閉じた回路の中自分の似姿を追いかけてまたもとの居場所へ*1
わたしの入った
障子紙でつくった繭の内側で、わたしは目をつむり、イヤーモニターから聞こえてくる声に耳を澄ましている。
「5秒前。4、」
カウントダウンが始まった。
目を開いても、あるのは暗闇だけ。
誘導灯さえ消えた会場は、宇宙の果てのように真っ暗で、5,700席が埋まっているとは思えない。
「3」
わたしがいるのは、ステージの中央。
向かって左手――いわゆる
だが、完全な暗闇を演出するために、ドアは閉じられていた。
舞台には、わたしひとりしかいない。
「2」
暗闇のなかでは聴覚が鋭敏になる。
わたしたちの祖先は、夜行性の捕食者に怯えて眠った。そのために、かすかな物音を聞き取れるように進化したのだろう。
さっきまでは感じなかった5,700人の呼吸が、大きなうねりとなって鼓膜を、そして皮膚を震わせる。
「1」
背後のパーライトが、目が眩むほどの光を放った。
消灯のためにスリープモードだったノートPCがすぐに起動し、会場の様子を映す。
舞台の中央には大きな繭がひとつ。そのなかに人影がある。
わたしは、繭の内側で手を掲げた。同時に背後のスクリーンに投影された
観客が演出の意図を理解するまでのコンマ数秒の隙をついて、スクリーンが再び真っ暗になる。
そして。
タイトルが表示された。
Suzune Maihama
5th Anniversary LIVE
歓声、そして拍手。地響きのような。
◇
またあの夢か。
アラームを止め、わたしは内心ぼやいた。
最近処方された睡眠導入剤には、副作用として「幻覚、せん妄、錯乱」に並んで「悪夢」と書いてある。
冗談じゃない。どうかしている。猫アレルギーの愛猫家に、副作用に「猫への恐怖」がある抗アレルギー薬を処方するようなものだ。誰がそんな薬を飲みたがるというのだろう。
汗でびしょ濡れの寝間着とシーツを洗濯機に放り入れ、冷たいシャワーを浴びる。
心臓が悲鳴をあげたが、おかげで冷静さを取り戻した。
製薬会社も精神科医も、人でなしには変わりないが、弁護の余地はある。
夢の原因は、倉瀬と配信をすることを決めたからかもしれない。それで亡霊がよみがえったのだ。
シャワーから上がると、インターホンが鳴った。
時間ちょうどだった。
「はい」
と返事してから、念のため、ドアスコープの布カバーをめくり、背伸びをしてレンズを覗く。
倉瀬が両腕をクロスしてピースしていた。
ずっと、この体勢をキープしていたのだろうか。……待たせたのが申し訳なかったな。
「先輩」
と、まるで挨拶のように倉瀬は言う。
「おはよう」
「おはようございます」
「せっかくだし、外で話そうか。カフェインは大丈夫? コーヒーでもおごるよ」
◇
アパートの正面の公園は、坂を途中ですっぱり切ったような高台にある。
2階のわたしの部屋から見れば、砂場の中央にある灰色のすべり台と、端にあるバネ仕掛けの鳥の遊具が2匹だけの寂しい公園だが、近所の幼稚園の園庭の代わりになっており、いつも賑やかだ。
倉瀬が「先輩は幼稚園のときってどんな子どもだったんですか?」と尋ねてきた。
「極力、トラブルがないように過ごしていたよ。話が通じない相手は苦手だから」
「小さいときからそうなんですか?」
「その時点で人格は完成していたんじゃないかな。身長も、そのときからそんなに伸びてないし」
「身長って人格と合わせて成長するんですか? だとしたら私、人格が成長しすぎですね」
倉瀬は170センチを越していて、わたしとは20センチ以上の差がある。表情があまり変わらないが、つき合っているうちに、愉快な性格をしていることがわかってきた。
消防署の前にある肉のハナマサを右に折れ、2分ほど歩くと、雑居ビルの間に階段がある。
階段を降りた先が〈
金髪で右耳にピアスをつけた、学生のアルバイトが席を尋ねてきた。
「お煙草はいかがなさいますか?」
「禁煙席で」
彼は少し驚いたような顔をして、後ろの倉瀬を見て納得したように頷く。どうやら、わたしは喫煙者として認知されているらしい。
入ってすぐのところにレジがあり、右が禁煙席、左が喫煙席に分かれている。それぞれのブースの中央に、ひとつだけある大きな照明が、月をかたどっていた。
禁煙席ではあるが、向こうから煙草の臭いが仄かに漂ってくる。ふだんは喫煙席なので気にしていなかったが、分煙対策は甘いらしい。
できるだけ奥を選び、座る。倉瀬は「わ、おしゃれですね」と上機嫌だ。
雑談をしていると、注文したケーキセットが届いた。コーヒーには興味がないので、〈当店おすすめ〉のムーンブレンドの味は、まあ飲める、という評価しかできない。それよりも、なぜ店名はフランス語なのにメニューは英語なのかが気になる。フランス語が読めない客を、慮ってのことだろうか。大抵の客は日本語でも名前なんて気にしないので、クラッテブレンドと書いても同じような気がするが。
レアチーズケーキをフォークで崩しながら、本題に入る。
「それで、配信についてだけど」
「え、あ、はい」
すでにショートケーキを頬張っていた倉瀬が、慌ててフォークを置く。
「そのままでいいよ」
「はい。ええと……では、まず、立ち絵についてですが。私の絵を担当してくれた先生に依頼するのでいいでしょうか」
「うん、絵柄は揃えたいよね」
「それで、その、Live2Dの料金込みで、25万円くらいかかるんですけど……」
倉瀬が口ごもる。
もちろん、倉瀬に払ってもらおうとは思っていない。
「25万ね、わかった。他に必要な費用はある?」
「ありがとうございます。ええと、マイクとカメラがあれば」
「オーディオインターフェースとかは用意してない?」
「マイクとカメラだけです」
「じゃあ、それも買うから。代わりに、一緒に配信するときは、うちに来てよ」
「もともとお家にはうかがうつもりでしたけど……大丈夫ですか? かなりの出費ですよね」
1周目と同じ機材を揃えるなら、60万円程度になる。2Dモデル込みで、85万円。倉瀬に言うつもりはないが。
正直に言えば、1年以内に元を取れる見込みはない。倉瀬が続けていれば、いずれ届く金額ではある。だが、期限を区切るなら、かなりの幸運が必要だ。
だからこそ。
わたしが倉瀬に残せるものは、それくらいしかない。わたしの勝手に付き合ってもらったお礼として、遺品を渡せればそれでいい。わたしの家族には不要だろうから、遺言状をしたためておけば、遺産分与で揉める心配もないだろう。
だとすれば、前回以上に思い切った買い物でもいいかもしれない。
「音質が悪いと、視聴者がつかなそうだしね」
音質を改善するだけで、視聴者は劇的に増えるだろう。
「他に気になることってあります?」
「収益化したときの取り分。乗っからせてもらうのに悪いんだけど、5:5でいい?」
わたしとしては、収入はすべて倉瀬に渡してもいい。人生を何周かできるくらいの蓄えはある。
でも、そんな関係性は長くは持たない。わたしはいずれ、倉瀬の言動に目くじらを立てるようになるだろう。倉瀬が買うものに難癖をつけるかもしれない。そしてまた倉瀬も、わたしの機嫌を過剰にうかがうようになるだろう。人間関係を壊すには、金はうってつけの道具だ。
「あ、それは勿論。収益化、考えたことなかったです」
「収益化したら、それで食べていくつもり?」
「できれば。バイト生活から抜け出したいですし。厳しいとは思いますけど」
「そうだよね。事務所に入ってないのに、事務所のデメリットだけあるようなものだし」
事務所のデメリット。それは勿論、収益の取り分だ。
わたしが
それでも、わたしはVTuberとして生活するには企業勢になるしかないと思う。スタート時点での伸び方がまったく違うからだ。
では、企業勢の半分の視聴者さえ得られれば、個人勢のほうが利益が得られるのか。残念だが、そうではない。
いちばん大きいのは、案件の問題だ。広告代理店を挟んだ企業案件は、たいてい大手事務所に流されるし、そうでなくても企業はやり取りがスムーズな相手を好む。企業に依頼するデメリットは、お金がかかることくらいなのだ。つまり、個人勢に回ってくる案件の大半は安くてうまみのない、しばしば詐欺まがいの仕事ということになる。
企業勢は給料の半分で、優秀なマネージャーを複数雇い、スケジュール管理、案件の仲介、グッズ展開、新しいモデルの用意を行なってくれる。個人で同じことをしようとすれば、時間と収入のほとんどが消し飛ぶだろう。
そんなことを説明すると、倉瀬は「初めて気がつきました」というような顔をした。
「初めて気がつきました」
そして実際に言った。
「でも、そういう戦略を考えてくれる先輩もいますし、先輩なら私の倍以上の数を集められます。機材も貸してもらえますし、すごく得しちゃいますね」
「……いや、倉瀬のほうがすごいと思うよ」
「えへへ、ありがとうございます」
本心だったが、倉瀬は露骨に照れた。少しチョロいのが心配になる。
「それじゃあこれからのスケジュールだけど――」