マキマと男が仲睦まじく昼食をとっている頃、男の家でもデンジとポチタ、そして姫野が昼食をとっていた。
雑居ビルの三階。ダイニングテーブルで、デンジとポチタが姫野作のオムライスにがっついていた。姫野はというと、テレビ前のソファに腰かけニュースを見ながら、自分の分のオムライスを口に運んでいた。
「うめぇーーー!オムライス!」
「ワン!ワンワン!はぐはぐ!ワン!」
「そりゃよかった…」
デンジの格好は、白地パーカーに白地スウェットと全身白コーデだった。ケチャップたっぷりのチキンライスを口元にこびりつかせながら、美味しそうにがっつく姿は、作った側からすると見ていて嬉しいものだろう。
だが、同時に洗濯も担当することになっている姫野からすれば、紅に染まる白パーカーを洗うことを思うと先が思いやられた。
対して、上品に口に運びつつも、「よく考えればこのスプーンってトクさんが使ってるものだよね」と、益体のないことを考えて赤くなっている姫野の格好もラフなものに変わっていた。
ラフと言ってもラフすぎるくらいだったが。姫野の格好は、上下白の下着に白のTシャツを被っただけだった。
生尻で他人様のソファを堂々と独占できる胆力に対して、しかし感嘆してくれる者はいない。
なぜならば、同じ空間を共有しているのは未だ諸々発展途上のデンジと、犬のポチタだけだったからだ。
彼らには寧ろ、今こうして全身を包む上等の布の方が違和感を覚える程だった。
オムライスの卵を大事そうに食べるデンジとポチタを見守りながら、姫野は独り言ちた。
「にしても…突然の特別休暇が、デンジちゃん達の子守りだったとはねぇ~…」
オムライスでデンジとポチタの心を掴んだ姫野は、休暇を言い渡された日のことを思い出していた。
◇
一週間前、職場で終業時間直前のことだった。
マキマがオフィス奥から真っ直ぐ姫野の元に向かってきた。職員の群れが割れて、モーゼの海割りの様になっていた。
「姫野君。ちょっといいかな」
「え?…えぇ、まぁ」
仕事鞄に書類やらを詰め込む手を休めて、マキマの方を向くと紙を一枚手渡された。
「これ、特別休暇、三日間だけだけど、どう?」
「えぇ!有給とは別なんですよね…?」
「別々だよ。完全に、仕事には呼ばれません」
デビルハンターは命と精神を削る代わりに高給取りである。ブラックな職場である以上、あまり休みはもらえない。
三日と言えど、完全休暇なら誰もが挙って飛びつくだろう。姫野には何故自分なのかが疑問だった。
「え、じゃぁ…でも、なんでピンポイントで私なんですか?」
「君が、一番条件に見合う人だったからかな?」
「条件ですか?」
「うん。彼が求める条件に」
突然現れる「彼」の文言に、姫野の疑心が強まった。
「彼…って何方か存じませんが…私が休むとその人の要望に沿うってことですか?」
「うーん…まぁ、一先ず行ってみてよ。そこの住所に」
マキマは一方的にそう言うと、自分は早くもオフィスに戻ろうと踵を返していた。
「…そんなに、治安好いとこじゃないですよ?ここ」
「うん。それでも。きっと、行かない方が後悔するよ」
背中を向けたまま、マキマがそう言った。
「へ、へぇー…わかりました」
「三日間、宜しくね」
「休みなんですよね?」
念を押すように姫野が聞くと、マキマが首だけ振り向かせて言った。
「うん。お休みだよ。デビルハンターのお仕事はね?」
「……なんか引っかかるなぁ…」
そう疑いつつも、結局休みの誘惑に負けた姫野。彼女はしかし、確かにいかなかった方が後悔したと、マキマの言葉の正しさを悔しいながらも認めた。
だって行かなければ男に会うことはなく、行ったからこそ男に少しの間であれ会うことが出来たのだから。
だから、姫野はもう満足だった。飢え、はある。だが、それでも一度に多量を摂取して戻れなくなることが、彼女は少し怖かった。
既に取り返しのつかない程に、自分の上司であるマキマが狂い、惑い、酔い、溺れていることを理解してしまったから。
同じ男に慕情を抱いている事実に衝撃も受けたが、デビルハンターの業界は狭いことを思い出して、絶対にありえないことはないとも思った。
男とマキマの関係性がどこまでのものなのか、姫野は知らないし知りたくなかった。
だから、次の特別休暇は受けないことに決めて今回だけ、男の役に立てるならと思考の外にマキマを追い出し、そう考えることにしてデンジとポチタの世話を焼いていた。
◇
実際にデンジとポチタの世話を焼いてみると、手間がかかるところとそうではないところがはっきりしていた。
お手伝いに関しては黙々と一生懸命やるし、教えられたとおりにやろうとする。不器用なところは否めなかったが、デンジは別段に頭の悪い子ではなかった。
それはポチタにも言えることで、男にほどではなかったが姫野にも直ぐに懐いてくれた。デンジとポチタは姫野の言うことを真面目に聞いていた。
ただ、食べるという行為に対して、デンジとポチタは貪欲だった。
お箸の持ち方こそ、男の努力の賜物か比較的整っているのだが、ご飯は必ずと言って好いほど掻き込むし、口の端には米粒が付いていた。味噌汁も、熱さなど感じないかのように、ものすごい勢いでガブガブと飲もうとする。だから、口の中の火傷が絶えなかった。止めるように言うのだが、それでもデンジもポチタもその食べ方を止めなかった。
誰かに盗られないように。誰かに奪われないように。腹を満たすための、彼女らなりに理にかなった所作であることが、何も知らない姫野にさえ伝わってきた。
姫野は、男がどうしてデンジに甘いのか、どうしてデンジとポチタを拾ったのかイヤでも理解させられた。そして、ズルい大人の頭で考えたのだ。
男を攻略するなら、先ずはデンジとポチタに好かれるべし、と。
将を射んとすれば、先ずは馬を射よ。その言葉通りに姫野は考えた。
考えて、何かと気を遣っていたのだが…姫野は段々と、食事にしても入浴にしても勉強にしても、デンジとポチタが必死過ぎて気の毒に感じてきてしまった。
それもそのはずであった。
「ご飯だよー」
と姫野が言えば、デンジとポチタは嬉しそうに声を上げながら駆けて来るのだ。
「ご飯だー!」「ワンワン!」
そう言って、デンジとポチタは文字通り他に何をしていても駆けつけて来る。風呂掃除をほったらかしたり、宿題を放り出したり。とにかくご飯第一だったのだ。
男からお願いされた通りに、お昼寝をさせる時にも、デンジとポチタの心配事は夕飯のことだった。
「夜は何食べんの!ですか?姫野さん」
「えぇっと…そうだなぁ、すき焼きにしようかな」
「すき焼き…なんだ、それ?」
「え!?…うん、楽しみにしててね」
「ハイ!すき焼き、かぁ…もう、食べたっけかなぁ?なぁ、ポチタ?」
「クルルルゥ…?」
「さ、もう寝なよ。大丈夫だって、ちゃんと作るからさ」
今の時代、食えない人は本当に食えない。それは何ら珍しいことではなかった。姫野でも理解しているし、愛する男が悪党になった背景を知らないわけにはいかなかった。
だが、にしてもである。それでもデンジとポチタの境遇は余程酷かったのだろう。
その現場を見ていない、何も知らない姫野ですら、男が二人を拾い上げた理由を察するに余りあった。そして、自分にはできなかっただろうなと、諦念のような感情と共に、どこか熱く男への想いを強めた。人はそれを、惚れ直したとも言う。
デンジとポチタの健気な訴えに、姫野はちょっと泣いた。
それから夕飯の買い出しの時に姫野はデンジに「好きなお菓子を一個買って好いよ」と、そう言おうと決めたのだった。
◇
姫野との買い出しで、デンジは大袋のお菓子を見事獲得した。チョコレートの詰まった焼き菓子だった。帰り道、家で食べるのが待ちきれないという様子で、チョコレートが溶けるのも厭わず菓子袋を胸に抱きしめるデンジの姿に姫野は切なくなった。だが、切なさと同じくらい買ってよかったと感じていた。
「姫野さん!家、まだかな!ここで、一個食っちゃダメかな?」
「ダメ…じゃないけど、もうちょっとだから我慢しよう?ね?」
「はーい…あと、ちょっとだけ我慢する!」
デンジが手を上げてそう言うと、姫野が褒めた。
「デンジちゃんは偉いね」
「兄貴に褒めて欲しいから!」
「ふふ、私と一緒じゃん」
余りにも率直な言葉に、姫野もつい本音が漏れた。
だが、デンジは機嫌を悪くするでもなく寧ろ興味を示し首を傾げた。
「姫野さんも、兄貴に褒められたいの?」
「うん。すっごく褒められたいよ」
姫野が半ば本気になってそう言うと、デンジはキリリとした表情で言った。
「なら、半分こな!」
「半分も貰って好いの?」
「姫野さんはいい!お菓子、買ってくれたから!」
「単純だなぁ…もう…」
姫野は少し心配になった。が、何となくここまで来て初めて、デンジと正直に通じ合えた気がした。
対するデンジはというと、姫野に対して例外的ではあったが、警戒心を解いていた。
お菓子を買ってくれたからという理由は嘘ではなかった。
ただ、理由はそれだけではなかった。デンジが姫野に「半分こ」を許した理由。それは男にとって姫野がどんな存在なのかを考えた時に、男の前から積極的に排除しようと動くことが結果的に自分の首を絞めることだと認識したからだった。
デンジの思惑はまだ具体的には固まっていない。ただ、男が誰か一人のものになって、自分のことを置いてけぼりにして欲しくないだけなのだ。
自分の傍に居て欲しい。だから、それを邪魔する奴が嫌いだった。
マキマとの相性の悪さは、その何処ぞとも知れない所まで男を引きずり込もうとする魂胆に吐き気を催したからであり、対して姫野に感じていた好感はその真逆のものを感じ取ったからだった。
具体的には、男に全てを委ねるような感覚である。男に自分を合わせるような感覚である。そこに、デンジは強いシンパシーを感じていた。
無論、全てが全て完全に一致していたわけではなかったが、それでもデンジと姫野の相性は悪くなかった。
◇
帰り道は随分長く感じた。汗もかいた。日が傾いていた。雑居ビルが見えて来たところで立ち止まってデンジが聞いた。
「姫野さん」
「なぁに、デンジちゃん」
「姫野さんは、兄貴のことが好きなんすか?」
「…」
デンジからの問いに姫野は立ち止まって、それから考えた。だが、子供の前で言ってしまって好いものかと逡巡し、結局言葉に出来なかった。
姫野のもどかしさを知ってか知らずか、デンジは頬を染めて自信満々にこう言った。
「オレは、大好きって感じ、です!」
「…」
姫野はその瞬間に、デンジに対して一つ思い違いをしていたことに気が付いた。
「姫野さんは、どうですか?」
「…私も、同じ、かな」
姫野はデンジを子供だと考えていたが、それは大きな誤りだった。デンジは確かに子供だった。だが、同時に恋する乙女だったのだ。
自分と同じ男に恋慕する女だった。そこから二人は、女同士として言葉を重ねた。
「やっぱり!」
「デンジちゃんは、怒んないの?」
「姫野さんは、特別、ということで!」
デンジの返答に姫野は笑った。
「アハハ…なにそれ、優しいね」
「兄貴の方が、優しいっすよ?」
「ふふ、知ってる…でも、君も、十分優しいよ。ありがとう、デンジちゃん」
「仲良く、半分こっすよ?」
「そうだね、半分こ、しようね」
二人はそう言って、どちらからともなく小指を差し出すと、指切りげんまんで約束をした。
それから、雑居ビル目指して再び歩き始めた。
家に入る間際、姫野とデンジは、夜の取り分について公平に取り決めをした。
「じゃぁ、明後日はデンジちゃんがトクさんのベッドで眠るってことで。でも、匂いが新鮮な方を貰っちゃってよかったの?」
「好いんす、その方が、兄貴が帰ってきたときに、オレの匂いに包まれてくれるから」
「なるほどね、その視点は無かったよ。じゃぁ、今度は私が三日目の夜ってことで」
「ならオレが、一日目の夜っすね」
「そうなるね」
二人は、三日あるうちの初日と三日目のベッドを巡り議論を重ねた。
最終的に、今回はデンジが三日目のベッドで眠り、初日のベッドは姫野が貰うことになった。真ん中の日は停戦日となり、互いに男のベッドには近寄らないことが決められた。自分以外の日と二日目は、姫野は来客用の布団で、デンジは自分の子供部屋のベッドで眠ることとなった。
二人は双方納得のいく結果に終わったことで友情を深め、夕飯のすき焼きの準備に仲良く取り掛かった。
家に入る頃には夕日が西へと沈んでいく間近だった。
夕日に照らし出される影が長く伸び、家々の塀を影絵のように飛び回った。オレンジ色の光が、家々の峰を越えると、あちこちに散らばった。