地の底には様々なものが吹き溜まる。由来も分からぬ文明の遺跡が瓦礫のように折り重なり、今なお崖より数えきれぬ罪人と病み人の死体が投げ落とされている。
古来より突き落としは処刑の一種であり、死体を残さぬ暗殺にも用いられた。
罪禍と怨嗟の果てがここにある。
狭間の地下に流れる二つの大河。シーフラとエインセル。
そこはかつて栄えた、いくつもの文明の墓場である。
果たして、墓場となる以前にこの河の果てに何があったのか。
拭き取れぬ汚れは隠すほかない。
醜悪な汚れであるほど、美麗とされるもので隠される。
あまたの魂が散った戦場がやがて花畑になるように。
表向きにはそれは鎮魂とされた。
星見の占星術において、命を吸いすぎた土地は死に呪われ、使い物にならなくなる。
死体の残る戦場の跡地にまず現れるのは、死人の皮を剥ぐ忌まわしき神肌の魔人であり、皮を剥がれた肉体の腐汁を吸った大地より産まれるのは、黒き焔を纏う棒で人の臓物を掻き焼く死の鳥である。
美しい花で覆い尽くしても、その地に染み込んだ絶望は消えない。
なれば罪禍と怨嗟を積み重ねた澱みにより覆い隠される穢れとは、いかほどのものか。
聖女トリーナと呼ばれる古の亡霊はその正体を識る。
己が名すらもはや判然としない。真名であるか、偽りであるか、己でもわからないのだ。元いたかもしれない誰かを演じ続けている影法師のようなものである。
かつて、まだ亡霊となり果てる前のトリーナという女は、神を憎悪していた。
今では溶岩のように煮えたぎる怨讐のみがある。
だがその理由さえ、もはや忘れてしまった。
アヤノ、世界の律の外から狭間へ生み出された落とし子。
だからこそ、どこかで期待しているのか。
神の意思と接続して尚、それでも己を取り戻したこの娘が、この狭間をあらゆる神の軛から解き放つことを。
かの星見の人形曰く、この娘の運命は見えないという。
ゆえにトリーナは、ただ傍で見ている。
「ええ───ずっと、一緒にいるわ。とっても勇敢で優しい、私の王様」
遠い未来で、褪せ人と呼ばれる神狩りとその巫女たちは、王たらんと世界に戦いを挑んだ。
※
それからステラさんとはぽつぽつとお互いのことを話した。
ステラさんはこの近くにあるノクステラという街に住んでいるらしく、ちょうど薬に使う植物を集めに出かけたところをあの蟻に襲われたのだそうだ。
こんな地下深くに人が住む街があること自体が驚きだけれど、わたしが地上からここまで落ちて来たことを明かすとわたし以上にステラさんは驚いていた。
「時々ですが……河を流されてあなた様と同じ色の肌をした方々が見つかることがあります。ですが、その……」
ステラさんはばつが悪そうに露骨に目を逸らした。なんとなく、その理由を察する。
「みんな死んでたってことですか?」
「……ええ、そうです。アヤノ様。なので、わたくしもあなた様のような肌をした方とお話しするのは初めてです」
初めてという口ぶりからすると、ステラさんはずっと地下で生きてきたように思える。
トリーナがなんとかしてここまで無事に届けてくれただけで、普通に崖から滑落したらどんな頑丈な人間でも死んでしまうだろう。
生きたままここに来て地上へ帰った人がいれば、地上に繋がる道があるかもしれないと思ったけれど、そう上手くはいかない。
「ええっと、そんな畏まらなくても大丈夫ですよ。わたしたぶん、年下ですし?」
ちなみに14歳です。と付け加えると、ステラさんは手を口に当ててあからさまに驚いていた。
小娘が1人で危ない場所をほっつき歩いてたらそりゃ驚くよね。まあ前世合わせれば30年以上生きてるんだけど……。
さっき一緒に逃げていた時から気づいてはいたけど、ステラさんはわたしよりもずっと背が高い。
身体のラインが出る薄めの革鎧を着込んでいて、細身ですらりとしているのがよくわかる。たぶん180センチくらいあるんじゃないだろうか。
「いいえ、己より若いお方だからといえ、あなた様は命の恩人でございますから」
迷うこともなくきっぱりと言ってのけるステラさんはきっと頑固だ。
助けたといっても成り行きだし、そこまで下手に出られるとこっちも喋りづらいんだよね。
「うう、じゃあせめて様付けだけはやめてくださいっ。お願いします。ステラさん」
『ぷいぷい!』
わたしが上目遣いでできるだけ困ったように言ってみせると、わたしの頭の上を占拠していたクラゲがぽよんと跳ねて同意してくれた。気が合うね~、わたしたち。ステラさんは申し訳なさそうに目線を降ろして小さく息を吐いた。
「そこまで仰るのでしたら……わかりました。では、僭越ながら、わたくしもアヤノさんと」
「ありがとうございます!」
わたしはにっこりと笑って、どこか緊張で強ばったままの灰色の手を取った。金属のように滑らかなのに柔らかく、そして冷たい手だった。ステラさんが少し驚いて目を見開いたのが見えた。
自分のことを取り立てて可愛らしいとは思わないが、わたしだって見た目は14歳なのだ。子供らしくお願いしてワガママを通すくらいのことは知っている。なんだかステラさんを騙してるみたいで逆に申し訳なくなるけれど。
「ステラさん、あの……もうひとつお願いがあるんですけど」
「えっ? ええ! わたくしに出来ることがあれば何でも」
ステラさんははっとしたような顔をすると、取り繕うように早口で答えた。急に手を握ったからびっくりしちゃったのかな。
「その、ノクステラにわたしも連れて行って貰うことはできますか? わたし、ここがどこかもまだよくわからなくて」
「そ、その程度のことでしたら喜んで。寧ろこちらから申し出なければならなかったことです。是非、わたくしたちの街でせめてものお礼をさせてください」
今はとにかく情報が必要だ。地下にもたくさんの人間が生きているのなら、地上に帰る方法を知っている人がどこかにいるかもしれない。
※
どうしてこうなった。
さっきの蟻と出会わないように警戒しながら、ステラさんにノクステラへの道を案内してもらっている途中。
「姉上、ご無事ですか!」
「ノクスの輝ける星光たる王女殿下を攫った狼藉、許しておけぬ。生かしておくまいぞ!」
「正体を現せ! いかに人に化けようと醜悪な姿を隠しているのは分かっているぞ、このおぞましい朱い腐れの尖兵が……!」
突然、ステラさんと同じような白い衣と鎧を纏った武装した兵士らしき人たちに取り囲まれた。皆一様に青白い炎が灯ったトーチを持っていて、まるでホラー映画に出てきそうな幽霊の火の玉のようでぞっとする。
どうやらわたしがステラさんを攫ったということになっているらしい。
どう見ても勘違いだけれど、みんな殺気立っていて、明らかに話を聞いてくれるような状況じゃない。
武器を下ろせと指示されたわたしは、ただ杖を置いて両手を上げることしかできなかった。
助けを求めるようにステラさんを横目で見やると、必死の表情で兵士たちを見回していた。
「違うのです、ルクス、それに皆、武器を収めてください! この方、アヤノさんは蟻に襲われていたわたくしを助けてくださったのです。無断で街を出たのはわたくし自身の意志で、けして攫われたわけでは───」
「姉上! そのような取り繕ったご冗談を我々が信じるとお思いですか! 皆分かっております。そう言えとこの蟲に脅されているのでしょう。ご安心ください。今すぐこの化物の正体を暴きすり潰してご覧に入れます」
背の高い兜に、瞳を隠すように白い前垂れをかけた長身の女性が進み出て、鎌のように湾曲したショーテルをわたしに突きつけた。ぞくりとして思わず後ずさる。ステラさんの表情が固まって、うろたえるように歪む。
「ち、ちが……」
こ、これはなんだかだめそうだ。
「あの、なにか勘違いされてるみたいですけどっ、わたしはれっきとした人間ですよ!」
「生白い蟲けらが、暗銀の肌すらも持たぬ人の娘に化けて我らの目を欺けるとでも? いくら精巧に人型を騙ろうと、お前を叩き潰し臓腑をまき散らせば分かること」
「中身も普通に人間ですってば! こ、殺したら後悔しますよ……!」
「化ける能力には長けていても、所詮は蟲。その口は大して回らないようだな」
話も通じないくせにそこだけ図星すぎてブチ切れそうになる。そうだよ、悪い!? わたしそんな口が上手いタイプじゃないってことくらい、自分でわかってるって。
『ぷいっ!』
いつの間にか足下に移動していたクラゲが、触手を振り回して足元の杖を勢いよくわたしの目の前に跳ね上げた。
ああ、もうどうにでもなれ! わたしは杖を手に取ると振り回しながら大声で唱えた。
「《桜の鞭》!」
花びらの群れを勢いよくぶん回して兵士たちを吹き飛ばす。
ほとんど肉体的なダメージは入らない魔術だ。どれだけ本気でぶっ叩いても命には関わらないから罪悪感も無くて楽!
のけぞって尻餅をついた兵士達が驚愕した声を上げた。
「魔術だと!?」
「そうだよっ!」
そのまま突っ込んでわたしは兵士達の隙間を縫って包囲の外へ。横目でクラゲがついてきていることを確認するとそのまま全力で走る!
この先どうしよう? どうしよう! わたしの口がもっと上手ければ誤解を解けたのかもしれないけど、その前に殺されそうだったし仕方ない!
そして。
「ぐえっ」
『ぷい!?』
お腹に異様な圧迫感を感じて思わず体がくの字型になる。すごい力で逆方向に引っ張られて足が止まる。
銀色の金属質のロープのようなものがわたしにのお腹に何重にも巻き付いていた。
後ろを見れば、吹き飛ばし損ねた兵士の1人が持つメイスの柄が一気に伸びてわたしの胴をぐるぐる巻きにしているのがわかった。そんなのあり!?
「うぐぐぐぐぐ」
しばらくそのまま踏ん張っていたけど、一気にわたしを引っ張る力が強まって尻餅をついてしまう。そして再び兵士たちに武器を突きつけられて取り囲まれた。万事休す。
あのさ、これ本当に殺される流れだよね。うう、助けてトリーナ!
声を上げようとすると、さっきの女性が再びわたしを見下ろすように話しかけてきた。おそらくこの人がリーダー格なのだろう。
「貴様、その魔術をどこで手に入れた!?」
「えっ?」
「その紋章は我らノクスの祖たる、原初たる流星の紋章である。けして腐れの眷属共が扱える代物では無い!」
紋章というのは魔術が発動する直前に浮かび上がる魔法陣のようなもので、例えば星見の魔術とレアルカリアの魔術でも紋章の形と色が違う。発動さえすればその魔術の由来がどこにあるのかある程度推測できるということだ。
ちなみにわたしが作った《桜吹雪》と《桜の鞭》は星見の魔術に属しているらしく、星見の村で教わった他の魔術と同じように、空に一筋の流星が流れるような紋章が現れる。違うのは紋章の色が青ではなく桜色ということだけだ。
レナラはこれを見て、わたしの《桜吹雪》は星の光を変質させて形を変えているだけで本質的には星見の魔術に変わりないと結論づけていた。
『全く理論の違う魔術なら、色だけでなく紋章の形ごと違うものになっているはずよ』
そんな言葉を思い出しながら、わたしは震える口を開いた。
「どこで手に入れたも何も……これは星見の魔術、だけど」
「星見、だと?」
「そうだよ! 星見が星見の魔術を使うのは当たり前でしょ!? ここにいるのも崖から落ちたからでわたしもよくわかってない! それにステラさんとはさっき出会ったばかりなんだってば!」
虚を突かれたような反応をする相手にわたしはヤケクソで逆ギレ気味に言い放つ。そして、
「そ、その通りですっ!」
兵士たちを無理やり押し退けてわたしに走り寄ってきたステラさんが裏返った金切り声で叫んだ。
「わ、わたくしはっ、誰にも伝えず1人で館を抜け出しヘルバ*1を集めに街の外へ出たのです! そのさなかに蟻に見つかり、死を覚悟した時にアヤノさんに助けていただいたのです! 全ては愚かなわたくしが悪いのです! けして攫われたわけではありません! みなさま、お願いですから我が恩人をこれ以上傷つけないでください!」
ステラさんはわたしの隣でうずくまると、そのままさめざめと泣き始めてしまった。
それを見て、兵士たちは明らかに動揺していた。
わたしにショーテルを突きつけたままの女性がぽつりと呟く。
「姉上、なぜそのようなことを……」
「ルクス……わたくしは、いつもみなさまに守られてばかり。朱き腐れどもとの戦いに赴くみなさまを見送ることしかできない! 王女とは名ばかりの何もできぬ偶像に過ぎません」
「幾度も申し上げていますが、姉様はこのノクステラの要。ただいてくださるだけで良いのです! その程度の些事、姉様がやるべきことではありません!」
「でしたら! わたくしはどうすれば良いのですか! 館でひとり安穏と過ごしながら、腐れの侵攻に怯える民や、あなたたちが戦いで死にゆくのをただ見ていろというのですか!? 夜巫女とは、ただ皆の無事を祈っていればそれだけで良いというのですか!? わたくしは……!」
激高したように叫んだステラさんは泣きはらした顔のまま、そのまま顔を伏せてただ肩を振るわせた。
「わたくしは……こんなにも、何も出来ない……」
ステラさんのあまりに取り乱した様子に、誰も言葉を発することが出来なかった。
一瞬の間、ルクスと呼ばれた女性はショーテルを腰に納刀すると、さっきまでの殺気立った様子が嘘のように、静かに口を開いた。
「貴様が星見だというのはまことか」
「あまねく星空と我が師、ゴライアスの名に賭けて誓う」
わたしは絹で隠された向こうにあるはずの女性の瞳をまっすぐに見つめた。
星見たちはその杖を与えられる際、生涯をかけて星光を探求することを夜空に誓い、初めて一人前の星見となる。わたしとレナラ、きっとクラリスもそうだった。
わたしは星見である自分自身が好きだし、そしてゴライアスの弟子であることに誇りを持っている。
女性はその場に膝をつくと、目の前に三つ指を突いて深々とわたしに頭を下げた。
わたしの胴に巻かれていた銀色のロープが解かれた。周囲の兵士達もそれに従い、次々とわたしに対して同じように礼をする。
「我が名はノクステラのルクス。祖を同じくする貴殿に対してこの暴挙、我ら平身低頭を以てお詫び申し上げる!」
「え……?」
急な態度の変化にぽかんとしてしまう。誤解は解けたんだろうか。
よくわからないけど、この人たちは星見のことを知っているみたいだ。
「先に武器を向けた手前、信用できぬだろうが……。姉上がこのご様子ゆえ、一先ず我らと共に来てもらえぬか。客人として丁重に歓待させて頂く故」
「えっと……わかりました。もともとわたしも、ノクステラに連れて行ってほしいってお願いしてたので」
渡りに船の申し出にわたしはただ頷く。ステラさんのことも心配だ。
そして申し訳なさそうに言葉を選びながら言う女性に、わたしはできるだけ柔らかく笑って見せた。
「それに誤解だったのがわかってもらえたなら、大丈夫です! 気にしてませんから、ね?」
傷つくのは慣れている。
もはやあの山嶺の地獄のような戦場で見てきたことに比べれば、このくらい、なんだって許せるような気がした。
「貴殿のその偉大なる慈悲深さに感謝を」
「わたしは星見のアヤノです。よろしくお願いします、ルクスさん」
今度はよどみなく自己紹介することができた自分にほっとする。
※
遺跡が広がる空間から繋がる暗い横穴のひとつを、ルクスさんと兵士達に守られながら進む。
ところどころ、壁や天井に赤い蟻が闊歩していてまた気持ち悪くなったけれど、蟻たちは音に反応するらしく、音を極力発さなければ襲われないとルクスさんから教えてもらった。暗い洞窟に生息しているのだから、言われてみれば当たり前かもしれない。
そういえば、と、わたしがステラさんを助けたときに、浅瀬で音を立てたから蟻に気づかれたことを思い出す。
クラゲは空を泳ぐことすら面倒になったのか、ずっと私の頭の上に居座っている。べつに重くないからいいけれど、なんかどんどん図々しくなってきたような気がする……。
ちらりと隣のステラさんを見ると相変わらず沈んだ表情のままで、声をかけるのもはばかられた。
お互いに無言のまま歩き続けていると、洞窟の向こう側がキラキラと発光するのが見えた。日光を浴びた雪が輝くのに似ている。
そして洞窟を出ると、さっきの遺跡があった場所すら比べものにならない広大な空間に出た。
「わぁ……」
思わず驚嘆の声が口から出る。
現れたのは背の高い塔がいくつも聳え立つ、大小様々な石造りの建造物がいくつもの階段で接続され、なだらかな坂状に積み重なった都市だ。登った1番上にはひときわ大きな大鐘楼があり、どこかロンドンのビッグ・ベンやフィレンツェのジョットの鐘楼のような、ランドマークとしての存在感を感じた。
そのまま天井を見れば、地下にもかかわらずはるか高くに満天の星空が広がり、街に繋がる整備された石造りの街道には青白い光を放つ街灯まで並んでいる。道の両端には街路樹や植え込みまで整えられていて、ついこの間見た薄く光る草木が秩序立って植えられていた。
周囲を見回せば、草木を中心に白銀に瞬く粒のようなものがちらほらと漂っている。目を凝らして見てみるとそれがごく小さいホタルが発する光であることも知れた。
穴の向こう側は幻想的で不思議な世界。『不思議の国のアリス』の主人公になった気分、なんて子供っぽいことを思ってしまう。
そんな妄想をしてしまうくらいにノクステラはこの狭間の地においても幻想的で、どこか浮き世離れした静かさが感じられた。
足を止めてぼうっと見入っていたわたしにルクスさんが振り向く。その口元は少し得意げに歪んでいた。
「此処が永遠の星空を戴く我らの都、ノクステラ。歓迎させていただく。アヤノ殿」
『ぷぷーい!』
わたしよりクラゲの方が興奮していた。わたしの頭からぱっと離れてそこら中をびゅんびゅんと飛び回っている。クラゲにもこういう景色を楽しむ感覚とかあるんだね……。
街道を歩き、街への大門に繋がる石橋の手すりから、街を取り囲むように敷かれた透き通った水路を覗きこむ。青白い光に照らされた地下水の透明さはどこか引き込まれそうな迫力があり、足下が浮き上がるような気持ちになって背筋がぞわりとした。
金属製の大きな門扉が開かれて、青白い光でほのかに照らされる街並みを歩く。
相変わらずクラゲは興味深げに、そこらじゅうの建物の周りを興味深げにヒュンヒュンと飛び回っていた。
「あまり離れすぎないでね? 迷子になっちゃうから!」
『ぷぷーい』
心配になって呼びかけてみると、クラゲはひらひらと触手をこちらに振るとまたすぐ明後日の方向へ行ってしまった。絶対これ適当にあしらわれてるやつでしょ……。
小さくため息をつく。
すれ違う人たちはみんな一様につるりとした灰色の肌をしていて、絹のような白いゆったりとした服を身につけていた。世界史の授業でやった古代ギリシアやローマ人がこんな恰好をしていたっけ。
それにしても、嫌でも目線が気になる。
すれ違う街の人たちがみんなこちらを見てくるのだ。違う色の肌を持つわたしの見た目が珍しいだけだと最初は思ってたけど、わたしを通り越して横でうつむき加減に歩いているステラさんにも視線が集まっているのがわかった。
それも、とても尊敬に満ちたものだ。ステラさんの方を見て手を祈るように合わせて礼をしている人を何人も見かけた。
ステラさんはとても敬われている人なんだろう。ついさっき兵士の人たちに取り囲まれた時、王女殿下なんて言われてたことを思い出す。
であれば、ノクステラのお姫様ということになる。
顔立ちを見て神秘的なものを感じた理由はそれなのかもしれない。
ただその割に、ステラさん自身の自己肯定感が異常に低いように見えたけど、大丈夫なのかしら……?
そこまで考えて、わたしはううんと首を振る。
ダメだな。人の家の事情を邪推してもいいことなんてない。わたしはまだこの場所のことを全く何も知らないのだから。
※
そのまま大通りらしき広い道を抜け、いくつもの階段を登り、やがて立派な門扉が取り付けられた、高い塀に囲まれた一際大きな館の中にわたしは案内された。
ステラさんもここに住んでいるみたいでエントランスまで一緒だったけれど、待ち受けていた侍女の人たちがあっという間に別の場所に連れて行ってしまった。
いま、わたしはルクスさんに先導されるように静かな館の廊下を歩いている。いくつもの扉が壁に取り付けられた青白いランプの炎に照らされていた。
クラゲははしゃぎ疲れたのか、またわたしの頭の上で大人しく寝そべっている。
ひとつの扉の前で、ルクスさんが立ち止まってこちらを振り向いた。
「アヤノ殿。寝食に関しては心配要らぬ。滞在中はこの部屋を自由に使って貰って構わない。食事に関してもこの部屋へ持ってこさせよう。ただ、異人の口に合うかどうかわからぬ。もし気に入らねば別の物を用意するよう手配する」
「えっと、ありがとうございます。何から何まで」
「気にせず、大いに寛いでくれ。むしろ頭を下げなければならないのはこちらの方だ」
ルクスさんは気まずそうに苦笑いした。わたしに剣を向けてきた時の雰囲気は既にそこにはない。
「あの……どうしていきなりわたしの言うこと信じてくれたんですか?」
「我らノクスの民の祖はかつて地上に流れる流星を見上げ、満天の星空を隣人として尊んでいた」
「それって……」
「そう、星を見る者たち、ゆえに星見と彼らは呼ばれていた。流星の紋章を持つ貴殿もまた我らが同胞である。良ければ改めて地上での話を我らに聞かせて欲しい。地上に生きる星見の話など、地下に囚われた我々にとっては遠い祖先の話であるのだから」
「地下に、囚われた?」
なぜこんな地下深くにノクステラのような大きな都市があるのか。その理由はきっと良いものではないのだろう。
ルクスさんはわたしから視線を外して、一瞬だけためらうような様子を見せた。
「……我らノクスの民は初めから地の底にいたわけで無い、ということだ。偽りの夜空の元に停滞を続ける我々には、現状を打開するための王が必要なのだ。姉上はノクスを率いる永遠の王となるべく生を受けた貴き御方。我らの希望。だからこそ、何に替えてもお守りせねばならなかったというのに。───済まぬ、これもまた貴殿に武器を向けた言い訳になってしまうな」
ルクスさんと別れて部屋に入ると、思った以上に大きな部屋が広がっていた。
正面には壁がなく、オープンになっている細長いバルコニーには丁寧にカフェテーブルとチェアのセットが置かれている。その向こうにはノクステラの景色と星空が一望できた。
部屋の中には書斎に置かれるようなデスク、わたしの体格には十分すぎるほどの大きめのベッド、ソファのような造りの背もたれ付きの長椅子とローテーブルまで備え付けられている。
とてつもなく豪華な部屋に見えたけれど、ただひとつ問題がある。
「全部石造りじゃなければよかったんだけどね……」
見ただけで冷たくて硬そうなのがわかる。
敷かれた白い滑らかな布越しにベッドに腰掛けてみる。予想通りめちゃくちゃ硬かった。
これは慣れるのに少し時間がかかりそうだ。
厚意で用意されてるものに高望みするのもどうかと思うけれど、しばらく身体がバキバキになりそうでほんの少しため息が出る。
なんだか落ち着いたらどっと疲れてしまった。
ゆっくりとベッドに横になると、布越しでも頬にひんやりとした石の感触がある。
何もかも、わからないことばかりだ。
トリーナは貴女次第、なんて言っていたけど、わたしは本当にみんなのもとへ帰れるのだろうか?
『直ぐに答えを求め他人に頼ろうとするな。思考を停止させるな。魔術の追究において孤独な思索を退けるのは凡夫以下の愚者のすることよ』
嫌でも、ゴライアスからそうたしなめられたことを思わずにはいられない。
今日だって、ろくに考えることもなくトリーナにまた頼ろうとしてしまった。
結果的になんとかなったけれど、わたしの口がもっと上手ければルクスさんたちと穏便にわかり合えたかもしれないのだ。たまたま今回はうまく行ったね、よかったね。それじゃあ、だめだ。
「わたし、レナラに頼ってばかりだったなぁ……」
思えば、この世界に産まれてからひとりになることなんて今までなかったな。
産まれたときからわたしはレナラと一緒に生きてきたのだ。
ふと、心が寂しくなる。自分の力ではどうにもならない時に助けてくれたのはいつもレナラだった。レナラが隣にいたから、今まで適当でもやってこられたのだろうと。
レナラ、クラリスとボルスさん、そしてゴライアスと食事を囲む光景を思う。
できたら、そんな生活がずっと続けばいいと夢見た。
でも、この現実において今、わたしは、ひとりだ。
孤独であるなら、自分自信で考えて行動し続けるしかない。
そして、家に帰るのだ。
『ぷぷい、ぷい』
クラゲが横たわったわたしの目の前に現れて、何かを伝えるように鳴いた。
「……ごめんね、あなたもいたよね」
力なく笑いかけて触手の1本に人差し指を絡ませると、不思議と人肌のような温度を感じて、少しだけほっとする。
「そういえば、あなたに名前付けてあげなきゃね」
『ぷい?』
起き上がって正面から話しかける。
わかっているのかいないのか、クラゲは傘を傾けて、2本の触手を目の前で組んで考えるような素振りを見せた。知ってたけど表現がやたら多彩なクラゲだと感心してしまう。
「うん、名前。クラゲって呼ばれるのも嫌でしょ?」
『ぷぷぷい、ぷらら』
「何がいいかな、うーん。花の名前とかだと可愛いのかな」
『ぷらら』
「スイレンだとなんかトリーナみたいだし……それに白いもんねえ。マーガレットとかスズランとか……」
『ぷらら』
「あっ、フランネルとかあなたみたいにふわふわしてて可愛いよね。どう?」
『ぷらら』
いい感じの名前かも! なんて思いつきで1人でささやかに盛り上がっていると、触手で軽くべしっと頭を叩かれた。なんで?
「あ、ごめん、もしかして気に入らなかった?」
『ぷ・ら・ら』
クラゲは何かを強調するように声を上げた。なんとなくわたしはその意図を理解した。
「……もしかして、元々そういう名前があるの? プララって」
『ぷい!』
肯定するようにクラゲがその場でくるりと回った。
元々誰かに飼われてたのかしら。そう考えたら人間と意思疎通できて最初から人懐っこかった理由も分かる気がする。
それにしてもプララって……なんか回線みたいな名前だなあ。日本ならそういう柔らかい感じの名前付ける人もいるだろうけど、狭間の地でそんな名前付ける人いるんだねえ。
「じゃあそれでいっか。これからよろしくね、プララ!」
『ぷぷぷい!』
プララはわたしの頭の上にふわりと乗っかるとわたしの頬を触手でこちょこちょと掻いてきた。
「ちょ、くすぐったいってば、やめてよ~」
『ぷぷぷ』
自然とくすくすと笑う。
帰れるかすらまったく見通しが立たない不安の中で、強ばっていた自分の表情と心が、少しだけ和らぐのを感じた。