ヒカルの大嘘の見事さに感心してください。あらかじめ分かっていたので、細かいところまで嘘を作りこみました(笑)
「進藤ヒカル君だね」
「はい」
「じゃあ、そこに座って」
すとんと碁盤の前に座った少年は、ずいぶん幼く見えた。
小学五年生では、まだ本格的な成長期に入っていないのだろう。男の子ならなおさらだ。
前髪だけが金髪なのはファッションだろうか。学校があるから、染めたりしたら問題だろうに。それとも地毛だろうか。
「棋譜はこれだね」
ざっと目を通してみる。
「三枚とも、君が黒なんだね」
「はい、そうです」
確認してみて、奇異に思った。どれも白番の勝ちだったからだ。
普通、院生試験には勝った棋譜を持ってくる。少しでも合格に有利になるように、会心の一局を持参してくるのだ。
精一杯背伸びした棋譜は、いくらか割り引かないと実力を反映しない。だからこそ、実際に打って試す必要があるのだが。
「おや、相手の人が皆同じだね。このsaiさんというのは。外国の人かい」
「いいえ、saiは日本人です。それ、インターネットのハンドル名で、本名は分りません」
落ち着いた物言いだった。緊張している様子がない。ずいぶん大人びて見える。
「ほう、ネット碁かね」
「はい。saiは、オレの師匠みたいな人です。ずいぶん鍛えてもらいました」
嬉しそうに言って、進藤君は笑った。なるほど、良く良く見れば、白は指導碁を打っている。なかなかの力量の持ち主だ。
「では、打とうか」
「はい、お願いします」
ぺこりと頭を下げると、彼は石をつまみ上げた。なんと、人差し指と親指でだ。そのまま碁盤の上にゴトリと置いたので、私は驚いてしまった。
「君、」
「あ、持ち方変ですいません。オレ、本物の碁盤で打つの、今日が初めてなんです。中指と人差し指で打ちたいんだけど、どうやれば上手く持てるんですか」
絶句、だった。
私も長年院生師範を務めているが、石の持ち方を知らない子なんて、初めてだ。
「……碁盤で打ったことが無い?」
「はい。ずっとテレビゲームとネット碁だけなんです。テレビの囲碁解説見たりして、オレ、本物の碁盤で打ってみたくて。でも、碁会所って、おじさんばっかで入り辛いし、ここなら子供がいっぱい居るって聞いてきたんです」
……時代だな。
「いいかい、まず、こう持って……」
ゆっくりと打ち方を見せてあげながら、この調子では、この一局は長くかかるなと、覚悟を決めた。
なんて子だろう。本当に初心者なんだろうか。
石を持つ手つきこそ危なっかしいが、筋はとてつもなく堅実だった。判断が的確で素早い。攻守バランスが取れているし、センスも申し分ない。
高段者の私に引けをとらない。いや、私より上か?
果たしてどこまで打てるのか、確かめる気になった。文字通り手加減なしで本気で打ったのだが、進藤君は、しっかり食らいついてきた。
通常、子供は必ず不得手な部分を持っている。未完成なのだから当たり前のことだ。
私の務めは、弱点を克服させ、長点を伸ばすことにある。
院生試験は、個々人の長所短所を見極めるためのものでもあるのだが、しかしこの時、私は進藤君の弱点を見つけることができなかった。
「……ありません」
まさか、院生試験で私が中押し負けするとは。
いささかならずショックを受けたが、同時に、ワクワクしてしまった。これだけの逸材が棋界に入れば、どれだけ素晴らしいだろう。
「えっ、オレ、勝ったの?」
きょとんと言われて、またもや絶句してしまった。
「進藤君、これだけ大差がついているだろう」
「えーっと、」
なんと進藤君の指が、一目、一目、わざわざ押さえ始めた。
「ごぉ、ろく、ひち、はちぃ、」
「進藤君? もしかして、整地を知らないのかい」
「セイチ? それ何? あっと、何ですか」
聞けば、ネット碁ではクリック一つで数字が出るのだという。整地など、したことがなくても無理はない。
「そっかあ、テレビで対局の後やってたの、あれが整地なのかぁ。何してるんだろって、ずっと思ってました」
つまり、打っている間は目算していないということか。意外な弱点だが、ひたすら有利になるように打っていれば、関係無いのかも知れない。
どちらにしろ、やり方さえ覚えれば、すぐに出来るようになるだろう。
「ありがとうございました。あの、オレ、合格ですか」
目を輝かせて訊いてくる進藤君に、私は首を横に振った。
「ええっ、どうして!」
「不合格だよ。君は院生になれない。というより、なる必要がないと言うべきだろうね。今の実力で十分プロ試験に合格できる。院生になっても、意味はないでしょう」
「あります! 意味はあります。オレ、オレ、子供と打ちたいんです。囲碁を打てる友達が欲しいんだ! お願いです、オレを院生にしてください。邪魔にならないようにちゃんとしますから。お願いします」
そうか。友達か。君には、身近な碁敵がいないんだね。それはとても寂しいことだろう。
「……いいでしょう。では、来月から来てください」
うん、ちゃんとします。ちゃーんと指導碁打ちます。
指導碁なんてどこでやり方覚えたのかと突っ込まれないように気を付けながら(笑)