ライスシャワーお姉ちゃん【完結+おまけ不定期】 作:稗田之蛙
『だいじょーぶ? 怪我はない?』
遠い過去に聞いた言葉を、今でも覚えている。
その時に感じたときめきは嘘ではなく、私にとって初恋の想い出。
夏空の暑さに混じる清涼さを、車に轢かれそうになった私を助け出した手のひらの温かさを、生涯忘れる事はないのだろう。
ウマ娘に生まれて、男の子に恋をするという感覚。高鳴る心臓の音。
胸が締め付けられるように苦しくも、きゅっと気持ちよくなる心地よい感覚。
私は、それに身を委ねていたかった。
「――おーい。おーい……」
間延びした声が、私をまどろみの中から引きずり出そうとする。まだ起きたくないので無視してそのまま眠り続けようと瞼を閉じていると、突然頬をなぞられた感触が走る。
「…………」
くすぐったさに身を捩らせると、更に二度三度と同じ感覚が襲ってきた。それがどうにもくすぐったいだけではないような気がしてきたので、さすがに観念して目を開ける事にした。
うっすらと目を開けると、隣の席の人物がそんなイタズラをしている事が分かった。
「……だいじょーぶ? もうすぐ授業始まるよ」
「始まったら起こして」
隣の席に座っている彼女にそう言い残して、私はまた眠ろうとした。
「またそんな事言って」
隣の彼女は呆れながらも、また私の頬に手を伸ばしてきた。今度は指先ではなく、手のひらで優しく撫でるように触られる感触。
まるで猫か犬を愛でるような撫で方で、少しくすぐったい。
……私はそれを咎める事なく、むしろもっと触れて欲しいとすら思った。だから寝たフリを続けようと瞼を閉じようとするのだが、丸められた紙束で頭を軽くポンポンと叩かれた。
「授業始まるから起きなさい」
とは、前の席に座るキングヘイローの声。顔をあげると案の定というかなんというか、呆れた目でこちらを見ていた。
私の隣の席からは、小さな笑い声が聞こえたような気がした。
――恋人、ほしいなぁ。
授業を終えてから、ふとそんな事を思った。
…………別に変な意味じゃない。特別な理由があったわけでもない。ただ単純に、そう、ただ何となくそう思ってしまっただけ。
隣の席に座っているセイウンスカイの方をちらりと見る。彼女は相変わらずやる気なさげに授業を受けているものの、ノートに書かれた板書の内容は意外としっかりしているように見えた。
そんな彼女が隣にいるからか、自分も真面目に勉強しようと思えてしまうのだから不思議だ。
「……最近、ライスさんとはうまくやれてます?」
彼女の横顔に見とれていると、不意に問いかけられてしまった。セイウンスカイとはそれなりに長い付き合いになるが、ライスの姉さんの事に関して問われた事はあまり多くない気がする。
彼女の言葉は、いつものようなからかうような調子ではなく、どちらかというと心配するような声色をしていた。
「仲直りしたよ。ちゃんと」
そもそも不和などなかった、とは言わなかった。セイウンスカイは私の顔を見ると、安堵の表情を見せた後、安心したのかいつもの笑みを浮かべていた。
「昔から人付き合いへたっぴだからねー……ディオスちゃん」
否定はしない。
「誰か好きな人とか居ないの? ほら、この前ラブレターの時に話題になったじゃない?」
その言葉が少しだけ胸に刺さる。
今まで恋愛経験なんて皆無だし、セイウンスカイ相手だとどう答えていいか分からず、黙り込んでしまう。
「あ、その顔はいるね?」
したり顔でニヤつくセイウンスカイ。
私は逃げるように窓の外へ視線を向けた。
空は青空が広がっていて、雲一つない快晴が広がっている。
視線をグラウンドに向けると、トレーニングに励む生徒達の姿が見える。走り込み、筋トレ、併走、タイム測定……それぞれのメニューをこなしている。
その中には、見慣れた長い黒髪が揺れているのが見えた。ライスの姉さんだ。
……そういえば、ライスの姉さんも恋人はいるんだろうか。
なんだか胸がざわついて落ち着かない気分になってしまったので、気持ちを落ち着かせる為に大きく深呼吸を繰り返すことにした。
そうして何度か深呼吸をしていると、セイウンスカイは私の様子を眺めながらぽつりと呟いた。
「……ライスさんはやめといた方がいいとセイちゃんは思います」
突然の発言に、思わず咽せてしまった。
私は咳き込みながら、なんとか呼吸を整える事に集中する。その間にも、セイウンスカイは言葉を続ける。
「だってさ、きっと“競争率”すっごく高いよ。卒業したら、ステキでお金持ちの男の人達が言い寄ってくるに決まってるって」
肩を竦めるようなポーズを取るセイウンスカイは、そう言っておどけて見せた。だが、その表情に冗談めいた雰囲気はないように思えた。
「ライスの姉さんとはそういう関係じゃない」
私がそう言うと、セイウンスカイは意外そうな表情を浮かべた。
「そう? 二人して隠れるように抱き合ってたり、寝言でライスさんの名前呟いてる時があるから、てっきり」
――そんな事はしてない、はず。
顔が熱くなるのを感じながら、誤魔化す様に咳払いをして目を逸らした。セイウンスカイの方も、きっとニヤニヤと笑っているはずだ。
「……ま、誰を好きになろうと、セイちゃんには関係ないんですけどね」
実際問題、誰が誰を好きになろうが大半の人には関係ない話だ。
ライスの姉さんが素敵な男性とお付き合いする事になったとしても、私には祝福する事しかできないだろう。
それは少し寂しい事だけれど、喜ばしい事でもあると思うのだ。だって、親戚が人並みの幸せを手に入れる事ができているという事なのだから。
「お互い早く恋人ができたらいいな、と思いませんか」
休日にライスの姉さんと二人っきりになった折、私はそんな当たり障りのない言葉を口にした。
ライスの姉さんは、きょとんとした表情で私を見つめていた。それからしばらく沈黙が続いた後に、彼女は顔を小さく横に振る。
「そう、かな?」
どこか自信なさげな様子の彼女に、私は言葉を続けた。
「だって、わたし男の子と付き合った経験一度もないんですよ。この調子だと成人しても一人身のままかも」
私は自嘲気味に笑ってみせた。ライスの姉さんも、それをおかしそうに笑う。
「それをいったら、ライスも似たようなものだよ~」
二人でモテない事を自虐的に笑い合う。ライスの姉さんはモテそうなものだが、本人が気づいていないだけなのかもしれない。
「はは、同年代くらいの、カッコいい男の子とかがナンパしてきたらどうしますか」
なんとなく聞いてみた質問だった。すると、ライスの姉さんはキョトンとした表情を浮かべてから、真面目に考え込む仕草。
そして、しばらくしてから口を開く。
「う~ん……ど、どうすればいいんだろう……?!」
困ったように眉を寄せながら、真剣に悩んでいる様子だった。
その様子が可笑しくて、ついつい笑ってしまう。本当に、その手の事に疎いらしい。
「ふふ、ごめんなさい。困らせるつもりはなかったんです」
ライスの姉さんは、私の『嘘』に気がつくと、頬を膨らませて拗ねたような顔をした。
それがまた可愛くて、余計に笑みが溢れてしまう。
「……じゃあ、ディオスさんは。とっても格好良い男の人に告白されたら、どうするの……?」
今度は逆に質問をされてしまった。私が困る番だ。
もし仮に、私が男性に言い寄られた場合、私はどうするのだろうか。
「きっぱり断りますね。『勉強や練習で忙しいからそんな余裕ない』――って」
案外、即答出来た。自分でも驚く程に。
それを聞いたライスの姉さんは、困ったように苦笑していた。
「あはは……ライスも、やっぱり断っちゃうかも。絵本の中の、とっても格好良い王子様みたいな人が迎えに来てくれたとしても……」
ライスの姉さんはそう言って、小さくため息をついた。
――あぁ、これはお互いに、当分は恋愛経験ゼロのままだろうな……。
多少失礼な事を考えながら、私は苦笑しながら黙り込む。
「――でも、ライスはそれでもいいかな」
ライスの姉さんは、ふとそんな事を言った。
彼女の言葉の意味が分からず、私は首を傾げる。
ライスの姉さんは、照れたように頬を掻きながら、はにかみ笑いを浮かべていた。
「だって、恋人さんが出来たとしたら、その人と遊びに行く機会があるだろうし。そうしたら、マックイーンさんとこっそりスイーツ食べにいける機会が減っちゃうだろうし……」
つまりは、恋路よりも友情というわけか。なんとも彼女らしい考えだと思った。
「あとは、ブルボンさんと一緒に練習したり、ウララちゃんと、レースで楽しかった事をお話したり……」
広げていた手を、誰かの名を挙げる毎に指折り、楽しそうに話すライスの姉さんの姿は、まるで幼稚園であった出来事を母親に話す幼子のようだと思った。そんな彼女を見ていると、自然と笑みがこぼれてくる。
そうして、最後の一つの指を折る時、ライスの姉さんの表情が僅かに紅がさした気がした。しかし、すぐに笑顔に戻る。
「それと、あとね……えっと……うぅん」
何か言いかけたライスの姉さんだったが、その口から続く言葉は出てこない。
彼女は恥ずかしそうに俯くと、そのまま黙り込んでしまった。
どうしたのだろうと思って、声をかけようとした時、ライスの姉さんは小さな声で呟いた。
「こうやって休日で一緒にいられる機会……少なくなっちゃうから……」
その言葉に、胸がきゅっと締め付けられるような感覚がして、思わず息を呑んだ。
頬が熱くなり、口元が緩むのを感じる。それを悟られないように、慌てて顔を背けた。
「ふふっ……」
笑む音が聞こえた。してやられた気がする。先の仕返しか。
恥ずかしさを誤魔化すように咳ばらいをすると、気持ちを落ち着けるために深呼吸をする。それから、横目でちらりと様子を伺った。
ライスの姉さんは私の様子を眺めながら、くすくすと小さく笑っていた。なんだか悔しくなってしまい、私は再びそっぽを向いた。
それからしばらく無言の時間が続いた後、ライスの姉さんはぽつりと呟くように言った。
その言葉は、時間を置いて耳に届く。
――いつか、好きな人ができて、恋人が出来ちゃったら、こんな風に過ごす時間も減るんだろうね。
それは、とても寂しい事のように感じた。
けれど、ライスの姉さんには、きっと素敵な恋人ができるはずだと。優しくて、強くて、格好いい男性が、きっと現れるはずだと。
そうして、彼女には幸せになってほしい。
「…………」
そうは思えど、やはり寂しさは拭えなかった。
そんな未来が来るかもしれないと考えるだけで、胸の奥が苦しくなるような感覚を覚え始めている。
私が黙っていると、ライスの姉さんは両手で私の手のひらを握り締めていた。
突然の行動に驚いていると、ライスの姉さんは真っ直ぐにこちらを見つめてきた。
「だから……今の内にたくさん、一緒に居たいな、って……」
その瞳に射抜かれたような気がして、身体が硬直してしまう。
言葉が出ず、ただ黙って見つめ返す事しかできない。
私が固まっている間にも、彼女は私の手を取りながら、それと同時に私の頭を撫でながら、言葉を紡ぐ。
「こうやって、頭を撫でたり、撫でられたり……一緒にご飯食べにいったり、『ライスママ』って甘えられたり……太っちゃった時は、お腹を撫でてじゃれあったり……」
優しい声色で紡がれる言葉の数々に、私の胸はどんどん高鳴っていく。ドキドキという鼓動の音が耳の奥で響いているような気がした。
なんだか、後半につれて情けない気持ちも入り交じってきて……私は肩を縮こめる。
ライスの姉さんの手が頭から離れると同時に、私は顔を伏せて項垂れてしまった。
「……ディオスさんは、好きな人いる?」
その質問に、私は顔を覆いながら答えた。
「ライスの姉さんの事は好きですよ」
それを聞いたライスの姉さんは、嬉しそうに微笑みながらも、首を小さく振る。
「ううん、そういう事じゃなくて……その、恋愛的な意味で好きな男の人とかいないのかなっ、て思って……」
私は顔を俯かせたまま、黙り込むしかなかった。
『だいじょーぶ? 怪我はない?』
小学生時代。トラックに轢かれかけた時に、助けてくれた一目惚れの相手の言葉を思い返して、カッと顔が赤くなる。
「いま、せん……」
消え入るような声で答えると、ライスの姉さんは嬉しそうに頷いた。
「そっかぁ、じゃあ、もうちょっと長く続けられそうだねっ」
ライスの姉さんは喜ぶままに、私の頭を撫でてくる。
完全に子供扱いされているようで恥ずかしいのだが、何故か心地良く感じてしまい、されるがままになってしまうのだった。
ただ、少なくとも卒業するまではこの関係が続きそうで。私は安心すると共に、心地よかった。
……そして何故か、ちくちくと胸が痛んだ。