「椅子位失って心の平和を乱されるマラルメは幸いなものだ。僕はもう大抵なものを失っている。
「そろそろお時間ですね。今日のセッションの総括をお願いしてもよろしいですか?」
わたしの背後の壁時計を見ると、医師は、わたしの目を見つめて言った。
診療上の配慮だとわかっていても、目を見られると内心まで見透かされるようで緊張する。倉瀬はあまりわたしの目を見ないので、緊張せずに話せるのだが。
「はい。今週は気分がよかったです。配信活動がよい活力を与えてくれたように思います。ただ、不愉快な夢を見ることもありました。その夢については、過去の自分を捨てているのではなく、自分がステップアップしている証だとリフレーミングを行いました。以上です」
このクリニックは6度目だが、治療自体は、時間がもどってから毎月のように受けている。よく効く睡眠導入剤が、個人輸入ができないのだった。まるで、注射針をもらいにせっせと病院に通う、薬物依存症の患者のようだ。
「……ありがとうございます。うかがったことを、適切にまとめていただきました。それに、配信活動が軌道に乗ったら、移動が増えることを懸念しておられましたね。バイクで移動できない場所に、どうやって行くか」
「はい、そうですね」
「どうでしょう。すでに以前の病院で試されたとのことですが、暴露療法を再開するというのは……」
またか、とわたしはうんざりした。
暴露療法は、恐怖症治療において、もっとも基礎的かつ効果のある治療法とされている。
たとえば、蜘蛛恐怖症の患者には、まず「蜘蛛」という文字列を見せる。それから絵を、写真を、と見せていき、最終的には実物に触るところまで段階的に近づけてゆく。こうした段階的なものの他に、いきなり実物に触らせたりといった方法もある。
このアプローチは単純なうえに即効性があり、1日で症状が改善することも期待できる――らしい。蜘蛛恐怖症の患者がペットとして蜘蛛を飼い始めることすらあると、前に通っていたクリニックの医師が楽しげに話していた。電車恐怖症の患者はおそらく、鉄道オタクになるのだろう。
「すみません、最近は立て込んでいまして」
「心中をお察しします。お忙しいなか、治療にまで集中力を割くのは難しいですよね。特に今は活動のうえで大切な時期ですし、そちらに専念したい気持ちもあるでしょう。効果のなかった治療法を続けるのも、お辛いかと思います。ただ、
「……そうですね、すみません。来月は、隣の駅まで電車で行くようにします」
わたしには暴露療法が効きづらいのか、最近は効果を感じていない。嘔吐のような劇的な症状はなくなったが、駅の前まで行くと息苦しくなり、電車に乗ると過呼吸になることもある。いい加減、諦めてくれてもいいように思うのだが。
睡眠導入薬を処方してもらうのに、いちいち電車に乗るのは面倒だ。最初は物珍しかったが、治療にはもう飽きており、あまり意味を見いだせない。つぎの病院では、睡眠障害の症状だけを告げようかと考える。
「ありがとうございます。うかがったところ、花石さんを苦しめている限局性恐怖症は、改善しつつあるように思います。このまま一緒に頑張りましょう」
改善しつつある? 確かにそうだ。この調子なら、棺桶は電車で運んでもらえることだろう。
◇
【雑談】あえて雑談しない、というご提案
「あー……暇ですね。銀行の暗証番号でヌメロンでもします?」
「ひとりでやってよ」
「ヌメロンはひとりではできませんよ。トイレと同じですね」
「寂しがり屋さんだ」
「えーと……0832」
「そんな、ぼくなつのバグみたいな番号にはしてない」
:みんなのトラウマ
:俺の誕生日当てられてビビった
「で、何イート何バイトですか?」
「なんでそんなに聞きたいの?」
「お金、盗もうかなって……」
「正直な泥棒だな。ウーバーイーツで配達バイトでもしたら?」
「おお……すごい。まめっちみたいです」
「まめっちに謎かけが得意みたいな設定はないし、わたしIQ250もないよ」
「まめっちってIQ250なんですか……? じゃあ、ヌメロンとか一発であてられそうですね」
「いくらIQが高くても未来予知は専門外だろ」
「そっか……知能指数が5,000あるフーディンでも、世界で起こったすべての出来事を記憶するのが限界ですもんね」
「初期ポケモンのちょっと雑な設定をつっつくな」
:まめっちのIQを覚えてる先輩と、フーディンのIQを覚えてる後輩 お似合いだよ
:ポケモンの話を聞くとヌケニンを期待する体になってしまった
「それで、お金? どうしてお金が必要なの?」
「呆れたりしませんか?」
「確実に、場合によるね」
「先輩にセクハラで訴えられたら、慰謝料が必要じゃないですか。事前に蓄えておかないと、って思って」
「慰謝料ですまなくなるよ」
「やっぱり、呆れますよね……」
「そんなことないよ、とは口が裂けても言えない理由だ」
:俺たちがスパチャできないばかりに
:捕まったら俺たちが支援するから、もっとセクハラしていいよ
「じゃあ闇バイトでもしようかな。なんか稼げるらしいし」
「『軽薄な若者』のフリー素材だ」
「おっ、不法投棄で4,000円。1時間ですむし、これは美味しい仕事……まさにyummyバイト、ってね」
「ってね、じゃないけど」
「ハンバーガーや牛丼を山に運んで捨てるだけ……」
「Uber捨て山?」
「そうか……企業が直接破棄するとイメージダウンするから、食事を届けたことにして、フードロスを減らそうとしてるのか」
「聞いたことのない陰謀論。フード以外のロスが多すぎるでしょ」
:不法投棄の相場がリアルなのなんなの
:ここだけ切り抜こうぜ
「やっぱり、まじめに稼がなきゃということですよね」
「正しいんだけど、理由が理由だから稼いでほしくもないな」
「慰謝料を払わなくていいということですか?」
「相方がプラス思考で嬉しいよ」
:よかったね、褒められたじゃん
:どんな盤面でも一手でセクハラに繋げられる女
「これが神の一手です」
「邪神だな」
「オタタリ様」
「絶対に呪われる名前」
「配信を司ります」
「意外と新しい神さまだ」
「オタタリ様、このたびの配信も上手くいきました。今後も贄を捧げることを誓います」
「この配信、贄を捧げてるの?」
「……よし、ちゃんと同接が1人減っていますね」
「リスナーが贄なんだ」
:やめてやめてやめて
:俺だけは助けてくれ
「あっ。こいつにき~めたっ」
「贄を捧げてまでする配信ではないだろ」
「代わりにお金を捧げることもできますが……あおカス~? 赤いのを送ってくださいね」
:命は払うから金だけは
:赤いのも青いのも送れねえよ 早く収益化してくれよ
……
…………
………………
「明日は先輩が水着で鍋を食べます」
「どういう需要?」