白河の濁り 田代玄番放蕩録   作:北部九州在住

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空啄木鳥

 吉原という町は、広いようで狭い。

 四方を堀に囲まれ大門から見て縦百三十五間、横百八十間の中に、およそ一万もの人間が住み、夜ともなればその倍の人間かこの町に居る事になる。

 そんな吉原が最も静かな時間が早朝である。

 夜の華やかさと艶やかなさなど朝日の前には幻のように消え、さす朝日に雀が嘲るばかり。

 俺は隣で寝ている裸の勿忘草を起こさないように起きようとして、彼女の手に捕まれる。

 

「若旦那。どこに行くので?」

 

 勿忘草が布団から身を引きずりながらゆっくりと起き上がると布団が滑り落ち、彼女の裸身が朝の光に晒される。

 その健康的な白い肌に、赤い印をいくつか付けた姿が美しく、布団に座った勿忘草の髪が朝露に濡れているようにキラキラと輝く。

 布団で睦み合い、その残滓もそのままにした蓬莱楼一の花魁に裸のまま抱き着かれるとか、どこの極楽だろうと思うが勿忘草の目は厳しい。

 女にとって、特に吉原の花魁にとって、男が先に布団から出てゆくのはあまり良い印象を与えない。

 そのまま別の女のところにという男を何度も見てきた吉原の女の警戒心は、朝でも発揮される当たり、勿忘草の良い女ぶりが分かる。

 

「忘れたのか?

 今日は空啄木鳥の日だよ」

 

「ああ。若旦那が侍らしく見える日ね」

 

 と、勿忘草は寝ながらクスクスと笑う。

 寝床にしている蓬莱楼の離れの庭先の端に刺さる木の棒を眺めながら、傍に立てかけてあった棒を握りゆっくりと振る。

 襦袢をまとった勿忘草がそれを何となしに眺めるのがいつの間にか日常になっていた。

 

「若旦那。前々から気になっているんだけど」

「何だ?」

「結局、これ何をやっているんだい?」

 

 勿忘草が尋ねている間も俺は木刀の素振りを止めない。

 素早くてはなく遅く、演武のように丁寧に木刀を振り続けると夜に勿忘草と睦み合った以上の汗と息が噴き出る。

 吉原に逃げ込んではや如何ばかりか。

 勿忘草が俺の姿を眺めるのは飽きないらしく、その綺麗な目を楽しませる程度には成長できたようだ。

 

「稽古だよ。稽古。

 吉原暮らしで、いつ襲われるか分からないからな」

「ふーん」

 

 聞いておきながら、勿忘草は適当な返事を返す。

 この素振りかがやっと苦にならなくなったのは最近の事であり、それに合わせて体つきも侍らしくなったとは思うし、おまけだが勿忘草を喜ばせられるようになったとも思う。言うつもりはないが。

 

「本当ならば、その刺さっている木の棒を一心不乱に叩くのだが……」

「ああ。それであたしが『これから寝るってのに啄木鳥かい!』って怒鳴り込んだのよねぇ」

 

 幇間として呼ばれた際に、薩摩藩の侍から教えてもらった修行法で薩摩藩では示現流と呼ばれているとか。

 その特徴は『二の太刀いらず』で初撃に全てをかける剣だとか言われているが、刺した棒を叩き折れる事で修行の終了としたとか。

 

「そうだ。叫んで棒を叩き続けたらここを追い出されるだろう?

 で、これだ」

 

 そんな事を言いながら俺は素振りを止めない。

 そんな修行法でここを追い出されたら叶わないので、音を立てずにゆっくりと刺してある木の棒の前で寸止めを繰り返す。

 勿忘草の怒鳴り声から始まったこの稽古を空啄木鳥と呼んでいるのは、啄木鳥よろしく音をたてないようにという訳で。

 まぁ、我流なのでこんなものだろう。

 ゆっくりと、丁寧に振り下ろされる木の棒を止め、今度は素早く木の棒を振り下ろす。

 その鋭さに、勿忘草だけでなく棒を振っていた俺自身も驚く。

 

「続けるものだ。吉原に逃げ込んだ果てに剣を掴むか……」

 

 そのまま身を整えて突き刺したままの木の棒の方に構える。

 太陽と雀と勿忘草の瞳が俺の持つ木の棒に集まり、俺は息を大きく吸い込んて無音でそれを振り下ろす。

 空気を切り裂いた木刀風が俺の髪を揺らし、朝に相応しくない鈍い音と共に、刺していた木の棒が二つとなって地面に落ちた。

 

「はー。凄いもんだねぇ」

「まだまだだ」

「謙虚なもんだねぇ」

 

 俺の木刀の振りに感服した勿忘草は手を叩き、その拍手がいつの間にか蓬莱楼からも聞こえているのに気づく。

 見ると、見世物よろしく俺の稽古が見られていたらしく、俺がそちらを向くと拍手が更に大きくなった。

 中には睦み合っていたらしい旦那や花魁も居て、何やら色めきだっているようだが……まぁ、そろそろ良いだろう。

 この棒を叩き切れたなら、俺はここまで成長できたという事だ。

 木の棒を壁に立てかけて、大仰に一礼して見せた。

 

「吉原幇間剣。『空啄木鳥』でございます」

 

 棒を犠牲にした俺の演武に、蓬莱楼からは歓声が上がっていた。

 こうして、幇間としての俺の芸に『空啄木鳥』が加わる事になった。

 実際、身を助ける事にるのだが、あまり嬉しくないのは侍としての俺の意地なのか?

 それとも、幇間としてこんな所に居るのが恥ずかしいという俺の矜持からなのか? それは俺自身も分からない事だった。

 

「さてと、一っ風呂浴びて寝る……勿忘草。なんでくっつく?」

「野暮なことは言わないでおくれよ。もぉ……あんたな剣で火照っちゃったじゃない」

 

 汗臭くなったので、とりあえず朝風呂でも浴びて寝なおそうかと思ったら、勿忘草に捕まっていた。

 半分脱ぎ掛けていた襦袢がずり落ちて、綺麗な肩と白い胸がむき出しになっている。

このままもうひと眠りをと考えたが、そうは問屋が卸さない。

 ここは吉原。

 夢を売る街であり、男と女の町である。

 

「若旦那ぁ。もう一勝負しない?

 棒きれより、あたしの方が滾るでしょ?」

 

 ため息一つ。俺は勿忘草を抱き寄せ、俺と彼女の勝負は朝飯の時間まで続き、睦み合った疲れから寝過ごしたのは御愛嬌である。

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