自分の部屋にいると、孤独というよりは追放されているかのように感じる。*1
1
わたしは換気扇の近くで煙草を咥え、ライターのスイッチを押す。
敷金の存在しない幸福な星に住む宇宙人が見れば、人間には煙草を吸うとき、特定の場所へ行く習慣があるようだと分析することだろう。
キッチンを照らすオレンジ色の蛍光灯の下で、わたしは電子書籍を読んでいる。図書館の本に煙草の匂いをつけることは、きっと好ましくないことだろうから。俯きがちに読んでいたせいか、煙が目に染みた。煙草を四本吸う間に読み終わってしまったので、映画と比べ、コストパフォーマンスが悪い。
スマートフォンで、時間を確認する。午前四時過ぎだった。
わたしは窓の外を眺める。公園の中央に楡の木がある。楡は葉を落とし、街灯の光を浴び、複雑な影を成していた。古典的な精神分析家であれば、葉の落ちた木は、孤独の象徴だとでも言うだろう。彼らは、リビドーの抑圧を読み取るかもしれない。そして、影に怯えを、影の複雑さに煩悩を見出すだろう。彼らは死ぬまで退屈しないだろうな、とわたしは思った。
カーテンを閉めると、わたしはザレプロンを二錠、アルコールで流し込んだ。
睡眠薬とアルコールの併用が命に関わることは知っているが、生きている限り、命に関わらないことなど何一つない。暖房を切ってベッドに倒れ込むと、わたしは「悪党会」という小説好きが集うレストランにいて、前にはサラリーマン風の女性が、隣にはサラリーマン風の男が座っている。わたしたちはここで即興劇を演じなくてはならない。
男はカジキ漁の漁師のように太い腕を誇示していて、その腕には二つ、ほくろがある。力瘤を作ると、ほくろは一つ増え、腕の力を緩めると、ほくろは一つになる。「可能性の濃淡が移ろっている」とわたしが言うと、男はとぼけた顔で「え? あなたの世界では、可能性の濃淡が移り変わらないの?」と、わざとらしく言う。男にとって、これは即興劇の一場面のようだ。彼は、べつの世界から訪れた人物のつもりらしい。
「移り変わるわけがないじゃないですか」
正面の女性が苦笑する。わたしも即興劇の登場人物として「移り変わりませんよ、ずっと同じです」と言うと頭がやけに重く、消防車の音が遠くで聞こえている。
せっかく人が眠れたというのに、どうして火事など起こすのだろう? ザレプロンとアルコールのせいでロバのように鈍くなった頭で、わたしはベッドから這いだす。
かさかさに乾いた口には、アルコールとザレプロンとニコチンの苦味が残っていて、灰皿の中身を口に突っ込まれたみたいだ。
台所で水を浴びるように飲み、水道の栓の冷たさで、体が火照っているのを自覚する。熱があるようだ。体が急激に億劫になってきて、頭蓋骨の裏側を万力で広げられるような鈍い頭痛を憶える。
痛みを感じない時間を少しでも増やそうと、わたしはザレプロンを四錠まとめて飲む。三十分ほどして、意識のか細い淵から、真っ逆さまに突き落とされる。
2
ドラッグストアで煙草を売らないなんて、信じられない。
買い溜めしていた煙草が切れかけ、配達まで十日がかかるというので、わたしは苛立っていた。煙草こそ人類が発見した、最も偉大なドラッグではないのか? そのくせ酒は売っているのだから、嫌になる。煙草の話題になると決まって医療費や健康云々が取り沙汰されるが、社会的な有害スコアは、煙草よりもアルコールのほうが大きい。
国の立場からすると、喫煙者ほどありがたい存在はいないはずだ。それなのに、どうして国は喫煙者を虐げるようなことをするのだろう。
七公三民の税率が百姓一揆の原因となったことは知られているが、煙草の税率は六公四民だ。喫煙者は成人の一五パーセントもいるので、一揆でも起こされれば、ひとたまりもないはずだが。実際、末期のソ連では煙草不足で暴動が起こり、国家調達局長がクビになったほどだ。
ドラッグストアからの帰り道で、わたしは大学の同期と会う。会ったついでに食事でも、ということになり、近くの喫茶店に入る。コートを脱いで椅子に引っ掛けて、
「煙草、吸ってもいいよね」
とわたしは煙草に火をつけながら訊ねる。
物欲しげな目をしているので貴重な残りを差し出したら、禁煙しているんだ、と彼は断った。
「じゃあ、副流煙だけでも味わって」
「副流煙のお礼にここは俺が……と言いたいところだけど、奢りはなしな。悪いけど、俺、学生だし」
「学生といっても、大学院生でしょ?」
生活に必要な場合を除いて、妹以外の人間と話すのは久しぶりだった。花石朔乃の話し方は、このようなものだっただろうか?
「学部生と大学院生の違いは、借金の多寡だけだよ。大学院生のほうが多い」
「それもそうだね」
とわたしは彼の服装を見て頷く。
彼のナイキのスニーカーには、穴が空いていた。雨の日なんかは、大変そうだ。わたしも人のことを言える服装ではないが。
「否定してくれよ」
「否定されたいの?」
「否定されて悪い気はしない」
「それなら1足す1は3、とでも言えばいいのに」
「それを否定するのは意外と厄介だぞ」
と彼は上を向く。「ポストモダニストが出張ってくるから」
ポストモダニストも、そんなに暇じゃないでしょ。
と、わたしは指で煙草をもてあそびながら答えた。
「暇じゃなきゃ、あんな哲学はできないだろ。……で、花石はどう?」
「こんな真っ昼間から出歩いている人間、ニートか大学院生かしかいないよ」
何もしていないと答えると韜晦と思われることは知っていた。
「正確を期すために聞くが、大学院生ではないんだよな?」
「わたしは研究には向いてないからね」
「大学院なんて、研究に向いている人間が行く場所じゃない。古典論理学を前提してもいいんだよな?」
「二値原理を否定するつもりはないよ。大学院は楽しい?」
これ以上、自分の話をしたくない。
わたしは話を切り替えた。
そんなには、と彼が答えたとき、アイスクリームが、わたしの席に届いた。
「冬にアイスか、乙だねぇ。俺はこの世で最も美味い食い物は、煙草と食べるバニラアイスだと確信してるよ。どうしてニコチンバニラが発売されないんだと思う?」
「美味しくないからじゃない?」
わたしは物欲しげな視線を無視して答えた。
「美味しくないのに食うのか?」
と彼はわたしのアイスクリームと煙草とを交互に見る。
「まあ、食事って、そういうものでしょ?」
「だが娯楽だろ? 栄養摂取でアイスを食ってるわけじゃないんだよな?」
わたしは答えなかった。アイスクリームは、舌が固まるくらい冷たかった。彼は躊躇いがちに訊ねた。「まさか、それが食事なのか?」
「完全栄養食を摂ってるから、大丈夫だよ」
体調が悪いことを伏せて言う。
「栄養学上の完全を目指す連中に、まともな人間は一人としていない。アメリカのセレブを筆頭としてな」
「実例を目の前にして、よくそんなことを言えるね」
アイスクリームのせいか、体調のせいか、わたしはまたもや頭痛を感じている。眠る前とは違うのは、今回が、頭の中で爆竹でも鳴らされたような騒がしい頭痛だということだ。
「まともな花石も一人としていない」
頭の中がうるさくて、話がほとんど聞こえない。
いますぐにでも帰りたかった。けれど、タイミングがタイミングだ。いま席を立てば、わたしが腹を立てたと思われるに違いない。もう少し、ラリーを続ける必要がある。
「量子も観測者ごとにふるまいを変えるからね。そういえば、先生は元気?」
「元気すぎて困ってるよ。一昨日は京都で学会があって、昨日は北海道で研究会。で、今日は授業」
「そう、それならよかった」
もう、いいだろう。
わたしは立ち上がって、言った。くらりと立ちくらみがした。
「悪いけど、わたしのほうは健康とはいかないみたい。ちょっと頭が痛くてね」
自分の発言が、アメリカ人がセックスを拒むときの決まり文句だったことにわたしは思い至る。本当に頭が痛いときは、どう断っているのだろう? 今夜は本当に痛いのよ、とでも言うのだろうか?
「大丈夫か?」
彼は心配そうに訊ねる。きっと彼は、アメリカでは上手くやっていけないだろう。最も、今回はたまたま事実だったわけだが。
「先生によろしく頼むよ。わたしに元気を分けてくれ、って」
「伝えておくよ」
「それと、これ、代金」
わたしは二千円を財布から抜きだす。
「いや、悪いよ。待ってて、釣り渡すから……」
「釣りはいらないよ。余ったら、アイスでも食べて。また会ったときに奢ってくれればいいから」
連絡先を聞かれる前に、足早に喫茶店を立ち去る。
家に帰り、わたしは嘔吐する。実存的な苦悩に襲われたわけではあるまいに、とわたしは苦笑する。
3
ザレプロンは、もうやめだ。
効果が弱いし、個人輸入したものなので、ひょっとすると成分が誤魔化されているのではないか、とも思う。
体調が元通りになると、わたしは精神科へ行く。目当てはトリアゾラムだった。
なかなか眠ることができず、引きこもりがちになってしまい、日常生活に支障をきたしていると申告すると、睡眠薬を出しておきます、とレンボレキサントを処方される。
正直がっかりしたが、ここで食い下がると、睡眠薬への依存を疑われて面倒なことになるのは目に見えていた。わたしは礼を言って診察室を出た。
つぎの診断時に効果がないことを訴え、徐々に強い薬を処方してもらうのが、面倒のない方法だ。
このプロセスを最初からやるのは面倒だが、認知行動療法などの煩わしい治療を勧めてくるのではなく、内服薬の処方ですませる点数主義の医者であることは、幸先がよかった。
それに少し安心してもいた。面倒なプロセスを踏めること自体、わたしが睡眠薬に依存していないことの証明だからだ。
バスを降りると夕暮れだった。
ビルの窓が非常ランプが灯るように赤く染まり、地面に背の高い影を落としている。
アパートの近くの電線には三羽の肥えた鴉がとまっていて、喉が脂肪で閉塞しているかのような濁った鳴き声を発している。目の前の公園では、子どもたちがボール遊びをしていた。サッカーボールが、もたもたとわたしの足元まで転がってくる。
ポケットから手を出して、空気が抜けてグミのようになったボールを拾う。
わたしは少年のほうへと歩いて行く。
子供は苦手だ。何を考えているかわからない。男が考える女のように気まぐれで、女が考える男のように粗暴だ。
「はい」
と、わたしはサッカーボールをさし出した。
「あ、ありがとう、ございます」
少年は小さい身体をさらに縮めて礼を言い、両手で受け取る。
「ハンド」
とわたしは片頬をあげ、微笑んでみせた。冗談のつもりだったが、逆効果だったらしい。冗談として成立していなかったな、と反省する。
少年は、ああともいやともつかぬ返事をして、慌てて立ち去っていった。やはり子供は苦手だな、とわたしは思う。子供もわたしが苦手だろうし、お互い様だろうが。
アパートの錆びた手すりがやすりのようにざらついて手のひらの皮膚をわずかに削る。
わたしは部屋の鍵を開ける。
棚にレンボレキサントをしまい、手洗いを終えると歯を磨く。そしてウィスキーでザレプロンを流し込む。
二時間もすれば、また目が覚めるだろう。
目が覚ます場所が図書室でないことを、ただそれだけを願いながら、わたしは気胸にも似た息苦しさを感じている。
4
「十二番を四箱、お願いします」
店内はすっかりクリスマス仕様で、派手なツリーが飾られていた。
「かしこまりました。カートンもございますが」
「いえ、四箱で結構です」
少し迷ったが、どうせ近いうちに届くのだから、と断った。
外は霧雨だった。
店の軒下にある喫煙所に立つ。
ポケットのなかで胎児のように丸まっていた指を、手のひらから剥がすようにして伸ばすと、薄いビニールに包まれた柔らかな箱に触れた。人差し指と中指で煙草をつまむ。
先端の火がゆっくりと根本へと降りてくるのを眺めながら、自分の吐息に白さが混ざっているのに気がついた。身体は芯から冷えており、肺を充たす煙も温度を伴わない。背後のガラス張りのコンビニから貫通する光は、煙草の雀の涙ほどの光と比べると洪水のようで、暴力的な様相さえ
両手で霧雨から火を守りつつ吸っていると、女性の声が聞こえた。
「――先輩?」