ヤンデレの悪魔に人生狂わされる   作:ヤン・デ・レェ

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三日間 プロローグ

マキマに三日間呉れてやった男は、そのこと自体には何ら不満を抱いていなかった。と言うのも、今のところ不利益と言うものはないからであった。

 

マキマとの三日間で、男に困りごとがあるとすれば、それは時折、マキマが言い出す、突拍子もない要求くらいのものだった。

 

具体的には、只管に、男を観察するだとか、目と目を合わせた状態で、マキマが命令口調で言った言葉を復唱するのではなくて、その場で考えたユーモアある言葉でお返しするという、お遊びに興じることを強いられることくらいだったからだ。

 

また、マキマはよく「抱きしめ合うと、幸福物質が脳から分泌されるんだって」と言い、男にハグを要求した。ここぞとばかりに、要求することの一つだった。男には、もはやマキマを抱きしめることに何ら違和感を感じ得ないほどだった。寧ろ、しっくりくるような気さえする。初めからそうだったような感じだ。不思議なことだ。

 

さて、今日は丁度週末も明けて新しい週の始まる日だった。基本的に、月火水木金の内の三日間がマキマの領分だが、三日連続と言うのも珍しいことではなかった。しかし、デンジが来てからは、男の付き合いが悪い…というよりも、日帰りで帰ることが多くなっていた。

 

これに対して、マキマの不満は募った。

 

 

 

 

深夜。雑居ビル三階。男が珍しく夜更かしをしていると、玄関のドアを叩く音がした。籠ったような、中空の鉄のドアを叩く音だ。

 

「こんばんは。お待たせ」

 

開けば、そこにはあの、いつもの仕事着で身を包んだマキマが立っていた。黄金色の瞳が機械式時計の機構の様に、緻密に収縮し、視線で男を刺した。隻腕の男が、ドアの隙間を広げるより早く、長くしなやかなマキマの足が隙間に割り込み、それから腕が、ずいっと外から内へと入り込み、ドアの取っ手を掴んだ。開けごま。ドアは開かれた。

 

「ねぇ、少し契約が違うんじゃないかな?」

 

マキマは、家に入り、玄関ドアを塞ぐように寄りかかると、ガチャリと、後ろ手に鍵を閉めるなり、言った。

 

基本約束や日時の指定は電話でするのだが、この日は押しかけでの、対面になった。

 

雑居ビルの三階。デンジたちを寝かし付けた後での、深夜の来訪だった。気を遣ってくれたのかと、場違いに感心しながら男は彼女を招いた。一応、口の前に「しー」と、人差し指を立ててから、親指でデンジたちのいる寝室を指差した。

 

マキマは憔悴しているようにも見えた。隈が色濃く刻まれ、珍しく目に険が浮き出ていた。微笑もお休み。不機嫌感満載だった。

 

男はマキマが何と言いたかったのか、瞬時に理解するとともに、肩を抱いて対面する椅子の片方に座らせると、自分は冷やしてある麦茶を取りにキッチンに向かった。

 

麦茶を透明のシンプルな百均グラスではなく、ちょっと値の張る紅い陶器のマグカップに注いで出すと、男は言った。

 

「いや、でも俺は問題なくてもデンジを三日も置いておけないし…ネグレクトになっちゃうよ」

 

「悪党なのに、子供思いなんだね」

 

「うぐ…イイだろ?悪党だから、好きな方を選んでるんだよ」

 

男の一言一言が、マキマの内面を嵐の様に騒ぎ立てた。暴風雨の時もあれば、南国の長閑な日差しに包まれる時もある。今はまさに、暴風雨だった。

 

荒んだ心を抱いて、マキマはじろりと男を見つめながら、一口も飲まずに、マグカップを脇に追いやると、テーブルを挟んで向かい側に座る男に、ズイっと顔を近づけた。

 

「…そんなに、デンジ君のことが好き?あの子の方を選ぶの?」

 

「高校に上がるまではさ、ちょっと心配なんだよ…な?マキマ?ちょっち助けてくれないか?」

 

男の眼は、マキマから照れくさそうに逸らされた。その反応を、しかし、マキマは忘れられない。いや、嫌いになれない。「あぁ、また逸らした…君にしかできないんだからね」と、そう、マキマは心の中で喝采を送った。

 

父親の眼。恋人の眼。子供の眼。

 

男の持つ三つの眼だ。

 

父親の眼で、褒められると、温かい気持ちになって、甘えたくて、堪らなく嬉しい。

 

恋人の眼で、懇願されると、どんな願いでも拒めない。

 

子供の眼で、臍を曲げられると、可愛くて甘やかしたくて仕方がない。

 

きっと、あんまりよくないことだ。これまで、積み重ねてきたものが崩れてしまうような気がする。でも、きっと心底心地好い。そうに決まってる。このまま、深みに填れば。このまま、男に堕ちてしまえば。このまま、彼に依存し続ければ、好い。それだけで、好い。

 

男の、黒い宝石の様な眼。その瞳に、マキマは、狂い堕ちて行く。

 

きっと、理解して、そうした上で野放しにして、愛でているのは私だけだと、マキマは確信して疑わない。

 

そして、例え、自分以外にであっても、自分以外の子供の面倒を見ようとする場合であっても、その意志に、マキマは首ったけだった。愛おしくて仕方がなかった。なんとか、自分だけにしてしまえないだろうか。そう思う一方で、このままの方が美しい。このままの方が、私を救い得る。そうも、思っていた。

 

だから、マキマは退く。退ける。余裕綽々である。

 

マキマは言った。

 

「…もう!…好いよ。助けてあげる。ただし、今週は三日間キッチリ貰うからね?」

 

男の顔から、眼から寸分も視線を外さず、マキマは蛇の様に、そろりと身をひっこめると、自分の席に腰を沈めた。

 

「お、おう…出来るならデンジが困らん様にしてくれ」

 

「そこは心配しないで。君も知ってる人を、助っ人として呼んでおくから」

 

「おぉ!それは助かる!それで、今週は何時から一緒なんだ?」

 

「そうだねぇ…じゃぁ、明後日から金曜日まで」

 

そう言って、マキマはマグカップを寄せて、口をつけた。

 

「了解。じゃ、家の子らにも説明しておくから。またな、マキマ」

 

「うん…待ってるね、(ケミ)君…フフ、楽しみだなぁ」

 

マキマは、自分以外ならあとは一人か二人しか知らない、男のプロファイル名をわざわざ呼んで、了承を示した。

 

 

 

 

水曜日の早朝。未だ、外は薄暗いが、マキマが指定した時間に間違いなかった。

 

あれから二日間が過ぎた。その間に男は、デンジとポチタに「なぜ、男が三日間家を空けるのか」と「どうして、男が家を空けなければならないのか」について、懇切丁寧に教えた。

 

そして、自身は何時もの格好より少しだけ好い恰好…具体的には、中堅ブランドの灰色のスーツ一式で身を固め、腕には国産ブランドのラウンド型のラグジュアリーウォッチをデンジに巻いて貰ってから、旅行バッグに私服やらを一式詰めて、それから助っ人を待った。

 

助っ人が誰なのか、はマキマから知らされていなかったため、男はその眼でしっかりと誰なのかを確かめてから家を出ようと決めていたのだ。これにはマキマも了承済みだった。

 

しかし、例えマキマのお墨付きであっても、もしも、クァンシが来たら断ろうと男は考えていた。流石に少女には手を出さないかもしれないが、情操教育に最適な相手とは言えそうになかったからだ。

 

とはいえ、…子供を置いて、マキマに会いに行く自分を最も残念に思う男であった。

 

さて、そんなこんなで待ち合わせの時間になり、雑居ビルの三階に、ドアを控えめにノックする音が響いた。

 

コンコンという音と共に、ダイニングでソファに座っていたデンジが、男の方を向き、ポチタを抱きしめながら玄関を指差した。

 

「兄貴!来たよ、すけっとの人!」

 

「お、おう…今開けまーす」

 

落ち着きなく立ったまま、時間が来るのを待っていた男は、少ししびれた足を引きながら、玄関のドアを開けた。

 

「どうも、公安のものですがぁ~…あれ、トクさんじゃぁないですか…何でココに?」

 

「あれ……姫野?どうした?仕事か?」

 

ドアを開けると、そこには姫野が、群青を溶いた墨を流したような黒髪の、猫っ毛の女がいた。

 

まさかの登場に、二人共に、驚いた様子だった。

 

姫野は、ドアの隙間から、男の足元に置かれた旅行バッグと、それから覗き込んだ先で棒立ちのデンジの姿を、目敏く見つけて言った。

 

「あ、はい。まぁ、仕事です。あの、トクさん、そのバッグは?」

 

「あぁ、俺も、なんだ、仕事みてぇなもんだ。これからな…」

 

「へぇー…あれ、デンジちゃんも、いるんですね」

 

完全に予想外だった…しかし、確かに知り合いではある人選に、男は冷静さを取り戻そうと四苦八苦しつつ、口を開いた。

 

「…姫野ぉ、ちょっと聞いても好いかぁ?」

 

「はい…ちょうど、私も聞きたいことが出来ましたんで…お先にどうぞ」

 

「俺、姫野に家、教えてたっけ?」

 

男が聞くと、姫野は一瞬目を見開き、それから碩学な猫の様に目を細めると、彼方の方向に鋭く視線を送り、すぐに男に向き直りにこりと笑い、言った。

 

「あっ、ふぅ~ん…完全に理解しました。ありがとうございます、因みに教えて貰ってないです。でも、今完全に記憶しました」

 

気まずい空気が二人を支配下に置いた瞬間。ひょっこりと、デンジが男の背後から顔を出した。ポチタは相変わらず抱かれている。

 

「…すけっと、姫野さん、なんすか!」

 

「あはは、そーみたい」

 

「よかったーー!あの、眼帯の、ヘンな女じゃなくて、ホッとしました!」「ワン!ヘッヘッヘ!」

 

デンジとポチタが心底ほっとしたように言った。

 

男はデンジの安堵の勢いに、見かねて諫めるように言った。

 

「こらこら、デンジ、人前で言うもんじゃありません」

 

しかし、「よろしくおねがいしまっす!」と、慇懃無礼に頭を下げるデンジを見れば、強くは言えない。余程、不安だったと見える。

 

「ふふふ、眼帯の女…そうですね、確かに、それなら私の方が適役ですもんね」

 

デンジが騒ぎ、ポチタが同意するように鳴き、男が諫め、そして姫野が納得したように、勝ち誇ったように頷いた。

 

「ま、まぁ、一先ずあがってくれよ」

 

「お邪魔しますね、トクさん家は初めてですね」

 

「あぁ、そうだなぁ」

 

ドアで見えなかったが、姫野の手には大きな鞄があった。マキマ、泊まり込みで部下を私用に投入したのか…と、男は少し唖然とした。

 

だが、鞄よりも何よりも、また五体満足の姫野に会えた事実の方が、よほど有難かった。なので、男はマキマのこの人選に、素直に感謝の念を贈った。

 

 

 

 

「トクさん、いってらっしゃい。三日後、また会いましょうね?」

 

「兄貴ー!いってらっしゃーい!早く帰ってきてね!」「ワォーーーーーン!!」

 

「行って来まーす。デンジ、姫野のいうことをよく聞く様に」

 

「ハイ!」「ワン!」

 

「姫野、何卒、よろしくおねがいします」

 

「はいはーい…トクさんも、くれぐれもお気をつけて」

 

「じゃぁ、もう行くな」

 

姫野、デンジ、ポチタに見送られて、男は家を出て、待ち合わせ先に向かった。そこから、マキマと一緒に彼女の家まで歩くのが、今回の三日間のスタートだった。二階を抜けて、一階のフロントに見送られて、雑居ビルを出た。

 

近所の公園を通り抜けて、都心に向かう。車でもいいが、マキマは歩いてくるのを好んだ。

 

「一緒に歩きたい」

 

そう、マキマが男に言ったから間違いないだろう。

 

憎からず思っているし、特別に大変なことも言われないのだから、このくらいは願い通りにしたかった。男の個人的感情の部分もまた、それを望んでいた。

 

裏路地を抜けて、流行りの店が軒を連ねる辺りに向かうと、人通りが多くなってきた。男は人混みが苦手だが、嫌いではない。というのも、男は、よく掏摸に遭った。だが、掏摸に遭って、財布を新調したことはなかった。財布は帰ってくるし、金は有効に使ってもらえればいいと思っていた。

 

度量が深いのかと問われれば、男は結局、満たされているが故の執着の無さだと答えるだろう。

 

足りないものを数量で満たせるものと、根本的に持っていない、外付けの何かが必要なものと、飢えも渇きも二種類ある。

 

男がこれから三日間共に暮らすのは、言わばその二種類の内の後者だった。無論、男に、そんな自覚も理解も存在しない。所謂、無自覚だった。

 

だが、男の存在が確かに、誰かの根本的な飢えや渇きを満たせる、外付けの救いとして、機能していることは絶対不変の、一つの真理だった。

 

少なくとも、マキマにとってはそうだった。

 

著名な犬の像に見下ろされる広場が見えた。探せば、マキマはすぐに見つかった。マキマはあからさまに浮いていた。恰好は白のノースリーブのブラウスに、淡いベージュの丈の長いスカート。頭には麦わら帽子。手元にはカーキの帆布のトートバッグ。足元は茶系の革サンダルだった。左腕にはレディース用の、レクタンギュラーで上品な腕時計が、淡々と時を刻んでいた。

 

だが、晩夏に合わせた、マキマの恰好が問題ではなかった。

 

マキマは元より、周囲に対して圧倒的に美しいのだ。そのことに自覚がないわけではあるまいに、しかし、敢えてひけらかすでもなく、沈黙しながらも顕然とその美貌の存在を主張するのだから性質が悪かった。

 

高嶺の花過ぎて、誰も声を掛けようともしない。マキマの周囲は真空状態の様に、人がいなかった。だが、マキマに気にした素振りはない。不気味なほどに平然としていた。

 

ともかく、見つけた以上、知らせなくてはなるまい。

 

「マキマ!待たせたな!」

 

あと二十歩くらいの距離で、男が手を上げると、マキマの口元がゆっくりと弧を描いた。微笑みの弧である。

 

「フフフ…こう言えばいいかな?待ってないよ、今来たところだよ」

 

同じくらいの身長の男を目の前にして、マキマは身体を前に折り、男を下から覗き込むように囁いた。

 

甘くも軽快な薫りがする。今日は、柑橘系とも違うらしい。よくある。マキマからは、言いようもない、理由もなく、好きな匂いがした。

 

男が照れたように言った。

 

「いや、悪かったよ、待たせたよな」

 

「怒ってないよ。寧ろ、待たされてなんだか、嬉しかった」

 

つばの広い帽子の影の奥で、はにかんだ笑みは眩しく、また幼ささえ感じさせる無垢な美しさで、男を拍子抜けさせた。

 

「なんだそりゃ」

 

「わからなくてもいいの…さぁ、私たちの家に帰ろうよ」

 

マキマが一本しかない男の腕を取り、言った。

 

「めかし込んでんのに、好いのか?もう帰っても?」

 

「うん。元から、君が着き次第帰るつもりだったし。それに、お出かけは明日にとっておきたいの」

 

「そう、なら好い。帰ろうか」

 

男がそう言うと、マキマは素直に頷いた。

 

マキマは、何時もの様に男の腕を胸に抱いて、匂いを擦り付けるように頬を肩に預けた。麦わら帽子のつばが男の首を擽った。

 

「くすぐったいよ」

 

「当ててるんだよ」

 

「ふふ、使いどころが間違ってるぜ」

 

「これだって、アリさ」

 

時間も場所も気にせず、暫くそうした。鬱陶しいほどの視線も気にはならない。誰も、隻腕の男と、ミステリアスな女のカップルに手を出す勇気を持つ者はいなかった。

 

それから、二人は前を向いてゆったりと歩き出した。

 

涼しい風が心地よかった。洗濯物には、夏の匂いの名残り。シャツが風をはらんで、肌から離れた。広場の木陰を出れば、暑さと涼しさが溶け合い、体を覆う温度が解れていく。

 

 

 

 

 

 

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