10、Rest 休息
アーレア海を越えた先にある中央氷原、そこに大量のコーラルがあるのだと、ウォルターが説明してくれた。
大量のコーラルが見つかれば、いくらでも稼げるだろう。人生を買い戻すだけの金も手に入るかもしれない。
「そういえば、頭の中で妙な声が聞こえるということだったな」
「うん」
致死量のコーラルを浴びた。死んでもおかしくなかった彼女はすぐに除染され、処置を受けた。診断結果は、命に別状はないということであった。だが暫しの休息が求められた。休息を取りつつも、説明を受ける。休息というには、妙なことをしていたが。
具体的に言うと、薄手の動きやすそうなシャツを着込んだウォルターが、621あるいはレイヴンという名前の少女の腕を曲げたり伸ばしたりしていた。
「その手の症状は旧世代型強化人間にはよくあることだ。先の逆流に巻き込まれた影響もあるだろう。気にするな。ところで、痛くはないか」
「いたくはない、よ」
伸ばしたり、曲げたり。
機能として死んでいる彼女は度重なる調整で徐々にもとに戻りつつあったが、それも牛歩であった。地道なトレーニングをしなければ、元に戻る以前の問題であった。それを専門家を呼ぶでもなくウォルターがやっていたのだった。
脳の回路が完全に戦闘用以外が途絶しているようなものなので、リハビリテーションで復帰させようというのだ。
「痛かったら言え。次は足だ」
思考にノイズが走った。
ほんとうに、幻聴なのだろうか。幻聴がここまで理性的に話しかけてくるものなのだろうか。
実際にわけのわからない幻聴を聞いた記憶も持っているだけに、判断がつかなかった。
幻聴というものは、あたかも本当にそこに誰かがいて話しかけていると判断してしまうほどにリアリティあるように聞こえてくるものなのだ。
『レイヴン。今回のコーラル局所爆発により、ベリウス地方、北西ベイエリアが消失しています』
「………」
返事をして、いいものか。判断に困った彼女は黙ることにした。
ウォルターがレイヴンの足を曲げたり、伸ばしたりを繰り返している。
『ですが、それすらもかつての“アイビスの火”とは比較にならないほど小規模なものです』
アイビスの火。コーラルの暴走とも、一説には言われる現象。ルビコンを焼き払った、大火。詳細な情報が散逸しており、もはや当時のことを語れるものがほとんど残っていない災害のことだ。
エアは、この災害と何か関係があるのだろうか。
エアが申し訳なさそうな口調になった。
『レイヴン、あなたにお願いがあります。集積コーラルに到達するまで、あなたとの交信を続けさせて欲しいのです』
「……」
『コーラルを巡る戦いがどこに向かうのか……私には、それを見届ける権利と義務があります』
『一人のルビコニアンとして』
ルビコニアン。ルビコンに移民した人間を差す単語のはずであるが、仮にそうとしてこんなテレパシー染みたまねごとができるものか。レイヴンの拙い一般常識からしても、エアを名乗る女は常識から外れていた。
「621」
「うん」
レイヴンは、急に声をかけられ、びくんと身じろぎをした。
ウォルターの処置は終わっていた。徐々にだが、体が動くようになってきたという実感がある。いまだに食事はまともに取れず、目は見えず、味もわからないが。
唯一まともに動く首だけを持ち上げて、声の方角に向ける。
「俺はこれからしばらく野暮用で外す」
「うん」
「中央氷原に向かう件については、企業に情報を売ってパトロンがついてからだ」
「ぱとろん?」
「金を出してくれる連中のことだ。戻るまでの指示を出す。身の回りの世話はアンドロイドを準備している。安心しろ」
身動きすらままならないのだ、ウォルターがいなくなったらどうすればいいのかと一瞬不安に陥るも、世話を焼けるアンドロイドがいるらしかった。
「しばらく休め」
言うとウォルターは、ベッドに寝ている621の頭を撫でた。
なんとなく、懐かしい感覚がした。
かつてどこかで、こんなことをされたことがあるような、そんな気がした。
「今はそれが、お前の仕事だ。わかったな?」
「うん、わかった……」
戦うなと言われたようなもので、戦うために強化された人間からすれば、なんとも奇妙な指示だなという感想であった。
こうしてウォルターは拠点にしているヘリから別のヘリを準備して乗り換えると、出発していったのだった。
ヘリには、レイヴンだけが残された。そのはずだったのだが。
『レイヴン』
レイヴンと呼ばれる少女が点滴を受けていると、頭の中に声が響いてきた。
まただ。もはや幻聴とは思えなかった。
『あなたのハンドラーはしばらく不在なのですね』
「………うん」
『やっと、返事をしてくれましたね』
「ごめんなさい」
『いいんです。先ほどの中央氷原の件ですが、ベイラムからはさっそく依頼が届いているようです』
「………メール、見られるの?」
自分でも驚くほど喋りやすい。コーラルを浴びたせいだろうかと、首をひねる。以前は喋るのも億劫なほどであったというのに。
しかしこれで確定した。これは幻聴ではない。機器にアクセスできる幻聴等ありえない。
『少し、覗かせてもらいました。確認してみてはいかがでしょう』
なるほど、それもそうだ。
少し休んだおかげか、体調はよかった。仕事のメールを少し見るくらい、いいだろう。それが自分のため、ウォルターのためになるならばと神経接続でメールを呼び出すと中身に目を通し始めたのだった。