22.エインセル河
太古、大いなる意志の怒りに触れ
地下深くに滅ぼされた、ノクスの民は
偽りの夜空を戴き、今もなお焦がれている
まつろわぬ者たちの救い手、永続なる水銀
凍てついた涙に塗れた、冷たい夜の王を
※
ざあざあ、ぴちょん、ぴちょん。
近くで水が流れる音と、遠くで水滴が滴る音が混ざって聞こえる。
気づけば不快な密着感と全身が凍えるような冷ややかな感覚が沸き上がってきて、わたしは目覚めた。
思わず目を開けて起き上がる。
浅瀬でわたしは気を失っていたようだった。髪の毛がべっとりと頬と首に張り付き、立ち上がればローブの裾と袖からびちゃびちゃと水が零れる。身体も服も全部がずぶ濡れだった。
それでも手放さずにいられたのか、すぐ傍に転がっていた自分の杖を拾い上げ《星灯り》を唱える。
薄暗かった周囲が青白い光で照らされた。とてつもなく高い天井から氷柱のように細長い結晶が数え切れないほど垂れ下がっていて、雨だれのように断続的に水滴が落ちてきているのが見えた。ここはきっと鍾乳洞なんだろう。
足下では光をほとんど透かさないほどに暗い河が、幅広い洞窟の床一面を覆うように流れている。どこからどこまでが浅瀬かすらわからない。下手に歩き回れば深みにはまって溺れてしまいそうだ。
背後を照らせば、はるか上方から幾重にも滝が折り重なって水が降り注いできていた。わたしはここから落ちてきたの?
落ちてきた。そこまで考えて、おぼろげに記憶が思い出されてくる。
そうだ、わたしはあの時竜の背から落ちて落下死しそうだったところをトリーナを呼んで助けを求めた。
そして生きて今ここにいるということは、きっとトリーナはわたしをどうにかして生かしてくれたのだと思う。
「寒い……」
ぶるりと反射的に震える。思わず身体を掻き抱いて独り言が漏れた。全身が冷え切って凍えそう。このままじゃ絶対に風邪引いちゃう。
それにこんな何処かも分からない場所で1人病気になったらそのまま死んでもおかしくない。とにかくこの水場から上がれる場所を探して、火を熾して身体を温めなきゃいけない。
奥の暗がりから冷たくしっとりした風が吹く。こんな場所で暖を取ることができるのだろうかと少し不安になった。
山嶺であれほど恐ろしかった火がひどく恋しくなる。前もボルスさんがやっていたのを見て思ったけど、掌に火をともせるくらいの術があれば本当に困らないのに。
どうせならあの祈祷を教えて貰えばよかったかもしれない。なんて、こんな状況でも脳天気な思いつきが浮かぶ程度にわたしの思考は単純極まりなかった。
そんなふうに無い物ねだりしている自分に小さくため息をついて、浅瀬の向こう側を照らす。すると水面から突き出るように生えたねじくれた木が点在していた。
ゆっくりと足下に気をつけながら近づいてつるりと光沢のある鈍色の幹に触れば、冷えた鉄のように冷たい。そして枝から生えるガラスのように薄く半透明な葉っぱの集合体が、星灯りの光を透かして青白く輝いた。木の株のそばに生える葦のような背の高い草も鈍く発光していて、非生物じみたオブジェのようだった。
そもそもこんな光のない洞窟の水路のような場所で育つ樹木があるなんて信じられない。光合成ができないから色のない葉っぱをしてるんだろうけれど。
流れる水は相変わらず氷のように冷たくて、靴ごとくるぶしまで浸かった足が冷たくて感覚がなくなってきた。これ以上体温を下げるわけにはいかない。
川縁を探して杖先から《星灯り》をかざしぐるりと周囲を見渡す。するとわたしの肩口をすり抜けるようにぼんやりと光る何かが横切るのが見えた。
目の前を漂っているのは、掌に載るくらいの半透明に白く光る小さなクラゲだった。身体よりはるかに長い、糸のように細い無数の足が残光を描くようにふわりと舞っている。
クラゲは私の周りを一周ぐるりと回るように泳ぐと、数メートル先までゆっくりと漂った。そして触手をまるで手招きするようにこちらへくねらせる。
「ついてこい、ってこと……?」
どこかもわからない洞窟の中で、他に頼れるものもない。
トリーナを頼りたいけれど、支払う代償のことを思えば本当に万策尽きてからでも遅くはない。
そう、代償。頭の中でもう一度唱えて、肝心なことを思い出せないことに気づく。
わたしはいったい、何を捧げてトリーナに助けてもらったのだろう……?
ぴしゃりと両の掌で頬を叩く。ダメだ、今は考えている場合じゃない。とにかく今は、このクラゲに付いていってみよう。
本当はわたしが誘われていると思い込んでいるだけで実はただの勘違いなのかも、なんて頭を過ぎったけれど、ここにぼうっと突っ立っているだけでは何も起きない。
だから、凍えそうな身体を無理矢理動かす。
レナラ、クラリス、ボルスさん。どうか待っていて。
きっとわたしは、あなたたちの所へ帰るから。
そして、いつも通り突き放すような、それでいて思いやりのある言葉も胸の中に刻まれている。
ローブの袖に入っていた人形の瞳を取り出すと、藍色の中に青白い光が瞬いていた。ゴライアスが何を思ってわたしにこれを託したのかはわからないけれど、今もなお見守ってくれているような気がした。
『死ぬのならば研鑚の後に老いて死ね』
そうですよね、先生。
大切な人たちの顔を思い浮かべて、わたしはただ、歩くことにした。
※
果たしてクラゲは本当にわたしのことを導いてくれているようで、その証拠に深みに足を取られることもなく、わたしは浅瀬を歩き続けている。
そうやってふわふわと空を漂うクラゲを追いかけて河を下るように歩いていくと、やがて流れが細くなり木々が生い茂る河辺に上がることができた。
そしてそのまま誘われるまま《星灯り》を透過して青白く発光する林を歩く。緑色の葉はひとつもなく、透明や白い葉を生やした草木ばかりがある。
周囲を見回しながら歩いていると、ゆっくりとわたしを先導していたクラゲがその場で漂いながら進むのをやめた。どうしたの? 柔らかそうなクラゲの傘に近づこうとして、視線の端にひらりと草の間に赤く瞬く何かが見えた。そして地面から生える白く細長い葉のひとつにぴたりと留まる。
こんな青白い林には場違いな、鮮やかで赤い蝶だった。
「これ……燻り蝶?」
燻り蝶というのは常に羽が発火している不思議な蝶だ。火元を好む性質があって、焚き火の燃え残りなんかによく集っているのを見かける。その羽を乾いた樹皮にかざせば簡単に発火するので、野宿の多いわたしたち星見にとっては火興しの手間が省けるラッキーアイテムでもある。
でも、どうして? わたしは嬉しさよりも先に疑問が浮かぶ。
燻り蝶は高温の場所を好む。こんな冷たい洞窟の中に燻り蝶が飛んでいるのがおかしいのだ。
それによく観察すればその姿も少し変だ。羽は燃えるような赤のはずだけれど、その片方がなんだかくすんで枯葉みたいになっている。単に環境が合ってなくて元気がないんだろうか。
こんな冷たいところに迷い込んだのなら最もかもしれない。
でもごめんね、その羽ちょっと使わせてね。心の中で呟いて慎重に蝶に手を伸ばす。
「あ」
思わず声が出た。
クラゲがわたしの横からにゅっと近づくと、その触手でばしっと蝶を掴み取ったのだった。
そしてクラゲは半透明の傘をドレスの裾のように波立たせると、わたしの目の前に掴んだ蝶を差し出してきた。
「えっと、その……くれるの?」
戸惑って思わず聞いてしまう。するとクラゲは可愛らしく踊るようにくるりと一回転した。言葉がわかるのかしら? なぜかはわからないけれど、このクラゲがわたしを助けてくれているということは事実のような気がした。
鈍色の樹の幹からささくれ立った樹皮をいくつか剥がし、それを蝶の羽にかざすと蝋のようにどろりと溶けながら燃え始めた。光の無いところで育つだけあって、見た目は樹だけれどその中身は全く異なるのかもしれない。
燃えなかったらどうしようと思ったけど、ちゃんと暖が取れそうでほっとする。
魔術をぶつけて鉄のように硬い樹の枝をいくつか折り、樹皮と一緒にまとめて焚き火を作ると、わたしとクラゲは暖かい火をふたりで囲んだ。
びしょびしょになってしまったローブも脱いで乾かしつつ、薄い下着1枚のままひたすら火に当たり続ける。今誰かに見られたら恥ずかしさで死ねるけど、流石にこんなところで人に出会うことはない、はず。
手持ち無沙汰になって火の灯りを写して赤みがかったクラゲの傘をつんつんとつつくと、ゴムボールみたいなぽよんとした感触と反応するように傘が波打った。幻じゃなくてちゃんと実体がある。
どうしよう。結構かわいいと思ってしまうわたしがいる。
一緒にいてくれるのは嬉しいけど、飼うにしても餌とかいるのかな。わたし、クラゲが何食べるかなんて知らないけど……。
とりあえず疑問は置いておいて、クラゲの傘をむにむにと掴みながら手頃な木の枝に引っ掛けたローブを見る。白かった外套は気付けばいつの間にか真っ黒に染まっていた。いつからだろう。気にしてなかったけれど、煤で汚れただけじゃここまで墨で染めたような漆黒にはならない。
『ただあなたは……少し眠っていただけよ』
『下手したら貴女、戻れなくなっていたのよ?』
レナラとトリーナに言われた言葉を思い出す。わたしが忘れているだけで、きっとその間に何かがあったはず。ただ、思い出そうとしても記憶の一欠片すら思い浮かんでこない。
ぼうっと考えていると、山嶺での戦いが夢の中のことのように思える。現実感がなくて、ずっとわからないことだらけだ。レナラと一緒にレアルカリアを出発したのが遠い過去のようだった。
「トリーナ、いるの?」
(ええ、私はいつだって貴女のそばにいるわ)
呼びかければ、歌うような声が耳を撫でて僅かにユリの香りがした。
トリーナはいつもわたしのそばにいると前々からずっと言っていたけれど、見えもしないのにこうして普通に会話ができることに今更ながらびっくりする。
「わたし、何か忘れてるような気がして……」
わたしの記憶が飛び飛びになっているのは2回。みんながマリカたちに殺されそうになった時と、トリーナに助けを求めた時だ。
トリーナに対して、代償に何かを支払ったことは覚えている。でもわたしはそのことを覚えていない。
ただ、何か大切なことを忘れてしまったような気がする。
(そう、それこそが貴女が私の助けを求めるときに代償としたもの。……そうね。これを教えても、まだ釣り合いは取れるかしら。貴女がわたしに捧げたのは貴女の父と母の記憶よ)
「えっ? わたし両親の顔なんて見たことないよ。前世でも、この世界でも物心ついた時にはお父さんもお母さんもいなかったし」
わたしの記憶の中に両親の姿はない。思い出せる範疇では見たことすらない。確かわたしは赤ん坊の時から施設で育ったはず……ううん、なんだろう。昔のこと過ぎてうまく思い出せない。
なのにトリーナはわたしには両親がいたという。
(つまりはそういうことよ。この先はわたしも言えない。それこそが代償なのだから。貴女は自分自身の意志でそれを捨て去った。これ以上の追求は貴女の魂を傷つける)
名前も顔も知らないかつての両親。狭間での2度目の人生ですらみなしごとして育ち、親なんていなくて当たり前のものだと受け入れていた。
でも、かつて、わたしにもそんな存在がいたのなら、なんだか少しは救われる気がする。
トリーナの言う通りならもはや顔も名前も思い出すことはできないけれど、あったはずの、わたしが助かるために犠牲になった思い出にお礼くらいは言っておきたい。
届くことは、きっとないんだろうけれど。
揺らめく焚き火の前で、肌に暖かさを感じながら目を閉じる。
───わたしを助けてくれてありがとう。お父さん、お母さん。
「トリーナも、ありがとう。わたしを助けてくれて」
(フフ、お礼は必要ないわ。それだけのものは貰ったつもりだもの。それよりも、聞きたいことがあるんじゃなくて?)
「ここはどこなの?」
(今貴女がいるのは狭間の地下深く。冷たい地下水脈に沿って存在する忘れ去られた広大な迷宮のひとつ。古の人類がエインセルの大河と呼んでいた場所)
びっくりした。洞窟の中かと思ったら、地下水脈って。死ぬほど水が冷たいのも納得だった。思った以上にヤバイ場所にいるみたい。こうやって暖が取れたのも奇跡的な運の良さだったんじゃないかとぞっとする。
「帰れると思う? みんなのところに」
(それは貴女次第。ああ……ここまでね。貴女の支払った代償はこれで尽きた。これ以上は今は助けてあげられない。またいずれ、アヤノ)
「待って、こうやって話すこともできないの?」
わたしは慌ててトリーナを呼び止めた。心なしかトリーナの声が遠ざかり、なおかつ少しだけ早口になっているような気がして不安になったのである。
「トリーナはいつだってわたしが呼んでもいないときでも現れたでしょ。それならいつでも話くらいできてもいいと思うん、だけど……」
顔色を伺うような声に、トリーナは僅かに沈黙した。
(その気持ちは嬉しいわ。でもね、
それは笑っているのにひどく寂しそうな、自嘲するような響きだった。
わたしは代償が尽きたらもはやトリーナと話すこともできないのだと察した。仲が深まるほどに自由に話もできないほど遠ざかるなんて、人の心を馬鹿にしている。
こういうものをきっと呪いと呼ぶのだろう。
ゴライアスはトリーナが寵愛者を破滅させると言っていたけれど、もしかするとそれはトリーナ自身が望んでやっているわけではないのかもしれない。
そうであるなら、トリーナがひどく寂しい孤独を抱えているように思えてならなかった。
わたしの中で、かつて抱いていたトリーナへの一欠片の恐れはいつの間にか消えかけていた。
自分の都合の良いように考えているだけで、ゴライアスの言うとおりトリーナは本当に恐ろしい人なのかもしれない。
でも、それでもいいと思った。
きっともう時間が無い。
さっきは必要ないと言われたけれど、もう1度だけ言いたいことを。
「ありがとう、トリーナ。これからも一緒にいてね」
(───どういたしまして、アヤノ。良い旅を)
そうあれかしと祈るような、優しい声だった。
(貴女がこの世界を受け入れたように、狭間もまた貴女を受け入れる。言うまでもないことかも知れないけれど、貴女はひとりぼっちじゃない。困難な旅路に行き当たった時にこそ、きっとそれを忘れないで)
それを最後に僅かなユリの香りは失われ、トリーナの気配は完全に消えた。
※
暖かさと、トリーナと話せたこと、そしてここがひとまずどこか分かったことで少し気が緩んだのか、いつの間にかわたしは焚き火の前で体操座りをしたまま眠りこけていた。
朝かも夜かもわからずに口の端からよだれを垂らしながらうとうとしていた、その時だった。
『誰か助けて! 助けてください! 誰か!』
唐突に甲高い女の人の声が洞窟に反響した。びっくりして身体が飛び上がり意識が覚醒する。目がぱっちりと開く。ああ! 火の世話しないまま寝ちゃった。よかった、まだ燃えてる! ってそうじゃなくて! 杖! あった!
脇に置いた杖を握って立ち上がる。今のって人の声だよね? こんな地下深くなのに人がいるの? それにしたって切羽詰まった声だったし、もしかしたら深みにはまって溺れているのかもしれない。早く助けてあげないと。ってわたし下着のままじゃん! あわわわ……。
『ぷいぷい』
見ればクラゲがどこから出しているのかわからない不思議な鳴き声を発して干してあったローブの上でアピールしていた。
ありがと、と呟いてそれを急いで引ったくると、ありがたいことにもう完全に乾いていた。やっと凍えずに済みそうでほっとする。
素早くローブを纏うと、クラゲが宙を泳ぐように一直線にスッと動き出した。
「また案内してくれるの?」
『ぷいっ』
「お願いっ」
傘をこちらに振り向かせたクラゲに向かって強く頷く。
既にわたしはこのクラゲを完全に信用していた。だってこの子が燻り蝶がいるところに連れてきてくれなかったらわたしだって凍死していたかもしれないのだ。落ち着いたら名前付けてあげたい。
《星灯り》を照らして青白い林を抜け、ただクラゲの後を追って走る。やがて草木に混ざって、所々朽ち果てた石造りの遺跡が見えるようになる。白い葉が群生している草むらを突っ切ると、水たまりのような薄い浅瀬の中で崩れかけた石柱が建ち並ぶ空間に出た。古代ギリシアの遺跡みたいな建物で、巨大な老人を模した彫刻まである。ところどころ爛々と燃えさかる燭台で照らされていて、《星灯り》を使わなくても十分に周りが見えた。
どう見ても人が作ったものだ。光も射さないような地下にこんなものがあるなんて。
『ぷい!』
一瞬視線を奪われていると、鳴き声で現実に引き戻される。クラゲが漂っている方を見れば、岩壁に大きな横穴が空いていた。下り坂になっているのか、浅瀬の水がそちらに川のように流れ込んでいる。そして、
「ひっ」
思わず小さく息を吸い込んで、肺に冷たい空気が満ちる。背筋に悪寒が走った。
きぃきぃと、油が切れた蝶番が擦れ合うような音がする。
それは蟻だった。
わたしの何倍もの、下手したらルーンベアのような熊よりも大きな、血のように赤い蟻が横穴から這い出て、触角を揺らしながら、その目の前で尻もちをついている誰かを見下ろしていた。
ギギギギギ。
針のような毛を生やした頭部、金属音と共にノコギリのような大顎が開く。ぼたぼたと褐色の液体が水面に落ちて油のように沸騰した。
何も考えられない。助けなきゃいけないのに身がすくむ。これよりも恐ろしいものなら、山嶺でいくらでも出会ってきた。でもそうじゃない。わたしは、目の前の生物が、生理的に受け入れられない。
反射的に後ずさる、ばしゃり、と音を立てて水が跳ねた。大顎をがちがちと動かしながら、つるりとした漆黒の目がこちらを見た。
わたしの頭の中の何かが切れた音がした。
「やだああああああ! ヤダっヤダヤダっキモイキモイっ来ないで来ないで来ないでったらああああ!」
とにかく今すぐこの虫を目の前から消し去りたかった。
わたしは絶叫して半泣きで《輝石の大つぶて》を何度も放った。蟻が後ずさってひっくり返った。裏返った6本の足がぐねぐねともがくように動き回る。気持ち悪すぎて胃液がせり上がるような気がした。
もう何も見たくない。違う。ああっそうだあの人を助けなきゃ。何のために来たのわたしは!
ぐちゃぐちゃな思考の中で、なんとかわたしは走り寄って呆然としていた人の手を取った。
「逃げましょうっ一緒に!」
「は、はいっ!」
ヴェールのような白い布を被った奥から聞こえたのは高い女の人の声だった。目線の端に奥の横穴が目に入る。奥に大量の赤い蟻がうごめくのが見えた気がしてすぐに視線をそらした。
一刻も早くこのモンスターパニックみたいな地獄絵図から逃げ出さないと頭がおかしくなる。
わたしたちはそれ以上言葉も交わさず手を取り合ってただ走り続けた。
そしてどのくらい走ったのか、いつの間にか元いた林に戻ってきたようで、遺跡のような構造物もいつしか視界の周りから消えて、鬱蒼とした発光する草木だけがある。
『ぷい、ぷい』
横で併走するように飛んでいたクラゲがわたしたちを制止するように立ち止まった。釣られて息も絶え絶えだったわたしたちは思わず地べたに座り込んで肩で息をする。
「はぁっ、はぁっ、なんとか、撒けた、かなぁ?」
「大丈夫、だと、思います」
「よ、良かった」
喉が張り付くくらいカラカラになっていた。ただ、もうあの蟻のモンスターを見なくていいと思うだけでほっとする。
「あの……ありがとうございました。お怪我はありませんか?」
「ううん、全然大丈夫です! あなたこそ、無事でよかっ、た……?」
遠慮がちに声をかけられて女の人の方を見る。
一瞬、呼吸すら忘れて捕らわれてしまうような素顔がそこにあった。
走っている間にヴェールが外れてしまったのかもしれない。シニヨンのように複雑に編み込まれた深い紫色の髪、輝く銀色の双眸、そしてつるりとした灰色の肌。額には暗い色のパールがあしらわれたティアラが光っていた。このファンタジー世界においてもそのどれもが現実離れしていて、なんて神秘的なんだろうと息を呑んでしまう。
「不思議、ですか? その、わたくしの容姿が」
「えっ!? あ、じろじろ見てごめんなさい! 不思議とかじゃなくて、その、綺麗だなーって思ってっ。あっ、自己紹介がまだでしたね!? わたしは星見のアヤノです!」
初対面で人の顔をじろじろと見たら失礼に決まってる。自分が恥ずかしくなってしまい、しどろもどろでめちゃくちゃなことを言ってしまう。
しかも綺麗だなって何よ! これじゃ完全に怪しい人じゃん。
思わず一瞬だけ顔を逸らした。きっと今のわたしの顔はめちゃくちゃ赤くなっていると思う。茶化すようにクラゲがわたしの頭に乗ってきたのを感じた。絶対この子人の言葉わかってるでしょ!
そんなわたしたちを見て、女の人は目を丸くするとくすくすとおかしそうに笑った。
き、気を遣われてる気がする……。
そして自分の胸に手を置くと、一度軽く深呼吸してから、ゆっくりとした調子で口を開いた。
「わたくしはステラ。ノクステラの夜巫女、ステラです。このご恩は生涯忘れません。アヤノ様」