りん‐ね【輪廻】
①仏語。回転する車輪が何度でも同じ場所に戻るように、衆生が三界六道の迷いの世界に生死を繰り返すこと。
②同じことを繰り返すこと。
③執念深くすること。執着心の強いこと。未練がましいこと。*1
先輩も言ったことだが。
同じ家で生活をしていれば、部屋が見えてしまうことはある。
だが普通は、部屋の外から見る印象と、部屋の中から見る印象は違うものだ。万華鏡のように、と言うと気取りすぎだけど、部屋は見る角度によって姿が違う。
部屋は内側に閉じた空間だ。引き出しは部屋の中心に向けて配置されることが多く、部屋の外から死角になる場所も多い。その死角にこそ人の生活が滲み出る。だから私は、人の部屋に入るのが好きだ。その人の息遣いを感じられるから。
けれど、先輩の部屋の印象は変わらない。
前のアパートでは、冷蔵庫や掃除機などの生活必需品が置かれていたので、物が少ないという印象はあったが、殺風景というほどではなかった。
それが今では、ベッドと箪笥、そしてスタンディングデスクに置かれたパソコンしかない。そんな中、箪笥の上のサボテンが、かろうじて部屋に色彩を与えていた。
私の中に、ふと終活という言葉がよぎった。
そのイメージは強く胸の中に絡みつき、なかなか払拭することができない。
箪笥の足元に屈む先輩の背中は、普段にまして小さかった。
先輩は、箪笥の最下段を取り外すと、箪笥の奥に手を入れる。
出てきたのは、緑色の通帳だった。
先輩は、やや緊張した面持ちで、通帳のページを開く。
もしかして、お金を使いすぎたとかだろうか?
それで、古城葵&夕立夕日ちゃんねるのお金を横領しちゃったとか?
そんな疑念を持ちながら、渡された額面を見る。
……え。
通帳を取り落としてしまった。
半年とはいえ、銀行の窓口で働いていたので、大きな金額を見るのは慣れている。特に桁の間違いには気をつけるよう言われていたので、直感的に分かった。
九桁ある。
投資で、ここまで稼げるものだろうか。
私の想像より、大きな事態に巻き込まれている?
「わたしの預金。通帳は一冊だけじゃないし、アメリカやスイスにも口座を持っている」
「……大丈夫なお金なんですよね?」
失礼だとは分かっていても、確認をしないではいられない。
少なくとも先輩が自暴自棄になるようなことがあって、その出来事と、このお金とが関係しているのだ。
「びっくりさせて、ごめんね。大丈夫。投資で稼いだお金だよ。やましいお金じゃない。今、すぐに見せられるのが、これしかなくて」
「何……? 何ですか……?」
まるで未来人みたいなことを言ってくる。
カメラ……は、なくてもいいのか。マイクはないかと見回すが、先ほどの尋常ではない様子がドッキリとは思えない。
「信じられないと思うし、信じてくれなくても構わない。でも、説明するのに必要だから。わたしには、未来の記憶がある」
先輩は話しはじめた。ふだんの立板に水の話し方ではなく、
医師の診断を受けていること。
時間が戻ったという考えに苦しめられていること。
妄想だと思っていたが、未来に起こることが記憶と一致して事実でないとは断定できないこと。
その証拠として出してきたのが、この預金通帳だった。
平時に聞かされていたらびっくりして会話どころではなかっただろうけど、先輩の病気(?)に比べたら大した問題ではない。
ベッドに、距離を開けて座った。
「前の人生で、わたしは舞浜鈴音だった」
先輩が鈴音ちゃん? あまりイメージができなかった。
そのせいではないけれど、先輩の言っていることが信じられない。
未来の記憶があると考えるよりは、先輩に凄い能力があって成功していると考えたほうが自然だ。状況を読む力に長けていて、自分でも意識しないうちに未来を読んでしまっているのでは? それも信じられない考えではあるけれど、未来から来たと言われるよりは信じられる。
でも、先輩が未来の記憶があると考えて苦しんでいることは事実で……。
私にできることは、余計な口を挟まずに、先輩の話を聞くことだけだった。
遙さんが前の周で、自ら命を絶ったこと。
舞浜鈴音役のオーディションに落ちてしまったこと。
それで、遙さんを助けなければよかったと思ってしまったこと。
「だからわたしには遙の隣にいる資格なんて、本当はなくて……。でも、遙がわたしだってことを知りながら、夕日を呼んでくれたから……また、遙を利用した。どれだけ遥を馬鹿にしてるんだろうって……でも……」
違う、と言いたかった。
先輩が見せてくれた通帳が本物なら、先輩が夕立夕日として人気を稼ぐ必要はない。名誉欲や承認欲求は人並みにはあるだろうが、自分の意思に反することをしてまでそれを満たそうとするようには思えなかった。
だから遥さんを利用したのは、きっと、私のためだ。
「……隣にいる資格がないっていうのは、遙さんを助けなければよかったって思ったことですか?」
先輩は頷いた。
私は「そんなに悪いことですか」という言葉を飲み込む。
他人の価値観に、勝手に口出しをしてはいけないと思ったからだった。
でも、と私は思う。それは、自然な感情ではないだろうか。誰だって、口や態度に出さないだけで、そういうことを思ってしまうことはあるだろう。私にだって、いくらでも覚えがあった。
テストで二位を取り、一位の人を妬んだ。
補欠合格になり、合格者の一覧を睨みつけた。
先輩の配信のほうが再生数が多いことを羨ましく思った。
でも、それは私の糧でもあった。
嫉妬や恨みは私の気持ちを焚きつけて、頑張るための燃料になった。他人にぶつけない限りは無害で、適度なそれは有益でさえある。私はそう考えて、自分のなかの感情に折り合いをつけてきた。
先輩は違う。
一度でも遥さんに悪意を抱いてしまったことを、当時のままに悔いている。
それは
「倉瀬にも、悪いことをした。倉瀬の好意に、つけこんで……」
確かにショックだった。
私が手を繋いだことが、先輩にとって負担でしかなかったことが、ショックだった。
自罰として、ああいうことをしようとしたことがショックだった。
でも、誰にだって間違いはある。
間違えたときにできることは、ただ一つだけ。そして先輩は、私に対しては、その責務を果たしてくれた。
「大丈夫です。間違えたら、謝ればいいんです。先輩は、その義務を果たしてくれました。ですから……遥さんに、伝えましょう」
「遥に……?」
「ごめんなさいって、それで全部、終わりにしましょう。それで、遥さんが謝罪を受け入れてくれても、くれなくても……先輩は、できることを全部したことになります」
先輩は、しばらく考えていた。
私は先輩が長く考えているのを見たことがない。だから、それが先輩にとって、とても難しいことなのだと理解できた。
でもきっと、すべてを魔法のように解決することはできなくて……。
その解決には、先輩が勇気を出すことが必要なのだ。私に対して、勇気を出して謝ってくれた。だから次は、遥さんに謝るべきだ。
「ありがとう。倉瀬の相方で、よかった」
「……私もです」
「今から、謝ってくる」
「今からですか?」
「早いほうがいいと思うから」
先輩の声はさっぱりしていた。
そして、私の目を見て言った。
「帰って来たら、あの日の答え、聞いてくれるかな」
◇
「遅い時間に、ごめんね」
「ううん……大事な話なんでしょ」
会いたいと伝えると、遥は理由も聞かずに、どこで会うのかを訊ねてきた。
わたしは、遥と一緒に過ごした喫茶店を指定した。喫茶店で働いているスタッフの顔ぶれは、すっかり変わっていた。光を落とした色調の壁紙も張り替えられて、明るい雰囲気になっている。
変わっていないのはガラスの外側の風景だ。
十一時にもなるのに、人の群れは途絶えずに、忙しなく外を行き交っている。窓ガラスに小さな雨粒がついた。
「あの日も、雨が降っていたね」
「タクシーに乗せてくれた日?」
「そう」
「覚えてる」
遥が懐かしそうに目を細める。
店員がアイスコーヒーとアイスティー、そしてパフェを運んできた。
「今日も、帰りはタクシーだね」
「私は、あのときが初めてだった」
「わたしも、今世ではあれが初めて」
「あはは、何、今世って。……ていうか、コーヒー大きくない? 朝まで寝ないつもり?」
「こんなに大きいとは思わなかった。増量したのかな」
「パフェとコーヒーのサイズ、逆だよねぇ」
確かにパフェはイメージよりも小さく、一つだけ載ったさくらんぼが、やけに大きく見えた。遥が店員に聞こえないくらいの小さな声で文句を言う。
ちょうどそのとき、遥のスマートフォンが鳴った。
「電話、鳴ってるよ」
「知ってる」
「誰から?」
「事務所」
「出ないの?」
「出ない」
遥はスマートフォンの電源を切り、鞄に滑りこませる。そして、わたしの顔を見つめた。
わたしは冷静に、すべてを話した。
遥はタイムリープの話題のときに少し眉根をあげたが、口を挟むことなく、じっくりと話を聞いてくれた。
「遥に、悪いことをした。許してほしい」
「許せないよ」
遥は言った。
拒絶するような言葉とは違って、その声は優しかった。「だって、私は朔乃ちゃんに悪いことをされてない。だからその謝罪は、嘘でも受け取ってあげられない」
「遥」
「それに、私だって、お母さんがいなかったらって思うことはあるよ。高校のときとか、毎日思ってた。お父さんとお母さんがいなかったら、もっと幸せだったんじゃないかなって」
「……ありがとう」
遥の感情は理解できる。
けれど、わたしの感情はもっと身勝手だ。そう反論しようと思ったけれど、遥がわたしに失望したわけではないことがわかって安心した。
遥がスプーンでパフェを崩した。それで話が終わった。そう思った。
だが、話はそれでは終わらなかった。
「朔乃ちゃんは朔乃ちゃんだし、夕立夕日は素敵なVTuberだと思う。友達の……ううん、親友の贔屓目じゃなくて、心からそう思ってる」
だけどね、と遥は続けた。
「もし鈴音に未練があるなら、五周年ライブに来て」
「え?」
「舞浜鈴音を、諦めさせてあげる」
そして遥は、挑戦的な笑みを浮かべた。
「今は、私が舞浜鈴音だから」