暑い夏の日のことだった。うっすらと陽炎もたっていた。
散歩の途中、発作みたいな強迫観念に襲われた。不安症ならでは…と言えば聞こえがいい。
アスファルトがドロドロに溶けてしまわないだろうかと、心配になって頭の中はとろけた道路に沈む自分の幻想でいっぱいだった。前も後ろも分からず、へたり込む寸前で腕を掴まれた。ベンチまであと一歩足りなかった。
硬い地面に膝をつく寸前で、私の腕を取り、支えてくれた恩人の顔を見れば、それは美しくも危険な香りのする女だった。
幸いにも私は恩知らずじゃなかった。だが、元を辿ればそれが不幸への導きだった。
「大丈夫ですか?」と女。
「いえ、御心配には及びません。どうも、親切にありがとう」と私。
女の髪色は血に微量の白絵具を垂らしたような色合いだった。体は私よりも背が高く、瞳は同心円状に広がりを持つ稀有なものだった。顔貌はおよそ魔性と呼ぶにふさわしい、だが逆を言えば恐ろしくも見える。やや陳腐な表現に尽きるが、整いすぎていた。鼻筋の通った、まぁ、私の好みの顔だった…。
体つきは引き締まっていて、緩やかにその肉付きを見る者に伝える格好をするものかと思いきや、随分直截的な、肌に沿うようなタイトなスーツを着ていた。ザ・ホワイトカラーでござい、という感じだ。
このクソ暑い中でも、丁寧にタイを締め、上品に黒いコートを羽織っている。その気が知れないといったら何だが、私には妙なもん、異物にも見えた。
「もう大丈夫ですよ?」と言っても、彼女は手を離さなかった。困ったな…変なのに助けられてしまった、だが金に困っているようにも見えない…そんな失礼なことを考えていると、女の方から私に『提案』を寄越した。
「あの、少しお時間頂けますか?近くに休める場所があるんです。」
喫茶店にでも行くのだろうか…。
私の疑問も困惑も置いてけぼりにして、彼女は私の腕を掴んだまま、今度は強引に担ぐように肩を貸してきた。
「すぐに着きます…歩いてすぐの所なんです。そのあとのお話も、ほんの少しで終わりますから。」
熱心に誘われて、というよりも強引さに恐れをなしたから従った。情けない話だったが、仕方ないだろう?なんてったって私は老骨だ。特別な何を成し遂げた訳でもなく、淡々とつまらない時間を積み上げてきただけの男だ。孤独死まっしぐら…ふふふ、笑えんな。
有無を言わさぬ彼女の肩に身を預けて、為されるがままにして居るうちに目的地に着いた。確かに直ぐだった。
ただ、見覚えのない建物だったから、つい口に出して聞いてしまった。
「ここはなんていう所だろう?喫茶店には見えないが…。」
「ラブホテルですよ。ここで少し、お話しましょう。」
狭い世界で生きてきた自覚はあった。しかし、何故かしっくりこない。そんな流れだっただろうか?と。
私が困惑を深めていると、無人のカウンターで受付を済ませた彼女が、また私の腕をつかんだ。あぁ、しまった。悩んでいるうちに逃げる機会を失った…悩み込むと時間も場所も関係なくなる、悪い癖だ。
彼女に腕を掴まれて…正確には胸に抱かれて、そのままエレベーターに乗り込んだ。なんと気不味いことか。初対面で一時間もしない内に男女の愛の営みの場で、名前も知らない者同士が密着するなど…時代が進んだのか、私が古いのか、どっちだろう?
とにかくこの、爛れた様な埃っぽい空気感が私は苦手みたいだ。うっ…と息が詰まる。緊張で可笑しくなりそうだ。このまま何事もなく終わって欲しい。徳を積んだ覚えもなければ、罪を数える程の悪行に手を染めた覚えもない。
喉に詰まった呼気を噛んだり吸ったりしているうちに、目的の階に到着した。
チンッ!なんて、軽快な音と共にエレベーターのドアが開く。そろそろと足先から慎重に降りよう。エレベーターが落っこちてしまわないように。
「さぁ、行きましょう。そこの角の部屋みたいです。」
「え?あぁ、うん。」
私が自分を落ち着けるための方法を模索していると、何の気負いもなく彼女が言った。
何処に部屋があるか気になってキョロキョロしていた訳じゃないんだが…どうやら、魔性魔性とは言っても心とか頭の中身まで見られている訳じゃないようだ。少し安心。これで、前に進めそうだ。
やっとの思いで一歩踏み出すと、待っていたかのように彼女の体にも力が入った。
呼び水にように、それからは一歩も立ち止まらずに部屋の前についてしまう。立ち止まることは出来なかった。彼女の胸に抱かれているせいで体温も、その鼓動も伝わってくる。心臓が間隙なく脈打つさまが痛いほどわかった。彼女は興奮しているようだった。私と共にいることに対してか、この場所にいることに対してか、或いは他の理由か。私にはわからない。だが、不思議とその楽しみとも熱狂ともいえる何かを取り除いてやろうとは思わなんだ。
カードキーが通ると同時に電子音が鳴り、部屋のドアが開く。
部屋に一歩踏み込むと、それまでの廊下のカーペットよりも毛足が長い。足を取られて躓きそうで年寄りには勿体ない。
サクサクと草っぱらを進むイメージでカーペットの上を歩くと、大きな寝具に壁に埋め込まれたテレビ、飲食に使う机椅子、それからガラスの仕切りで隔てられた浴室があった。
「さぁ、こちらにどうぞ。」
彼女に促されるままにベッドに座った。おぉ…弾むぞ、このベッド。
格好のつかない感想を抱いていると、正面に彼女が椅子を持ってきて座った。
「……貴方は私のことが好き。」
座るなり、彼女は私にそう言った。
「あんだって?」
耳が遠くなった。その所為だと思って聞き返した。
「貴方は私のことが好き。」
「…大丈夫かい?君。」
「…貴方は私のことが…。」
「好きって、お嬢さん、私と君は今日会ったばかりじゃないか。そりゃ助けて貰ったからね、好感は抱いてるけど…。」
突然何を言い出すのかと思えば…好みの顔だったし、助けて貰ったし…そういう意味では好きだろう。けれど、その好きと彼女の言う好きは根本的に違うものだというかなんというか。
とにかく、私は驚いていた。そして、私以上に目の前の彼女の方が驚いている様子だった。目を見開き、口もポカンと開いたままだ。
「……。」
沈黙し、神妙な顔で私をじっと見つめる彼女。それまで能面の様な…と言うと失礼だが、少し感情の抜け落ちた表情が多かったから、新鮮に感じられた。ちゃんと感情豊かなんだと理解できて何よりだ。
「…?」
「嘘…。」
「大丈夫かい?お嬢さん。」
「あ、いえ、その…え?…体に、何か異変とかは、ありませんか?」
今にもわなわなと震えだしそうな彼女に声を掛けたら、そう返された。異変?…不安症の発作はいつものことだし。それも君に助けて貰ったから特にないなぁ。
「おかげさまで健康だよ。」
「いえ、そうではなくって…。」
「…疲れてるのかい?いやぁ、悪いことをしてしまったね…そういう時は、何か食べるか飲むかしてみるといい。ここって何かルームサービスとかってないのかな?」
私は視界の端に見えた注文表を指さして言った。食べ物や飲み物、そう言ったものを頼めそうだった。
「そこの電話で注文できると思います…。」
彼女がベッドヘッドの電話を指さしておずおずと言った。
「君も初めて来たのかい?」
「はい…。」
ぎこちない受け答えを数度繰り返してから、私は何が好いのか彼女に聞いた。
「私も初めてだからね…無難に烏龍茶とから揚げにしようかな…胃もたれしそうだけど。今はもりもり食べたい気分だ。君も好きなものを頼んでくれな。お会計は心配しないで。恩返しに払わせてよ。ここの場所代も、君がさっき払った分請求してくれていいからね。」
「いえ、それは申し訳ないと言いますか…私の都合で付き合わせてしまったばかりに…是非飲食分も払わせてください。」
申し出はありがたかった。まだ年金暮らしではないが、それでも何かと物騒な世の中だ。金は先立つものとしていくらあっても足りない。私の様な孤独老人にしてみれば猶更だ。しかし、譲れない意地のようなものもある。助けて貰った手前、貰いっぱなしは後味が悪い。
そう思ったのだが…。
「もしも気が咎めるようでしたら、もう一度私と会ってくださいませんか?私としては、ここでお金を支払っていただくよりも、遥かに価値があります。ご不安もございましょう…ですので、何も怪しいことはないと、今保証します。」
矢継ぎ早にそう言って、彼女は自身の身分証明となるものを次々に机の上に並べ始めた。
「どうすれば、また会っていただけますか?」と。
暗にそう強く訴えていることは私にも理解できた。
私は一先ず頷くことに決めて、身分証を一つ拝見した。
「はぇぇ…また、随分と立派なお仕事だね。でびるはんたー、悪魔退治の専門職の方だったのか…しかも公安の対魔特異4課の…寡聞にして存じ上げないが、君が立場もある人間だってことは理解したけども…なんだって私なんかともう一度会いたいんだい?そこだけ、教えて欲しい。」
背景の立派な人間とは終ぞ縁がない人生だった。そのこともあって私は不思議だったのだ。純粋に知りたいと思った。
私の疑問に対して、彼女は広げた身分証もそのままに、自身の出自を語り始めた。
「私は少し特殊な生まれで、この年まで、人と対等に接することが許されずに育ってしまいました。何時も人と話している時は、疎外感のようなものを感じてきました。誰かが隣に居ても孤独感に苛まれてきたんです。けれど今日、貴方と話していてその苦痛が和らいだ気がして…それで、その感覚をもう一度味わいたくて、貴方にご迷惑が掛かることも承知でお願いしたのです。」
「なるほど…」
何もなるほどではない。が、世の中は広い。私の知らない人生など星の数だろう。命の恩人にここまで語らせておいて、いいえお断りだなんて私にはできなかった。
「じやぁ、家の電話番号をお教えします。私ね、仕事やめたばっかりなんですよ。しばらく暇するだろうと思ってたから、貴女が私の相手をしてくれるならこれ以上のことはない。貴女が会いたくなったら連絡するってことで、どうでしょう?」
私はそう言って、ベッドヘッドに置かれていたメモ用紙に脇にあったペンで番号を書いたものを彼女に差し出した。
「…ありがとうございます。後悔はさせないと約束します…。」
「後悔なんてそんな…。」
いちいち言葉選びが強い女の子だと感じた。まぁ、息子も娘もいないし、というか独身だし、老後の時間を潰すにはちょうどいいかな…。親切なお嬢さんの若い時の大切な時間を奪っているようで気が咎めないこともないけど。双方了解の上なら、ずっとマシだろう。
それから私たちは軽食を頼んだ。私は烏龍茶とから揚げを、彼女…マキマ君はフルーツサンドとコーヒーを選んだ。
私たちの間には活発な会話こそなかったが、不快な沈黙ではなく、快適な沈黙が流れていたと思う。マキマ君も、別段おしゃべりを一方的に楽しむたちではないのだろう。静かに、言っては何だが上品に届いた品を口に運んでいた。中々コーヒーが似合う女性である。
私はと言うと、頼んで早々後悔していた。唐揚げが大好物なのだが…ここのは少し油がギトギトだったのだ。老いて縮んだ胃にこの油は苦しいと思いつつ、女性の前だからお残しはしなかった。少し胸やけ気味である。
概ね一時間ほど彼女と過ごした。それから何事も無かったかのような足取りで、私たちはラブホテルを後にして別れた。帰るときは体も不思議と軽かった。心労が一つ減って、期待ごとが一つ増えたからだろうか。
別れ際、彼女は言った。
「それでは、一か月後にお会いしましょう。今度は、どこか雰囲気の好い喫茶店を探しておきます。それから映画館も。観たい映画、考えておいてくださいね。」
まるでずっと以前から付き合いがあるかのように彼女は私に語りかけた。そして、
「それから、これは今日のお礼。」
ちゅっ、と私の頬に自然な素振りで口付けると、急ぎ足でもないのに直ぐさま人ごみに溶け込んで見えなくなってしまった。
温かい唇の痕に触れた。まるで夢のようだったからだ。
すると、指にはルージュの淡い赤が残った。その色は確かに、彼女の唇を彩っていた赤と、同じ色をしていた。