【悲報】どうやらワイらは世界の敵らしい…。   作:掲示板ものが書きたい

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超絶難産

次回で一旦戦闘は一区切りの予定…でもまたすぐ開戦するかも


暗器は二度刺す

 探究者たるメアリスは、一度(ひとたび)思う。

 果たしてこの世界は何処までか真実でどこまでが虚構なのか。

 己が見えているものとは、とどのつまり、己が認知している———そう、補完している情報に過ぎない。

 

 音も同様だ。

 大気の振動を鼓膜や内臓器官が「音」という情報に変換している訳だが、それもまた彼女の可聴域を出ない。

 魔物や獣の中には常人には知覚できない特殊な信号を発する者もいると云う。

 

 鼻を突き抜ける匂いも、舌で転がす味も、指先や肌で感じる熱も質感も、全ては彼女を囲う世界の表面に過ぎない。

 

 とはいえ全てを虚構として切り離すのは、真実を追う立場に身を置く存在としてあり得ざる所業だろう。

 疑念の先に虚実の解を確信するからこその探究なのだ。

 

 

「(幻覚…ではない)」

 

 

 メアリスは冷めた白霧の壁を見遣る。

 大気中の水分が凝結し、存在を主張している粒氷の踊るその奥———亡霊の如く浮かぶ影が揺らいだ。

 

 曲線を描く結界の表層を舐めるように斬撃が這い、軌跡を刻むように氷柱が連なる。

 

 遅れて肌の熱を掠め取る霜風が横断すれば、背後へと写った青い二つの妖光が尾を引き、束ね重ねた旋風を見舞った。

 

 

「《———界晴(リーヴォ=ルフ=ソール)》」

 

 

 ———白霧が晴れる。

 外へと渦巻くように押し出され、薄らいでゆく白の向こうに瓦礫の山が露わとなる。

 暖風でもないのに冷気が剥がされることであたかも一体が温暖になったように錯覚する。

 

 メアリスは颯爽と降り立つ暗鬼を見遣った。

 

 そこにはどれだけ目を凝らそうとも、焼き付けようとも次の瞬間には忘れてしまう奇妙な貌が佇んでいる。

 

 

「天候を変える魔術…というより、快晴の魔術と言うべきでしょうか。随分と尖ってますね」

 

「尖っ…歴とした戦式魔術だよ。火と風を合わせた晴乞いさ。尤も、何でも晴らせるわけではないが」

 

 

 霧が晴れ、頭上に示された青空を呑気に見上げながら暗鬼はそう宣う。

 

 此方に視線を向けない、その様子はまるで己を襲う刃を手を広げて迎え入れるような物であるが、メアリスの目には殺気の鎧が映っていた。

 

 まるで甘い香りで誘う植物のように、緩やかな雰囲気が間合いへと誘う。

 彼の全身から漂う言い様のない怖気が獲物の背後から脅すように声を掛けてくる。

 

 

「雨は髪が湿気るからね。重宝する」

 

 

 メアリスはそんな声に聞く耳を持つこともなく、地を伝い浸透する微細な魔力が地質を変化させ、螺旋を描く細槍を放つ。

 

 されど暗鬼は足元から出現した槍の鋒に足を合わせ威力を殺し、大きく跳躍する。

 しなやかな動きで宙を舞う彼へ向け炎槍を放つも、彼はまるで隙間を縫うように翻した。

 

 

「(これだ)」

 

 

 スルリと抜けてゆく紅い槍を怪訝な目で眺める彼女の心中を漂う疑念。

 それはこの男の圧倒的なまでの回避能力にある。

 

 掛け合いも駆け引きも意味をなさず、彼女の手数による圧倒的な密度の攻撃にさえ順応して魅せる。

 宛らヒラヒラと舞う花びらの如く、手を伸ばせどもヒラリと躱す。

 

 それは最早———未来予知を思わせる。

 

 

「(まさか…)」

 

 

 魔法という不確定要素が現れる以上、決して否定はできないだろう。

 だがもしそんなことが実現するのならば、彼の存在は限りなく無敵に近い。

 

 メアリスも擬似的な高精度かつ瞬間的な未来予測は可能だ。

 それは《(ヴェリト)》による演算で全ての可能性を割り出すことであり、相手の挙動、筋肉の流動、肉体の駆動から次の一手を読むことでもある。

 

 しかし“予知”となれば如何か。

 

 賢者と謳われる彼女とて、万能ではなく、無限の可能性を確定させるような芸当はそう容易ではない。

 

 近接は悪手。

 極めて微細たる刃は脆弱に見えども骨肉を容易に断つ鏖殺の結界を敷く。

 真実ならば相手の間合いは絶対的だ。

 

 

「予知の類かい?それとも予測かな?後者なら良いセンスだ」

 

 

 ———メアリスは敢えて侵す。

 眼下に幻視する領域の地平線を堂々と越え、幾何学体を頭頂に浮かせる彼女は己の領域を以て踏み砕く。

 性懲りも無く巻き上がる濃密な白霧の中、氷粒に煌めく六辻の銀線に眼を細めるメアリス。

 

 

「さあどうでしょう。万に一そうならば貴方の勝機は薄くなりますが」

 

「何、勝敗とは常に決しているものだ。何も心配はいらない」

 

「心配無用とは、あの世への荷造りでも終えているので?殊勝な心掛けですね」

 

「その様子なら予知の類ではないらしい。やはり杞憂かね」

 

 

 境界へと踏み入れば、一手に対し二、三手先の追撃が見舞われる。

 一の斬撃が三つの守りを崩し、二の攻勢を一の迎撃を以て撃ち落とす。

 

 皮肉混じりの言葉を浴びせ合いながら、それ以上に遥かに苛烈な刃の豪雨を堅牢な蔦が要塞の如く邀撃し、一歩一歩と砦を崩しに掛かる。

 

 優勢に見えつつ距離を詰められる彼は、しかしその場から動くことなくただ彼女を見据えていた。

 次第に浅い傷の増え始めるメアリスもまた、それに並ぶ回復速度によって白肌を晒しながら死地を歩む。

 

 そうして更に間合いを削り、彼女が第二の戦線を踏んだ次の瞬間、先手を打ったのはメアリスであった。

 

 一息で五度の掌撃を放つ。

 寸分の違いなく人体の中央を走る急所を穿つ連撃は、機械のような精密性と柔軟な殺意を孕んでいた。

 

 が———全てが空を切る。

 もはや水に沈むような感覚すらなく、宛ら霧を殴りつけるような手応えの無さ。

 目の前にいるはずであるのに、目の前に存在しないかのような違和感。

 

 攻めにも守りにも移れない身を晒す瞬間たる呼吸の切れ目へ、男は静寂と苛烈を織り交ぜた猛攻を仕掛ける。

 

 摺り足と共に飛び出す拳を受け止め、外へと往なしつつ鎖骨部を狙うカウンターを打つ。

 しなやかながら芯を捉える重さに目を細めるメアリスは、男から発せられる積み重ねられた経験と拳から染み出る血を幻視するような気迫に全身を晒される。

 

 まるで感情の読めない無貌にチグハグな熱が溢れ返り、覆い隠すように噴き出す冷気が再び鎮める。

 

 打撃も斬撃も関係なく、魔術も虚しく透過する攻守に見せかけた一方的な攻勢を繰り返すこと四度、守りに生まれた小さな隙間を縫い、銀糸が彼女の首へと沈んだ。

 

 皮膚を破り、筋繊維を裂き、血管を断ち、骨に到達しようとしたところで金緑の魔力が駆動する。

 

 螺旋を描き圧縮された風球を押し付け———発散。

 出会い頭に見せた風撃にも劣らない波動が男を霧の彼方へと吹き飛ばす。

 

 彼女は気道を侵食する己の血を喉へと押し上げ一塊に吐き出すと、視界を遮る白霧を再び散らせた。

 

 

 

「《———銀冰ノ巨人(アス=アルグ=アースガル)》」

 

 

 

 彼女とは別の声が術式の鍵を捻った。

 

 開けた景色の向こう側で足元から高速で組み上がるように白の巨人が創造される。

 

 虚空を掴み、大きくスイングすると同時、空中を漂っていた彼の軌道が急変し加速する。

 

 まるで鞭を無理回すように銀糸を帯び、振り回す巨人は何処か滑稽にも映ることだろう。

 

 だがその先を踊る彼の者の影は、もう既に彼女の目には留まらない。

 

 男は蹴り出す足に槍状の氷鎧を纏った。

 その穂先はとうに尋常の速度域を突破している。

 

 

「———ッ!!」

 

 

 更に二巡、三巡と加速を得た超速に至る人間大の質量体が———放たれる。

 

 本来ならば空気の壁を打ち破り強烈な衝撃を伴うはずの運動は、しかし恐ろしいほどまでに静かな一閃と化す。

 

 星が瞬くよりも速く、刹那が廻るよりも早く、銀氷の槍が駆け抜けた。

 

 対する賢者は回避を諦めたのかはたまた迎撃を選んだのか、目で追えない一投を見据え、放たれる寸前に指先の如く極限まで圧縮した結界を構築する。

 

 そうして完成すると同時、彼女の眼前へとその鋒が迫り———

 

 

 

 

「———」

 

 

 

 

 ———賢者の守りをすり抜けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 術式を解き、地を抉るような着地をした男は今起きた事実に呆然とした様子を見せていた。

 

 

「……」

 

 

 立ち上がり、己の残した惨状を振り返る。

 

 其処には足元へ向かって一直線に伸びる小さな谷、薙ぎ倒された建造物、それらを覆い隠す薄氷の大地、そして———首無しの少女。

 

 数秒遅れ、冷え切った地面に倒れ伏す。

 まるでもう動かないと、そう主張するように。

 

 

「……いや」

 

 

 あの少女ならば、今の一瞬で即死を致命傷程度にまでは抑えることができたことだろう。

 

 身体能力に制限があるとはいえ、回避行動さえ取れない程の一手ではなかったはずであった。

 

 しかし幸か不幸か、青年には理解できる。

 今この瞬間、彼女は確実に意識を失っている。

 

 彼女の意識は、この場の何処にも存在しない。

 

 彼の無貌にじんわりとした焦燥が滲み出す。

 

 

「…視えない…」

 

 

 数本の糸を展開し、触手のように彼女の肉体へと伸ばす。

 

 

 

 そうして———その肌に触れた時だった。

 

 

 

 

 ———。

 

 

 

 

 ———雷火が散る。

 

 危機を訴えるような音が弾け、糸を手繰るように稲光が走った。

 瞠目する男は彼女に触れる糸を引くもそれを上回る稲妻の波が糸を伝い、彼を喰らう。

 

 

「ァ゛ギ…グ…ッ!!」

 

 

 先程まで相手の先手を読み切り、後手を確実としていた男は完全なる不意の一撃に歯を食い縛る。

 

 己の意思に反して硬直する肢体は、飛んでくる風の刃を透過する。

 しかし、次の瞬間打ち込まれた衝撃に為す術なく弾き飛ばされ、地を転がった。

 

 跳ね上がるように体勢を整え彼女の倒れ伏していた場所へと目を向ければ、二の足で立つ彼女の頭頂に浮遊する幾何学体( ヘイロウ )が異様な光を放っているのが映る。

 

 

 

 

「———一つ、確信したことがある」

 

 

 

 

 白磁の如き頸椎を筋肉が包み、皮膚が覆い、顎を形成し、整った口元が見えたところで彼女は改めて口を開く。

 

 

「どうやら、君の能力は攻撃の主体が『私』である必要があるようだ。コレ(・・)に私の意思が介入する余地はないしね」

 

 

 再生した珠の如き瞳が彼を見据える。

 

 古今東西に語られし厄災払いの大英雄。

 未知という名の荒野を開く偉大なる開拓者。

 

 その冠する名を(さか)しき者。

 

 

「…安心しましたよ。貴女ともあろう方が、あれ程呆気なく死ぬのか、と」

 

 

 《(ヴェリト)》によって擬似人格を生成し、自身の意識を覆い隠す。

 彼女が成したのは、そんな所業であった。

 

 彼女に宿る植物は彼女の肉体の稼働とは別に動いている。

 そのため王都近隣の森でも見せたように、仮に彼女の肉体に異常が起きようとも植物がその過不足を補えば生命を維持すること自体は不可能ではない。

 

 では、この場合足りないのは司令塔———即ち脳に取って代わる存在である。

 

 外部の刺激を感知した神経シグナルから自己の介在に依らず反射的に答えを導き出す演算人格は、言うなれば哲学的ゾンビのようなものだ。

 理性の支配する最適解を一挙手一投足を以て応答する。

 

 欠点を挙げるとするならば、返報による攻勢に限ることか。信号への応答を利用している以上、後出し(カウンター)の域を出ることはない。

 

 されども最上の盾とは時に槍をも砕く一撃を生む。

 相手の刃を折れば逃走の一手さえ奪うに等しい。

 

 男は安堵を見せるように一息吐くと、無貌の奥で口元に弧を描く。

 

 

「恐ろしいものですね。貴方の武器は魔術でも秘められた禁術でも宝具でもない。その限りない理性を装った強欲と、目の前に置かれた命題を視通す眼だ」

 

 

 男はその眼を知っている。

 見た者へ凶兆を刻み込むような、邪視の如き眼光を知っている。

 

 ここに鏡があったならば、きっと彼女も遺憾ながら首を縦に振らざるを得ないだろう。

 

 彼女は戦士である以前に、魔術師である以前に、探索者だ。

 

 男の有する未知(魔法)とは万人にとっての脅威であると同時に———彼女にとっての本領域(キリングゾーン)に他ならない。

 

 

「世辞は結構。君の能力も分かってきたんだ、続けようじゃないか」

 

 

 筋繊維がバラバラに駆動し、四散しようとする肉体を無理矢理繋ぎ止める。

 蔦の触腕が行き場を失ったように不自然に蠢き、不規則に動く様は知性を欠いた魔物のようだ。

 

 男はメアリスを上回りつつも錆を生んだような挙動で翻さんと手の腹を添える。

 

 

「まあまあ、もう少しお話ししても良いではありま———」

 

「《———逢魔照(リーヴォ=セレスティス=メルベール)》」

 

 

 ———天より降り注ぐ光の柱が男を呑み込んだ。

 快晴の魔術により銀の世界に春が訪れ、澄み渡る空がロングレアを見下ろす。

 

 メアリスは距離を取り、己に優勢な間合いを図る。

 

 直後、霧散する光柱を払うように冷気を放つ暗鬼が無傷の姿で現れ、稲光と共に降り注ぐ落雷を凍える波動で消し飛ばす。

 尚も降り注ぐ天地繋ぐ霹靂の隙を縫い、羽根の如き身の熟しで地面を泳ぐ。

 

 真正面、況してや魔術戦で賢者(メアリス)に敵う所以は無い。

 

 男の武器はその眼を見張る速度、彼女をして高度極まる隠密、千変万化の斬撃———そして《魔法》。

 

 故に、彼女は男が必ず凍える魔力とを併用した中距離の間合いを保った戦闘、或いは白兵戦に臨むと予見する。

 

 雷撃の残留はそう緩いものではない。

 未だ正体不明ながらも、勝機は十二分にある。

 

 《(ヴェリト)》を駆動させる彼女の光輪(ヘイロウ)が再び淡く輝いた。

 

 

「賢者様。英雄(あなた)に聞きたいことがあった」

 

 

 絶え間ない魔術の空襲。

 反撃の隙を与えない技と技を紡ぎ合わせる連撃。

 

 舞い上がる塵さえも斬り刻まれる絶境の最中、彼は場違いな問いを投げかける。

 

 

「この籠手———()の死は、俺の最期を飾ってくれると思いますか?」

 

 

 その時、彼の右腕に身につけた籠手が鈍色の光沢を放った。そして、たったそれだけで彼女は彼の言い含める真意を察する。

 

 その籠手を晒すように糸を指揮する彼は、きっと楽しげな声音であったことだろう。

 絢爛に着飾る貴婦人のように腕に装う鉄の塊を構えた彼の手先で万糸は踊る。

 

 

「———死は飾るものではない」

 

 

 次第に彼女の艶やかな身体に力が籠り始める。

 薙ぎ払う脚が風を斬り、振り抜く拳が唸りを上げる。

 

 前進と共に大きく踏み締め、下から天へと突き上げる拳を彼が翻した時、隆起した地面から鎌の如き大牙が男を穿った。

 

 沸々と腹の奥から登り詰める感情を感じる。

 

 

「———況してや利用するものでもない」

 

 

 天から数条の日照が放たれ大牙の奥を貫く。

 

 滑らかに滑る銀線が数度走り大牙が切り刻まれ崩れ落ちると同時、彼女は分割した人格を伴う無秩序な、しかし正確無比なる撃打を叩き込む。

 

 

「死とは讃えるべきものでは———ない。断じてだ」

 

 

 崩落し、男の身体をすり抜け土埃を巻き上げる瓦礫。

 

 靄に影を浮かせ初手の数発を凌ぐも、複数人が立ち替わるように仕掛けられる猛攻に彼は後退を選択。

 

 すかさず肉迫し体重を乗せた中段蹴りを見舞うメアリスが、旋風纏う回し蹴りで土砂ごと消し飛ばす。

 

 石鉄をも削る鎌鼬は暴れ、蔦の鞭は猛り、無尽の銀糸はその全てを斬り刻む。

 

 メアリスの(いら)えに男は激昂も、消沈せず、ただ凶刃を薙いだ。

 

 風切り音がひと繋ぎに、瞬く火花が視界に咲く。

 

 

 

「そうですか…残念です」

 

 

 

 メアリスは螺旋状に編まれた鉄鞭の如き蔦を振るう。

 

 男は糸を束ね盾のように胸前へと構えると、来る衝撃に備えるようにその切先を見定めた。

 

 

 

「———しかし、貴女の答えが聞けて良かった」

 

 

 

 ———極細剣たる銀糸が砕ける。

 

 瞬間、穿つ一撃に吹かれた大鋸屑の如く吹き飛ぶ男。

 肉を打つような音の後、飛散する瓦礫が彼へと降り注いだ。

 

 冷気が晴れ上がり、入れ替わるように広がる土煙が彼の醜態を隠す。

 

 

「…」

 

 

 しんと静まり返る戦場は、その景色も相まって立ち尽くす彼女に妙な虚無感を覚えさせる。

 立ち上る塵の煙幕は終戦の狼煙、あるいは戦火の残影のようで、焦げ臭い香りでも漂ってきそうな雰囲気を醸し出す。

 

 殺意の嵐の中、毒にも薬にもならない問答を繰り返す彼は、靄に包まれた相貌の奥に無視できない何かを放っていた。

 何処までがまやかしなのか、何処までが虚言なのか、あの最中では賢者といえど察するに及ばない。

 

 

 ……何かを忘れている。

 

 奇妙な感覚だ。

 それこそ彼を包む靄のような、ふと思いついたことがスルりと抜け落ちるような。

 記憶を飾る写真立てを塗り潰されたような———

 

 今尚地下で場を任せてしまった少女———忘れるわけもない。

 その少女に付き従う老紳士———覚えている。

 

 

「———」

 

 

 重なり合う瓦礫を見遣る。

 

 ———あの不気味な気配は存在していなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ———瓦礫の中から影が浮く。

 

 

 

「無意識とは、すべての知性に備わる空白の世界」

 

 

 

 表面から滲み出すシミのようにズルりと起き上がる暗鬼が、その一歩を踏む。

 

 靴底からは特有の音も鳴らず、霧が通り過ぎるように真っ直ぐに抜けて行く。

 

 

「見えず、触れられず、察することすら不可能。何故なら貴女の世界には存在しないのだから」

 

 

 内臓が潰れているのか泥のような血塊を垂らし、地面を赤く穢す。

 

 だが彼女は見えていない。

 

 否———気が付かない。

 

 彼は、呆然とする少女の真正面へと立ち、そのまま突っ切るように通り過ぎる。

 

 

「彼女が心配であるとはいえ、死体の確認もしないとは…賢者も手緩いものですね」

 

 

 接触するかと思われたその瞬間、彼の身体は彼女を透過し、反対側へと抜けてしまう。

 

 無論、少女の眼が彼を追うことはなかった。

 

 ———彼女は己を貫く漆黒の杭を見下ろす。

 

 背後から胸を食い破った尖頭が、彼女を睨みつけるように艶を放った。

 

 

「…ゴプ…ッ」

 

「《懺悔の十字杭(メィエンス=イェーラ)》…曰く、刺した罪人の罪を洗い流す慈悲への戒め、だそうです」

 

 

 ———膝を着く音が両者の耳に響く。

 

 内臓を引き摺り出したような黒血が七孔から溢れ出し、肉を掻き分ける理外の呪いが濁流の如く這い出でる。

 

 

「宝、具…か…ァ…!」

 

 

 流れ出た血はやがて真に黒へと至り、呪いに呑まれるように灰となって空に消て行く。

 

 剥き出しの神経を鑢掛けるような耐え難く粘ついた激痛が纏わりついて離れない。

 

 

「それが貴女の罪なんでしょうねぇ…まあ、健闘をお祈りしております。ではでは、俺はこれで———」

 

 

 男は他人事のように一言声をかけ、背を向けて去ってゆく。

 しかしそんな声も彼女には届いていない。

 

 瞳より涙の如く流れ出でる血が視界を赤く染め上げる。

 

 

「(マズイ…意、識…が…)」

 

 

 これは怨念だ。

 

 人は生きるだけで怨みを買う。

 己が殺してきた者たちか、己が救えなかった者たちか。

 永きを生きた彼女にはもはや見当も付かない。それ程までに心当たりが多すぎた。

 

 

 

 ———。

 

 

 

 誰かの声が聞こえてくる。

 懐かしい声が脳裏を掠める。

 

 

 

「…アル……ス……」

 

 

 

 赤は黒い瘴気に塗り潰され、彼女の死を望む名前も知らない数多の怨嗟が降り積もる。

 

 呪いは全身を伝い、肉を、骨を、(はらわた)までもをまるで蛆が喰らうように蝕んでゆく。

 

 

 

 ———。

 

 

 

 あらゆる過去が自らを苛み、幸も不幸も、喜怒哀楽もその全てを虚実の絶望が覆い隠す。

 

 

 

「わた、し……は……———」

 

 

 

 ———失意が胸を埋める。

 ———世界が暗く沈んでゆく。

 

 暗闇に意識が途切れる直後、彼女を包んだのは———己を支える温もりと、内を蝕む苦痛が僅かに和らいでゆく感覚であった。

 

 その時届いた声は、嫌に耳触りが良かった事だけを覚えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんて言うか…毎回、再会が早すぎて余韻も何も無いよね」




・《界晴(リーヴォ=ルフ=ソール)
・《逢魔照(リーヴォ=セレスティス=メルベール)
火と風の三節二重詠唱。
天候を強制的に快晴へと変える魔術であり、かなり限定的な力を持つ。空模様を変えるだけでなく、地上の過湿や気温など気象現象と認識できるものにも作用するため霧を晴らすことや暴風を凪ぐことも可能。
霧の魔術の話を小耳に挟んだとある魔術師が編み出した代物。

・《総て疑念は帰結せず( コギト・エルゴ・スム )
統括の持つ《天賦(ギフト)》。
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