ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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三日間 母子の日

「おはよう」

 

挨拶が空から降ってきた。

 

あやふやな頭。甘い記憶と片頭痛のちゃんぽんで眩暈しそうだった。

 

片腕で体を起こそうとするより前に、ちろり、眼を開けてみた。

 

「おはよう、もう朝だよ。起きる時間、だよ?」

 

「おはようマキマ」

 

横たわったままの格好でマキマと見つめあった。マキマは俺の枕元で、お味噌汁を作るのに使うお玉を装備して、身には血を薄めた色のエプロンを纏っていた。

 

早朝のマンションの最上階での目覚めは、遅刻せぬようにと、母親が息子を起こすのに似ていた。

 

「ご飯、もう出来てるから、早くおいでよ?冷めないうちに」

 

マキマはそう言うと、わざとらしく、あざとく、頬を膨らませて見せた。

 

同心円状の黄金色の瞳はギュルギュルと収縮し、虎視眈々と、男の一挙手一投足に釘付けだった。

 

耳を澄ませば、緊張の吐息。生唾を飲んだのは、マキマの方だった。

 

「正解を引いてくれるって信じてるよ」とも「あぁ、私の想定を滅茶苦茶にして欲しい」とも、マキマは思っていた。

 

マキマは、結論、男からの反応であれば何でもよかったのだ。

 

「あいよ、今起きるから、朝ご飯、下げないでね」

 

「下げないよ、「いただきます」は二人そろってから、だよ?」

 

男はのそのそと上体を起こすと、大きなあくびを一つして、頭と首と、腹回りを一通りポリポリ掻いた。

 

日曜日は恐らく、一番自由度の高い日だろう。

 

何故なら、マキマはママになるからだ。ママになったマキマは、でろでろに男に甘くなる。

 

だからといって、男が無理難題をぶつけることも、マキマが子供らしくあれと男に強いることもない。

 

大事なのは心の持ちようだった。

 

 

 

 

のそのそと、穴倉から這い出してきた男はまだ眠たげだ。眠い目をこすりながら、マキマの用意してくれた朝食の席に着いた。

 

マキマは「顔洗うのは後でいいの?」なんて聞いたりもしたが、男は「ご飯があったかい内に食べたい」と答えた。

 

今日の献立は、ほかほかの白いご飯に、豆腐とわかめの味噌汁、おかずは昨日食べきれなかった肉と野菜の炒め物の余ったものだった。

 

壁掛け時計を見れば、まだ8時前だった。時間と共に日の輝きが強くなっていく。マンションの大きな窓から差し込む光は、男には余りにも眩しく感じられた。

 

「「いただきます」」

 

二人そろって言った。無言で箸をとり、そのまま食べる。

 

食べ終わるまで無言なのが常だったが、今日は、男の方が口を開いた。

 

「なぁ、いつもここで、一人で朝ご飯食べるのか?」

 

男の問いは、間の抜けた、下手をすれば馬鹿にしているとも受け取られかねないものだった。

 

だが、マキマからすれば可愛らしいばかりだった。

 

自分を知ろうという意志と、自分を思い遣る優しさに裏付けられた言葉は、あんなにも優しい響きを持ち、臆病で気後れするように口から発せられるのだと、マキマは知った。

 

「うん、君と会うまではね」

 

「やっぱり、寂しかったのか?」

 

男が聞くと、マキマは箸を止めることなく、味噌汁を一口飲んで、椀から口を離すと言った。

 

「耐えられないくらい。変なことを考えるくらい、寂しかったよ」

 

「そっか…なら今は、ちょっとはマシになってるか?」

 

男が箸をおきそうになり、置くのを止めた。代わりに、マキマと同じように味噌汁を一口飲み、それから自分の聞きたかったことを聞いた。

 

マキマは目元を細めて、なんとも柔らかく微笑んだ。温かい布団のように、包み込むように優しい笑みだった。

 

マキマは言った。

 

「今はね、ちっとも寂しくないんだ。安心して。君は役に立っているよ。私の為に、成っているよ」

 

マキマはそう、諭すように言った。そして、自分の朝ご飯を片してしまうと、先に食べ終わっていた男の分の食器まで、重ねてシンクに出してしまった。

 

洗うのはもう少し後でにして、今は使った食器に水を張っておくだけにしたマキマは、自分の席でしんみりとしている男を、後ろから抱きしめた。

 

「うおぉ」と男が低い声を出した。嬉しいような、照れくさいような声だった。同時に、安堵の声でもあった。

 

「ねぇ、今日はね、ずっと私のことを見守っていて欲しいんだ。お願いしても、いいかな?」

 

「いいよ。勿論。いつも通り、ちゃんと見守ってるからさ…ところで、お手伝いとかってした方が好い?」

 

「お手伝いは好いよ。君、片腕さんだし。寧ろ足手まといになっちゃいそう」

 

そう言ってマキマは、男の空っぽの左の袖に触れた。暖簾に腕押し、温もりは肘先から、不在となって久しい。

 

「あらら、役立たずになってしまった」

 

「私にとっては凄く大切なんだよ。だから、役立たずとか言わないで…足手まといって言った手前、だけど」

 

「分かった、ありがとう…一日中、傍に居るよ」

 

「うん、うん、そうして欲しい」

 

マキマは男を抱きしめた。何度も何度も抱きしめた。

 

後ろから頭だけ抱くようなものから、背の高い人にするように、後ろから腰のあたりに抱き着くのであったり、色々と試した。

 

正面からも抱きしめた。じぃぃっと、男の瞳を覗き込んで、今日も今日とて、男にだけは全く力が効力を発揮しない奇跡を確認してから、それから体を互いに深く押し付けた。

 

沈んでいくような温かさ。柔らかさ。大事なモノが、流れ込んでくる感触は何時になっても飽きることがなかった。

 

マキマも、そして男にとっても、抱きしめ合うこと事の方が、情事よりも余程卑猥だった。

 

なぜならば、この時の二人は幼いままで、成熟した男女としても抱き合っているのだから。

 

互いに沈んで行ってしまいたい、深淵へと還りたくなるような、底の仄暗い欲望の表れだったからだ。

 

二人のハグが終わってから、間もなくマキマと男はそれぞれシャワーを浴び、それから部屋着に着替えた。

 

男の部屋着はアースカラーの茶系の短パンにブルーの半そでTシャツだった。マキマの部屋着は軽い素材の、髪色と同じカラーの上下長袖のルームウェアだった。

 

二人とも動きやすそうな恰好になった。二人とも、インドアなのに。

 

さて、風呂場でシャワーを浴びて、顔も洗ってさっぱりした男は早速、マキマを見守り始めた。

 

掃除に洗濯、昼食の準備、昼食中も、ずうぅぅぅっと、男はマキマを見続けた。見守り続けた。

 

昼ご飯はホットケーキだった。マキマが焼いてくれた。付け合わせは市販のアイスクリームと、バターとはちみつとメープルシロップだった。

 

マキマは三枚食べた。男は八枚食べた。一枚が皿一枚分のサイズだった。

 

男の場合は、後から小麦が膨れてきて、夕飯は米を少なめにすることにすると、マキマに伝えたら、マキマは上品に口元に手を添えて「ふふふっ」と笑った。

 

ホットケーキは美味しかった。

 

 

 

 

 

男がふと窓の外を見ると、もう真っ暗だった。

 

太陽は今日の業務を終えて夜勤の月の交替した頃だろう。

 

時計を経由せずに、男の視線はマキマに戻った。

 

「よそ見しちゃダメだよ?」

 

「ごめん」

 

「うん、好い子好い子」

 

マキマに頭を撫でられながら、男は思った。「やっぱりだ。マキマも、俺を見てる」と。

 

そのことが、恐ろしくないことは、ヘンなことだろうか?

 

男はマキマが恐ろしくなくなっていた。マキマの恐ろしさを忘れたわけではない。寧ろ、以前にもまして彼女の力を深く近くでまざまざと見せつけられる機会が多くなっただろう。誰よりも、誰よりもマキマの恐ろしさを知っているのは、他でもない男のはずだ。

 

だが、それでも。お男にとって、マキマは、どうしたってただのマキマだった。

 

それが初めからなのか、マキマと週に三日共に暮らし始めてからなのか、それはわからなかった。

 

だが、男がマキマを自分の守るべき平穏の、その内側に招き入れたことは間違いなかった。

 

男の存在がマキマの中で絶対であることは最早言うまでもない。だが、マキマの存在が男の中で、より大きくなっていったこともまた言うまでもなかった。

 

 

 

 

夕飯はマキマの、手ごねハンバーグをピーマンに詰めたやつ、に決まった。肉汁が閉じ込められていて美味しいので、男の大好物だった。

 

マキマはそう言う隅々までを記憶していて、ここぞという時に活用して見せた。

 

今日もそうだった。いつもそうだった。否、それが二人の普通になったのだ。

 

マキマは米を炊き、味噌汁を煮て、豆腐とわかめを切り、入れた。

 

鳥と牛のひき肉をこねてハンバーグの形にして、ピーマンのワタをくりぬいて、半分に切ったものに豪快に詰め込んだ。ピーマンの皮が丁度皿の役目を果たしていた。

 

これを二人分フライパンに乗せて焼いた。香ばしい薫り、肉の焼ける食欲を誘う匂いだった。濃い目の醤油での味付けか、塩コショウかで迷って、完成したら半分に切って、二人で半分ずつ味わうことにした。

 

「出来たよ、さ、熱いうちに食べちゃおうよ」

 

「ん?あぁ…ああ、好い匂い」

 

「好きでしょ?」

 

「うん、好くご存じで」

 

男はマキマの声で我に返った。今日は実に、至れり尽くせりだった。何もしないで、ただ私を見ていて、そのままの意味だったからだ。含むものもなく、男もまた深堀せず、純粋にじぃぃっとマキマのすることの隅々までを見守った。

 

その集大成が、目の前でほかほか湯気を上げる、出来立てのピーマンの肉詰めだ。

 

美味しそうだった。否、実際に美味いんだコレが。

 

「いただきます」

 

「はいどうぞ」

 

もう食べていいよ、と言われて、男が待ちきれないと言う様子で箸をとりながら「いただきます」と口にした。

 

箸をいれると、ピーマンも柔らかくなっていて簡単に割る事が出来た。二つに割れば、片方に醤油を垂らし、もう片割れに塩コショウを振った。

 

「いただきます」

 

ついつい、もう一度言ってしまうも、男もマキマも気にしなかった。

 

醤油から齧り付くと、ピーマンの苦みと熱い肉汁の旨味がなんとも言えない調和を感じさせた。円やかで鮮明な醤油が、もう一味、うまみを補強してくれていた。

 

米を掻き込み、味噌汁で口をリセットしてから、次に移った。

 

男は、塩コショウの方は、醤油の時よりも、幾分か冷静になったので、味わう様に、分析するように口に運んだ。

 

すると、コショウの刺激と塩の甘みが、それぞれ肉を引き立てて、醤油のコクのある味とも違う、より軽く、何個でも食べられそうな美味しさだった。

 

またしても、米を掻き込み、味噌汁で喉を潤した。

 

「美味いぃ…」

 

しみじみと男が呟くと、向かいで箸を進めるマキマも笑顔になった。

 

「フフフ…本当に、君は美味しそうに食べてくれるよね」

 

「本当に美味しいから」

 

男の言葉に、マキマが箸を止めた。グルグルとして、瞳孔が収縮する。男を見つめる瞳。問い詰めるよりも雄弁に、相手の心の言葉を聞き出せるだろう。

 

答えは?

 

是。

 

 

マキマは顔を赤らめて、嬉しそうに口元を波打たせると、箸を持ったまま小さく俯いた。

 

「そっか…そう言ってもらえると、本当に、作って好かったって思うよ」

 

「こんなおいしいご飯を毎日のように作ってもらって、俺は幸せ者だなぁ」

 

「君が幸せ者なら、私もきっと同じくらい幸せかも」

 

「…マキマ、今日一日ありがとう。何も返せないけど、ありがとう」

 

「フフフ…そ、そっかぁ、でも私、沢山君から返してもらってるし、それに…」

 

顔を上げたマキマの表情は柔らかかった。

 

「お母さんなら、当然だよ。ふつうさ、普通」

 

そう言ってマキマは自分の食事を再開した。嬉し楽しそうに、なんとも幸せそうだった。

 

食後、二人はテレビを暫く一緒に観て、それから各々風呂に入り、ベッドに向かった。

 

マキマが先にベッドに入って、男を待つ。

 

男はマキマの腕に抱かれて、マキマに、子供コアラのようにひっしと抱き着いて眠るのだった。

 

「おやすみなさい、ケミ君」

 

「おやすみ、マキマ」

 

男の温かい体熱が、マキマの覚めた心を溶かしていく。酔わせていく。毎晩のように。今日も至福の夢を見た後の、深い眠りとしゃれこむのだ。

 

 

 

 

誰しもが、幸せと言うものが何を意味するのか、分からなかった。

 

だが、ある日、彼らは一人の男に会った。

 

その男は不思議な存在だった。

 

傍に居れば、男の傍に居る限りは平穏な生活を、心身共に送れたからだ。

 

金や時間の問題以前に、男本人を除いて、男の傍に居る者からはあらゆる心配事や問題が、次から次に免除される様だった。取り除かれる様だった。

 

あるべき悲劇がそこにない。その事実に憤慨する者はいない。初めから、そんなものなどなかったのだから。

 

引換えに、男は常に問題の渦中にいた。だが、そんな男が誰よりも平穏無事で淡々としていることを望んでいた。

 

だが、そんな不幸とも幸福とも知れない生に、男は満足を覚えていた。

 

山積していく問題からの現実逃避なのかはともかく、男は今が一番いいとさえ感じていた。そして、その平穏無事で淡々たる生活を守るためなら、喜んで手も汚そうと考えていた。

 

男は、そこまで行っても悪党だった。お人好しの悪党だった。

 

このディストピアだからこそ、滑稽と不気味の間に生まれ得た諧謔。それは正にファニーであり、また正にジョーカーだった。

 

 

 

 

 

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