ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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単純明快

男とデンジそれからポチタは、姫野に、そこそこ繁盛している店に案内されて、そこで揃ってモーニングを頼んだ。濃い味付けのオニオンスープと、日替わりのジャムと、バターの分厚く塗られた半切りのトースト二枚。サラダと、それからコーヒーと、小皿にアイスクリームが付いた。果たして、犬を店に入れてよかったものかなどと、今更な疑問を浮かべながら、三人と一匹は、早朝の贅沢を楽しんだ。

 

当初の険悪なムードは、姫野が「ごちそう」してくれたことで、すっかり氷解していた。寧ろ、これまでに会った、誰に対してよりも懐いていた。これは、どっちなんだろうかと、男は思った。姫野が、手玉に取るのが上手いのか。それとも、デンジが単純なのか。

 

そのような諸問題はともかく置いておくとして、この三人と一匹は悪くない組み合わせだった。男の印象に残ったのか、残るように誰かが仕向けたのかは存じ上げないが、男の提案で、しばらくは、毎週日曜の早朝は、この顔触れでの、散歩とモーニングとがセットになりそうだった。

 

店の前で、姫野と、男の一行は別れた。姫野はこれから仕事であるし、男にしても、デンジに教養を授けるという、重要な仕事があった。

 

別れ際、男はズボンのポケットから、今朝吸った、三本分減った、ラッキーストライクを姫野に「お守り」と称して、押し付けた。

 

「次会う時までに、空にしておくように。七日で吸いきるように。早くても、遅くてもダメだ。いいな?」

 

「わかりましたよ、トクさん。トクさんの、言う通りにしますから」

 

男の意図を理解してか、姫野は、頬をわずかに紅潮させ、はにかむ様に微笑んだ。受け答えこそ立派だが、飢えていたところに上等の御馳走を差し出された、躾の行き届いた犬のような、必死に繕いながらも浮足立った調子が、両の眼の奥でチラつく物言いだった。

 

いつも通りに渡された、少し潰れて不細工な、ソフトボックスの煙草を、姫野は胸ポケットの底に、ずっと長く匿う様に押し込むと、名残惜し気に男に背を向けて去って行った。遠くなる背中が、もう全然、見えなくなってしまうまで、男もその場に立ったままだった。

 

見送りに精を出した男を、気が済んだだろうと言う様に、デンジとポチタが引っ張って、彼らの家である雑居ビルの三階まで、連れて帰った。

 

 

 

 

家に帰ると男は、ポチタの足を濡れタオルで拭き、デンジに手洗いうがいを言いつけてから、コベニが置いて言った宿題を準備しながら、今日の夕飯について、考えを巡らせた。

 

昨日は、好い具合に特売の肉を焼いたりして、上手い事やって見せたが、今日も昨日と同じほど上手く行くとは限らなかった。元より、男の家事の技量などは嵩が知れていた。禄でもないものを子供に食わせることは、言語道断であるし、家事の助けも、その内に手に入れることが要求されていた。

 

家政婦でも雇おうか、と悩みあぐねる暇はなかった。今は、目の前に迫る夕飯の献立を、なんとか買い物に行かずに決めることが先決だった。

 

男は手洗いうがいを済ませたデンジに、漢字ドリル一頁、算数ドリル一頁、それぞれの攻略を言い渡すと、自分は冷蔵庫の攻略に取り掛かった。

 

昼飯は、カップラーメンでも何でも、どうとでもなるが、夕飯はそうもいかない、と言うのが男の持論だった。

 

冷蔵庫の中には、玉ねぎ、人参、ジャガイモ、それから昨日の余りの焼いた肉、それから細々とした市販の総菜類があった。野菜はあまり好きではないのか、食卓に上げずにいるとすぐに余らせてしまう。

 

生憎、今日はマキマの手を借りることも出来なかった。男だけが、頼みの綱であった。

 

こうなれば、と男は伝家の宝刀を抜き放った。名を、カレールーと言う。

 

今晩の夕飯が、ごった煮のカレーライスに決まったところで、デンジが「漢字終わりました!社長!」と声を上げた。

 

頑張ったものにはご褒美を。信賞必罰は基本のき。男は「アイス食べていいよ」と一言。

 

この猛暑で、酷い目に会うこと会うこと。そんな日も、冷たいアイスがあれば、ツンドラの氷を癒しに求めてロシアに渡るよりも、確実に癒しを確保できる。暑さには冷たさでお返しする。ローマは剣でお返しするのと同じくらい、人類共通の命題だった。

 

ちべたい棒アイスに齧り付く、デンジとポチタを微笑ましく見守る男の眼は優しかった。

 

「昼ご飯は、うどんが余ってるから、ひっぱりにします」

 

男が言うや、デンジとポチタが言った。

 

「暑いのに熱いもん食うの!?」

 

「暑いからこそ、熱いもん食って汗かいて体を冷やそうって魂胆だよ、デンジ」

 

「えぇ~…嘘だぁ~!暑いのに熱いの食ったらもっと暑くなるんだよ!」

 

「ふふふ、科学は少し早いかな?…いや、でも理科の実験もさせるべきか…」

 

「理科の実験!知ってるッ!ボコボコするヤツだろ!ですよね!」

 

「あはは、しっちゃかめっちゃかになってるな…でも、そういう実験もある、間違いじゃない」

 

理科の実験も、夏の間にしてしまおう。男はそう思った。

 

理科の実験を、少しマッドな印象と共に力説するデンジ。彼の成長は目覚ましいと、男は日々実感していた。

 

 

 

 

ほんの少し前まで、文字通り、文明から隔離されて生きて来たとは思えないほどに、子供の成長は早く、その感受性は鋭敏かつ繊細なものだった。

 

その精緻な様は、何も実生活だけにとどまらなかった。精神生活の面においても、デンジの成長は著しかった。その証拠に、デンジは日に日に、男との距離感を掴み、また空気を読むことを覚えるようになると同時に、破るべき雰囲気をも分別がつくようになっていた。

 

対象となる場面は、特別に、男が他の女性と接している時に限定されがちなのが、玉に瑕ではあったが、それでも大変な進歩だった。もしも、このことに男が気が付けば、それはもうデンジのことを褒めたことだろう。

 

しかし、当のデンジには、この面を男に、垣間見と言えど、覗かせる魂胆などなかった。

 

そもそも、女児として、少しませた感性を持つデンジにとって、ヤクザの世界はある意味で今に活かすべき発見の多い世界であった。決して、幸福ではなかった以上、少しも評価などしないし、絶対的嫌悪を抱く時代だったが、それでも、今のデンジの人生を構築する礎であることに違いはなかった。

 

である以上、デンジがあの業界で学んだ、穢い事物の諸々は、彼女の精神年齢を育みつつも、彼女に幼くいることの利点を十分に理解させたのだった。

 

このことは、結果的に、実際よりも遥かに幼く見えるデンジという一個の人格を構成したが、運命的出逢いを果たし、自分を拾い上げた男に対する恋慕という、一点においては利にも害にも成り得、そのことをデンジに、無意識にも葛藤させた。

 

究極的に、好き嫌いで判断がつく問題だけではないことを、肉体と精神、それぞれに引きずられる無力感を、デンジは少女の段階で体感していたのだ。

 

デンジは、男の近くで見聞きしたことを忘れないように、体と心の深くに、一つ一つ丁寧に留め置き、その都度、痛いほど自分が男に依存していることを、言葉こそ知らなくとも、圧倒的な執着により、理解していた。

 

理解を言語化できるほど、デンジの語彙は啓蒙されていない。

 

晦冥な精神の深淵で、デンジは執着を「大好き」の語彙に変換し、取り返しのつかない愛着衝動に任せて、男に甘えるという行動に昇華させていた。

 

満たされたかに思われた衝動は、しかし、ライバルの出現と共に、更なる渇望へと増幅された。

 

ライバル。つまりは、マキマやクァンシや姫野や、はたまたコベニのことだった。自分以外の、自分から見た時の全ての同性的存在を、デンジは激しく敵視した。そこには本能的な防衛行動が現れることも少なくなかった。

 

例えば、会話を邪魔したり、身体的接触を遮るなどである。

 

広げれば果てしないが、結論から言って、デンジは男のことが大好きであった。

 

デンジの恋路は、彼女自身の肉体的な部分が最も大きな枷となって、険しい道となるだろう。

 

 

 

 

対して、様々な恋慕を向けられている男という存在も、また、特異な性質を隠し持っていた。

 

本人に隠している自覚こそなかったが、彼もまた異質の人と言う点で、愛に狂う乙女たちと何ら違いなかった。

 

男は、その生業とするところが決して綺麗なものではないことを自覚していながら、よく人を助けることを好んだ。

 

悪魔の生死に関わる荒事から、その死体の売買、血液の合法的売買、不動産業や会計業、はたまた密貿易や武器売買にまで手を広げていた男の存在は、間違いなく悪だった。悪そのものの在り方だった。アウト・ローの住人だった。

 

しかし、男は男の周囲の人間にとって少なくとも現実社会の、他の悪とも正義とも知れぬどんな人間よりも寛容であり、かつ正常であると認識されていた。そこには敬服や憧憬が入り混じり、一概に論理的整合性のとれるものではなかった。

 

だが、事実、男の力によってデンジは極悪な環境からの脱出を経験した。

 

男の生活は質素であるし、資産の私的乱用など考えたこともないことだった。私財の多くを同類である社員や孤児や失業者にばら撒いた。

 

現実がディストピアである以上、向こう見ずな自己犠牲を、時として躊躇なく支払える男の存在は、間違いなく希少価値を誇り、その価値に救われた者が男の価値を保証し、補強し、守護する。そのサイクルに、デンジは取り込まれたとも言えた。

 

それが悪なのか、正義なのかはわからない。だが、デンジを救えなかった社会が判断するには過ぎたものだというのが、唯一単純明快なことだった。

 

 

 

 

薄暗い夜の様な人だと、男を想う誰しもが感じていた。

 

誰かが、誰であるかに関して、ここでは語らない。ただ、男に憩うだけの理由が、彼女らの人生を、飛脚の様に、順に巡り、追体験すれば、その一端を理解できるだろう。

 

人は孤独であることに強固である。しかし、それは二人いないからであって、二人いるうちの一人であることを知らないだけである。

 

人は二人いるにもかかわらず、一人でいることを強いられることに対して、極めて軟弱である。

 

人が許容できる孤独は、常に諦観に支配されていなければ、その唯一無二の骨子を失えば、脆くも崩壊するのである。そして、崩壊すればあとは簡単だ。依存と執着の毒に全身全霊を侵されるのである。

 

それは人に依れば、異質な感覚でもあり、同時に聞き慣れた、聳え立つ威容との再会であるとも言える。

 

ともかく、出会ったが最後、そこに救いを認めたが最後、人はそこから、人格はそこから立ち退けなくなる。

 

絶望的に強烈な希望は、甘い疼痛すら伴い、馥郁と希望に包まれた、底なしの闇である。

 

人は、その闇に染まり、堕ちた者のことを、その為にあらゆる事象を顧みず、或いは利用して己が見出した愛を、救いを完遂しようとする者のことを、ヤンデレと言う。

 

もしもこの世界に、或いは地獄に、ヤンデレの悪魔なる存在がいたとすれば、契約者はそこに愛ある限り、あらゆる障壁を打破する力を与えられることになるだろう。

 

だが、努々、忘れるな。

 

ヤンデレは、周囲に深刻に作用する。

 

ヤンデレは、決して止められない。

 

ヤンデレの愛のベクトルは、自己に向いた瞬間に、拡散され、強化され、全てを贄として、愛と救いの完遂へと向かうであろう。

 

努々忘れるな。

 

ヤンデレは、容赦と言う言葉を持たない。

 

ヤンデレは、敗北を知らない。

 

 

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