追つかけて追ひ付いた風の中*1
6月は、部屋の内見をしたり、引っ越しの段取りを決めたりと、割合に忙しくした。
引っ越したあとでも、住民票を移したり、転居届を出したり、サイトの住所情報を書き換えたりと色々やることがある。今後のことを考えて、少し気が滅入った。
不動産屋でも車でも、高額なものを買うなら月末がよい。
ノルマの都合で、販売員の側に、月内に契約をすませようとするインセンティブが働くからだ。
サイトに記載のない追加の賃料に不服を申し立てると、月末に回したおかげかどうか、想定よりも安い金額で契約を結ぶことができた。
ただ、あの反応の早さからすると、業者のほうでは想定内の金額なのかもしれない。もともとの料金で納得はしていたので、これでよしとする。
荷物はすでに業者に運んでもらい、バイクはすでに自分で運んである。新居はボロくはあるが2階建てで、駐輪スペースもある。大家に気を使わずにバイクを停められるのがありがたい。
貴重品――印鑑と通帳――だけは引っ越し業者に任せたくなくて、自分で運ぶことにした。
大家の部屋の郵便受けに鍵を入れ、アパートを去る。
「これでこの部屋ともお別れですね」
「なんで倉瀬が名残惜しそうなの?」
感慨はあまりない。
VTuberになるまでの橋渡しとして契約した場所に、想定よりも長く住むことになった。この周だけで考えると、実家の倍近く暮らしている。それでも、ここは仮住まいであるという感覚だけは、ずっとつきまとっていた。
わたしと倉瀬は、新居までの道を歩きだした。
わたしのアパートから新居までは歩いて10分ほど。
これだけ消防署から離れれば、さすがに特定は難しいはずだ。もちろん、どんなに努力しても特定を完全に防ぐことは難しいのだけど、発覚したら開示請求と引っ越しで対処するしかない。マンションを買ってしまうと引っ越しはしづらくなるので、賃貸の特権とも言える。
「先輩は、親になんか言われましたか?」
「ああ……まあ、そんなに。働けとか、結婚しろとか言われたけど」
引っ越すことを
そうだと頷くと、「付き合ってるの?」と問われた。倉瀬とはそういう関係ではない。なぜそんなことを思ったのか不思議だったが、同棲するとなれば、そう考える人もいるのだろう。この年ごろの子は、何が何でも恋愛に結びつけようとするのが
そのあとで、義理もあるので、両親に伝えることにした。
こちらも、「大学の後輩」が男性でないことにがっかりしたようだ。誤解させるつもりではなかったが、同棲というと男女でするものだという固定観念は強い。
それから案の定、いつ働くのか、いつ結婚するのかと軽い説教をされる。ただ、労働については、貯蓄のことを知っているので風当たりが弱かった。世間体がと言われたが、わざわざ無職と言わなければわからないはずだ。
その他に知らせておくべき相手は思い浮かばなかった。
交友関係が狭いことに不便を感じてはいないが、こうも簡単にすんでしまうと寂しさを感じる。昔のスマートフォンは水没させてしまった。取ろうと思えば連絡は取れるが、わざわざ取りたいとも思わない。遥の顔がよぎらないではなかったが、今さら連絡したところで詮なきことだ。
「私は父に伝えたら、先輩にご挨拶させてほしいって言われました」
「こっちから先に言っておくべきことだったね」
とは言ったが、こういう状況では挨拶しておくものなのだろうか。
わたしの両親も、べつに、倉瀬を紹介してほしいとは言わなかった。
ただ、家によって考え方は違うし、そういうこともあるのだろう。東京に出ていった娘がルームシェアする相手を知っておきたいという気持ちは、わたしにはないが、そう思う人がいるのも理解はできる。
「だからそのうち、こっちに来るかもしれないです」
「お盆に里帰りすれば? わたしもそれに着いていくから。倉瀬とお父さんがいいならの話だけど」
わたしと倉瀬の交通費と、倉瀬のお父さんの交通費を考えれば、向こうにきてもらったほうが合理的ではある。だが、誠意を見せるということであれば、こちらから行くのが礼儀だろう。倉瀬がVTuberを続けている責任の一端は、わたしにもあるのだし。
「え、うちですか。聞いてみてになりますけど」
「挨拶だけして、すぐ帰るよ」
誠意を見せるために向こうに負担をかけるのでは、本末転倒だ。
「日帰りはキツいと思いますよ、距離的に」
そんなものだろうか。倉瀬の実家が田舎にあることは聞いているが、どのくらい田舎なのか、まったく知らない。
「新幹線は遠慮したいんだけど、飛行機で行けるかな」
「飛行機……? 夜行バスが走ってますし、それで行ったほうが安いと思いますよ」
夜行バスは居心地が悪そうだと思ったが、新幹線より、ずっとマシだ。
新幹線を遠慮したいという発言について聞きとがめられる前に、「それじゃあ夜行バスにしようか」と同意しておいた。
お盆の計画を立てていると、新居の前についた。
引っ越しのときに立ち会ってはいたが、いざこれから住むのだと考えると、新鮮な気分になる。倉瀬が「まっくろくろすけが出てきそうですね」と言ったが、そこまで古くはない。
玄関の正面には、階段と廊下。
人一人が通るのがやっとな狭い廊下を進むと、左手(つまり階段の下)にお手洗い、右手にダイニングの扉がある。ダイニングはキッチンとリビングに挟まれていて、新調したテーブルが置かれていた。その傍らの段ボールの山には目をつむり、ダイニングとキッチンの中間地点にある扉から、洗面所に向かった。家の外に出たら、手洗いうがいをしないと気持ち悪い。
階段を上がる。
2階にも1階と同じ位置にお手洗いがある。その正面の壁に、3つの部屋が並んでいた。手前からわたしの部屋、倉瀬の部屋、配信部屋だ。どの部屋も、ベランダに繋がっている。ベランダの真下が、バイク置き場だ。
配信部屋をノックすると、倉瀬がパソコンの入った段ボール箱を開けて、セッティングをしようとしていた。
「先輩のって、すごくゴツくないですか?」
「ゲーミングPCだからね」
「先輩が高スペックが必要なゲームやってるの、あんまり見ませんけど」
「大は小を兼ねるって言うでしょ」
「大学付属の小学校はありますけど、小学校付属の大学はありませんからね」
倉瀬が妙な納得の仕方をする。
わたしは手早く機材をセッティングしたが、倉瀬のほうの機材については、配線を見た覚えがないので力になれなかった。
「写真を撮っておけばよかったです……」
「つぎに引っ越すときはそうすればいいよ」
と言うと、倉瀬は変な顔をした。
麦わら帽子と白ワンピ
「田舎の祖父母の家でのノスタルジーってあるじゃないですか。なぜか日本人全員が共有しているあれです」
「麦わら帽子で、白いワンピースを着たお姉さんが出てくるあれ?」
「そうです。ひまわり畑でお姉さんのワンピースが風に吹かれて、ぽぽぽって微笑みかけてきて……」
「八尺様じゃん。ニコポって、そういうことじゃないと思うよ」
「先輩はそういうのないですか?」
「そうだね。わたしも、蚊取り線香の匂いと、蝉の声に包まれて、お姉さんと縁側で食べた西瓜の味を思いだすよ」
「私のお姉さんを取らないでください」
「みんなのお姉さんでしょ」
「そう、みんなのお姉さんなんです。ですから、私たちが親戚の家に行くことになったとき、少年少女に理想のお姉さんとして振る舞えるか、今から練習をしておきたいですよね」
「ちょっと『導入』すぎるな」
:日本人っていうか、オタクだろ
:あのお姉さんは二十代ではなくない?
:ぼくはまだ12歳
「まず、『ぼく』のディティールを掘り下げたいですよね。鼻の根っこに絆創膏を貼っているのは確実なんですけど」
「あそこって、どうやって怪我するんだろうね」
「歩きスマホで電柱にぶつかったとかですかね」
「ノスタルジーに歩きスマホが入り込む余地はないよ」
「じゃあ、石段で転んだとかにしておきますか?」
「まあ、それでいいかな」
:絆創膏ってワード自体ちょっと懐かしい
:ふつうに喧嘩じゃない?
:野球ボールがぶつかったとか?
「あと、野球帽を被っていますよね。それで、お姉さんにくしゃっと帽子ごと撫でられます」
「やめろよー、って言ったりしてね」
「目は前髪で隠れています」
「ショタおねするタイプの少年は、禁止カードでしょ」
「では、野球帽と絆創膏の短パン小僧ってことで」
「もう今どきそんな小学生いないと思うけど」
「麦わら帽子のお姉さんもいませんよ」
「急に現実にもどらないで」
:ショタボイスも出せるの!?
:職業に貴賎はないけど、ショタおねを描く絵師だけは地獄に落ちると思う
:やめてくれ
「それでは、さっそく少年が家につくところから始めましょうか」
「田舎の家に車で到着して、お婆ちゃんが家から出迎えてくれるよね」
「今まで窓を締め切っていたから、蝉の声が凄く大きく聞こえて、むわっ♡とした熱気に包まれて……」
「人間由来の熱気だ。田舎の熱気って、天然由来だと思ってたけど」
「出迎えにきたおばあちゃんから、ちょっとお線香の匂いがして……サンダルの底が砂利を踏む感覚で、ああ、おじいちゃんの家についたなあって感じがするんですよね。それで、家に入ろうとしたときに、縁側で涼んでいるお姉さんと目が合うわけです。ここで先輩はどうしますか?」
「優しく微笑みながら、小さく手を振る」
「正解です」
:ばーちゃんの線香の匂いはズルだろ 涙出てきた
:もしかして、お姉さんはTシャツをパタパタとしていますか?
:(あれ…あんなねーちゃん、いたっけ…)
:正解とかあるんだ
「初日は特に他にイベントもなく、ご飯食べて、お風呂に入って……天井の節目が目玉のように見えてちょっと怖いんですけど、いつの間にか眠っちゃって……翌朝、台所から聞こえてくる包丁の音で目が覚めます。おばあちゃんが『すまんねぇ』って謝ってくるけど、みんなすでに起きて居間のこたつをぎゅうぎゅうに囲んでいて、話に夢中になってます。そんな中、先輩はどうしますか?」
「少年に気づいて、真っ先におはよう、って言うかな」
「真っ先におはようと言うあなたは、社交性が高いけど内心は周囲から置いていかれるのを恐れていますね?」
「心理テストだったんだ」
:古城のおばあちゃん、俺のおばあちゃんかもしれない
:狭いテーブルで、いつもはじーちゃんとばーちゃんの二人しかいないんだって思うんだよな
:っ、おはよ!
「それで、ご飯を食べて、虫取りをしに行こうとするわけですが……夕日ー、タカシを見てやってくれんか」
「日焼けクリーム、塗ってからねー」
「満点です。ふわりと香る日焼けクリームの匂いに、ねーちゃんの香りだ、って思うわけですよね」
「これがそんなに気になるの? 塗ってあげる。ほら、手だして」
「だめです。ちょっとえっちすぎます」
「これくらい普通でしょ」
「みんなもしてるコト、お姉ちゃんとしちゃおっか……♡ ってことですか?」
「何が何でもわたしをサキュバスにしたいみたいだね」
:あーだめだめエロ過ぎます
:い、いらねーよ!
:何だそのツッコミ
「さっきからコメント欄に少年がいますね」
「ずっと同じ人がコメントしてるの狂気を感じる」
:キッズはこんな配信見ちゃだめだろ
:俺も同人音声聞くとき、M男になりきってセリフ言うわ
「それ、たぶん普通にMですよ」
「なりきるまでもなくね」
「それで、近所の原っぱに虫取りに行くわけですけど……当然、カブトムシとクワガタを狙いますよね。ねーちゃん、カブトムシとクワガタ、どっちが好き?」
「えー? きみはどっちが好き?」
「んー……クワガタ! ハサミがあってかっけーから!」
「そっかあ……じゃあ、お姉ちゃんはカブトムシが好き」
「えー? なんでだよ?」
「それなら、どっちが取れても嬉しいでしょ」
「じゃあ、ねーちゃんのためにカブトムシ取ってやるよ!」
「ふふ……楽しみにしてるね」
:古城って、ガキの物真似だけ異様に上手いよな
:パーフェクトコミュニケーションすぎる
:「理想」すぎて逆に怖い このお姉さんちゃんと人格ある?
「赤錆のついたバスの停留所を横切って、森に入るわけですけど、カブトムシを取るには遅すぎて、もう見つからないんですよね」
「カブトムシは夜行性だからね」
「やこーせー?」
「夜ふかしってことだよ」
「とーちゃんと同じか!」
「そうなんだ?」
「うん、とーちゃんおせーんだよ! いつもかーちゃんに怒られてるんだから!」
「ふふ……それは大変だね。きみはちゃんと、早寝早起きしてる?」
「ま、まあな!」
:お姉ちゃんとショタのなりきりチャットを全国公開するな
:とーちゃんディスるの、あるな
:絶対嘘だろ
「こんな感じで2日めが終わって、3日めは――」
「もういいでしょ。この調子で夏休みが終わるまでやるつもり?」
「ねーちゃんはそんなこと言わない!」
:この調子で30日も!?
:どうしてそんなこと言うの?
……
…………
………………
「お別れのときは、車に乗るぼくをにこやかに手を振って見送ってくれるんですよね」
「正直、やっと帰ってくれて安心したけど」
「またつぎの夏休みにな!」
「もうやらないよ」
:30日やりきったの凄い
:すべての夏のお姉さんあるあるを聞いた気がする
:来年も楽しみにしています