田代玄蕃が吉原に居るのは、金が払えないから幇間として働いているという事になっている。
だから、そんな彼は吉原から出る事はできないはずなのだが、今の彼は籠に揺られて籠の中から江戸の町を眺めていた。
籠の前と後ろに侍がついている。
いかに白河様こと松平定信といえども、沼津藩の紋がついている籠を襲える訳もなく、籠はそのまま沼津藩上屋敷に着く。
「……柿か」
「いかがなさいましたか?田代様?」
庭の柿を眺めていた俺の呟きに案内していた侍が怪訝な声を出す。
少なくとも沼津藩の人間は、養子縁組が解消された今でも俺を藩主一族の一人として扱ってくれるらしい。
その事が嬉しくもあり、うっとうしくもあるが、そんな素振りを見せずに、俺は書院に居た水野忠成に頭を下げる。
「田代玄蕃。お呼びにより参上いたしました」
「くるしゅうない。表を上げよ。
俺とお前の仲だ。玄蕃」
「じゃあ、そうさせてもらおう。
で、吉太郎。どんな厄介事が持ち上がった?」
大名と侍から崩して、吉原で馬鹿をやっていた頃の口調に戻す。
その口調が嬉しかったのか、水野忠成はニッコリと笑いながら、一冊の本を差し出す。
表題を見た、俺の顔色が変わる。
「ご禁書の『海国兵談』じゃないか!
どうやって手に入れた!?」
「まぁ、色々あってな。
版元の須原屋市兵衛が隠し持っていた奴らしい。
幕府に見咎められた本なので渡すにもという事で、俺の手に渡ってきた」
楽しそうに話す水野忠成に対して、鏡が無いので見れないが俺の顔はげんなりしているのだろう。
『海国兵談』。
寛政の三奇人と名高い経世論家の林子平が出した本で、全16巻に渡る政論書は、蝦夷地に浸食しつつある異国ロシアの脅威を唱え、幕府の備えを批判した事で『ご政道を批判した』と白河様直々の処罰を受けただけでなく、須原屋市兵衛にも版木没収という処分が下ったいわくつきの本である。
そんな本を水野忠成は手に入れてきた訳で、どんな厄介事なのか想像もしたくないが、聞かない訳にもいかないので口を開く。
「で、俺にどうしろと?」
「たいしたことではない。
この本を預かってほしいのだ」
「俺に?」
「吉原にだ」
水野忠成が俺に厄介事を持ち込むのは、今に始まった話ではない。
吉原で惚れた女がいて、その女を身請けしようとしたら幕府に目をつけられ、沼津藩上屋敷から吉原に通う羽目になったという過去もあるぐらいだ。
ただ、今回の厄介事は今までのそれとは違う気がした。
「知っての通り、上様と白河様の仲が最近特によろしくない」
譜代大名の顔で水野忠成が言う。
松平定信は上様こと徳川家斉への忠誠心は高いのだが、倹約令や風俗統制令の頻発に、将軍のお気に入りである大奥の予算の大幅削減や不良女中を厳しく罰するなど大奥との対立が深刻化していた。
『白河の 清きに魚も 棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき』
なんて狂歌が江戸の町に書かれるご時世。
その空気を敏感に感じ取っている松平定信は、上様との仲を改善しようと様々な案を出しているが、どれもこれも上手く行っていない。
「まぁ、保険のようなものだ。
お前も知っているだろうが、権勢を持つお方が失脚すると、その反対側が持ち上げられる。そして、その反対側も失敗すれば、またそちらが持ち上げられる。
その繰り返しが、今の幕府だ」
「……知っているさ」
水野忠成の言葉を遮るように俺はぽつりと呟く。
低く、小さく、それでも聞こえるぐらいに。
「……知っているさ。俺もその場に居たのだからな」
兄、田沼意知が殺された時に江戸の町衆がどうはやし立てたのかを。
父、田沼意次が失脚した時に白河様こと松平定信がどのような仕打ちをしたかを。
それらを思い出すだけで、俺は反吐が出そうになる。
そんな俺の態度を見て、水野忠成は気を遣うように、しかしそれを誤魔化すように明るい声を出した。
「そんな顔をするな。
少なくとも、今の玄蕃はただの吉原の幇間だろうが」
「そうだな」
水野忠成の言葉を受けて、俺は自分がどんな顔をしていたのか知る。
水野忠成は立ち上がると、俺の顔を見ながら言う。
「では、よろしく頼むぞ」
「ああ。部屋の隅にでも置いておくさ」
吉原通いの癖があるものの水野忠成は立派な大名だ。
その彼が頭を下げて頼んでいる事は断れないし、断るべきではないだろう。
だから、俺はいつものように軽口を叩いて、その厄介事を引き受けた。
「田代様。
よろしければこれを」
屋敷を出る前に、付き添いの侍が籠を俺に手渡す。
籠の中には、熟れた柿が五つほど入っていた。
「すまぬな。半蔵」
「いいって事です。忠徳様付きで冷や水を食っているので、今更ですよ」
「俺を水野忠徳で呼んでくれるのは、お前ぐらいだよ」
父、田沼意次の失脚で水野家との養子縁組が解消されたのが俺、田代玄蕃であり、半蔵こと清水半蔵はその頃の俺の付き侍だった。
その後で水野家の養子となったのが吉太郎こと水野忠成である。
因果は巡り、白河が嫌われ田沼が恋しがられているとしても、俺は吉原に居続けるのだろう。
吉原という籠の中に厄介事を放り込んだのは誰かは知らないが、今の俺にはお似合いかもしれない。
そう自嘲しながら俺は籠に揺られ、柿を一つ手に取りかぶりつくと、甘酸っぱさが口いっぱいに広がった。