ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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三日間 ケーキ

雑居ビルの三階。男の家でのことだった。夕闇が月の風にかき混ぜられて、憂鬱な色合いを滲ませる頃のことだった。

 

デンジは自分の子供部屋のベッドで眠ろうとしていた。男に用意された部屋、物、事。全てが少し前までは夢にも見れないことだった。

 

全てが揃っていた。だというのに、デンジの眼は冴えてしまっていた。安心できる、自分の物すべてが揃っていたというのに。

 

何故だろう、とは敢えて聞くまい。彼女は知っているのだ。自分は男を、彼を感じる何かを腕の中に隠してしまっておかないと、一人で眠ることもできないのだと。

 

デンジの隣には、今日は誰もいなかった。姫野はデンジの部屋を借りて、来客用の布団を敷いて、そこで眠っている頃だろう。

 

何が足りない?何かが足りない。何が足りないのか、それは理解している。理解していながらも、手に入れることのできないもどかしさ。

 

だが、そのもどかしささえ、愛おしかった。デンジの語彙に直せば、それは「嫌だけど大好き」だった。

 

デンジは胸に抱いているポチタに聞いた。ポチタは温かかった。

 

「なぁ、ポチタ、まだ起きてるか?」

 

ポチタが返事をした。

 

「クゥ~ン?」

 

「眠れないのか?」と尋ねるようだった。

 

デンジは布団でポチタと自分を覆い隠すと、内緒話をするような声音で言った。

 

「明日、本当に兄貴は帰ってきてくれるのかな…」

 

「クゥン?」

 

「だって、マキマとかいう奴、オレから兄貴を盗る気まんまんだったぞ」

 

「ワン!ワン!」

 

「ポチタがそう言うなら…でもよぉ、もしも兄貴がアイツとケッコンとかするって言い出したらどうすんだ?」

 

デンジはそう言うと、俯いて、不安げに手を握り合わせた。

 

「ワフフ?」

 

「アイツの娘になんのかよ…あぁ、でも兄貴の娘にもなるのか…」

 

「ワンワン!」

 

「好くねーよ!っだって考えても見ろ、あの女だぞ!マキマは、兄貴に首ったけだから、オレの世話なんか焼くもんか!それに…オレが嫌だ。嫌なんだよ…オレは兄貴だけでいいのに。兄貴が、兄貴さえいてくれれば」

 

「…クソッ、今のオレは何にもできねぇ。だからマキマが兄貴を好き放題してるんだ!少しは、姫野さんを見習えよ!」

 

マキマが男を独占する時間が、デンジにとっての悩みの種だった。姫野と言う同志を得て、そのことは確信に変わり、デンジの中でマキマの存在は最大の恋のライバルになった。

 

ポチタが諫めるようにデンジに言った。

 

「わ、ワフ~!」

 

「落ち着けって?…むぅ…たしかに」

 

そして対案を出すように舌を出して、ポチタは言った。

 

「ワン!へっへへ!ワワン!」

 

「ふんふん…じゃぁ、オレがもっと女っぽくなって、マキマに負けないくらいになって、兄貴をメロメロにしちゃえばいいのか?」

 

デンジは自分のやせっぽちの体に目を落とした。

 

暗闇の中で慣れてきた視界には、同年代の子供よりもまだまだ線が細く、折れてしまいそうなデンジの体が浮かび上がった。

 

ポチタは肯定するように言った。

 

「ワン!」

 

「へへへ…そっか、それならもっと沢山ご飯食べて、デカくなんないとな!」

 

自分のぺったんこの胸をペタペタと触れながら、デンジはにっくきマキマの恵まれた胸部を頭に思い浮かべていた。目標とするところは、癪だがマキマだった。

 

「ワンワン!」

 

ポチタが「その通りだ!」とでもいう様に鳴いた。

 

内緒話の夜は更けていく。朧な雲の流れが月を飾り付け、鈍い光が不夜の都心を嗜めるように照らした。

 

 

 

 

マンションの朝。男とマキマの家にも朝が来た。

 

「おはぁよう」

 

「おはよう」

 

マキマの腕の中で、男が欠伸をしながら言った。マキマも目を擦りながら言った。

 

割合、すっきりと眠れた。二人ともだ。

 

そうして、三日間が過ぎてしまった。また次の三日まで、二人はお別れだった。

 

男がのそのそと起き上がって、パジャマからいきなりスーツの方に着替え始めた。ここに来るときにも来ていた、灰色のスーツだった。

 

「もう行っちゃうの?」

 

マキマが名残惜しそうに言った。

 

男は振り返ると、スラックスを履き、片手で革ベルトを通しながら答えた。

 

「姫野にお土産持たせるやつ買おうと思ってさ。お世話になったからな」

 

男の返答にマキマは満足したのか、満足しなかったのか、スーツが皴になるのも気にせずに、後ろから抱き着いた。

 

これでは、パジャマについてる髪の毛とか埃とかが、男のスーツに付着するだろう。匂いも。

 

「ねぇ、好い所知ってるから、私からのも一緒にどうかな?払うよ」

 

「えぇ?それは悪いって」

 

抱き着くマキマを抱き返し、着替えの手を止めた男が言った。

 

だが、マキマは首を振り、話を聞かないつもりだ。

 

「一緒に行くの。そこで、買おうよ。それなら文句ないでしょ?」

 

「俺はいいけど、マキマは上司だろうに…気を遣わせるなぁ」

 

「上司と一緒に部下を顎で使ったのは君も同じでしょ?」

 

「うぅ~ん、そうなのかな?」

 

「ともかく、私も着替えて来るから、先に出ちゃだめだよ?」

 

そう言ってマキマは離れた。一人では巻けない腕時計だけ、ちゃっかり預かって行った。

 

それから、男とマキマは揃って家を出た。朝食は男の希望でコンビニのおにぎりと緑茶になった。マキマは不満げだったが、男と同じ食事を経験できたことが嬉しかったのか、間もなくご機嫌になった。

 

朝食後、どこからともなく現れた公安の公用車に乗せられて、男はマキマの紹介で高価な洋菓子の箱詰めを二つ購入した。一つは姫野の分。もう一つはデンジとポチタへのお土産である。

 

代金込みで、マキマが支払ってくれたことに、男は少し申し訳なく思った。

 

だが、公用車に乗ったまま家である雑居ビルが近づいてくると話が変わってきた。

 

男が言った。

 

「なぁ、マキマ、まさか家まで送ってくれるつもりか?」

 

「勿論さ。寧ろ、私がそうしないとでもおもったのかな?」

 

「いやだって、いつもはマンションで別れるじゃん」

 

「今日は特別なんだ。そういう気分なんだよ」

 

「今駄々っ子になるなよ…」

 

マキマはさも当然というように男の問いに答えた。そして、その豊かな胸を張り手を上げて車を止めると、洋菓子の箱を男に押し付けて自分はさっさとビルに入って行ってしまった。

 

運転手に会釈してから、男は菓子箱二つを積んで抱くとビルを上がって行った。

 

一階のフロントで「おかえりなさいませ社長」と言われ、二階の事務会計室で「おかえりなさいボス」と言われ、そして三階へ。

 

 

 

 

三階の玄関ドアは既に開かれていた。

 

その場では、三人の乙女がいた。

 

デンジ、マキマ、姫野の三人だった。

 

「三日間お疲れさまでした。姫野君はもう帰っていいよ」

 

「いえ、寧ろ楽しかったですよ。それに、まだトクさんに会ってないんで帰れません」

 

「上司命令です。さっさと帰りなさい」

 

「姫野さんに意地悪すんなよマキマ!」

 

「ふふ、冗談だよ、冗談。三日間、大変だったみたいだね、デンジ君」

 

「うるせー!早く兄貴を返せ!」

 

修羅場だった。

 

玄関から一歩たりともマキマを家にいれる気のない姫野とデンジの仁王立ち。対するは冷徹に佇む、黒コート黒スーツで完全武装のマキマだった。

 

平常な感覚の持ち主であれば、この場に踏み込むことがトラブルの種になることくらい理解できる。だが、ここにはそうではない男しかいなかった。

 

やっと追いついた男が、玄関ドアでスーツ姿で仁王立ちしていた姫野に、菓子箱を預けてから割り込んで言った。

 

「まぁまぁ、マキマはこれから仕事なんだからそこまでにしとけよ。また来週な」

 

「……来週、約束だよ?」

 

一瞬、マキマの視線が鋭くなった。

 

だが、男は動じなかった。自信満々に、優しい笑みで言った。

 

「破ったことないだろ?」

 

マキマはそっぽを向くと、手をコートに突っ込んだ。そしてぶっきらぼうに言った。

 

「君が言うならまぁいいや、またねデンジ君と姫野君」

 

マキマは男の手前、すんなりと従ったが、すれ違いざま男の耳に息を吹きかけた。

 

「ふぁ!?」

 

「フフフフ……」

 

男の反応を楽しみ、悪戯成功で留飲を下げたマキマは、今度こそ何もせずに帰って行った。

 

マキマが帰った。

 

そうなれば、今度はデンジと姫野の番だった。

 

まず飛び出したのはデンジだった。

 

「兄貴!」

 

そう言ってデンジは男の腹に向かって頭から飛び込んだ。

 

たじろぎながらも受け止める男。顔には笑顔があった。

 

「うおぉ!」

 

「兄貴!兄貴!おかえり!おかえりなさい!」

 

男の腹に顔をぐいぐい押し付けては、匂いを擦り付けるように体全体で男に抱き着くデンジを止められる者はいなかった。

 

「ただいま、デンジ…なんか、思ってた以上に心配かけちゃったなぁ、悪かった」

 

為されるがままにされていた男は、デンジの頭を優しく撫で、それからゆっくりと彼女の軽い体を片腕で抱き上げた。

 

男に抱き上げられて、うっとりとしたデンジは男の首に顔を埋めて静かになってしまった。

 

デンジが落ち着いたと見た男は、次に姫野の方に向き直った。

 

「おかえりなさい、トクさん。デンジちゃん達、ずっと好い子でしたよ」

 

感謝を伝える前に、姫野に言われてしまい、男は少し照れくさかった。こうやって聞くと、デンジが本当に自分の子供みたいに聞こえたからだ。

 

だから、感謝を伝える言葉が少しぶっきらぼうになってしまったのも仕方がなかった。

 

「姫野、三日間ありがとう…それ、片方持ってって欲しいんだ。美味しい菓子屋さんの物だから、世話になったし、こんなもんで埋め合わせにならないとは思うけど…休日三日分の埋め合わせは別として、俺の感謝の気持ちとして受け取ってくれ」

 

姫野は男の言葉に素直に頷くと、箱を一つ抱え、それから自分も用意していたクッキーの詰め合わせを男に渡した。

 

「では、埋め合わせの日程は後程…今日はデンジちゃんと一緒にいてあげてください。あとそれ…美味しい街のパン屋さんがあったんで、今度は是非そこのパンでも買ってお茶しませんか?」

 

男は「勿論」と頷いた。

 

男から言質を受け取ると、姫野はデンジに気を遣ってか、「では、私はこれで」と言って、そそくさと男の家を後にした。

 

 

 

 

男が三日ぶりに玄関ドアを潜ると、カーペットの所でポチタがお行儀よくお座りをして待っていた。

 

「ただいま、ポチタ」

 

男が言うと、ポチタが元気に吠えた。

 

「ワン!」

 

「俺が手洗いうがいしたら、美味しい物を食べような。さぁ、デンジ、先に椅子に座って待っててくれ。皿も出しといてくれると助かる」

 

「うん。わかった」

 

男の肩は少し湿っていた。だが、男は気にしなかった。寧ろ、嬉しかったし、少し申し訳ないくらいだった。

 

急いで手洗いうがいを済ませた男は、デンジたちの待つダイニングに向かった。

 

 

 

 

「わぁ!ケーキだ!」「ワン!」

 

デンジとポチタが歓声を上げた。

 

「大きいケーキにしてみました」と男が鼻高々に言った。さぁどうだとでも言いたげだ。

 

きらきらと宝石のような赤いイチゴが五つ乗っかってあるホールケーキだった。

 

デンジとポチタは二人並んで涎を垂らしていた。

 

「あぁ、好かった」と男は思った。

 

「さぁ、切るぞ…デンジ、ポチタ、どれくらい食べられる?」

 

「え、え、いいの?たくさん食べていいの?」

 

男が尋ねると、デンジが「いいの?いいの?」と何度も聞いた。

 

愛らしく。そして残酷だとも、男は感じた。自分は何と言うべきか、そんなものは決まっている。

 

「ここにある分だけだが、ぜーんぶ、デンジとポチタの分だぞ。ぜーんぶ、食べていいんだぞ」

 

男がそう言うと、デンジとポチタは「やったー!!」とガッツポーズをするや、なんとも楽しそうに、ホールケーキにホールのまま齧り付いた。

 

「こらこら切り分けようと思って包丁も持ってきてたんだがなぁ…」なんて、男は漏らしていたが、本音の部分では、「よかった」と感じていた。

 

遠慮を知らずに、目いっぱい好きに振舞えることは、きっと貴重な体験だと、男は思った。

 

だから、ムシャムシャとケーキにかぶりつくデンジとポチタを見守る事しか、しない。出来なかった。

 

「ダメ」とは言えなかった。

 

デンジがモーニングで出されたコーヒーを苦い苦いと言って飲んでいたのを、男は覚えていた。だから、ケーキに合うように温かいコーヒーにミルクと砂糖をうんと入れてやって、夢中でケーキを頬張るデンジの傍においてやった。ポチタには水を出しておいた。

 

デンジの誕生日をデンジは知らなかった。男は自分の誕生日を知らなかった。ポチタも、恐らくは自分の誕生日を知らないだろう。

 

でも、それでもいいじゃないか。

 

「美味いか?」

 

男が聞くと、デンジが答えた。

 

「美味い!」

 

「そっか…」

 

「あ、兄貴の分なくなっちゃう…」

 

「いや、俺の分はコレで十分だ」

 

そう言って、男はデンジの口元にべったりとついていた生クリームを掬い取ると、クリームに塗れた指ごと口に運んだ。

 

「あ、あぁ」

 

デンジの口があんぐり開いた。

 

「うん。甘い」

 

男はコーヒーを淹れに行ってしまった。今日はドリップの気分らしかった。

 

デンジの顔は真っ赤になっていた。ほっぺたが、ショートケーキのイチゴのように赤かった。

 

 

 

 

その日の夜。デンジはポチタと約束した。生まれて初めてケーキを食べた日。今日を自分たちの誕生日にすることに決めたのだ。

 

そして、これは単なる偶然に過ぎなかったが、男も自ら誕生日を、デンジたちと一緒にケーキを食べた日に設定したのだった。

 

その日は男がデンジの元に帰ってきた日だった。誰に打ち明けるでもない誕生日が決まった日だった。

 

この日の月は澄んでいた。

 

半月形の孤独を偲ぶ者は、何時の時代も、何処かの誰かが。

 

月が、朝焼けの赤に吞まれるまで、淡々と世界を青白く照らし続けていた。

 

 

 

 

 

 

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