ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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日曜日の朝

朝と夜の狭間でのことだった。都会の喧騒もどこか遠く、淡く白い雲の波が、地平線に寄せる頃に、男はまた夢を見た。

 

今度の夢の舞台も、やはり、あの地獄の様に、不気味な沈黙が支配する空間だった。

 

目の前には、灰色のトルソーがあった。だが、今回は少し勝手が違った。

 

左腕が生えていて、眼球が一つ首の上で浮いていた。

 

相も変わらず、胸には虚空が口を開けていた。

 

また、あのゾッとするような声が降ってきた。しゃがれていて、温度のない声だ。

 

「左手と、右目…確かに受け取った。よもや、これほど早くとは…みくびっていたよ、君のことをね」

 

「何のことだ?それに、右目って…おい、どこまで知っている?それに、愛は関係ないはずだろ?」

 

「いいや、大ありだ。しかし、驚いたよ…既に右目だけこっちにきていたとは…探すのに手間取ったが、あの眼帯の女が教えてくれたおかげで見つかった。…君の顔を見れるようになって、嬉しいよ」

 

虚空に浮かんだ眼球がぎょろぎょろと動いた。無いはずの瞼の動きまで幻視できそうだった。

 

「気味の悪い奴だ…!」

 

「君は、美しいな…しかし、まだだ。まだまだ足りない…もっと、もっと寄越せ」

 

トルソーから生えた、灰色の手が男に伸びた。

 

男は手を躱すようにステップを踏み、後退り、距離を取った。

 

「俺が呉れてやりたくて、腕を譲ったとでも?」

 

「否…しかし、宿命のようなもの。ある意味、必然だ。だが、いずれにせよ、お前はそのまま生きるがいい。愛に囲まれて、愛に殺されるがいい。その右の義眼では、愛の正体すら、見えないのかな?」

 

トルソーが、動きを止めて、その空っぽの皮膚をぶよぶよと泳がせながら、舞い上がり、男を睥睨するように言った。

 

男の、右目だったものが、男を見下ろしていた。

 

「…右目が、義眼だとなぜわかったか、それだけ教えて貰おうか…」

 

「ここには、同類もいるが、契約は契約でも、君のは同じ人間との、しかも書面上でのものだった。血と血で繋がった、私との契約が、上回ったに過ぎない…」

 

「気分で、譲ったものだ…あいつの眼は、無事なのか?それとも、ここにあるのか?盗っちまったのか?」

 

男は青い顔で、トルソーに嚙みついた。不安げな顔からは、覇気が失われたように感じられた。

 

「…盗ってはいない。そのままだ。失われた、と言う事実が重要なのだよ」

 

「お前の言葉は信じられない…直接会って、確認してくる」

 

そう言って、男は、トルソーの方へ自ら近づいて行った。

 

戻るんだ。そんな、強い意志が感じられた。

 

「ちょうどいい、そろそろ、時間だったんだ。さぁ、愛に溺れ、愛に生き、愛が故に死ね」

 

「うるせぇ!さっさと俺を帰しやがれ!」

 

その時、トルソーの胸に巨大な闇が生まれ、渦を巻き、男を吸い込んだ。

 

グワングワンと、鐘を打つような、激しい頭痛と共に、男の意識は覚醒した。

 

寝汗と共に目が覚めた男が、瞼を瞬かせた。

 

僅かな光を感じて、体を起こし、窓に目を遣ると、朝焼け前の、深夜と明朝が溶け合う時間帯だった。

 

男はポツリと呟いた。

 

「…姫野に、会いに行こう」

 

姫野とは、男の知り合いのデビルハンターの名であり、岸部女史という共通のデビルハンターを通じて知り合い、縁あって邂逅するような偶然の関係を重ね、そして、一晩の過ちと、その時の気分によって、男の右目を、諸事情で空洞となった右の眼窩に、移植された女性だった。

 

 

 

 

遊具がシーソーしかない、寂れた近所の公園で、二人は何時も待ち合わせをしていた。

 

朝靄が晴れ、強い日差しが眼に痛いくらいに、住宅の屋根の輪郭をなぞって、地平線から差し込む頃、男は公園に辿り着いた。

 

赤く照らされた、女の白い頬が見えた。黒で統一された、パンツスタイル。黒いタイも少し緩めに締められていて、白いのはシャツだけだ。

 

髪色は青い墨を練り込んだように、鮮やかな黒だ。肌は日の光で青筋が差すほど白い。少し撥ねた、猫っ毛の髪は流れるようにさらさらだった。

 

姫野の肉体は、健康的な美を着て、仄かな脂肪と、実用的な筋肉のバランスが好い体形をしていた。

 

眼帯は、今はもう付けていない。代わりに、少し色の濃い黒目が右の眼窩に、ぴったりと填っている。義眼じゃない。ちゃんと動くし、見える。そうなるように、男が金を出して、移植手術を受けさせたのだから。だから間違いなかった。

 

マキマと同じ格好なのは、同業者だから仕方ない。それに、こうして会うのも、就業前のほんの少しの時間だけと決めていた。

 

迷惑はかけたくなかったし、なにより、お互いにフランクな関係が理想的だと、男は考えていた。

 

日曜の朝に、散歩がてらに会う関係。会って、少し話したり、煙草を貸し借りする関係。それがベストで、一番平穏無事だと、男は考えていた。

 

「おはようございます。トクさん、早いですね」

 

「姫野もね。おはよう」

 

姫野は一足早く公園に着くと、一つしかない遊具である、シーソーの片方に腰を下ろしていた。そうして、男を待っていたようだった。

 

男は、掌を姫野に向けるように、手を上げて挨拶した。

 

「今日はどうしますか?」

 

「どうしよっか」

 

互いに挨拶を交わしながら、二人はシーソーからベンチに移り、その座り心地の悪い、石のベンチに並んで座った。隣り合う二人の間の距離は10センチメートルもない。

 

互いのパーソナルスペースを犯しながら、姫野と男は、同時にポケットの中をまさぐり、同時にその動きを止めた。

 

「煙草、忘れちゃいました」

 

「俺は、持ってきてたよ」

 

「そんな気がしたので、忘れてきました」

 

「…凄いね、ソレは。でも、丁度よかった…あ、ライター持ってない」

 

「ライターはあります」

 

「あるんだ」

 

「そんな気がしたので」

 

「そっか…じゃぁ、はい。どうぞ」

 

そう言って、男は懐から、ソフトボックスの、新品のラッキーストライクを姫野に差し出した。

 

姫野は、男から箱を受け取ると、フィルムを剥がし、銀紙を破ると、箱を少し揉み、それから底を人差し指と中指で軽く叩いて、頭を出した煙草を一本取り出し、口に咥えた。

 

淡くペールオレンジ色のルージュが煙草のフィルターに引かれた。

 

男も、姫野から煙草を一本手渡されると、それを咥えた。

 

姫野は、ライターで自身の煙草に火をつけると、男の方を向いて、紫煙昇り立つ先端を差し出すように、唇を僅かに尖らせた。

 

男は、咥えた煙草の先を、姫野の煙草の先に近づけ、触れさせた。

 

火が、卑猥さと、可憐さの狭間を行き来した。

 

先端が灰に変わる前に、二人は離れた。香ばしく乾いた、ラッキーストライクの馥郁が、鼻先を擽った。

 

二度、三度、肺の煙を入れ替えてから、姫野が口を開いた。

 

「ラッキーストライクですよね、ずっと」

 

「うん。ここでしか、吸わないけど」

 

「煙草、嫌いですもんね」

 

「うぅん。匂いは好きなんだよね。吸うのが苦手なだけ」

 

そう言うと、男は舌で下唇を湿らせてから、啄む様に、口先で煙草を燻らせた。

 

煙が螺旋を描く様に、うねりながら、立ち昇り、霞んで消えた。

 

「…私の隣にいれば、いつでも嗅げますよ」

 

「煙草代が、凄いことになりそうだね」

 

「嫌ですか?お金持ちじゃないですか」

 

男は煙草を、一本ずつしかない、人差し指と中指に柔らかく挟むと、口から離して言った。

 

「嫌じゃないよ…それに、そんなにお金持ちじゃないし」

 

「でも、眼の移植手術、してくれたじゃないですか」

 

「それとこれは別、でしょ?言わない約束だよ?」

 

男の空っぽの袖が、風に押されて揺れた。のんびりと、暑さが追いついてくるような気がした。

 

男は、少し汗ばんだ額を、煙草の灰も恐れずに、右手の付け根で拭った。

 

「…そうでしたね。そうでした…忘れてました」

 

「…なんか、続けちゃって悪いけど、もう、馴染んだ?」

 

「はい、馴染みました…不思議なくらい。ピッタリですよ」

 

「そう、そりゃぁ好かった」

 

「義眼は、どうですか?どんな感じですか?」

 

「高い奴にしたからね。ゴロゴロするけど、悪くないよ。」

 

男はそう言って、また煙草を咥えた。姫野は、煙を一つ、大きく吸って、吐いてから、勿体ぶらずに半分まで吸った煙草を、携帯灰皿に放り込んだ。

 

ふー、と息を吐いた。ラッキーストライクの香りだった。

 

そして、姫野は真剣な顔で言った。

 

「…私の腕、要りませんか」

 

「…いや、今はいいかな」

 

この時が、初めてじゃなかった。

 

姫野は、男の腕が無くなったと知ったその日から、毎週毎週、男に「腕は要るか」と聞くようになった。

 

「恩返し、させてくださいよ」

 

「だから、気分で、あげたんだって…だからさ、恩に着るようなことじゃない」

 

「それは、私が決めることですよね?」

 

「そりゃあ、そうだけど…」

 

男は、どうしてそんなに腕を呉れてやりたいのか、或いは腕が欲しいのかが理解できなかった。

 

男は、ある意味でマトモだった。まだ、マトモな方だった。

 

そして、姫野には、腕を欲したクァンシの気持ちも、腕を呉れてやりたい自分の気持ちも、理解できた。

 

マトモだとは言えなかったが、寧ろ、姫野にとっては、「腕は要るか」と、聞かないほうがオカシイことだった。

 

だから、何時も最後はだんまりになることを知っていても、何度でも同じことを聞くのだった。

 

「……」

 

「……」

 

しばらく、沈黙が続いた。

 

気まずさは、とっくに消えてなくなっていて、代わりに明るい日の光に焼かれて、汗が噴き出てきた。そろそろ、お別れにするか、場所を移した方が好さそうだった。

 

互いにそう思った時、姫野が先に口を開いた。

 

八分目まで吸い切った、二本目の煙草を携帯灰皿に放り込み、姫野は言った。

 

「今日、仕事昼からなんです」

 

「うん」

 

一本目をようやく吸い切った、男が答えた。

 

姫野は、男の方を向くと、腰を少し引き、顔を近づけた。

 

柑橘系の匂いがする。男の好きな匂いだった。

 

パンツの生地が、石の座面に擦れる音がした。

 

「朝ご飯、一緒にどうですか」

 

「いいね。俺も、まだだったんだ」

 

「じゃぁ、すぐ近くなんで…」

 

そう言って、姫野は立ち上がると、一つ猫の様に伸びをした。両腕をあげて、こう、ぐいーっと、背中を後ろへ反らすような伸びだ。

 

シャツが汗で体に張り付いていた。ボディラインが浮き出て、下着の色が一瞬透けて見えた。品のある、深い青色だった。

 

男は、思い出したかのように、吸殻を忘れてないかと、キョロキョロ辺りを見回した。頬は少し赤かった。

 

頬の赤い男を、姫野は一瞥してから、口角を上げた。猫の様な、悪戯気な口元だ。

 

「よし、行こうか」

 

そう言って、姫野と男が連れ立って移動しようとした時である。

 

公園を囲むように配された林の影から、黒いパンツにシャツを着たデンジと、デンジに抱かれたポチタが現れた。

 

「兄貴!」

 

「デンジ!?なんでここに?」

 

「付いてきちゃった!!」

 

「起きてたのかよ…」

 

男が驚いた様子なのとは対照的に、姫野は目を細めただけだった。まるで最初から気が付いていたような反応に、男は首を傾げ、デンジとポチタは警戒を強めた。

 

姫野が、男に向かって言った。

 

「…あの、どちら様ですか?」

 

「あぁ、俺が、新しく拾った子供。今ね、育ててんだ」

 

男が少し照れるように言った。姫野の眼が細められた。黒い黒い、男のモノだった眼光が鋭くなった。

 

「へぇ…そうですか」

 

「いや、何かゴメンね」

 

男が謝ると、姫野は、制するように手を前に出して、にこやかに笑って見せた。

 

「いえ、お構いなく…朝ご飯の件ですけど」

 

「いや、折角だし、ご一緒するよ…デンジたちも好いかな?」

 

「…えぇ、まぁ…甘えたい盛りの、子供ですもんね」

 

「デンジ、ポチタ、よかったな、朝から美味いもんが食えるぞ」

 

「ぃよっしゃー!」「ワン!ヘッヘッヘッ!」

 

はしゃぐデンジと、デンジの頬を舐めるポチタを一瞥した、姫野は男に見えないところで、拗ねたように、小さく唇を尖らせた。

 

 

 

 

車を使わず、徒歩で、急ぐでもなく歩く男の後を追うことは、体力が有り余るデンジとポチタにしてみれば難しいことではなかった。

 

デンジとポチタは、息をひそめつつ、10メートル間隔で男を追いかけ続けた。男は都度、立ち止まり、振り返る素振りを見せたが、デンジがぼろを出すこともなく、ポチタが吠えることもなかったため、男が二人に気が付くことはなかった。

 

男が公園に到着してからは、デンジは林の中に隠れて、ポチタはデンジに抱かれた状態で、じっと、姫野と男の、二人のやり取りの一部始終を観察していた。

 

そして、今度こそ男が「盗られる」と、デンジが感じた瞬間、デンジとポチタは、種明かしをするように、堂々と林の中から飛び出したのだった。

 

デンジは自分の定位置だと主張するように、男の隣に陣取り、その手と手を絡ませた。

 

姫野が一瞬、目を見開くような、驚愕の動作をしたが、すぐに何事も無かったかのように背中を向け、先導するために歩き始めたことで、デンジの警戒心はより一層強まった。

 

「コイツ、絶対にオレから兄貴を盗ってやるって思ってる!」と、デンジは確信した。

 

ポチタが「グルグルル」と唸り、男に諫められている間も、デンジの視線は、新たな恋敵の、自分よりもはるかに広い背中に突き刺さっていた。

 

姫野に導かれる道中、夏の日差しが三人と一匹をじりじりと炙った。滴り落ちる汗は、遮るものもなく、灼熱のアスファルトの上で染みとなり、間を置かずに跡形もなく蒸発した。

 

百歩先には薄っすらと陽炎が立ち、セミの鳴き声が、頭の中で残響の様にか細く、遠く残り続けていた。

 

 

 

 

 

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