199X年。東京の繁華街。その裏路地を抜けた先にある、三階建ての雑居ビルが男の家兼職場だった。
都会は色々な人間や臭いが入り混じる。混沌としていて、一度触れればつま先から頭のてっぺんまで、身も心も都会色に染められるような気がする。本質はどうあれ、人はその環境に同化することを強いられる。同化できないものは異物として扱われ、決して好ましくない処遇を得るだろう。
男はというと、所謂そちら側の人間だった。だから同類には理解があるし、そのために自分と自分みたいな誰かの為の居場所を生み出すことに熱心だった。
男のモットーは『淡々と』或いは『平穏無事』である。何事もそれが一番だと考えていた。
金を湯水のごとく使って派手に暮らすよりも、金は湯水のようにあっても質素に暮らすことを好む方だった。
同じ種類同じサイズの安いスーツを何着も買って着た。靴も履ければ好くてスポーツブランドのスニーカーだったり、セール品の革靴だったりする。ネクタイは彼女からの貰い物を擦り切れるまで使う。食事は家兼職場の雑居ビルの三階で毎日自炊。自炊と言ってもカップラーメンとか、レトルトのお粥とかだ。
「吝嗇じゃない」と彼は言う。実際の評価は人の感性によるだろう。
男が今の仕事を始めるようになるまで、男の人生は格段に悪いものだった。
父親の借金の形に売られた先では、危険な仕事や汚い仕事ばかり。とても耐えられそうになかった。自分でするにも、他人に押し付けるのも。
だから、男は先ず初めにデビルハンターになった。慣れない仕事だったが、幸いにも男には才能があった。淡々と仕事をこなし金を貰う。何か特別なことはしなかった。出来ることを出来るだけ上手くやってのけたと男は感じていた。
真面目だったおかげか、男には恋人も出来て順風満帆の人生に近づいていたと言っていいだろう。
だが満足はしていなかった。所詮は無理解な何者かに使われる側でしかないことに、男は嫌気がさしていたのだ。
デビルハンターの仕事を十年続けて金を貯め、恋人と別れたのを機に仕事を辞めると同時に会社を興した。
会社と言っても、マトモなやつじゃなかった。所謂何でも屋のようなものだ。
古巣向けに悪魔の死体清掃や肉片の分別なんかを担ったことに始まり、マニュアル化した手順で死体の解体、洗浄、横流し、はたまた献血を装って悪魔に直接血を売りつけるなんてこともした。
ただ汚いだけの仕事に人は付いてこないことくらい男にも理解できた。誇れるものが必要だった。
だから男は自分自身で率先して悪魔と戦い、死体を回収し、解体し、洗浄し…自分の血を抜き、売った。
男が誰よりも稼ぎ頭になる頃、不況で食えない子供や大人が群がってきた。
男は彼らを従業員として雇い入れ、鍛えた。彼らは今や、男のことを社長と或いはボスと呼び慕ってくれる。
給料は、危険手当込みで会社員の平均月収の二倍。まぁまぁホワイトな職場環境に、無料で入れる家具と風呂付の寮もある。
だが、旨い話だけでは無論なかった。
男の仕事が軌道に乗る頃、ヤクザもんが男の金に目を付けた。
会計係と舎弟が会社のある雑居ビルに乗り込んできて暴力を振るわれ、上がりを要求されたのだ。
穏便に済ませるためにも、懐に余裕のあった男は当初こそ払っていた。だが日に日に傲慢になる要求に、流石に淡々としていられなくなった。
上がりが30%を越えた辺りで、男は復讐と実益を両立するアイデアを思い付いた。
そして、男は為すべきことを淡々とこなした。
「俺から奪った分、奪い返してやる」
そう言って男は、弱い悪魔を血を餌に搔き集めて、ヤクザの子分共と契約させることにした。
力のない子分は、悪魔と契約して簡単に力を手に入れられる。力が手に入れば、ヤクザの中でのし上がれる。
悪魔も悪魔で、血を吸い契約することで、力が使われてより恐れられ、より強くなれる。
このエサに、ヤクザも悪魔も飛びついた。そうして、まんまと書面無しの契約に金を払い、諸注意もよく聞かずに契約を交わした。
それから男は、魔人に成れ果てたり或いは悪魔に狂わされた子分たちを合法的に殺害して、本業の解体ラインに放り込んだ。
「実力を見せて屈服させれば、簡単に成り上がれる」と子分たちに吹き込んで、幹部連中にけしかけて殺し尽くした。
ここまでくればあとは簡単だった。
ヤクザの組を半壊させてから、「助かりたいだろう?」と、その為に悪魔と契約するように差し向けて、組長をも悪魔で狂わせて殺した。
組員は組長から下っ端まで全員、今頃は札束に変わり世間様の役に立っている頃だろう。
死体だけが残ったヤクザの事務所や殺戮現場は、男の忠実な部下たちが、御社の技術力の粋を集めて完璧に隠蔽、清掃し、原状回復の後で不動産として売り出し或いは活用した。
この取引と殺戮だけで男は1億円超を稼ぎ、更に稼いだ金で動産不動産を買い漁った。
殺したヤクザの物もそれ以外の良物件も、男は端から購入し投資に回した。
そして、単なる清掃業から金転がし・土地転がしとなり、会計事務を熟せるだけの社員が育つと、忠実なのに目星を当てて独立させ、大きなシンジケートに発展させた。
今や男が動かずとも会社は円滑に回った。
男の仕事はと言えば、本社兼中枢の雑居ビル二階の事務机で会計作業を監督するだけである。
全て正常に回っていた。ここまで来るのに15年近くの月日が経っていた。
このまま、この平穏な日常が続いていけばいい。
男はそう心から願っていた。
だが、それでも問題は起こるものだ。
◇
ある日、男の暮らす雑居ビルに女が現れた。肩丈の長さの、夕日色の髪をした、同心円状の瞳が特徴的な女だ。
黒いスーツに黒いタイ、あと黒いコート。白いのはシャツだけ。整いすぎた顔に、柔軟に動かない表情筋。なんとも不気味な出で立ちだった。
女は雑居ビルの三階、男の居住スペースに一人踏み込むと、内ポケットから公安の身分証を出して言った。
「君には、前々から眼をつけていた。けれど、目的が分からないから放置していたんだ。ところで、売買用の君の血はまだ残っているのかな?」
名前を聞く余裕も、身分証をまじまじと観察する余裕も、公安の二文字を見た瞬間に失せてしまった。
もう残っていない、そう腕を押さえながら男が平静を装った硬い表情で言うと、女は目じりを下げて言った。
「どうすれば…このまま平穏無事に暮らせるかなって、そういう顔してる…フフフ、可愛いね、君」
女は身分証をしまうと、幾分生地の沈んだ年季の入ったソファの、男の隣に座った。
「ねぇ、契約しない?血は、もういいや。君の方が面白そうだもの。何も無理は言わないよ。ただ、私が望むのは君の今まで通り。君が今までしてきたことと何も変わらないんだ」
膝上で手を拱くと、覗き込むように男に迫った。
「ねぇ、私と対等な契約関係を結ぼうよ。きっと、互いに有益だと思うよ」
「君がこれまで、どんな人生を歩んできたのか、私は理解しているよ。お父さんの借金の所為で…病気で、お母さんも気の毒に…大変だったよね、辛かったよね…でも、私と契約したら、そうした煩わしいものも、君の心を騒めき立てるものも、すべてがどうでもよくなる。もう心配事はなくなるんだ。君の思うがままさ」
女は男のことを一方的に深く知っている様子だった。深く…それこそ子供の時のことまで。これまでの仕事の隅から隅まで。
「だから、ね?契約しようよ。君だけだよ?こうして私から話を持ち掛けたのは…ねぇ?どうする?私の特別になってみる覚悟はできたかな?」
だから、男に選択肢はなかった。だが、それでも男は足掻いた。
男は言った。
「俺は悪魔とは契約しない。俺は人間としか契約しないんだ。対等な人間の女となら、契約してやってもいい。ちゃんと書面上でな」
傲岸不遜なモノ言いに、男は死も覚悟した。
だが、それは杞憂に終わった。女は頬を赤らめたのだ。
「対等な人間の女と、だなんて…私を口説いているのかな…君は確かに、人畜無害そうに見えて、そう言った色々に長けてそうだけど…相手が悪かった、かな?」
男は思った。「イける」と。
「俺は対等な女としか寝ない。対等な人間としか契約もしない。人のことを見下す奴以外なら、誰でも大歓迎だぜ」
男が腕を、受け止めるように開いて見せた。
「ふぅ~ん…でも、そうなると私はどうなるのかな?君を、見下してると思わないの?」
「眼を見ればわかる。その眼は、自分と同じ土俵に上がってきて欲しくて仕様がないって眼だ!」
ハッタリだった。だが、そのハッタリが女の心を鷲掴み堕としたのだ。
「…ふぅーん…そう、そうなんだ。君にはそういう風に見えるんだね。私のこと、そういう目で見てくれたんだ…」
「怖がらないんだね。怯えないんだね。離れないんだね?傍に居てくれるって約束できる?」
「出来る」と男は言い、頷いた。
「…いいよ。契約、しようよ。契約すれば、そうしたあとで理解できるから。ダメだったら、わかるよね?ウソはダメだよ?」
身を乗り出して顔を近づけられる。甘く重たい香りがした。
小悪魔じみた笑みを浮かべながら、女の眼がぐるぐると収縮しては瞬いた。男は緊張から生唾を飲みそうになり、寸で堪えた。
「大満足させてやるよ。顧客満足度毎年トップの我が社を舐めないで貰おう…」
「ふふ…やっぱり、面白いね、君」
男の言葉に、女は身を引込めると爽やかに笑った。
「ユーモアがあると、そう言ってくれ」
そして、男と女は約一時間の折衝の上で書面で契約を結んだ。
『男は一生の時間の内7分の3を、具体的には一週間の内土日を除く五日間の内の三日間を、マキマに捧げる。その代わり、マキマは男の仕事を見逃し、また要請と必要に応じ便宜を図る。尚、二人の間の精神的、或いは肉体的接触を遮る制約は存在しない』
女は去り際に名乗った。名をマキマと言った。
その日から男とマキマの関係は始まった。朝から晩まで過ごしてから、二人で寝た。そうして、何事も無かったかのようにマキマは次の日から仕事に行き、男の居る雑居ビルに通い或いは男を自分の家に招いた。
ずっと以前からそうだったように、マキマと男の間には心地よい空間がその日から生み出された。造られたものにしては出来が良すぎていた。互いにいぶかしむ様子もなく、男とマキマは土日と仕事以外のほとんどの時間を共有するようになった。
以来、マキマの思惑と内情はともかく二人の関係は継続している。
特に爛れた関係性ではなく…無論接触はゼロではないが…映画を見るなり、何か静かに空間と時間を共有することをマキマは好んだ。
彼女の欲望がどこにあるのか、それはマキマ本人にも、完全に理解できるものではなく、そのためしばらくは手探りで一週間の内の三日間を過ごした。それは夜だったり、昼だったり、早朝だったりしたが。然はあれ、二人の関係性は至極良好だった。
マキマが男の好みに合わせて香水の香りを爽やかなものに変え、髪を伸ばし三つ編みで結えるようになった頃だった。
男は再び問題に直面した。
今度は別のヤクザとの係争中、敵の使いっ走りを部下が捕縛したのだ。だが向こうは捕虜交換に応じず、応じないまま男が出張った段階で係争が終結してしまったのである。
結果は前回と同じ手口で、ヤクザの組を半壊させたことで、男と会社の勝利に終わった。
だが結局、男の手元にはくすんだ金髪の少女と、それからチェンソーが頭に埋め込まれた赤い犬が残った。
少女の名前はデンジ。…男の名前のようだが、本人に違和感はない。
そして犬の名前はポチタである。
◇
潮風が荒く頬を撫でる、夜の港湾の倉庫群の一角で、今やデンジとポチタの命運が尽きようとしていた。
「ボス、こいつらどうしましょうか?」
下っ端の一人が、海を指さしながら言った。
自分の居場所を壊すのに加担した奴らに、彼らは子供であっても容赦はしない。
男が命じれば、忠実に実行するまでだろう。
だが、思いがけない問題が起こる様に、思いがけない幸運もまた起こり得る。
誰にとっての幸運なのかはわからない。だが、男は言った。
「縄を解いてやれ。家で面倒を見る。俺が世話を焼くよ」
部下たちはボスの言葉にどこまでも忠実だ。例え気まぐれであったとしても、反対意見も挟まずにテキパキと丁寧にデンジとポチタを解放してやった。
瞬間、飛び出すデンジとポチタ。
ワシッ!と、デンジは真正面から男に抱き着いた。ポチタはデンジの足元で男の顔を見上げている。
お腹のあたりがデンジの息と涙で熱かった。
デンジは涙と鼻水でぐじゅぐじゅの顔を上げると、小さく「ありがどうございまず」と零し、また男の腹に顔を埋めて泣き出した。
10分くらい、デンジは泣いていた。それからお腹が「ぎゅるる~っ」と鳴って、恥ずかしそうに「腹減ったぁ…」と、上目遣いで男を見上げた。
あからさまにチラチラ見られて、男はつい笑みをこぼした。
「風が冷たくなってきたし…皆腹も減っただろう。今日は俺が奢るから、どこか好きなところに食べに行くぞ。さぁ、お前さんも、何がいいのか教えてくれ」
男の声に、部下たちからも歓声が上がった。指示に従い部下たちが車を用意しに行くと、少しの間だけデンジとポチタと男の三人だけになった。遠目から見守る部下もいたが、すぐ近くには誰もいない。
夕日がすっかり沈んでいよいよ冷えて来る。今日は熱々の鍋も美味しいことだろう。
潮風に冷やされて、涙と鼻水で透けたシャツの腹の辺りが寒かった。
男が「何を食いたい」とぼそりと聞くと、デンジは「美味しいもの!全部!」と答えて、男をまた微笑ませた。
車の準備が出来たようだ。黒塗りの大きなSUVがエンジン音を鳴らして徐行しながら近づいてくる。フロントライトが眩く三人を照らした。
デンジが先に乗り込んでから、男の膝の上にのせて貰ったポチタが嬉しそうに「ワン!」と吠えた。
デンジは「すげー!車の中がフカフカだぁー!」と車の内装にはしゃいでいた。
男は「不思議な出会いもあるものだ」と、意外と毛足の長い夕日色のポチタの毛並みに手を這わせた。