広い世の中で、自分達の坐っている所だけが明るく思われた。*1
玄関から廊下にあがり、左へ行くと居間がある。居間の入口から正面を見据えると障子があったが、一枚、破れていた。
入口の柱に、年月日と身長が刻まれている。
「京」「みやこ」の身長が刻まれ、最初は「みやこ」が小さかったが、倉瀬が高校生くらいになると「京」と「みやこ」の身長差は、わずかながら逆転していた。京さんと倉瀬は、ほぼ同じくらいの身長だ。
お父さんとお母さんの身長も、一つずつ、残されていた。
掘りごたつにつくと、湯呑に魔法瓶からお湯を注ぎ、インスタントのお茶をだしてくれる。
「今日は、こねぇなとこまで、よう来んさったなぁ」
「いえ、娘さんの同居相手に心配になる気持ちはわかるつもりです」
「いや、こん人は、都に会いたかっただけじゃ」
京さんが言った。それで、そうか、と納得した。
わたしが勝手に気を回しただけで、お父さんは、倉瀬に会いたかっただけなのだろう。それを素直に言えなくて、同居相手に挨拶をするとか言い出した。
勿論、同居相手の心配もゼロではなかったろうが、倉瀬からわたしの話は聞いていると言っていた。女性同士でそんな心配はしないだろうから、本命は、そういうことだったのだ。
だとしたら、わたしは、かえって邪魔だった。つくづく、わたしは人の心を読み間違えてしまう。
「じゃから
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」
せっかくなので、正座からあぐらにする。えれぇというのは意味が分からなかったが、つらいとか、その辺りの意味だろうか。
「に……お兄ちゃん、えらいじゃ伝わらないよ。しんどいとか、そういう意味です」
「なんじゃ、いつもみてぇに
「ちょっ……!」
「っ
「先輩、知ってます? この人、小さい頃、畑でおしっこしてたんですよ! もうすぐ収穫する野菜に! もちろん処分しましたけど、最低ですよね! この……しっこメン!」
「ちょっ……! 都、何ぃ言いよる。大昔の話じゃろ!」
なぜか複数形で罵倒する倉瀬を、京さんは慌てた様子で止める。
「
「ふぅん、二週間は大昔か。通話したとき、兄って言とったけどな」
「ぐっ……三日会わざれば
「男子じゃろ、それは」
「あっ、性差別! 性差別ですよ、先輩! 差別メン!」
「何をぉ……」
倉瀬と京さんが言い争っている間、お父さんは、やれやれと言うように湯呑で唇を濡らしていた。
わたしも同じようにして、ふたりの言い争いを見る。
昼食を取ってから、倉瀬の部屋へ行った。簡素な子供部屋で、机とタンスとベッドくらいしか、物が置かれていない。「家を出るときに、全部物置きにしまいました」とは倉瀬の弁だった。
倉瀬が布団を用意してくれて、少し昼寝をした。
倉瀬もバスでの疲労が抜けていなかったらしく、ベッドで寝入っていた。わたしも、すでに眠気が最大だったので、泥のように眠った。
気がつくと五時になっていた。
下へ降りると、すでに食事が用意されていた。
ここについてからは、食べて、寝て、食べて……しかしていない。しかも、今回の夕食を用意したのは倉瀬のようだ。
申し訳なさを感じながら、食事をいただく。
「おお、やっぱ母さんの味じゃ」
「じゃなあ」
京さんとお父さんが、しみじみと言う。
調理方法は変わっていないけれど、野菜が違うためか、いつもより味が馴染んでいた。
聞くと、野菜は自分の畑で穫れたものと、近所からの貰いものだけで
キッチンに大きな冷凍庫があり、月に一回、スーパーで買い溜めするようだ。
大変な生活だな、と思う。倉瀬の生活力が高いのも頷ける気がした。倉瀬は高校からずっと実家を離れているそうだが、中学生のときから料理していたのだろうか。
食べながら、倉瀬のことを話した。
お父さんは、倉瀬のことを誇りに思っているようで、倉瀬の大学でのエピソードを聞かせるたびに喜び、嬉しそうに日本酒を勧めてくれた。
お兄さんも時おり倉瀬を
こういう家族のもとに生まれると、倉瀬のような子が育つんだな、と思う。
べつに、わたしの家族が悪いと言うつもりはない。普通の家族だと思うし、普通がなかなか得難いものであるのも知っている。結乃はまっすぐに育っているし、わたしの性格がひねくれているのは自分の責任だ。
夕食を終えると、倉瀬がおずおずと言った。
「ちょっと散歩しませんか?」
◇
外では虫の音が騒がしかった。
畑に沿って、
隣を歩く倉瀬は、今にも
道がふたつに分かれた。
片方は下へ行き、片方は上へ行くものだった。倉瀬に導かれて、わたしはつづら折りの山道を登り始めた。コンクリートは
「あれが
と、倉瀬がガードレールの下を指さした。遠くに
明るいね、という月並みな感想に、倉瀬は満足げに頷いた。
土嚢に座って足を休めた。
「立派な畑だよね。継がないの?」
「お兄ちゃんが継ぎますよ」
「継ぎたいって言ったら、半分くらいは継がせてくれるんじゃない?」
実家での暮らしのほうが、倉瀬には幸せなのではないだろうか。わたしの頭に、そのような考えがよぎった。わたしは、倉瀬の重しになっていないだろうか。
「もう実家を出て、八年になりますから。その間、手伝ってきたお兄ちゃんに、今さら半分寄越せなんて言えません」
「それもそうか」
「農家は体力勝負ですし……。それに、こっちにいると、結婚結婚ってうるさくて。帰るたびに、近所のジジババどもから、東京で彼氏は見つけたか、ですよ。東京を婚活会場か何かと勘違いしてるんです」
「ああ、面倒くさいよね、あれ。うちも言われる」
「先輩とVTuberするの、楽しいですから。私は、続けたいです」
内心を見透かしたかのような発言に、わたしは倉瀬を見た。暗くて表情が見えなかった。
倉瀬がスマートフォンのライトをつけた。わたしたちは再び歩き始めた。小さな階段が森に伸びていた。苔でよくすべる階段を慎重に登った。「先輩のアパートの階段みたいですね」と倉瀬が言った。
わたしたちは森に入った。
ブナやナラなどのさまざまな木々の枝が空を蓋するように重なり、夜の闇のなかで
靴が半分ほど落ち葉に沈む。ブーツでよかったが、スカートでは歩きづらい。倉瀬が振り返った。光の奥に倉瀬の影が見えた。
大丈夫ですか? 帰ります?
大丈夫。道は合ってるんだよね。
はい。バレちゃいましたか、行き先があるの。
散歩にしては、きつい道だと思って。
すみません、もうすぐですから。ほら、これ。
倉瀬がブナの木を照らした。高い枝にリボンが結われていた。すっかり色褪せて、ほとんど白かった。
その
太い木が倒れていた。
倉瀬が腰をかけた。わたしもとなりに座った。スカート越しに、ざらざらとした感触があった。蟻が数匹、這っていた。腐葉土の匂いが、していた。倒木に手を預けた。木の皮がポロポロと崩れた。しめった苔の手触りがした。ライトが消えた。湖が夜空を映した。
ここ? 綺麗な場所だね。
そう……なんですけど。やっぱり、いませんね。
いない?
蛍です。運がよければ見れるんですけど、もう八月なので。すみません。
ううん、連れてきてくれて嬉しい。よかったら、また来年も連れてきてよ。
…………。
倉瀬?
本当ですか。
え?
来年も、一緒にいますか。私たち。
わたしの手の甲に、手のひらが重ねられた。しなやかで、ひんやりとした手が、すがるように。となりを見た。薄い星
手の筋肉がこわばり、弛緩する数ミリの動き。血が通るたびに皮膚が張り詰め、脈動のわずかな間隙を縫い、ゆるむ。その収縮。心臓が同時に動いているようにさえ、思う。ふたりの体温が交じる。
いつしかわたしたちの手は汗ばみ、夜の森に、わずかな熱を発している。