ライスシャワーお姉ちゃん【完結+おまけ不定期】 作:稗田之蛙
悪夢から這いずり出るまどろみの中、ひたひたと頬に誰かの指がそっとあてられる感覚がする。
……最初は夢の中の出来事かと思ったが、徐々に意識がはっきりとしてくるにつれてその指の感触を現実のものだと認識した。
私がうっすらと目を開くと、そこにはライスシャワーの姉さんがいた。どうやら彼女は私の頬を拭うような仕草を繰り返していたらしい。
「ご、ごめんなさい……泣いてたみたいだから……」
私は上体を起こす。嫌な夢を見ていた事もあって、頭が少しフラフラする。
窓から差し込む月明かりの中で時計を見ると、まだ3時。初日の出まではまだ時間がある。……私が寝ている横で、彼女はずっと起きていたのだろうか?
そう思いながらも、目尻を拭う。確かに濡れていた。ライスの姉さんは不安そうに私の顔を見つめている。
「大丈夫ですよ。ちょっと怖い夢を見ていただけですから」
私がそう言って安心させる為に笑みを作るが、ライスの姉さんは身を寄せて、そのまま抱きしめてきた。唐突である。
「……姉さん?」
彼女の腕が私の身体に触れる。彼女の身体の熱が伝わってくる。私の体温と混ざり合っていくのを感じる。
「大丈夫……もう大丈夫だからね……」
ライスの姉さんは、私の耳元で囁いた。その声は震えているように聞こえた。私は彼女の背中に手を回すと、子供をあやすようにとんとんと軽く叩いた。
「……」
彼女の様子を眺めていると、頭の中で『打ち明けた方がいい』と誰かに諭されてる気がした。
しかして、どのように説明すればいいだろうか。何ら証拠もないのだから、どう説明しようが、単なる妄想と一笑に付されるだけかもしれない。
……ならば話す意味はないのではないか? このまま曖昧にして放っておけば、誰も傷つかないじゃないか。私は自分にそう言い聞かせ納得すると、ライスの姉さんの背中を撫でようとした。
「ライス……ライスね……もう走るのやめる……」
しかし、それは間に合わなかった。姉さんの口からポツリと呟いた言葉に、私は手の動きを止めるしか出来なかった。聞き捨てならない言葉だったからだ。
「なにを――そんな気弱な言い方、ライスの姉さんらしくない……春天も、宝塚も全部乗り越えて……みんなから認められて、もうヒールだなんて貴女をなじる人はいない……そんな要因なんて……」
私の言葉尻は萎んでいった。姉さんの身体が小刻みに震えている事に気付いたからだ。
「……違うの……そうじゃ、ないの……」
絞り出すような、苦しそうな声だった。まるで嗚咽を抑えているかのようにすら思える声で、姉さんは私に縋り付くように身を寄せてきた。
「貴女が……貴女がずっと――特に宝塚記念に挑戦する直前辺りから――……ライスに『もう走るのをやめてほしい』って態度を取ってるの……気づいてて……」
彼女はそう言うと、私の胸に顔を押し付けるように強く抱き締めてくる。その身体は小刻みに震えていた。
……ライスの姉さんの指摘は、事実だった。
なにせ、ライスシャワーの姉さんは私が知っている通りに全戦全勝だったミホノブルボンさんを討つ形で菊花賞を勝って、化け物じみた成績のマックイーンさんも打倒する形で春の天皇賞を勝って……。
だから私は、ライスの姉さんが宝塚記念に望む事に抵抗を感じていた。
夢に見た通りの結末になるのではないかと、不安だったから。
――結果からいえば、それは杞憂だった。それは理解している。
だからこれは、彼女に対する裏切りなのだと理解した。自分の感情を優先して、彼女に不安を覚えさせたのだから。
「……貴女が見てた怖い夢っていうのも、それに関するものなんじゃないかって考えたら、ライスはもうっ……」
彼女の声が涙声に変わる。
私は、ライスの姉さんを抱きかかえると枕を頭に布団へ寝かせるように横たわらせた。
涙が一旦止まり、きょとんとする姉さんの右手に、自分の左手を絡めるように重ねて、私は小さく息を吸い込み……覚悟を決めた。
「そうです。いつかライスの姉さんがレース中に事故に遭うんじゃないかって、怖かった。特に宝塚記念では、それが一層強くなった」
「でも……その万が一起こらないようにトレーナーさん含めたみんなが気をつけてくれてるし……それに、その可能性はライスに限った事じゃ……」
とはライスの姉さんが言うものの、一つの事実としては。マックイーンさんに打ち勝つ為に文字通りの『死力』を尽くした。その後にしばらく調子を崩したのは、その反動だった。
「……それでも、私は貴女を失いたくない」
それは他の皆にとっても同じだろうが、本心を伝える。
「でも、それと同時に、心待ちにしていた。宝塚記念を無事に乗り越えてくれる事を。ドリームトロフィーリーグまで、走り続けられる事を」
自分勝手な願いだと、理解はしているつもりだ。だから敢えて口にした。
「貴方が怪我をする心配は拭いきれない。でも貴女が走りたいままに走るサマを眺めてもいたい。どちらも私の本心で、これは私のエゴです」
だから私の態度を許せ、とは言わない。私はこれからそれを改めようと努めるべきだし、なんなら姉さんの前から消える事だって考える。
……沈黙が続いてから数十秒後だろうか。彼女が口を開いたのは。
「ライスは……」
姉さんは、繋いでいない方の手を私の頬に添えてくる。
「……ライスは、走るのが好きだよ。ライスが走る事で喜んでくれる人がいるって、知ったから」
そして彼女は小さく微笑んだ。月明かりに照らされたその顔は、美しくもあり儚くもあった。
「小学六年生。貴女が五年生。マルゼンスキーさんのグッズを一緒に買いに行く途中でお食事してる時……壁掛けのテレビ中継で菊花賞の実況が映ってて、一着を獲ったウマ娘さんがまるで悪者みたいな事を言われて……ライスはとても、とっても怖くなった」
………それを言われて、頭の中でおぼろげながらに思い出す。当時の菊花を勝利したのは、マルゼンスキーさんと同世代の『銀髪鬼(ヒール)』だったか。多くの人から勝ちを望まれなかった、菊花賞の勝者。
「ライス……その時、トレセン学園に入学するのをやめようとさえ思ってた……ライスが勝っちゃったら、誰かを不幸にするんじゃないかって……そのウマ娘さんの状況が、まるで自分の事のように感じてた……」
彼女は繋いだ手を、指を絡めるように握り返してきた。
「そんな時に……貴女が、気遣ってくれた……そのウマ娘さんも気遣ってくれる人達、喜んでくれる人達が大勢いる事にも気づいて、ライスも立ち向かおうと思った……」
姉さんは頬に添えた手を頭に回して、私を優しく撫でる。
「……貴女は言ってくれた。『だって、姉さんみたいな素敵な考え方で走れるウマ娘が活躍してもらえたら、私みたいな年下にとっちゃ夢があるじゃないですか。だから、応援してます』って……ライスも、夢を届ける為に、走ろうと思った」
彼女の独白は続く。私はそれを黙って聞いていた。
「――今考えれば、あの時の貴女は、菊花賞で一着を獲ったそのウマ娘さんみたいに、『将来はライスが菊花賞に勝って、同じように残念がられる』って知っていたように思えるの……ライスの言ってること、当たってるかな……?」
「当たってます」
私がそう答えると、彼女は小さく息を吸う。
「そっか」
彼女は心のつっかえが少し取れたような面持ちになったかと思えば、じょじょに頬を赤らめて、私の頭を撫でていた手が離れていく。
……うん? 私、変な事言ってないよな?
「……えっと……この前ライスの方からやっちゃったけど……お布団の上で押し倒される方って……なんだか、とっても恥ずかしいね……」
ずっと腕を上にあげていたせいか、姉さんの衣服は肩の部分がはだけている。
そこから見える素肌は仄かに紅く染まっていて、月明かりを浴びて光沢すらあった。
…………うん? 肩にストラップが掛かってないって事は、これって……。
「うぅん……」
余所の布団から、母さんの寝言が聞こえ、私も姉さんも「ビクッ」と身体を震わせる。
私はそそくさと、衣服のはだけている部分を整えるように引っ張った。
「あ、ありがとう……」
姉さんは顔を赤くしながら、体を起こす。
私達は、しばらく気まずさからお互いの顔を見る事ができなかったが……先に口を開いたのは姉さんだった。
「……初日の出、見に行こっか」