【お願い】今話は希死念慮、心的虐待の場面を含みます。ご心配な方は、ご自身の精神状態を最優先し、ご無理のないご判断をお願いいたします。
自殺を覚悟するとみな一種の狂人か、放心状態に陥る。これが僕には不快なんだ。ただただ不快なんだ。そういう状態になって自殺するのは決して自殺とは言えないんだ。それは殺されたのだ。病気に、運命に、殺されたのだ。僕は自殺は
オートロックを解除して、自動ドアを背後にする。
ちょうど一階に止まっていたエレベーターに乗り、『15』のボタンを押すと、籠はゆっくりと上昇した。
一五階に近づくにつれ、体が重くなっていくような気がする。
今回は憂鬱のせいばかりではなかった。
横殴りの雨は折り畳み傘を容赦なくすり抜け、制服には都塵をたっぷりと孕んだ雨が、絞らずとも滴るほどに染み込んでいた。ローファーのつま先に穴が開いていて、親指と人差し指の叉がじくりと濡れている。
鞄の中を
部屋のドアに鍵を挿そうとすると、男女の怒鳴り声が聞こえてきた。お父さんが、早く帰ったらしい。
洗面所で
深呼吸をして、リビングへ向かう。
この時間がいちばん苦痛だった。すべての部屋には、リビングを経由して行く必要がある。マンションの設計士たちは、家の中ですれ違わないほうがマシな家族が居ることなど、まったく頭にないらしい。
「遥、帰ったのか」
お父さんが、言わずもがなのことを訊ねる。私は頷く。
「遥、勉強してきなさい」
お母さんが言う。私は頷く。
部屋のドアを閉めると、再び怒鳴り声が聞こえてきた。まるで扉一枚隔てれば、声が聞こえなくなると思っているかのように。
――勉強、勉強って、遥が可哀想だと思わないのか。
――勉強させないほうが可哀想よ。立派な大学を出て、いい男の人と結婚して……私もそんな人生を送りたかった。
――大学を出てこんな結婚生活を送るくらいなら、大学を出ないほうがマシだな。
――何よ、あなたが出たのなんて、名前を書けば受かるような大学でしょ? こんなことなら、あなたみたいに浮気しておけばよかった。もっと賢い子に育ったと思うわ。
――遥は頑張っているだろう。
――何よ、いい人ぶって。私のことが気に食わないだけでしょ。
何かが割れる音がする。怒号がますます酷くなる。
勉強をすれば幸せになれる、とお母さんは言う。
どうして私は幸せじゃないんだろう。
勉強が、頑張りが足りないのだろうか。
私より勉強していない同級生が幸せそうなのはなぜだろう。
勉強してないテレビタレントが幸せそうなのはなぜだろう。
勉強をしなくても幸せになれるなら、将来がどうなったって、私もそっちがよかった。
物理基礎の参考書を開こうとして。
まるで啓示のように、ページが開いた。
自由落下運動は,ようするに等加速度運動である.等加速度運動の公式(➡p.45)の加速度$a$を,重力加速度$g$に置き換えてやればよいのだ.諸君の乏しい脳味噌のリソースを割くまでもない.つまり,
$v=gt$ ……(1)
$y=\frac{1}{2}gt^{2}$ ……(2)
自由落下運動。
今までは大して気にかけていなかった公式に、目が釘づけになった。
方眼ノートに、一心不乱に(2)の公式を変形させていく。
$2y=gt^{2}$
$\frac{2y}{g}=t^{2}$
$t=\sqrt{\frac{2y}{g}} $
手癖で、ここまではすんなり導くことができた。あとは記号に数字を代入するだけだ。
このマンションが二五階建てで、七五メートルとか言っていたから、一階分はちょうど三メートル。ここは一五階だから、落下距離は四二メートルになる。重力加速度を九・八で計算するのは面倒なので、一〇に切り上げて、
$t=\sqrt{\frac{2\times42} {10}} =\sqrt{8.4}$
$\sqrt{8}$の近似値は二・八で、$\sqrt{9}$は三。
面倒なので細かな計算は省いたけど、二・九程度だろう。それなら、三秒にしたって誤差の範囲だ。
「三秒……」
私は、窓を開けて下を見下ろした。
くらりと眩暈がした。
目をつむって、机の脚に貼りつけたりんご型のキッチンタイマーで、三秒を測ってみる。
すぐ鳴った。
帰りはいつも図書室に寄る。閉室時間の夜七時まで勉強し、家に帰るのだ。
私たちの高校には二つの建物がある。教室棟と部室棟だ。
図書室は部室棟の一階、保健室の隣にあるので、グラウンドに向かう運動部のドヤドヤとした騒ぎ声が聞こえてくる。
盗難防止のゲートを右に折れる。
一番乗りだったので、好きな席を選ぶことができたが、奥から二番目にある、定位置の長机へと向かう。
入口の近くには小説があり、言語、芸術、産業……と徐々に関心が薄れてゆく。私の席の横は哲学で、まったく興味がなかった。
私より数分遅れて、小さな女の子がいちばん奥の席に荷物を置いた。私に会釈をして、哲学の棚をうろつく。
同じクラスの花石朔乃さんだ。
最初に見たのは入学式で、壇上でスピーチをしていたので、背の低さには気がつかなかった。
けれど同じクラスになり、教室で見たときは、私服と制服の選択が自由ということもあり、誰かの妹が教室に迷い込んできたのかと思った。
だが、見た目で侮る生徒はいなかった。
この学校では、成績が物を言う。首席に選ばれた時点で、この学校にいる一年生の誰よりも優秀なのだ。入学式の翌日に行われたテストでも、当然のようにトップだった。
そんな人だから、当然、図書館で勉強をしているのだと思っていた。
でも、花石さんが勉強道具を取り出すのを見たことがない。かといって読書に集中しているわけでもない。パッ、パッ、と漫画を読む速度でめくっているだけだ。面白いところを拾い読みしているだけなのだろう。右側にはまだ目を通していない本が山になっていて、左側には目を通した本が一冊だけ置かれていた。
私が今日の課題を終えて一息吐くと、花石さんは机に突っ伏して寝息を立てていた。
左の山は三冊になっている。そろそろ中間テストだというのに、大丈夫なのだろうか――と自分のことを棚に上げて心配する。いや、いま昼寝して、夜遅くまで勉強するつもりなのかもしれない。
ガタッ、と花石さんが椅子から落ちた。
花石さんが悲鳴をあげる。図書室中の視線が花石さんに向けられた。ひどく震えて、辺りをキョロキョロと見回している。スマホを確認して、さらに驚いたような顔になる。
「どうしたの?」
と、司書教諭が慌てて駆け寄ってきた。
「ゴキブリです」
と花石さんは、すかさず言った。
違う。花石さんはさっきまでうつ伏せになっていたのだから、ゴキブリが見えたはずがない。
「え、ゴキブリ?」
「あそこの棚に触角が見えて。すみません、うるさくして」
「大げさねえ……。でも、殺虫剤を買わないと。あいつら紙を食うから」
今回は大目に見るけど、図書室は静かに使いなさいね、と言って司書教諭はゲートの隣にあるレジに戻っていった。
花石さんは本を棚に戻すと、荷物をまとめて図書室を出ていった。涼しい春の日なのに、玉のような汗が鱗を成している。体調が悪いのかもしれない。
私は後を追った。
「どうしたの? 大丈夫?」
「ああ、うん。じつはいやな夢を見てね。電――」
花石さんが大きく目を見開いて息を飲んだ。その様子が異常だったので、私はびっくりしてしまう。振り返ったが、なにもない。花石さんの腕には、びっしりと鳥肌が立っている。
「とにかくいやな夢。悪夢を見て悲鳴をあげたなんて言えないでしょ」
花石さんが肩をすくめて
「それなら良いんだけど……」
あの様子は尋常ではなかった。追求しようとする前に、花石さんが発言した。
「中村さんは勉強? 邪魔しちゃって、ごめんね」
「ううん……勉強、嫌になってたし。課題は終わったから、大丈夫」
「ああ、そういえば出てたね。無生物主語のだっけ」
課題なんて、まったく意識していないらしい。勉強ができる人は違うなと感心する。課題を忘れたのを見たことはないので、家に帰ってからやるつもりなのだろうか。
「うん……やっぱり、ちょっと難しいな。花石さんにとっては簡単だろうけど」
「そんなことないよ。中村さんは、もう帰るの?」
「どうしようかな」
図書室に引き返そうか、図書館に寄って勉強しようか……。とにかく、家に帰りたくはなかった。そんな私の意図を見透かしたかのように、
「よかったら、一緒にご飯でもどう?」
「え、ご飯……?」
「よかったら奢るよ」
「いや……いいかな。お母さんが料理、作ってくれてるし」
嘘だ。家にご飯が用意されているかは、お母さんの機嫌次第。大抵は、テーブルに五百円玉が置かれている。家に帰ってからではないと、ご飯があるか、わからない。それでも、料理を食べないと不機嫌になるので、家に帰ってからでないと決められない。
「そっか。ポテトくらいなら大丈夫? ぜんぶ食べると太るから、代わりに半分太ってくれない?」
意外だった。花石さんは冗談を言わないタイプだと思っていた。そういえば、今日は普段よりも明るく、喋り方もハキハキしている。
「うん……じゃあ、奢ってもらおうかな?」
それから、花石さんとよく話すようになった。
彼女がアルバイトを始めて、放課後に話すことはあまりなかったが、昼休みは一緒にご飯を食べるようになった。
花石さんは頭がよく、ユーモアがあり、気配りもできた。
そんな子が、私のなにを気に入ったのかはわからない。つらいことがあったら言ってね、としきりに言ってくれるので、つい家のことを話してしまいそうになったが、花石さんに話して解決するわけではない。
――どうせ、今日も
――ああ、それがどうした? 離婚してないだけだろう? お互い、無関心でいよう。
――悪びれもしないのね。遥が中学生のときにもしたくせに。浮気できる口実があれば、なんでも良いんでしょ?
――そんなに気に食わないなら、浮気されないような努力をしたらどうだ? お前はキーキー言うだけで、もう、女としての魅力もないじゃないか。
――誰のせいだと思ってるのよ!
お母さんとお父さんは、来る日も来る日も、飽きもせず喧嘩している。
なにをそんなに話すことがあるのだろう? 早く離婚してくれればいいのにと思うが、私の存在が、その邪魔になっていることはわかる。
せり上がってくる吐き気をこらえ、私はイヤフォンをして音楽を聞く。
花石さんがYouTubeで音楽を聴いているのを見て、これなら、耳栓をも貫通する喧嘩の声を掻き消すことができると思ったのだった。
大丈夫。いつでも死ねる。
死んだら、こんな世界と縁を切ることができる。
ふと花石さんの顔がよぎって、胸がずきりと痛んだ。
春が過ぎ、夏が過ぎ、秋も過ぎようとしていた。
お弁当は、いつも部室棟で食べていた。四階の空き部屋の鍵が壊れていて、ここなら誰にも邪魔されることがないのだ。
「死後の世界ってあるのかな」
と私が訊ねると、花石さんは「あるよ」と答えた。
「死ぬと高校生に戻る」
「中学生までに死んだら?」
「やっぱり高校生になる」
「受験、スキップできるんだ。バグ技みたい」
「死にたいの?」
花石さんが、不意に訊ねた。私はどきりとして目を逸らした。逸らしてから、しまったと思った。これでは認めたようなものだ。
「……うん。死にたいよ」
「そっか。なにがあったの?」
お父さんが浮気をしてから、お母さんがおかしくなってしまったこと。毎日、両親が喧嘩をしていること。試験で悪い点数を取ったら、食事を抜かれること。そのために、夕飯の五百円を節約してお小遣いにしていること。死んだら楽になれると思ったこと。私はすべてを話した。死んじゃ駄目だよ、と頭ごなしに言われるのではなく、理由を訊ねてくれたことが嬉しかった。
花石さんは、
「わたしは死んでほしくないよ」
と言って、泣きじゃくる私の背中を優しく撫でてくれた。
「それでも我慢できなくなったら、いつでも電話して。話したあとでも
その言葉を聞いてから「死にたい」と思ったときにスマートフォンに手を伸ばす癖がつくようになった。
電話をして、ワンコールで切ったこともある。すぐに折り返されて、アルバイトを抜けて会いに来てくれた。「死にたい」と考えるたびに、朔乃ちゃんの顔がよぎる。もし電話をかけずに、このまま死んだら、朔乃ちゃんとの約束を守れなくなってしまう。
「ねえ。朔乃ちゃんは、どうして優しくしてくれるの?」
ある日、思い切って訊ねたことがある。
「どうしてだと思う?」
「私がメンヘラだから?」
「それもあるけど」
「それもあるんだ」
私は笑った。
言葉を濁さないところが好きだった。否定されても嘘っぽい。
「それがわかる前は、優しくなかった?」
「そんなことない、けど……」
「友達だからだよ。それ以外に、理由って必要かな」
「……ううん、ありがとう」
それからは、不思議と死にたいという気持ちはなくなった。
「朔乃ちゃん、おすすめの本ってある?」
「んー……どういうの読みたいの?」
「朔乃ちゃんが好きな小説がいい」
「ナボコフかな。『ロリータ』とかどう?」
「いいかも。朔乃ちゃんって、ちょっとロリっぽいし」
「……読めばわかるけど、ロリータって生意気なガキだよ」
「え、そうなの?」
「朔乃ちゃん、将来の夢って何にした?」
「YouTuber。好きなことで食べていきたいし」
「嘘」
「嘘だよ。遥は?」
「無難にコンサル……だけど、私もYouTuberがいいかも」
「一緒にメントスコーラでもする?」
「いいかも」
「朔乃ちゃん、受験勉強ってどれくらいしてる?」
「赤本解いて、大丈夫だったからしてない。バイトで忙しいし」
「え、凄いね。どうやって勉強してるの?」
「勉強っていうか、暗記だね」
「暗記……?」
「教科書を丸暗記したら自然にできるでしょ?」
「……ちょっとそれよくわからない」
日々はあっという間に過ぎていった。
高校を卒業して、大学を卒業してからも、私たちはやり取りを交わしていた。
けれど、大学を卒業してしばらくして、急に。
朔乃ちゃんとの連絡が取れなくなった。
私は、考えられる手をすべて使って連絡を試みた。けれど、まったく手掛かりはなかった。私は朔乃ちゃんの家さえ知らなかった。高校に問い合わせても、個人情報なので教えられないと言われた。
どんなにつらいことであっても、人は慣れてしまう。私があの人たちとの喧嘩を日常のものとして受け入れていたのと同様に。
そして、YouTubeで流れてきた広告で――
――夕立夕日と出会った。
変な子が横にいたけれど、間違いなく朔乃ちゃんだ。
私は、はやる気持ちをぐっと
いまじゃない。
まだ、私と朔乃ちゃんは会うべきではない。
いまはまだ……。