行動するとは、今ここに位置している存在を、新たな可能な位置に向けて投げ入れることである。行動することは、新たに始めることであり、すでに生じたものとの関係を断つことだ。それは、自分のなかに生じたものを、未来のなかに投げ入れることである。*1
むかし、私と先輩がまだ大学生だったころ。
その夏休み。
お母さんを見届けて、私は塞ぎこんでいた。
家族は、私が受験を終えるまで、お母さんの病気のことを隠していた。
だから、私がそれを知ったのは大学に入学して少ししてからで……。家族を失う覚悟なんて、私はできなかったのだ。
そんな覚悟、どんなに時間を与えられても、できるものではないのかもしれないけれど。
休みが明けてしばらくしても、なんとなくぼんやりとして、講義にも身が入らない。
グループに迷惑がかかる演習授業以外には出席せず、でも演習には参加できてしまうことに
お父さんとお兄ちゃんに、「どうして言ってくれなかったの」と八つ当たりしたことを思いだして、ますます自己嫌悪に陥った。
ふだん、こちらから連絡しなければ、先輩から連絡が返ってくることはない。
けれどそのときは〈夏休みはどうだった?〉と短いメッセージがあった。
〈お茶でもどう?〉
正直言ってあまり気乗りしなかったけれど、〈ぜひ〉と返事をして、私たちは大学の近くの喫茶店で待ち合わせた。
先輩は先に来て、アメリカンコーヒーを飲んでいた。
置き皿に砂糖とミルクがそのまま載っているので、ブラックらしい。
服装は、いつも通りラフだ。ダボダボとまでは言わないが、ネック部分がゆるくなったTシャツに、新しくも古くもないようなジーンズ。
「久しぶりだね」
スマホに目を落としていた先輩が顔をあげて言った。
茶色の髪の毛が揺れて、ふんわりといい匂いがする。
「お久しぶりです」
私が椅子に腰を降ろすと、すかさず店員さんが注文を取りにきた。
私はいちばん安いアメリカンを注文する。奢ってもらうのに、私が先輩より高いものを注文するわけにはいかない。
いまでも、コーヒーが一杯五〇〇円というのは高すぎると思う。
一杯? パックじゃなくて? 一パックの値段でも、岡山のスーパーでは高級品だ。ショバ代と割り切るしかないのだろうが、同級生が気軽に立ち寄るのにはびっくりした。
「珍しいですね、先輩から誘っていただけるなんて」
「何かしちゃったかな、と思って」
先輩は私を上目遣いに見やった。
もともとの身長差が身長差なので、いつも見上げる格好になるのだが、その日は特別にそれが目に留まった。
「いえ……全然そんなことないです。すみません、連絡できなくて」
「何かあったの? 言いにくいなら、いいんだけど」
私は経緯を話した。
できるだけ感情的にならないようにしたつもりだったけれど、声が上ずって、その調子に合わせて感情の高波が押し寄せる。
先輩はそれを、黙って聞いていた。
励ましの言葉はない。
代わりに、立ち上がって会計をすませて店を出る。
太陽がぎらぎらと照っている。道路でミミズが干からびている。
先輩は、駐車場に停めていたバイクの荷台からヘルメットを取りだして、私に手渡した。それから、バイクに固定してあった自分のヘルメットを取る。「どこか行きたい場所はある?」
「海、行きたいです」
我ながら陳腐な選択だな、と思う。ドラマか何かに影響されたのかもしれない。
先輩はバイクに
先輩が小さいから、というのではなくて、客観的に見ても大きなバイクだ。私は先輩の腰に掴まった。
道中で、私たちは色々なことを話した。
エンジンや風の音に負けないように、自然と声を張り上げていた。先輩は片脚しかつかなかったので、信号待ちのたびに、車体が大きく
「どの海ですか」
「太平洋」
「それはそうでしょうけど」
「鎌倉だよ」
東京だと思っていたので意外だった。
聞くと先輩は、修学旅行で訪れて以来、ときどき来ているのだという。私にとって鎌倉は、日光東照宮と同じくらい遠い場所だ。
道路の上にある青色の看板が由比ヶ浜を示すと、気分が上がった。
次第に風に潮が混じった。空気がべたついているような気がする。
鎌倉は線路が多い町だ。踏切の前でバイクが止まる。ドラマで見たことのある電車が目の前を通る。「あれが江ノ電ですか」と訊ねる。先輩の返事は聞こえない。音で掻き消えたのかな、と思う。
視界が開けて、目の前に海が広がる。
空が不自然に青く、雲が不自然に白い。それらを映した海も、非現実的だ。まるで彫刻のように、それぞれの存在感の強さを競っている。
駐車場にバイクを止めて、海まで歩く。バイクを降りてからもしばらくは大きな声になっていた。ダークグレーの浜に、ビニール袋の残骸が打ち上がっている。夏休みが明けたからか、浜には誰もいない。
階段を降りて浜に降りる。砂が靴を捉えている。四本の足跡が並ぶ。
私の足跡は濃く、先輩の足跡は薄い。それが、少し恥ずかしい。海が日を浴びて輝いている。先輩が眩しそうに、それを見る。私は靴を脱ぐ。それでも軽やかに駆けられない。波打ち際に、何とかつく。くるぶしまで水に浸かり、くすぐったい。
私は振り返る。一瞬、先輩の姿を見失う。灰色によく馴染んで、先輩は立っている。
◇
なにをしても駄目な日というのがあれば、今日のような日なのかもしれない。
単発のボケでスベることは今までもあったけれど、今日のように、ずっとスベることは今までなかった。
意識すると、ふだんは自然にできることに違和感が生まれることがある。
瞬きのタイミングと同じだ。どうやって喋っていたっけ? どういうタイミングでボケればいい?
先輩が私のまごつきをボケとして処理してくれたから救われただけで、ひとりでやっていたら引退ものだ。
「調子が悪かったんだよ」
と先輩は言った。「こんな日もある」
本当に? 先輩は失敗することがあるのだろうか?
舞浜鈴音としての「初配信」が失敗したと聞いたことはあるけど、完全にノープランで始めた私の初配信よりは酷くないと思う。同時接続者数が一で、つまり私一人で喋っていたから、客観視できなかっただけで。
怖かった。
怖かったのは、配信で失敗することではなくて。
「視聴者は離れて行くでしょうし」
「わたしもいるから、大丈夫だよ」
「先輩も――」
離れてしまう。
私は言葉の続きを飲み込んだ。口に出したら現実になってしまいそうな気がして。
「わたしは離れないよ。言ったでしょ」
その言葉を聞いて、すうっと心がほどけるのを感じる。私は、あの日のことを思いだす。
◇
あの日。
「帰って来たら、あの日の答え、聞いてくれるかな」
そう言い残して、先輩は遥さんに謝りに行った。
――来年も、一緒にいますか。私たち。
岡山での私の問いに、先輩は答えなかった。その答えということだ。
晴れ晴れとした顔で帰ってきた先輩に、よかったと思う気持ちはあった。
その気持ちが、先輩のためを思ってのことなのか、自分のためを思ってのことなのかはわからない。胸の内に、期待と不安とが入り混じっていた。
リビング。
机を挟んで、私たちは向き合う。
「わたしは」
と先輩は言った。「恋愛には向かないと思う」
フラれた、と思った。
「でも、来年も一緒にいたい。倉瀬の望む形かはわからないけど……古城葵の、倉瀬都の隣を、譲りたくない」
視線がぶつかる。先輩は大きく息を吸って、
「だから、一緒にいよう。ビジネスだから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいるためにビジネスをしよう。趣味が同じだから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいるために趣味を共有しよう。愛し合ったから一緒にいるんじゃなくて、一緒にいるために愛し合おう。一緒にいるために、笑おう。一緒にいるために、喧嘩をしよう。一緒にいるために、傷つけ合おう。来年だけじゃなくて、ずっと一緒にいるために。……駄目かな」
顔が熱い。
熱を冷ますために両手で顔を覆った。
テレビで、プロポーズをされて、こんな格好をする人を見たことがある。感極まって泣いているのかと思っていたけれど、こうでもしないと耐えられないほど、顔が熱くなっているのかもしれない。
先輩が、心配そうにこちらを見る。
「違うんです。本当に嬉しくて……その、人生で、いちばん嬉しいです」
「喜んでくれて、わたしも嬉しい。でも、倉瀬が人生を振り返って……今日が最高だったって、そう思うようなこれからには、させないから」
◇
唱歌に関する疑義
「バンドをやりたいです」
「バンドって、音楽のバンドだよね」
「きらら女子に憧れて」
「わかるけど。どの楽器をやりたいとかあるの?」
「ボーカルですね」
「嘘でしょ」
「鼻で笑わないでください」
:きらら女子に憧れてってきらら漫画ありそう
:お前は喜多郁代ではなくジャイアンだろ
:鼻だけじゃなくて全身で笑ってるよ
「申し訳があるなら聞くけど」
「楽譜が読めないので、ボーカル以外できないです」
「そんなやつボーカルも無理だよ」
「カラオケに楽譜がありますか?」
「じゃあカラオケならいい点が取れるわけ?」
「論点をずらさないでください」
「びた一文も動いてないよ」
「それ親の前でも言えます?」
「倫理的にアウトな話なの?」
:ボーカルを舐めるな
:また古城の歌耐久やってほしい
「まじめな話、音楽をやりたいんじゃなくて、音楽をやっている感じを味わいたいだけなんですよね」
「まじめな話をしてほしかった」
「だって音楽って、基本的にイキるものじゃないですか?」
「よくもまあこのご時世に」
「だってどの曲を聞いていても、急にイキリだすパートがありますよね」
「サビのことイキリって呼んでるの?」
「ミュージシャンって、客を脅すときに曲のサビにしてやるとか言うんですかね」
「そんな剣のサビみたいなノリではないだろ」
「
「確かにミュージシャンとは出会いたいもんね」
「あの出会え出会えはそういう意味じゃないですよ。私というものがありながら」
「葵は曲者サイドでしょ」
「
「それが問題だ、じゃなくて」
:音楽を斜め下から見るな
:サブスクの登場で開始ゼロ秒でイキるようになってるらしいね
:ハムレットの教養を他に活かせよ
「あと歌い手って」
「そこに切り込むとまずいからやめよう」
「そんな鮫島事件みたいな闇なんですか?」
「歌い手をいじっていいノリは一〇年代で終わってるから」
「ちょうどコンプラが取り沙汰された時期ですね。べつに私、いじろうとしてなかったですし」
「そう? 完全に真っ黒なフード被ってたけど」
「メディアがイメージするネットの悪者じゃないですか」
:鮫島事件の話はやめろ
:完全に真っ黒ってベンタブロックか?
:メディアがイメージする俺たち
……
…………
………………
「お゛っほ、もう音楽はこりごりだよ~」
「なんかいま喘いでなかった?」
「だから僕は音楽を辞めた」
「そんな経緯ではない」
◇
「お疲れ」
配信を終えて、先輩と向き合う。「今日はよかったんじゃない?」
「そうですね、おかげで、上手くやれました」
私は自信を持って答えた。
「まあスランプが続くようなら、動画に切り替えれば大丈夫だしね。気楽にやろうよ」
……あ。
動画。
その発想はなかった。私たちはコメント欄とあまり触れ合わないから、動画でもあまり困らない。
その言葉に、というより、その言葉をかけてくれたことに安心する。
私が配信できなくなったとしても、一緒にいてくれるということだから。
「動画だったら、私あれやりたいです。リスナーから募集して、100の質問みたいなやつ」
「いいんじゃない? べつにスランプのときじゃなくても、いまやっちゃえば」
「そうですね。一年ごとにこすって、百年で一万の質問に答えましょう」
「それだったら一万本耐久とかやったほうがよさそう」
「いいですね。一つ十秒として、丸一日以上かかりますけど」
「それ以前に、そんなに集まるかな」
「集めましょう」
不思議とできない気はしなかった。私一人では無理でも、先輩となら。
先輩は笑って、そうだね、と言ってくれた。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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完結のあとにも、思いつき次第、おまけを投稿する予定です。配信がメインになると思います。どうかブックマークは外さず、そのままにしていただけますと幸いです。
それではまた、おまけや次回作でお会いできましたら。