江戸の吉原。
色と欲が闇の中で蠢くこの町にも四季というものがある。
「あ。鈴虫。
もうこんな時期なんだねぇ」
団扇を仰いでいた花魁の勿忘草がなんとも気だるい声を俺の上で出す。
薄暗の中遠くから聞こえる鈴虫の音色に耳を傾けると、この部屋に近づいてくる足音が聞こえて来る。
「鈴虫の音すら楽しめぬとなれば、吉原の価値は無いのでは?」
「そういう事を言えるのは、若旦那ぐらいなものよ。
さぁ、お仕事頑張ってらっしゃいな」
起き上がってぼやく俺に裸の勿忘草が俺に着物を着せてくれる。
着終わったのを見計らったかのように忘八者が障子越しに声をかけてくる。
「若旦那様。
お願いしたき事が……」
「分かった。今出る」
暗闇の布団の上で頭を下げる裸の勿忘草を置いて俺は部屋を出る。
俺の後ろを少し下がって忘八者が音を立てずについてくる。
「で、金払いのできないただの幇間になにをさせたいのかね?
楼主は?」
遊郭の廊下、障子向こうでは男と女が薄暗がりの中で色と欲の宴を繰り広げている。
俺の声も忘八者の声もそんな欲の宴の中では誰にも届かない。
「この奥のお武家様。
白河様の繋がりが」
白河様。
その名前は幕府老中首座で白河藩十一万石藩主の松平定信の事を指す。
彼は綱紀粛正と質素倹約を改革の柱に掲げており、その改革の為かこの吉原は彼に目の敵にされていたのである。
「で、あのお方がわざわざ刺客を差し向けたのだ。
やはり俺か?」
「そう楼主は考えております。
田代玄蕃様」
色と欲のこの町は多くの話が集まって来る。
松平定信の改革がきつ過ぎて、大奥や将軍徳川家斉との関係が上手く行っていない事。
改革だけで幕府の赤字を埋め切れずに、その補填に前老中田沼意次が隠していると言われる埋蔵金を当てにしようとしている事。
そして、田沼意次失脚後に養子先からも見捨てられた俺がその埋蔵金を持っていると噂されている事など、様々な噂が俺の耳に入ってくる。
「わかった。
とりあえずあってみるか」
そんなやり取りをしながら忘八者が障子を開けると、花魁の接待をまったく面白くなさそうな顔で受けていた侍が俺の方をじろりと見る。
幇間らしくおどけた顔を晒しながら、俺は刺客に向けて自己紹介をした。
「幇間の田代玄蕃。
お呼びにより参上いたしました。
さぁ、この場を盛り上げて見せましょうぞ!」
遠くから賑やかな音が聞こえる。
ここまで聞こえるはすが無いのだが、耳を澄ませると賑やかな音に紛れて男女の色恋の音も聞こえるのだろう。
ここは吉原。幕府の法のお目こぼしが受けられ、男と女の愛欲と金銭のやり取りが渦巻く街である。
目を閉じて、吉原の夜を思う。
提灯灯りに照らされて、客引きをしていた遊女に今日の相手を探す客の駆け引き。
お大尽が馴染みの店の娘を見初めてもらおうと、必死に貢ぎ物をして口説き落とす様子。
山海の珍味に舌鼓を打つ大夫がいる別の部屋では客が取れなかった花魁が安い粥で腹を満たしている。
喧嘩を売ってくる酔っ払いや、三味線の音に合わせて踊る芸者たち。
華やかなりし吉原の街だが、その裏で闇に溶け込んで生きる者がいる事を、俺は知っている。
「しかしお侍様も厠が分からぬと幇間を呼びますかね」
砕けた口調で俺が茶化すが後ろの侍は何も言わず、ただ殺気のみが後ろからもれる。
さも知っている風に立ち止まり、あくまで幇間として後ろの侍に告げる。
「もれていますよ。殺気。
ここは吉原ですぜ? 色気の街で殺気なんてものは似合わない」
後ろの侍の足が止まる。
だとしたら、次は後ろから斬りつける感じだろうか?
「白河様もお人が悪い。
失脚に追い込まれた家の、養子縁組を解消されたような男に刺客を送らなくてもご政道は行えるでしょうに」
まだ斬らない。
それは、俺の命綱を後ろの侍が知りたいと思っているからだ。
「大変ですな。ご政道とは。
田沼家に残されたという莫大な賄賂。
それを没収して改革の原資にという所で……」
そこまで言った時に侍が刀を抜き、俺に斬りつける事ができなかった。
横から斬っては一撃で仕留められない。
上段から袈裟懸けに仕留めるつもりだったのだろうが、その上段の構えに入る前に刀が天井に刺さってしまったのだ。
そこまで醜態をさらしてなお、仕掛けようとする侍を放置するほど俺も甘くなかった。
「くっ……」
「あんたの失態は、こちらの庭である吉原にそのまま入ってきた事。
こういう出迎えがある事すら考えていなかったか?
それと、ここがどこだかも分かっていなかったようだが」
「……貴様にご政道の大事さ等分かるまい……その賄賂で生かされている貴様には……」
「だな。
だから、俺の為に死んでくれ」
隠し持っていた脇差で心の臓を一突き。
ついた血もこの暗闇ならば目立たない。
崩れ落ちる男を抱きかかえて、俺は死体を吉原の堀に落とす。
水音を誰も気にしないのが吉原であり、翌朝死体が上がった所で知らぬ存ぜぬを通すのも吉原という街である。
「終わったぞ」
「ありがとうございます。
この手の輩はどうしても吉原で手を出すわけにはいかず……」
隠れて見ていたらしい楼主は手ぬぐいで汗を拭きながら言い訳がましく俺に礼を言う。
どうせ、白河様から追及された時には逃られる言い訳を考えているのだろう。
そんな楼主だが、酒と女と吉原という住処を与えてくれる訳で俺は苦笑しつつ、忘れないうちに言っておく。
「構わんよ。
何なら俺の名前すら出してもな。
落ちぶれた田沼の息子が白河様に嚙みついた。
吉原だけじゃない。江戸の町人も喜びそうな話じゃないか」
「おかえりなさい。
どう?
精進落としに一勝負」
血まみれの服を着替えて部屋に戻ると、暗いままの部屋で出て行った時の姿で勿忘草が待っていた。
帰って来ない事すら考えていないような声で誘う勿忘草を抱く。
「ねぇ。本当に持っているの?
田沼様の埋蔵金??」
俺の上で勿忘草が喘ぎながら尋ねるので、俺はいつものように気かなかった事にした。