ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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三日間 恋人の日

薄暗い朝だった。体を横断するように温もりが巻き付いていた。ベッドの夏用の掛布団が、健気にも自分以外の温度を逃がさぬようにと、二人分の人影に守るように覆いかぶさっていた。

 

ガバリと男が体を起こした。勢いをつけて、目が覚めたことを、自分とその同衾者に伝えるように。

 

世間の喧騒や不安から二人を守る砦は、なんともあっけなく崩れた。

 

「おはよう」

 

「おはよう、ケミ君」

 

男とは色違いの若葉色のパジャマに身を包んだマキマが、吊り下げられたマリオネットのように、力なく男によりかかった。

 

濃い青色のパジャマを今にも脱ぎそうだった男は、マキマの頭を膝で受け止めると、臍まで見えていたパジャマのボタンを再び閉じ始めた。

 

「ねぇ、もうちょっとだけ、寝てようよ」

 

マキマが言った。

 

男の膝の上で器用に寝返りを打って、頭のてっぺんで男の臍の辺りをグリグリやるような感じだ。

 

男は唸った。

 

「出かけるんじゃなかったの?」

 

「えぇー…なんか、やっぱり昼ご飯だけでいいや。昼ご飯だけ、外で食べようよ」

 

「まぁ、いいかぁ」

 

男が肯ずると、マキマは「やった」と小動物のような身振りを作って喜んだ。それからあざとさと、女児の奔放さと甘さとを兼ね備えた瞳で、男を見つめると、グイと顔を近づけた。

 

男に抱き留められたマキマは、首を伸ばして、耳元で飴玉を舐め上げるように言った。

 

「ねぇ…今晩、どうかな?」

 

マキマは男の横顔を見つめた。籠って聞こえた声が、耳の淵で弾んで、かち合った。耳には生暖かい呼気が当たり、湿った言葉が耳介を濡らした。

 

「これからおねんねするやつの、言葉だとは思えん」

 

男が顔をマキマの声から遠ざけるようにしてから、呆れたように言った。

 

晩酌の誘いではない。夕飯の誘いでもない。

 

要するに、マキマはある種の奇跡が起きないものかと、男に迫っているのだった。

 

二人共に性には淡白で、かといって互いに皆無ではない。寧ろこの組み合わせならば、十全に機能するだろう。

 

だが究極の所、マキマも男も求めるところは、そういったあれやこれやが動物的に機能することではないことは明白だった。

 

寧ろ二人にとって肉体的・精神的な接触は、小さなころにどこか遠くへ散らばってしまった、失くして久しいものと再び相まみえ、そうしてソレら大切な何かを、搔き集める行為に等しかった。元通りに、還してやる行為に他ならなかった。

 

遠くへ行くために、近く近くへと寄り添う試みだった。

 

だから、男はマキマの頭を撫でながら言った。サラサラと、指の間をすり抜ける髪の毛は、巌を縫い流れる清水のようだ。

 

寝汗が発する色濃い、その人の本来の体臭は、マキマの場合、金木犀のように柔らかくしっとりと感じられた。

 

「まぁ、今晩のことは今晩考えよう。今は、二度寝するんだろ?」

 

男の言葉に、マキマは喜ばしそうに、しかし、少し申し訳なさそうな調子だった。

 

「ごめんね…私が言いだしたことなのにね…少し、早すぎたみたい。寝よっか、もうちょっと」

 

男が仰向けになり、布団を捲って待っていてくれた。

 

マキマはその隙間に、まだ温かい布団の中へ、男の右腕を枕にして、潜り込んだ。

 

マキマと男は、それから二時間ほど眠った。起きてからは、結局、お出かけにはいかず、代わりに家の中で映画を見ることになった。

 

男の胸の中は、温かく香ばしい匂いがした。胸焼けしそうな、匂いだった。けれどソレが、マキマの大好きな匂いだった。

 

 

 

 

朝食と昼食とをまとめて頂くアイデアを、男は思いついた。

 

「出前を取ろう」

 

「ダメだよ」

 

思いつくや、即座にマキマからのダメ出し。何故だと、首を傾げて、すぐに合点がいったのか、男は頬を掻いた。照れくさそうだった。

 

「俺が、外に出ちゃまずいもんな」

 

「そうだよ、だからダメ」

 

そうだった。男はそう言って、別の案に頭を巡らせた。

 

男が取り繕う様に、照れくささは、マキマも同じだった。マキマの場合は、恋人の関係性でありながら、まるで娘子供のように舌足らずな言葉が、喉を先んじて駆け上って、身勝手にも出て行ってしまうからだったが。

 

ともかく、出前はダメだった。ダメな理由は、マキマが何となく嫌がるからだった。

 

男とマキマは、パジャマのまま、議論を重ねたが、余り建設的ではなかった。

 

今日のマキマは、「ヤダ」「ダメ」をよく使った。ダメダメ期の子供のようだった。

 

だが、男も男で、根気が好いのか、付き合いの好いのか、どちらともわからないが、ともかくマキマに甘いことだった。

 

そんな甘い甘い男が妥協に妥協を重ねた結果、二人の食事はストックにあったインスタント麺になってしまった。

 

「まぁ、何時も食ってるもんだし。味に文句はないわな」

 

男が麺を茹でながら言った。

 

隣に立つマキマは、何が楽しいのか、ワクワクして、眼をしきりに瞬かせて、口元には笑みを浮かべている。

 

「ふふ、久しぶりかも。こんなに手を抜いたのは」

 

「くくく…俺がいない時の方が、寧ろ丁寧な暮らししてそうだもんな、マキマは」

 

麺を丼に移し、付属の液体タレを搾ると、香ばしくコクのある薫りが鼻を打った。濃い口醤油の薫りに違いなかった。男の好きな味である。

 

男の偏見に、マキマは頬を膨らませるわけでも無く、楽しそうな表情のまま、男の手元の動きに、その動きに合わせて自分の手を重ねて見せた。

 

「ケミ君は、あんまり家事とか得意じゃなさそう」

 

「得意じゃなさそうじゃなくて、全然ダメなの」

 

動きがトレースされる感覚で、調子が狂った男は、マキマに残りの工程を任せることにして、手を止めた。

 

「じゃぁ、今日は私がケミ君に合わせてあげたってことにしよう」

 

仕事を放り出されたというのに、マキマは嬉し楽しそうだった。麺を茹でるのに使った、熱々のお湯を、二人分の丼に注ぎ、タレが溶け込み、蓮のような油の花が浮かんだ。

 

麺を解し、馴染ませるように菜箸でかき混ぜると、油の花は、分かれ、散り、また大きな花へと集まったりした。

 

「マキマが楽しそうで、俺はなによりだよ」

 

昼食の準備を引き継いだマキマの、楽しそうな様子に、男は満足げに言うと、マキマは鼻高々な面持ちで、ラーメン丼を両手に持って、男の待つテーブルまで戻ってきた。

 

「フフフ…素敵な彼氏がいて、私は幸せ者だね。さぁ、今日は何を観ようかな…」

 

マキマが期待感を顕わに、テレビの録画枠を上下に行ったり来たりした。

 

男はマキマから片方を受け取ると、割り箸を持ってくるのを忘れたのを思い出し、キッチンの戸棚を漁りに立ち上がった。

 

「長い時間、ジッとしてるの苦手なんだよな」

 

「でも、映画は見れるよね」

 

「うん…その時々の調子で変わるけどな」

 

「今日は大丈夫そう?」

 

「うん。まぁ」

 

そう言って、男から割り箸を受け取ったマキマは、男が割り箸を離すより速く、その手を取り言った。

 

「手、握っていてあげようか?」

 

「…いいかもな。でも、火傷すると悪いし、ラーメン食ってからにしような」

 

男は苦笑して、自分の席に着くと、マキマの手を優しく解して外した。

 

「ふふ、傷、増えちゃうね」

 

「いや、昨日といい、怪我するのマキマだからな?」

 

「分かってるよ」

 

「ならなんで嬉しそうなんだよ…」

 

男からの問いにマキマは答えなかったが、男も深くは聞かなかった。聞いていたら、きっと麺が伸びきっていただろう。

 

二人は割り箸を割って、ラーメンをすすった。男は歯を使って一息に割った。

 

因みに、男のは正中で割れたが、マキマのものは頭の所で折れてしまった。ので、男は自分のをマキマと交換してから使った。マキマはそれはそれは、ご機嫌になった。些細なことだったが、マキマが感じた幸福感や、救いは大きなものだった。些細なものだからこそ、大きかった。

 

映画で、何を観るのかを論じている間に、麺を食べきってしまった二人は、協議の結果、少し昔のマフィア映画を見ることにした。有名どころだし、外れはないだろうと思っての判断だった。

 

「ゴッドないたらって題名だよな?」

 

「そうそう…でも、面白いの?」

 

マキマが聞くと、男は肩をすくめた。

 

「さぁ?…俺も実は見たことなくてさ。気になってたんだけど」

 

男は説明文の書かれたビデオケースを、マキマに手渡した。

 

受け取ったマキマはさらりと流し読みながらも、ある一文に目を止めた。

 

「へぇ…舞台は…1947年頃…第二次世界大戦後…ねぇ、第二次世界大戦って知ってる?」

 

「はぁ?なに、その質問…マキマは知らないのか?」

 

マキマが男に訊ねると、男は何でもないように言った。

 

この世界に生きていて、第二次世界大戦について知っているということが、如何に不自然であることか、その話題を振られた経験が皆無である男には理解できないのだ。

 

だが、同じく異常者だが、自分を異常であると理解しているマキマにとって、男の返答が齎した衝撃は如何ほどであったか。

 

「ううん…何でもない」

 

「ふふ、みくびりすぎ、流石に俺でも知ってるよ」

 

男がくすくす笑った。右頬にえくぼが浮かんだ。

 

男の笑顔で、マキマの中で膨れ上がっていた巨大な理想が勢いよく萎んでいった。

 

戦争も、飢餓も、貧困も…全てない方が好い物だ。しかし、マキマには最早、それらを消してまで手に入れたいものは何一つなかったのだ。

 

目の前に、既に目の前に存在する一人の人間だけ。一人の人間の為だけに、マキマの理論武装は、儚くも散った。塵一つとして残さずに。

 

「…そっか、そうみたいだね…何だろう、複雑な気分だなぁ」

 

「…?なんか体調悪いのか?」

 

「違うの、ただ、やっぱり今のままが一番だなぁって」

 

マキマはそう言って、男の肩に頭を預けた。男も、少し腰を落として座りなおした。マキマが、首を預けやすいように。

 

「…俺も、全く同じ」

 

男が平穏無事にと、淡々と、生きることをモットーにしていることは彼の周囲の人間の多くが理解している所だった。

 

だが、マキマの言った意味は、少し異なるようだった。

 

「…君が居れば、私はもう満足だよ…理想とか、正直どうでもいいや」

 

「なんだよ、いきなり」

 

理想…だなんて、掲げた例もない重厚な概念が、恋人の口から飛び出たことに、男は驚いた。

 

男の反応に、マキマは目を細めて微笑んだ。目元が、マタタビに酔った猫の様に可愛らしい。

 

「ううん…ケミ君のお陰。君のお陰で、今度こそ、スッキリしたんだ」

 

「ふーん…まぁ、ならいいや」

 

「そう、だから、いいの」

 

マキマはそう言って、リモコンの再生ボタンを押した。

 

 

 

 

間食に頂き物のお菓子を食べて、映画を見終わった。ハッピーエンドかと問われると、誰にとってかで分かれる終わり方だった。やはり、一度道を踏み外すと、もう戻れないらしい。

 

男は、自分のことの様に思えてきて、どんよりとした気持ちになりそうだった。だが、そんな男の手に、マキマの手が重なった。

 

悲しみを攫う様な、あやされる様な、優しい手つきだった。

 

男がマキマを見ると、彼女の頬には朱が差し、目元も柔らかく色づいていた。

 

「寝る準備、少し早いけど、しようよ」

 

マキマが言った。

 

男は頷くばかりだった。

 

映画を観た後、必ず何かがスイッチになり、マキマに、その生来のもの以上の、色気と妖しさを与えた。醸し出す雰囲気は、煽情的で、恐ろしく温もりに満ちたものだった。だが、母性とも違うことを、男だけは知っていた。

 

マキマは許したいわけじゃない、と男なら言うだろう。

 

マキマは寧ろ、叱られて、それから許されたいのだと、男は知る。知っている。

 

母性が許す者ならば、マキマの性愛は、どこかで被虐と嗜虐が折り重なり、絶妙に絡み合っていた。そして、そのことを男にだけは、隠そうともせずに、曝け出すことが出来た。映画を観る、そして。映画を観ることが、一種の合図になっていた。

 

男をかどわかす色香は、しかし、どこまでも幼く、澄んでいた。

 

誘い文句を互いに言い合うでもなく、二人は身を寄せ合った。

 

夜が訪れて、まだ少ししか経っていなかった。外はまだ、瀕死の斜陽に夢現だ。まだ、そういう時間でもないだろう。

 

だが、ただただ情事に耽るわけではなかった。それはマキマの、何かを埋めるための神聖な儀式だった。

 

部屋の電気を消して、カーテンを引き、出来るだけ暗くする。薄闇の中に、カーテン越しに差し込む夕日の光に象られた、マキマの影が浮かんだ。

 

男の目の前で、マキマは、この場では最早野暮ったい、パジャマをそろそろと脱いでいった。

 

括れた腰に、そそる首、何かを裂く様に儚く細い手足、円やかな乳房、鮮やかな夕日色の御髪、黄金色の精緻な瞳。

 

マキマの肌は、夕日に唆されて、好く輝いた。光に、映えた。

 

真珠貝を砕いて、粉末にしたものを肌に散らしたように、白く透き通っていた。触れれば奥へ奥へ、遥かマキマの膏肓にまで触れてしまえそうだった。

 

首を傾げ、誘うような…あぁ、違う、そうではなくて、子供が、子供が男を見上げるようなあどけなさで、マキマは男を誘った。幾つかの房になった髪が、柔らかく、虚空を削ぐような凛々しさで、解けた。

 

男は、気が付けばマキマの腕の中にいた。

 

甘く爽やかな薫りがする。目の覚めるような、そういう刺激的なモノじゃない。包んでくれるような、同じ匂いを纏いたくなるような、そんな薫りだ。

 

あの、柔らかく、温かい腕の中に、抱かれていた。どちらが抱きしめたか、歩み寄ったか知れず。知れずとも好かった。

 

この綺麗で、温かい場所に、ずっと立ち止まってしまう様に、男の本能が叫ぶだろう。だが、その都度に、男は、同じく本能の要請により、分別を携えて朝を迎えてきた。これまでも、そしてこれからも、そのことは変わらないであろう。

 

 

 

 

深夜、情事の後の気怠い体で、寝返り打ち、男はマキマのことを見た。

 

「ねむれないの?」

 

見た。訳ではなかった。見られていた、のを見返したに過ぎなかった。

 

「そっちこそ、ねむれないのか?」

 

「うぅん…夢みたいだから。寝たら、醒めちゃうかなって怖くて」

 

マキマの、瑞々しい腕が、男の首に巻き付いた。背骨の狂おしい切なさが、肩を伝って、男の首に伝わっていった。

 

耳元で声がした。

 

「ずっと、ずっと、また、逢いに来てね。一緒に居てね。ずっとだよ」

 

「そうだな、ずっとだな」

 

「きっと、わかってないよ。そのずっと、じゃないよ、きっと」

 

「ずっとは、ずっとだよ」

 

舌足らずな言葉が幾つか交わされて、男の首筋に痛みが走った。

 

「内出血で、死ぬ人もいるんだって」

 

「じゃぁ、何で付けるんだよ」

 

「私にも、付けて欲しいから」

 

ハッキリとキスマークが残っていた。

 

マキマは満足げに、首を、眼を男の全身に巡らせると、にんまりと笑って、そして、髪をかき上げると、首を差し出した。

 

「……」

 

「…ダメ、かな?」

 

男とマキマの首はほとんど密着したようなもので、肩に預けられたマキマの顔は見えなかった。だが、声がひどく寂しい。

 

男は、マキマの寂しそうな声に弱かった。

 

「ん……」

 

「……あぁ、うれしい」

 

マキマの首に、同じくらい、色濃い傷痕が付けられた。きっと、昨日の軽微な火傷よりも、ずっと目立つ代物だった。

 

だが、マキマは幸せそうだった。何度も何度も、その傷痕を指で触れては、その指を唇に触れさせて、熱い吐息を漏らした。

 

汗の滴る、撓る肉体を、男に押し付けた。また、男とマキマは二人から一人へと、影を重ねた。手を繋ぎ、吐息を絡め、唇を噛み合い、汗を混ぜ合わせ、夜を明かした。

 

 

 

 

朝は夜を越えた二人にも、等しく降りかかり、起床を促すだろう。夢からの覚醒を、必然づけるだろう。

 

夏の終わりに、熱い夜を越えれば、うすら寒い朝が待っていた。

 

男は思った。あと何度、マキマを抱けるのだろうか、と。彼女を、抱きしめておけるのだろうか、と。

 

悪魔との契約の自覚がない、男にとって、老い行く自分とは定命の者に運命づけられたものであり、その道を歩まざるを得ないという諦観を呼び覚ますものだった。

 

あと、何度。あと、何度。と、男は数えては憂鬱と幸福を往復した。

 

だが、その生に、逢いある限り、愛ある限り、老いなど許されないことを、終わりなど許されないことを、男が絶望と安堵と共に認識する日は果たして、来るのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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