ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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三日間 麺麭

二日目、雑居ビルの三階。男の寝室で、姫野は目を覚ました。

 

昨日の晩は、ぐっすりと眠ることが出来た。眼が冴えていた。

 

「おはよ~」

 

着替えてリビングに入ってから、気怠ーく挨拶をすると

 

「あ、おはようございまっす!姫野さん!」

 

デンジの明るい声が帰ってきた。デンジの方は、少し寝不足のように見えた。目の下に隈が滲んでいた。目も少し充血していた。

 

男の帰りまで、残り二泊。姫野は、子供の精神で持つのか心配になった。

 

だが、姫野の心配とは裏腹に、デンジはと言えば、今日も朝ご飯に夢中だった。

 

ポチタを抱きしめて、デンジは姫野に言った。

 

「今日は、特別なパンが食いたい!」

 

「特別なパン…?どんなのか、教えて貰える?」

 

「姫野さんが、「ごちそー」してくれたやつでっす!」

 

「あぁ~モーニングねぇ…これから食べに行く?」

 

「家で!食べに行くのは、兄貴が帰ってきて、一緒に行くときにとっておくんです」

 

「そっかそっか…ふぅ~ん、中々好いことを言うね。でも、ならどうするつもり?パンを焼けばいいのかな?」

 

姫野がデンジの顔を覗き込んだ。デンジは難しそうな顔をしていたが、間もなく、何かを閃いたという、自慢げな表情で胸を張って言った。

 

「よっし!姫野さん、オレ、凄いことを思いついた!思い、つきました!」

 

「どれどれ、おねぇさんに聞かせて下さいな」

 

デンジは戸棚から引き出した、食パンの袋を抱きしめると、ポチタと顔を見合わせてから言った。

 

「オレが、家で、モーニングのパンを作れば好いんだ!」

 

「モーニングのパン?…あの、半切りのヤツ?」

 

姫野は子供の意外な一面を見たような気分だった。

 

得意げなデンジと、デンジの足元で尻尾を振るポチタ。

 

二人を交互に見てから、姫野はここにいない想い人のことを思いだした。

 

あの人だったら何て言うだろう…と。

 

「めんどくさーい!ので、今日の朝ご飯は昨日の余りをおかずに味噌汁とご飯ね」だろうか。

 

いいや、寧ろ面白がって、言うハズだ。

 

「いいじゃん。好きにやってごらん」って、彼ならそう言う。

 

自分の声であの人の言葉が聞こえた。そう思ったら、姫野の口から既にポロリと零れた言葉だったらしい。

 

「やってごらん。好きに、好きなモノ、使って好いから。ケガだけ、気を付けてね」

 

姫野は、今度は自分の言葉で好いなおしてから、デンジとポチタに朝ご飯当番を申し付けた。

 

「任せてよ!姫野さん、きっと驚くぜ!」

 

「ワンワン!!」

 

姫野がリビングでニュースを見始めると、デンジたちのお仕事が始まった。開始早々、任せられたデンジはポチタを撫でまわしながら自信満々に言った。

 

「もーにんぐのパンには、ジャムとか、バターとかついてたっけ…あれ、美味かったよな、ポチタ!」

 

「ワン!」

 

「ならさ、他のも沢山塗れば美味くなるんじゃないかな?」

 

「ワンワンワォーン!」

 

「だよなだよな!へへへ、賢いな!ポチタは」

 

デンジが姫野の意識の外で、着々と朝食の準備を進めていた。朝食はパン食になる予定である。しかし、姫野とデンジの共通理解はモーニングのパンの一言だけだった。

 

デンジはしきりに冷蔵庫を開けると、スプレッドになりそうなものを片っ端から集めてきた。

 

ジャム、バター、マーガリン、濃い口ソース、マヨネーズ、チューブの紫蘇、からし、ワサビ、マスタード、タバスコ、塩、コショウ…などなど。

 

「料理ってんだから、混ぜなきゃだもんな」

 

デンジはそう言って、用意した素材を陶器の深い皿に入れていき、それから一気にかき混ぜた。

 

ぐっちゃんぐっちゃんぐっちゃん。

 

暫く混ぜてから、デンジは額の汗を拭い、完成したジャムを三人分のパンに塗った。

 

全てを塗られた物凄いパンは、男から伝授された通りの手順で、トースターに乗せて焼かれた。

 

デンジにより混ぜられたジャムやマヨネーズが主体となって、パンの表面でこんがりと焼かれ、泡立った。

 

パンの底がこんがりきつね色に焦げ目がついた次第で、デンジは菜箸を使って器用に取り出し、用意しておいた皿の上にパンを移した。

 

「出来た!さぁ、姫野さんも、一緒にいかがっすか!」

 

デンジが最初に席に着き、次にポチタがデンジの膝の上に、そして向かいの席に姫野が座った。姫野の格好は今日もラフな白Tシャツ白パンティだった。

 

何事にも大抵は冷静沈着な姫野だったが、ダイニングの席に着き、目の前に配膳されたパンを目に入れた瞬間、血相を変えた。

 

眼を見開き、口も小さいがポカンと開いていた。間の抜けた表情だった。

 

それから、パンを恐る恐る自分の手元に近づけてまじまじと観察し、香りを嗅ぎ、咽せた。

 

姫野は生理的な涙を目に浮かべながら言った。

 

「えぇ~っと…デンジちゃん、聞いても好いかな?」

 

「なんす、なんですか?」

 

「これってモーニングで食べたものを再現したの?」

 

姫野の言い分としては、モーニングで口にした物を再現するということだから、食事を任せたのであって、目の前のそれは、再現以前に、パンに物を塗るという行為が、明らかに常軌を逸していた。

 

とても口にする勇気が、それこそ悪魔との戦闘時にも匹敵するほど必要な食物だと、姫野は断定した。

 

「はい!もーにんぐのパンより美味しい、最強のパンっす!」

 

「最強…す、すごいね」

 

確かに最強かもしれない。あの冷静な姫野をたじろがせ、剰え口に入れることを躊躇させているのだから。

 

願わくば、デンジにも異常さに気が付いてほしかったが、判明するより前に、デンジがパンを口に運んだ。

 

「うわあぁぁ!?なんだこれぇ…?ま、マズッ!?いや、ウマい!?…やっぱり不味い…あれ、あえ?美味、い???」

 

デンジは絶叫しながら、しかし食べることを止めない。最早執念だった。

 

美味しくない。そのことが分かった以上、彼の中でパンを完食することが、目の前の有機物を体力に変換するための義務に、食事と言う営為からすり替わった瞬間だった。

 

「え!?それだいじょうぶなの?ねぇ!死んじゃうよ!辛い匂いもするし!ねぇ!止しなって!」

 

姫野の制止も振り切り、デンジはパンを口に詰め込んでいく。どれほどの飢えから、その教訓と、執念を得たのか。誰にも及びえない、デンジとポチタの闇を、姫野は垣間見た心地だった。

 

結局、姫野も口に運んだ。瞬間、五感を刺激が駆け抜けた。熱い辛い苦い甘い…とにかく、味覚が酷い暴力に晒された。

 

驚いて「うっぷ」となるも、荒い息を上げながら完食を知らせたデンジとポチタの空の皿を見つめて、姫野は吐き出さずに堪えた。

 

しかし、試練は生易しいものではなかった。噛めば噛むほどに、感じたことのない味覚的刺激が、デジャブの様にそれぞれの味を主張してくるのだ。混沌を口の中で弄ぶが如き所業に、姫野は中々食べ進められなかった。

 

「ぐふ…げふ…もう、ヤダ…デンジちゃんも、ポチタ君も、よく食べれたね…」

 

最早、それは純粋な食事とは言えなかった。デンジは「お残しはしない!」と言って一息に食べてしまい、ポチタも悪戦苦闘の末に完食していた。

 

残るは姫野だけ。そして、姫野を案じるように、申し訳なさそうに見つめるデンジとポチタ。デンジはポチタを抱いて、俯いてしまった。

 

とんだ、朝食になってしまったなぁ…そう思いながら、姫野は最後の一切れを詰め込み、牛乳で流し込んだ。

 

 

 

 

デンジに料理はまだ早い。と言うことが分かった姫野は、お惣菜を駆使しつつ、今日の夜を乗り越えることに決めた。

 

男からは最低二食で好いとも聞かせられているが、デンジとの間に同盟を結んだ姫野に、同盟相手を冷遇する趣味はなかった。

 

午後からの予定を考えた姫野は、ポチタの散歩がてら、昼ご飯の調達のために、今日行く予定の少し遠い公園周辺の地図を取り出すと、ここから目ぼしいパン屋をピックアップした。

 

姫野の考えとしては、本当においしいパンを食べたことがないから、あんな悲劇的なパンを創造してしまうのだ、である。

 

先刻から痺れたままの舌を白湯で労わりつつ、姫野は外出に向けて計画を練った。

 

 

 

 

姫野は平日に堂々と私服で外を歩くのも気が引けたので、何時ものスーツに着替えて、男の部下の黒服に溶け込むようにして、デンジとポチタを連れて少し遠くにある公園に向かった。

 

この公園には、男と姫野が待ち合わせする公園のような物寂しい感じもない。遊具も充実していて、ジャングルジムや太いばねでぼよんぼよん動くやつ、その他にも小さな丘や、スライダーなんかもあった。

 

何時もの黒塗りのバンで送迎してもらった姫野、デンジ、ポチタ。姫野は降り際に、顔なじみとなった運転手に会釈をした。運転手からも会釈を受け取り、デンジたちの後を追うと、デンジとポチタは既に遊具で遊び始めていた。

 

頭にポチタを乗せて、或いはポチタを抱いて、或いはポチタと追っかけっこをして、遊具を巡り、デンジとポチタは仲良く遊んでいた。

 

危なっかしい挙動や、そもそも遊具の使い方が間違っている時を除けば、姫野の仕事は、遠目に見守りつつ、残り数日で吸いきる約束の、ラッキーストライクを三本ふかしながら、ギラ着く日差しに耐えることだった。

 

炎天下に、よく遊ぶものだと思う。

 

夏の最後のあがきのような、熱射にじりじりと焼かれながらも、笑顔を見せて遊ぶデンジの周りに、人影はない。

 

同年代にしても少しはしゃぎすぎるくらい、デンジは遊具や草っぱらを満喫していた。少し大きなお友達の占有に、他の家の子供たちは気不味そうだった。だが、混ざる勇気もなく、結局彼らはお家の人、両親に頼りに行くのだ。

 

大きなお友達が、ただ遊んでいるだけにも拘らず、自分だけの物だと思って遊んでいると、怒られる。

 

そうならない内が吉だろう。

 

そう考えた姫野は、四本目に火をつけず、ボックスに戻してしまうと、丸太が組んで作られた大きな平均台のような遊具で、ポチタと遊ぶデンジの元に向かった。

 

「デンジちゃん。そろそろお腹空かない?」

 

姫野が聞くと、平均台から軽やかに降りたデンジが答えた。

 

「減った!もう、ぺこぺこだよ、です!」

 

「近くに美味しいパン屋さんがあるんだってー…行ってみる?」

 

姫野からの提案に、デンジの眼が大きく開かれた。紅潮と共に、嬉しそうに頬が上がった。

 

「行きまぁす!」

 

「ワンワン!」

 

さっきまで一緒にデンジと遊んでいたポチタが駆け付けた。楽しそうにくるくる回ってから、デンジの足元でお座りをした。

 

姫野は全員そろったのを確認してから、駐車場の方向に歩き出した。デンジとポチタも彼女の後を追った。風が少し吹いてきていた。

 

「ふふ、朝、ごちそうしてもらったからね」

 

「え、あ、すんませんした…あれは、ごめんなさい」

 

「いいよ、完食できたし。何事も失敗から始まるものじゃない?」

 

立ち止まりそう言った、姫野の言葉はお世辞ではなかった。お世辞でも、きっとデンジは喜んだが、お世辞じゃない分、よく効いた。

 

デンジは照れて赤くなった。くすんだ金髪を一房、風が撫でた。青い墨で染め抜いたような、姫野の黒髪もふわりと舞った。

 

「ありがとう、ございます」

 

「よぅし、そうと決まれば、ねぇねぇ、追いかけっこしようよ。車まで競争だ!」

 

「うおぉーー!兄貴に褒めてもらうのはオレだぁーー!」

 

「それは、流石に譲れないよ!」

 

しおらしくなったかと思えば、なんとやら。元気溌剌にデンジが駆け出した。ポチタは余裕の並走。姫野は少し息を切らしながらも、現役デビルハンターの名に恥じないスプリントで魅せた。

 

誰に観せるわけでも無かったが、二人と一匹の競争は、後ろ暗い何もかも、凝り固まって重くなった恐怖も不安も、すっかり置いてけぼりにするような、快活なものだった。

 

誰が見ていなくとも、二人と一匹は心地よかった。だから、それで好いのだろう。

 

 

 

 

遊具で目いっぱい遊んだ後、姫野は途中でコンビニに寄った。コンビニで、運転手に缶コーヒーを、デンジとポチタにはぶどうジュースを買い、自分にはペットボトルのお茶を買った。

 

汗をたくさんかいたデンジとポチタは、貰ったジュースを、美味しそうに、ごんごん飲んだ。運転手の黒服は沈黙を守ったが、軽く会釈で謝意を示した。

 

パン屋に着くと、流石に今回はポチタは車でのお留守番となった。

 

デンジと姫野が並んで店内に入ると、甘く香ばしい薫りが店内一杯に広がっていた。

 

「ぎゅるる~ッ」と、デンジのお腹が鳴った。

 

とっさにお腹を隠したデンジの表情は羞恥だろうか?これもまた、彼女の成長を示していると、この場に男がいれば言っただろうなと、姫野は思った。

 

くすり、と笑った姫野は、デンジに言った。

 

「ポチタの分、あと運転手さんの分、それから自分の分、このトレー一杯分まで買って好いよ」

 

「トレーっ、デカいですよ?」

 

差し出されたクリーム色のトレーと姫野の顔を交互に見遣りつつ、デンジが言った。

 

遠慮がちなふるまいに、少し感動を覚えた姫野は、デンジの喜ぶ言葉を交えて促すように言った。。

 

「うん。一杯分、「ごちそう」したげる」

 

「ポチタやったぜ!あ、ありがとうございまっす!姫野さん!」

 

車内で待つポチタの方から見えるように、店の窓に張り付いて喜びを表現するデンジ。

 

姫野は店員さんに会釈で「お騒がせしてごめんなさい」と告げつつ、デンジを窓から引きはがして言った。

 

「ふふ、そこはやったーとか言うと思ったよ」

 

「兄貴が、まずはお礼を言えって教えてくれるんで!」

 

「あはは、トクの兄貴は流石だね」

 

「ハイ!」

 

それから、デンジは姫野の分を除くパンを、陳列されている中から次々に選んでいった。

 

「ポチタは肉とか好きだから、このソーセージ挟んでるやつ」

 

「運転手の人はコーヒー飲んでたから、コーヒークリームって書いてあるこのサンドイッチ」

 

「オレは…この、ケーキみたいな綺麗な、ピザってヤツ」

 

「姫野さんは何を選んだんっ、ですか?」

 

ひょい、ひょい、と軽快なテンポで、次から次へとパンをトレーに乗せるデンジ。大きな声で独り言を漏らしつつ、実に楽しそうだった。

 

さて、自分と他の人の分が終わった今、残るは「ごちそう」してくれるその人、姫野の分だけである。

 

「あれ、デンジちゃん、それで全部?」

 

「あ、はい。でも姫野さんの分は?」

 

「あぁ、大丈夫だよ。私は私で買っちゃったし」

 

デンジが、姫野に聞くと、姫野は一回り小さなトレーで、自分は自分で会計まで済ませていた。

 

姫野が手にもつビニール袋の中には、これから自分で食べる用に買ったであろうクリームパンやマフィンとは別に、誰かに送るようなクッキーの袋詰めが幾つか含まれていた。

 

デンジはその違和感を見逃さなかった。

 

「あ、そーなんすか。でも、ちょっとクッキーとか多くないですか?」

 

「…あはは、こういう時、鋭いねデンジちゃん。正解、君の思ってる通りだよ。明後日の朝、トクさんに渡す分。クッキーとかなら大丈夫かなって」

 

「…そういうことなら、今回は「ごちそう」してもらったんで、オレは何も言う気ないです」

 

「ありがとう」

 

「でも、次そういうのやる時は、オレの番ですよ?」

 

「うん!半分こ、だもんね」

 

デンジと姫野は改めて、互いの意志を確認し合う様に手を繋いだ。

 

二人とも、恋人の者でも、家族の者とも違う、戦友と繋ぐような心地だった。

 

店を出て、車に乗ると、香ばしい美味しそうな匂いが車に充満した。運転手とポチタは頻りに、スクスクと鼻を鳴らしていた。

 

デンジは、遊んだ疲れで船を漕いでいた。優秀なサスペンションが一定間隔の優しい揺れを提供し、デンジを眠りへと誘った。小さな鼻寝息が聞こえた。

 

姫野は、まだ温かいパンを抱いて、斜陽へと向かう西の空を、車の窓越しに仰いだ。

 

今日は澄んだ夜空が視られそうだと、専門家でも無しに、そう思った。

 

 

 

 

埃っぽい裏路地を抜けて、雑居ビルに帰ってきた。すっかり外は深紅の水が張ったような有様だった。確実な今日の終わりを予見する、夕焼けを美しいと言う人もいる。恐ろしいと言う人もいる。姫野は後者で、男は前者だった。そして、デンジはどちらかといえば後者だろう。

 

三階まで競争。

 

「よーいドン」

 

寝起きのデンジとポチタのお遊びだった。はしゃぎ足りないと言うより、そうしていないと不安なのだと、今日になって姫野は理解した。

 

デンジは別に、ジッとしているのが苦手な子じゃないのだ。ただ、男がいないと意味がないのだ。全てから意味が失せるのだ。

 

男に早く帰ってきて欲しくてたまらない。だから、男がいない寂しくて退屈で色褪せた時間を、遊んで、燥いで、疲れて、眠ってでも、少しでも短くしようとするのだ。

 

その為の、防衛本能が、行動になって表れていた。他のこまごまとした理由など、関係なかった。

 

男がいるのか、いないのか。

 

それが、それこそが、デンジの精神と肉体を強烈に引っ張っていた。

 

姫野はそのことを今日理解した。早いかもしれない。遅いかもしれない。

 

だが、いずれにせよ、彼女は思った。

 

「なぁんだ、一緒じゃん。私と」

 

「私と、同じなんだね。同類、なんだね」

 

もう、男がいないことなど考えられない。初期症状が同じなら、病魔の原因が明白に同じなら、デンジと姫野は全く同じものに病んでいる。

 

二人とも、男に病んでいた。男は知っているのだろうか。

 

さぁ?

 

知っていたところで、知らなかったところで、現実は変わらない。二人は、そうだ、病まずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

昼ご飯にパン屋さんのパンを食べたデンジは、パンの虜になった。明日の朝もパンが好いと言って聞かなかった。

 

今度こそ、まともなパンを食べて貰おうと、塗るのはバターならバターだけ、という風に姫野が言った。

 

デンジはしぶしぶ承諾したが、言われなくとも二度と、ワサビやからしをパンに塗ることはないだろう。

 

昼食後、二人と一匹は揃って男の部屋で昼寝をした。三人ギュウギュウ詰めで、男のダブルベッドに潜り込んで寝た。

 

「ふふ…あははは」

 

「な、なんか、変態みたいっすね!」

 

「あはは、でも、それは言わない約束」

 

「へへ、そうですね」

 

眠る直前、二人はそんな会話をした。誰に聞かれているわけでも無いのに、息を殺して笑い合った。

 

昼寝は二時間ほど。起きて、窓の外を見れば、もう夕日は彼方だった。赤い頭が見え隠れしていて、もうお夕飯の時間帯だった。

 

腹が減ったデンジとポチタが騒ぐ前に、姫野は準備を始めた。

 

冷蔵庫の中を見ると、総菜はあったが、材料が卵くらいしかなかった。戸棚を探すと、大麦が出てきたのでこれは使える。

 

よって、今日のお夕飯は、市販の総菜と卵スープ、それから大麦入りご飯に決まった。

 

総菜はきんぴらやら、筍と里芋の煮物やら…今度夏野菜が旬を終えることを思い、姫野は「今のうちにサラダとか、作ってあげた方が好いかな」と独り言ちながらキッチンに立った。

 

姫野がキッチンで料理する姿は、なんともおさまりの好いものだった。

 

総菜を盛りつけ、温めつつ、脇でスープを煮る鍋がことことと鳴った。米が炊き上がり、ピーピーと音がして、デンジが起きてきた。

 

ポチタは定位置に、デンジに抱かれていた。

 

「夕飯は大麦ご飯です!」

 

「なんすか!それは!」

 

「プチプチします!」

 

「幼虫みたいなもんすか!」

 

「違います!」

 

お手伝い、と言うまでもなかったが、デンジが皿を運びながら姫野に聞くと、姫野はそう言って返した。

 

温かい空気が漂っていた。卵が主な具の味噌汁の好い匂い。温められた総菜と、ほかほかのご飯から立ち上がる湯気。

 

好い景色だ。好い具合だった。

 

悪魔もうらやむ平穏が、男の家、雑居ビルの三階では作り出されていた。守られていた。

 

「「いただきます!」」

 

しばらくしてから、揃った声で、そう聞こえた。

 

もう外はすっかり暗かった。晩夏、夜の帳がおりるのも随分と早くなった。

 

どこかで鈴虫が鳴いた。都会らしくない、喧騒を間引くように、涼やかな音色を奏でた。

 

 

 

 

 

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