呟きながら、忙しいのに雑談なんかしてたらお店の人に怒られてしまうかと気が付いた。
二人のやり取りがしばらく続いていると、新たに一花からも反応が来た。
「一花達も来るんだ……」
少しだけ嫌な気持ちが胸の中に生まれた。
理由はすぐにわかった。自分以外の姉妹と、フータローまでいるのに自分だけそこに混ざれないからだ。
別にわざと仲間外れにされたわけでもないのに、そんな子供みたいな理由で不機嫌になりそうになった自分に更に嫌な気持ちが渦巻いた。
「……」
私はそこでスマホの画面を切ると、ポケットにしまった。
これ以上はもやもやしちゃうだろうから、仕事中は見るのをやめようと思ったのだった。
それからはなるべくケーキ屋の方に目が向かないようにしながら、掃除をしたり、全然お客さんが来ず売れなくて固くなってしまったパンを廃棄したりした。
途中、それでも通りから歩いてきて、そのままケーキ屋へと入っていく一花と四葉にだけは気が付いてしまった。
それから更に仕事に集中し、日が傾いた時だった。
「三玖ちゃん今日はダメだ。お店閉めよう」
「お客さん全然来ないですもんね」
「捨てるためにパン焼いてるような気がしてきて滅入っちゃってさ。三玖ちゃんも暇でしょ? だから今日はおしまい!」
「わかりました」
うちの店長は結構若い女性だ。
真面目な人なら営業時間の間はしっかりやる、みたいなことも言うのだろうがこういう判断をできるあたり若くてもやり手なのかもしれない。
だけど実際暇をしていたのは事実だし、考えないようにしていたけどやっぱりケーキ屋の中での出来事が気になってしまう。
だから断る権限がそもそもあるわけじゃないけど、お言葉に甘えてありがたく早上がりさせてもらうことにした。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。三玖ちゃんまたお願いね」
「はい」
制服から私服へと着替えると、お店の裏口から外へと出た。
足は自然とケーキ屋の方へと向いていた。しかも駆け足だった。
裏口から表通りに回り、ケーキ屋の正面扉を開けて中に入る。
入店を知らせるベルの音が店内に響いた。
ベルの音に呼ばれて顔を出してきたのはフータローだった。
「いらっしゃいま……三玖か。お前まで来たのか」
「うん、来た。みんなは?」
私がそう問いかけると、フータローが言いづらそうにして目を逸らした。
その様子に、お店に入る前から考えてたことを確認するように私は店内へと視線を走らせた。
姉妹達の姿はどこにもなかった。
私が自分の目で確かめたからだろうか、フータローは言いづらそうにしながらも話してくれた
「みんな帰っちまった。わりい」
「なんで? フータローが謝ることじゃないよ」
「そうだが……」
「二乃は?」
「あいつも今日は夕方までのシフトだったから、もう上がっちまってるよ」
「そうなんだ……」
何となくそんな気はしていた。
四人が帰る姿を見たわけじゃないが、一花と四葉がお店に入ってからすでに結構な時間が経っている。
だからこの結果は意外でも何でもなかった。
だけどやっぱり、嫌な気持ちが残ってしまう。
きっとこんなことをしたって、この気持ちは収まらないと分かっているけど、私は口にしてしまう。
「ケーキ、一個持ち帰りで買っていってもいい?」
「……悪い」
「え?」
「お前が好きなやつな、売り切れなんだ」
「そう、なんだ……」
「だ、だけどな──」
「大丈夫だよ風太郎。別にこの程度で落ち込んだりしないよ」
「……」
「ケーキを買って帰ろうとしたのも、久しぶりにたべたくなっただけだから」
それだけだから、と最後に言って私は踵を返した。
扉を開け、外へと出る時に一度だけフータローへと振り返る。
「またね、フータロー」
「お、おう」
そうしてケーキ屋の外へ出た後、家の方へと歩き始めた。
今日は運がなかった日なんだと思う。したいことが何にもできなかったけど、でも一つだけ良い事もあった。
フータローが私の好きなケーキを覚えていてくれた。
それだけで機嫌が良くなるほどお手軽な女でもないけど、今日はこの嬉しさだけで我慢するしかないと思うと、自分を納得するようにため息をついた。
「ただいま」
「おかえり三玖ー!」
「四葉?」
家の扉を開けると、玄関では四葉が待ち構えていた。
わざわざ出迎えなんてどうしたんだろうと思いながら、靴を脱いでリビングへと入ると待っているのは四葉だけではなかった。
「私たちもいるよー」
「遅いわ。どこ寄り道してたのよ」
「おかえりなさい。三玖」
他の三人もリビングでテーブルを囲んでいた。
テーブルの上には何もない。テレビは点いていたが、特段面白そうな番組が映ってるわけでもなかった。
つまり四人は、私の帰りを待つためだけに集合していたように三玖には見えた。
「どうしたのみんな? 夜ごはんの時間……には少し早いよね?」
「上杉君から連絡をもらったのです。バイトが終わったみたいだから、もうすぐあなたが帰ってくると思うと」
「それで私を待ってたの?」
「三玖、あんたジロジロとこっちの店覗いてるのバレてないとでも思ったの?」
「……気づいてたの?」
「当然よ」
確かに、こちらからケーキ屋の中が見えるということは、向こうからだってパン屋の中が見えるということである。
私はレジでじっと立ってずっと二乃とフータローを目で追ってたわけだから気が付かれていたっておかしくはなかった。
「でも、それで何で私の帰りを待つの?」
「私と四葉がお店に入った後、三玖の姿が目に入っちゃってさ。四人で話したんだよね。三玖だけ一人で仕事って、ちょっと仲間外れにしちゃってるみたいでやだねって」
「一花……」
一花の言う四人で相談している時間というのは、きっと私がケーキ屋の方を見るのを止めていた間のことだろう。
四人で集まってそんなことを話してたんだ。
「それでね! 四人で決めたの! 三玖もお仕事で大変だし、こっちに合流はしてこれないだろうけどせめて──」
四葉が話しながら冷蔵庫に駆け寄ると、中から一つの紙の箱を取り出した。
途中、棚から一本のデザートナイフも取ってから再びリビングまで戻ってくると箱の封を開けた。
中には私が好きなケーキが一切れだけ入っていた。
「三玖の好きなケーキをみんなで食べよって!」
「私たちはお店でも食べちゃったから、一口くらいでいいけどねー」
「わ、私は三玖がいらないのでしたら、全部でも大丈夫ですけど……!」
「一応、五人で分けるの前提に私が特別に切り分けたやつだからお店で出してるのより大きめよ」
「みんな……!」
胸につかえていた泥のような感覚が流れていくような気がした。
姉妹のことを考えると嫌な気持ちになって、考えないようにしていたはずが、今はこちらを見て微笑んでくれているみんなを見ているだけで自分も嬉しい気持ちになった。
もしかしたらフータローもこれを知ってて売り切れなんて嘘を言ったのかもしれない。
俯きがちだった視線を少し上げられるようになると、四葉がこちらの顔を覗き込んでいた。
「一応もうすぐ夜ご飯だし、デザートでもいいけどどうする?」
「食べたい。今、みんなで食べたい……!」
その返事を聞いてから二乃がふっ、笑みを零してナイフを手に取った。
それからテーブルの前で膝立ちをすると少し高い位置からナイフがケーキに触れないように、切り分ける大きさを図った。
ジェスチャーで分かった。五つに切り分けようとはしているが、五等分ではない。明らかに私用に大きめに切ろうとしているところがあった。
だから私は二乃へ言った。
「二乃、ケーキの大きさだけど」
「言われなくても、元々はあんたのなんだから一番大きくしてあげるわよ」
「ううん、そうじゃない。その逆、みんな一緒の大きさにして」
「えぇ?」
怪訝そうな顔をする二乃。
「なんでよ」
「このケーキは、みんなと五等分にしたいから」
「……あっそ。まああんたがそれでいいなら、そうするけど」
「ひぃっ、お姉ちゃんそしたら夜ご飯たべれなくなっちゃうよ」
「一花、三玖の言う通りにしてあげようよ!」
「その分一花のご飯の食べられない分は私がいただきますから……!」
「五月、はしたない」
「私はあなたのお手伝いをしようとしているのですよ三玖!?」
「あんた達、切り終わったわよ」
いつの間にか二乃が切り終わっていた。
紙の箱を平たくして大きな皿替わりにし、一切を更に五等分にしたケーキがその上に置かれていた。
いつの間に用意したのか、二乃がフォークも五つ置いておいてくれた。
私含め、みんながフォークを手に取る。
「みんな」
食べ始める前に、私はみんなを見回しながら言った。
「ほんとは私、仕事中みんながお店に集まってるの見て、いいなって思ってた」
だから。
「ありがと。おかげで今日は良い日になった……じゃあ、いただきます」
「いただきます」
私の合図で、皆も一斉にそう言うとケーキを口に運んだ。
大好きな味が、もっと美味しく感じた気がした。
だから私は、今日お店でしていた五月みたいに頬っぺたに手を当てると思わず呟いた。
「あまい」
「そう? あたしには結構苦みの強いケーキに思えるんだけど……あんた、ほんとに甘いの苦手なのね」
そういうわけじゃないだけど。内心でそう思いながら二乃を見て微笑んだ。
それからもう一口食べた。
二乃の言う通りこのケーキは私好みの甘すぎないケーキだ。それが私が好きな理由でもあるんだけど、今日に限って言えばこのケーキは──
「やっぱり、すごくあまい」