私と彼女が二度目に会ったのは、街の、奥まったところにある、私の行きつけの喫茶店でだった。
そこは、こじんまりとしていて、コーヒーと少し硬めのプリンが美味しいお店で、ジャズも流れていたりして、少し出来すぎた喫茶店だった。
私の体の具合の好い時には、大抵、散歩の帰り道に寄るお気に入りの場所だった。
待ち合わせに、その店を指定されたときは、電話越しに「えぇ!」なんて声を上げてしまったよ。
ともかくも、その店に決めて、私も十分にお洒落をして、マキマ君に会いに行ったさ。
一番いいスーツと、一番白いシャツと、一番いいスラックス。一番いい鰐皮の黒いローファーと、焦げ茶で、年季の入ったハンチング。黒い革のセカンドバッグ。
…全身灰色の60代が完成した。ふぅむ、若い子には多分ウケない。そんなことはわかっている。理解しているとも。でも、これが一番いい服だったんだ。だから、仕方なかろう。
全身スポーツブランドのジャージより、余程マシだと思った。
◇
その日も、セミの合唱さえ聞こえない、死に物狂いの夏の猛暑から逃れるように、店に入った。
ニスが所々剥がれた木目のドアについた、年季の入ったやけにツルツルした、黄金色の金属のドアノブを、疲れ果てた体の支えのようにして、ゆっくりと勿体ぶるように扉を開くと、涼しい冷気が外に逃げるのと一緒に、私は、その隙間に体を滑り込ませるようにして、入店した。
すると、入ってすぐのカウンター席に、もう既に先客が居た。彼女だった。
格好は、昔の国民服みたいな色の、編まれた袖の無い徳利のやつと、白の丈の長いスカートだった。肩さげ鞄はコンパクトな、黒革製で、開閉に使う金色の金具が、店内の照明をきらりと反射していた。
今日は流石にスーツじゃなかった。安心したよ。熱中症にでもならないかとね、心配だったから。
店内はガラリとしていて。私たち以外には誰もいない。静かなマキマ君のステルスな雰囲気も相まって、まるで閑古鳥が鳴いてるような有様だ。
店主には悪いが、この時間帯は人がいないからと、選んだのが功を奏したらしい。まぁ、こんなに暑いのだ。わざわざ奥まった喫茶店に出かける物好きも、私たち以外にはいまい。
真昼間にひた歩きだ。私は酷く汗をかいていて、涼やかに私の方へ微笑を贈る彼女には、申し訳ないくらいだった。
私の疲労困憊が、伝わったのか否か、次の瞬間には、マキマ君は私の隣に居た。
介護…と言われるのは癪だったが、実際助けられて、肩をまた借りて、そうしてやっと席に着くことが出来た。
情けない。だが、嬉しくもあった。この親切な若い女性は、どうやら汗濡れのじじいにも、終始、物腰穏やかに接する器量があるらしい。
自分には勿体ないほどだったが、よく考えれば、彼女から私のことを誘い、この店も彼女の指定だった。
不思議となじむ足高の椅子に腰を沈めると、同じく席に着いた、マキマ君がメニュー表を差し出してくれた。
「奢ります。すっかり疲れさせてしまったようですし」
「いやいや、悪いよマキマ君。流石にね、暑かっただけだし。それに、私も楽しみにしてたから、年甲斐もなくはしゃいで勝手に疲れちゃったんだ」
「…言い方を替えます。奢らせてもらえないと困ります。だから、お願いします。この通りです」
そう言って彼女は、マスターの目の前で、私に頭を下げようとしてくる。
弱ったのは私だ。こりゃぁ、どうしたもんだろう。じじいに奢っても、年金通帳くらいしか出てこないぞ。…不思議な子だ、一体、私の何が好いんだか。
「わ、わかった。お願いするよ。寧ろこっちの台詞さ。どうもごちそうさまね。今度、じゃあ、今度は私が奢るから。そこらへんで、妥協しよう」
「いいでしょう…では早速、貴方の注文を伺っても?」
店員さんが言うみたいに、マキマ君はそう言った。小首を傾げる様が、なんとも愛らしい。子供は好きな方じゃないけど、誰も傍に居ないのは案外、寂しいものだ。
しみじみと、自分の半生を振り返りそうになって、急いで現実に戻って、口を開いた。
「ああ、じゃあ、何時も頼んでるものにしようかな。ウィンナーコーヒーと、抹茶プリンで」
「じゃぁ、私も同じものをお願いします」
「はいよ、ウィンナー二杯に抹茶プリン二つね!」
八百屋の大将みたいなノリで、マスターが何時ものように復唱した。
「ふふ…八百屋さんみたい」
マキマ君は、奥の厨房に消えたマスターの背を見送ってから、そう言った。
なるほど、そこの感性が一緒なら、同じものでも楽しんでもらえるかもしれない。
「あの、お名前、伺ってもいいですか?」
待っている間、マキマ君は今更ながらにそう聞いた。
あぁ、そういえば、前回も最後まで名乗ってなかったなぁ。
「清川進大です…ふふ、末広がりでしょう」
「ミチヒロさん…ですか。ふふっ…そうですね。確かに、末広がりですね」
自分で言ってから思った。なんだそりゃぁ、と。
あんまりにもあんまりだ。洒落も何もあったものじゃなかった。
それでも、笑ってくれたことがせめてもの救いか…いや、失笑かもしれん。
一人で切なくなりながら、ふと、公安なら名前くらい調べることが出来たんじゃないかと、そう思った。
そのことについて聞こうか迷っていると、マスターが帰ってきた。
「へいお待ち!ウィンナー二杯に抹茶プリン二つ!」
相変わらず、威勢が好い。なんとなく、今日はマキマ君と言う美女がいるせいか、私一人で来た時よりも勢いがある気がしてきた。接客は平等に、と思う一方で、流石に、年寄りには疲れる威勢の好さだとも思った。
「ありがとう。いただきます」
マキマ君は丁寧な子らしい。私など会釈で済ませてしまった。少し反省。
「では、マキマ君ごちそうさま。いただきます」
それから気を取り直して実食。言葉の順序が大幅に逆転してしまう現象が起きた気がするが、今は気にしない。
「おぉ…旨い」
コーヒーを「ずずっ」と一口。すると広がる香ばしさと甘み。ふっふっふ…ここのはね、結構クリームが甘いんだよ。
何時ものことながら、毎度毎度、感心する。美味しい。ホッとするよ。
一人堪能していると、隣から声が掛けられた。
振り向くと、目と鼻の先に、あの同心円状の瞳と、紅花を澄ましたような色の髪が見えた。
「甘いもの、お好きなんですか?」
「甘いもの全般ってわけじゃないけど、甘いものは好きな方だね。マキマ君もかい?この前は、フルーツサンドを頼んでいたっけ。」
近いよ、マキマ君。そう思いながら、腰を浮かせて少し距離を取った。
君ね綺麗だからさ、年甲斐もなくね、こう不静脈かと思うだろう?毎回そっちにもドキドキするんだよ。
「ふふふ、覚えていてくれたんですね。嬉しいです」
「まだ、物忘れは始まってないからね!」
アッハッハッハ!!…笑って欲しい。そこは、笑っておくれよマキマ君。
「物忘れなんてとんでもない…つい最近まで、務めていらっしゃったこと、私、知ってるんですよ?」
「いやいや、ちっさい役所の職員だからね、私なんて。君の方が凄いじゃないか」
「長く勤められる方が全てではありません。もっと、ご自分を誇ってください」
…どこまで知っているんだろう?大したもんだ、公安というのは。いや、知らんけども。
秘密なんてないんだもんなぁ…と、調べて貰った手前、何の面白みもない経歴で申し訳なくなった。
「ま、まぁ今はこうしてマキマ君みたいな美人さんとお茶できてるし!ぼかぁ、幸せだい」
上京する前を思い出し、訛ってしまった。失敬失敬。とはいえ、どうしてそこで頬を染めるのかなマキマ君。
君ね、どこに頬を染めるポイントがあったの?
「そんな、美人だなんて…ミチヒロさんの初恋のスミさんには負けますよ」
「…君ね!なんでそんなこと知ってるの?」
さては、同窓生に聞き込みでもしたんだろうか。
「ふ、ふぅ、い、いったん落ち着こう」
そうして、コーヒーを一口。
うーん!甘い。苦い。香ばしい。
思えば、落ち着くべきなのは私だけだ。
「…」
隣を見ると、マキマ君もカップを口元に運んでいた。
いやぁ、それにしても別嬪さんである。大変だろうなぁ…スミちゃんも、大変そうだった。男も大変だがな。いつの時代も、別嬪さんの前には死屍累々ぞ。
「プリンもいただきますね」
「どうぞ、召し上がって」
私が作った訳じゃないけど。お金払うのもマキマ君だけど…。
ま、まぁ、私もいただこう。数日ぶりだ。味が変わるわけもなし。
「抹茶の風味が強くて…美味しいです」
「毎度!」
マキマ君の言葉に、大将ではなくマスターは小躍りしそうだ。
しかし、美味しいのは本当だ。
私もマキマ君も、スプーンでパクパクと、あっという間に平らげてしまった。
味が変わらないというのは嘘だった。
なんだかいつもより美味しく感じた。不思議だ。これが別嬪さんの力なんだろうか…。
◇
来店してから、マスターの背後の棚の上に置いてある、丸時計の針が二周する頃、マキマ君は三杯目のコーヒーをマスターに頼んでから、私に言った。
「次は、いつ会えますか?」
私はまだ二杯目を飲み干していなかった。気が早いな、とか。そんなに飲んだら花摘みの頻度が、とか。そういう余計なことは、この時は私も考えなかった。
「あっという間だったね。随分、時間が経つのが早く感じたよ。ずっと、お喋りしてしまったね。コーヒーじゃ喉が渇くよ」
何と答えるべきか、私にはわからなかった。
なんだか、年寄りの道楽に、マキマ君を付き合わせてしまっているようで、背徳的だと思ったから。だから、正直に「また、一か月後」とは言い出せなかった。
私の不安とも、自分可愛さ故の卑怯な逃避ともとれる返答に、しかし、マキマ君は柔らかく微笑んで言った。
「ふふふ…安心して下さい。私も、楽しかったです。日時については、またお電話します。ですから、その時にでも…」
懇願するような目で、彼女は言った。
あぁ、懇願したいのも、懇願するべきなのも…そもそも、救われたのは私の方だというのに!
「一か月後、また会いたい。出来るかな?」
「はい。勿論…ふふっ…ミチヒロさんの方から、約束しちゃいましたね。」
勇気を振り絞る機会なんて、もう無いと思っていた。けど、振り絞って好かった。
彼女は本当に喜ばしそうに頷いてくれて、私が気恥ずかしいくらいだった。
「じ、じじいは、暇だからね。老骨に鞭打って、是非行くよ。」
「…迎えを寄越します」
そう言って、鞄からメモ用紙とペンを取り出したマキマ君。
「えぇ!悪いよ」
「公用車です。ご心配なく」
「いや、法的に不味いよ!」
「フフ…フフフ…冗談、です」
「ふふふ、そうかい、冗談かい」
「でも、送迎は任せてください。倒れられでもしたら、私が気にします」
そう言って、今度は私用車のナンバーをメモに手早く書くと、私にちぎって渡してくれた。
「気にしてくれるのは嬉しいけど…」
「是非、任せてください」
「は、はい。よろしくお願いします」
有無を言わさぬ迫力に、私は力なく頷いたのだった。
「…次も、楽しみにしてます」
「私も、だよ」
「では、また」
そう言って、彼女は店を出た。
お会計はどうするんだろう?とマスターについ聞いてしまった。
「お会計、好いかな?」
すると、「もう済んでますよ。追加分も。店に着くなり毎回貸し切りにしてくれって。だから、お客さんも来なかったでしょう?」とのこと。
あれまぁ、またスマートに…一本取られた。いや、取られっぱなしだ。
その内、名誉挽回でも出来ればいいのだが…その機会は早々訪れることは無さそうだ。
私は少し傾いた、まだまだ暑い日差しに焼かれつつ、行きよりも軽い足取りで、帰路についた。