男がクァンシに腕を斬り落とされてから、早一か月が経っていた。腕の傷は幻肢痛に悩まされることを除けば、案外、何とかなるもので、男の家での生活に慣れ始めたデンジの手助けもあって、普通の生活水準を維持していた。
淡々と、平穏無事に暮らしていた男たち一家だったが、一つ新たな問題にぶち当たった。
と言うのも、デンジに教育を施す必要があるのだ。しかし、男の職業柄、万が一と言うこともあり得る。男はデンジよりは賢いかもしれないが、世間一般の知識にも常識にも疎かった。
真人間として、まだ間に合うと考えた男は、義務教育を受けていることを条件にして教師探しをした。
だが、マキマとはデンジが嫌がるし、クァンシには迂闊に近寄れないし、仕事上の部下にも義務教育を完全に修了している子は少なかった。
教師探しは難航した。
そこで男は、家庭教師を雇うことにした。
家庭教師なら、その実力を疑う必要もないし、その子供に合わせてじっくり教えられるし、何よりその家の家業は関係なかった。
平日は三日間マキマが埋めているし、残りの四日間で一緒に過ごしつつ、様々なことを教えて、デンジ一人でもこの家で暮らせるようにしておきたかった。
早急に、その必要性を見出した男は、思いつくが早いか、行動に出た。
というのも、電話を掛けただけなのだが。
今日は土曜日、彼女は家にいるだろう。
そう思いつつ、男はひょんなことから知り合った、現役中学三年生の少女宅の番号を、公衆電話のダイヤルに打ち込んだ。
疚しいことは何もない。彼女とは、彼女が駅で修学旅行の新幹線の切符を失くして困っていた場面に遭遇して、買い替えた時以来の付き合いがあるのだ。
彼女は不運だが、恩知らずじゃない。寧ろ素直で好い子である。
数少ない義務教育を修了中の、知り合いの女の子に望みを託して、男は受話器を耳に当てた。
◇
「も、もしもし、どちら様ですか?」
電話に出たのは、案の定、彼女だった。家でこういう役目を、言いつけられていることは、彼女自身の口から聞いており、既知のことだったからだ。
男は偽名とも本名ともわからない、外向きの名前を口にした。
「もしもし、お久しぶり、トクヒラでした」
「えぇ!…あ、どうも、こちらこそお久しぶりです…でも、電話を下さるなんて、何かあったんですか?」
不安そうに、怯えるような口調だった。全ての過失が自分に向かう、そんな恐怖が、強迫観念の様に、彼女の根底に根付いているのかもしれないと、男は思った。
男は言った。
「コベニ、割の好いアルバイトに興味ない?」
東山コベニは黒髪の、少し痩せぎすの女の子だった。顔は整っていて、なんとも頼りなく、物憂げな、小動物的な雰囲気を纏う少女であった。何かと幸薄い彼女だが、実家にも恵まれておらず、なにかと不遇であり、扱き使われる立場に甘んじていた。
しかし、偶然の重なりか、運命の導きか、男とコベニの間には縁が結ばれていた。
男の提案に、コベニは幾分明るい声で話した。
「割の好い、アルバイト、ですか…?興味、ありますけど…平日は学校があるし、土日も弟と妹の面倒を見なきゃいけなくて…」
「うん…うん…そうか…大変だな、コベニは」
「ううぅ、そうなんですぅ~…なんで、私ばっかりぃ…」
コベニの言い分を、男は、うんうんと、受話器越しに頷きながら聞いた。
男は、話が長くなりそうだと、百円玉を三枚、公衆電話の投入口に入れた。
それから、コベニの愚痴は、男が投入した百円玉が十三枚目を数える頃にようやく途切れ、男の番が回ってきた。
「…コベニ、土曜日だけで好いんだけど、家庭教師やってくれないか?それなら、親御さんもそこまで忌避感無いと思うし」
「えぇ!?家庭教師、ですか?」
「うん。土曜日だけで好いから。お給料も弾むよ」
男が金の話をすると、コベニは申し訳なさそうに、すごすごと、男に訊ねた。心なしか、声も潜めるように、籠って聞こえた。
「あのぅ…具体的に、お幾らとかって聞いても?」
コベニの声に合わせて、男も少し潜めるような、優しく小さい声で言った。
「時給五千円」
「やりまーす!やりますやります!是非、やらせてください!」
まだ男が言いきらない内に、コベニが声を上げた。耳がキーンとするくらいの、大きな声だった。声を聴き逃すまいと、受話器を耳に強く押し当てていた男は、吃驚して、受話器を落っことしそうになった。
あたふたと、一人で演じてから、男は静かになったのを確認して受話器に再び耳を近づけた。
「続けていい?」
「す、す、すみません!取り乱しました!」
「いや、いいんだよ。それで、教え子は一人、今一緒に暮らしてる子でね。訳アリだから、あんまり深くは聞かないで欲しいかな」
「はい…そのことは、もう、黒塗りのバンに攫われそうになったところを助けて頂いてから、理解してます。だから、大丈夫です」
コベニは何かと幸薄い宿命を背負っており、誘拐されそうになるたびに、偶然居合わせる男に助けられていた。面識があり、関係性が継続している背景には、定期的に問題に巻き込まれるコベニと、その現場に何故か居合わせる男の、二人の偶然性の一致があった。
コベニは、男があまり人様に大っぴらに自慢できない、そういう仕事の元締めであることまで、何となく理解していた。だが、男への嫌悪感は皆無であった。寧ろ、コベニの中にあったのは敬意と、憧憬と、純粋な好意だった。
そんなコベニの、力強い返答に満足した男は、次に詳細な労働条件について口にした。
「気を遣わせるね…理解が早くて助かるよ。えぇっとね、労働条件は、毎週土曜日に4時間。時給は五千円だけど、これはお家にバイト代って言って入れる分を除けてあるからね。バレると気まずいし、口座つくっておくから、そこから引き出して、必要な時は使いなさいね。初日に通帳渡すから」
「あの、それは流石に貰いすぎと言うか…」
男の示した条件に、コベニは好意もあってか、飛びつけずにいた。
もじもじと、受話器越しに足踏みするコベニ。因みに彼女の部屋着は中学のジャージである。男には何かとお世話になっているし、個人的感情…見栄や意地や、男を慕う気持ちを無視しても、生来の不運から、自分がうっかり通帳のことを家族に漏らすことがあれば、男の厚意を無下にしてしまうかもしれない。
そんな不安もあり一歩が踏み出せない、コベニの遠慮も男は分からなくはなかった。
だが、男からすれば口止め料も込みならもっと高くても好いくらいだった。
男にとって、東山コベニという存在は、癒しの様な存在でもあり、同時に年の離れた友人の様にも、個人的には思っており、友達のできた例のない男にとっては、関係性が続いているだけでも奇跡のようなものだった。酷い目にばかり遭っていて不思議な子だな、という興味関心も多大にあっただろうが、男がコベニを心配する気持ちに、特別の疚しさはなかった。
「うーん。でも、コベニは頑張ってるから。今後も、頑張ってもらうってことで。この条件を最低ラインにして、俺は進めるつもりだよ」
「は、ははは…ありがとうございます。あの、交通費は自腹ってことでいいんですよね?」
「いやいやそんな悪いよ、安心して、ちゃんと迎えを寄越すから。何時も俺が乗ってる、ゴツい黒の車分かる?あれに乗せて貰ってきてね」
「あ、はい…ありがとうございます」
最終的に、コベニが折れる形で、男との家庭教師契約は完了した。
学科に関しては全般を、具体的には小学校で習うレベルを網羅することとなった。
食事や挨拶など、生活上のマナーは男が教えられるから不要らしい。
男とコベニが契約を交わした翌週の土曜日、コベニの家の前に黒塗りの高級SUVが停車して、ちょっとした騒ぎになるのは言うまでもなかった。
それから毎週土曜日は雑居ビルの三階、男の家で勉強会が開かれることとなった。
勉強会は、デンジにとっては年の近い子供と触れ合いつつ、人から物を教えられる立場で学ぶ場となり、同時に高校は行けるところに行くと決めたコベニにとって、この家庭教師の仕事は、息抜きであると同時に、中学の間に将来の不安が少し薄れるような、意図せず手にした収入源として、大いに彼女の精神衛生向上に役立てられることとなった。
◇
日曜日。早朝。まだ朝焼けが世界を照らす前に、男は外出しようとしていた。
デンジとポチタは、あれから毎日、朝起きると男のベッドの上にいた。今日も同じだ。
何時間前に起きだして、男のベッドにもぐりこんで来るのか、現行犯でとっちめても好かった。だが、男は敢えてしようとまでは思えなかった。
まだ眠っている、デンジとポチタをそのままに、寝床から抜け出そうとした時だ。
「ぽ、ポチタ、しーー、だぞ?」
「クゥ~ン?」
ポチタと目が合ってしまったのだ。いつ起きたのか、気づかなかったが、ポチタは起きていたようだった。
デンジに抱かれている、ポチタが一鳴きすれば、デンジが起きてしまう。
男は、身振りで「すぐ戻る」と伝えながら、そそくさと衣装箪笥から、何時もの服を引っ張り出し、着替えた。
そして、ベッドに戻ってくるなり、枕元に書置きを残して言った。
「書置き、残しとくからな。ここ、な?だから、ちょっとの間だけ、デンジを頼んだぞ?」
男はそう言うと、寝室を出て玄関に向かい、履きなれた濃い緑のスニーカーの紐を締めて、扉をそっと開くと、音が出ないように時間をかけて外側から鍵を閉めた。
男が出かけて間もなく、まるで待っていたかのように起きだしたデンジは、泣きもせず、書置きも見ずに、男に買ってもらったシャツと、黒のパンツを履き、合皮のベルトを締めると、洗面所に行き、顔を洗い、鏡の前で、肩丈を少し越えた、くすんだ金髪に櫛を通してから、ポチタの待つ玄関に向かった。
玄関では、既にポチタがおすわりの姿勢で舌を出して、デンジのことを待っていた。
「ポチタ。今日こそ、兄貴がいつも日曜日に、どこに行ってるのか、突き止めるぞ!」
「ワン!」
デンジはそう言うと、赤い線で縁取られた、少し大きなサイズの白いスニーカーに足を突っ込んだ。
男は、毎週日曜日は昼過ぎまで帰ってこなかった。早朝で戻ってくることもあるが、そういう時にも必ず、誰かと食事をしてきたような、美味しい匂い、見知らぬ匂いを纏って帰ってくるのだ。
男に何度か聞いたこともあったが、男の返答は「ヒミツ」の一言。それほど、秘密っぽくない軽い調子だったから、おそらく危ないことではなかった。
だが、男の行き先を突き止めるために、何の説明も受けていない、デンジとポチタが動き出すのは、必然だった。
それに、デンジの女の勘が言っているのだ。
「兄貴は、オンナに会ってるに違いねぇ!」「ワン!」
ポチタを連れて、男の後を尾行するのは今日が初めてだった。何時も起きれなかったり、ぐっすり眠ってしまったり、あとは純粋に怒られるのが怖かったから。けれど、男がそんな理由で腹を立てたり、嫌いになったり、暴力を振るう人間じゃないことを、デンジは今ならもう確信できた。
デンジは男のことが好きだった。好きだから、知りたいと思った。自分のことを、自分よりも知っている男のことは尊敬しているし、男の為に何かできることはないかと毎日のように考えていた。だが、その為にはまず、男について知らなければならなかった。
男がどんなことを好むのか、男がどんなことを嫌うのか。男の生活や趣味や癖を、日常の中から集めて集めて、そうして、秘密も隅から隅まで知ってしまいたかった。
拒まれたら止める。そのことは絶対条件だ。嫌われては、元も子もない。
だが、男はデンジに甘かった。だからデンジも、自分がどこまで行けるのか試してみる気になれたのだ。
だから、今日、こうして行動に移した。
まだ薄暗い空の下で、朝靄の中を、デンジとポチタは、男の背後からぴったりとくっついて行った。
男の書置きには、今日の昼ご飯は冷蔵庫の中にある、と言うことと、家の中での諸注意、知らない人が訪問しても扉を開けないこと…などが、手書きで、書かれていた。
誰にも見られることのなかった書置きを残し、デンジが来てからは久方ぶりに、雑居ビルの三階はもぬけの殻になった。
◇