このままモチベがある内に行ける時にペース早めて頑張ります。
見てくださってる方達、マジでありがとうございます。
いつも感謝してます。
スパナチュこんな早い段階で兄弟仲ギスギスしだしてんだな…
中央怪異対策機関の本部は、昼間でもどこか薄暗い。
廊下には人の気配がある。
営業の職員が資料を抱えて行き交い、どこかの部屋から電話の声も聞こえてくる。
それでも怜には、その建物全体が静かに沈んでいるように感じられた。
普通の会社や役所とは違う。
壁の向こう側に、表へ出してはいけないものを抱え込んでいるような重さがある。
そして木庵の部屋も相変わらずだった。
机には報告書が積まれ、灰皿には吸い殻が溜まっている。
窓は少しだけ開いていて、そこから入る風がタバコの臭いを薄く外へ逃がしていた。
怜は椅子に座っていたが、膝の上に置いた手が落ち着かない。
今日は木庵に呼ばれてここに来た。理由は聞かされている。
自分の中にいる怪異を制御する為に、別の祓い屋に会わせる、と。
怪異を制御して戦っている祓い屋。
その言葉だけで、怜の胸の奥は落ち着かなかった。
自分と同じなのだろうか。違うのだろうか。
地縛荒神の時、自分の身体が自分ではなくなった感覚を思い出すと、指先が冷える。手を握っても、その冷たさはなかなか消えなかった。
木庵は椅子にもたれ、タバコを咥えたまま黙っている。
緊張している怜へ気休めを言うでもなく、説明を重ねるでもない。
いつものようにそこにいてタバコを吸っているだけだった。
だが怜にはそれが少しだけ助かった。
変に励まされるより、木庵がいつも通りでいる方がまだ過ごしやすい。
扉が叩かれた。
「入れー」
木庵が短く言う。
扉が開き、一人の男が入ってきた。
緑のフード付きチェスターコート。迷彩柄のパンツ。
話を聞いていたイメージから、もっと年上の人間を想像していた。
だが目の前の男は木庵や宗近よりずっと若く、由香に近い年齢に見えた。
男は木庵を見ると、軽く頭を下げた。
「環さんに言われて来ました」
「来たか」
「来たか、じゃないんすよ。昨日の夜に中級一匹祓ったばっかなんですけど」
「暇だろ」
「そういう問題じゃなくて」
洸太はそう言いながら木庵に文句を言う。
木庵は洸太の言う事を無視してタバコの灰を落とし、怜へ視線を向ける。
「篠山。こいつが猿渡 洸太だ。環の弟子で、憑依体質を制御して戦ってる祓い屋だ」
怜は慌てて頭を下げた。
「篠山 怜です。よろしくお願いします」
「よろしくな」
洸太は短く返し、怜を見る。
その視線は遠慮がない。
顔を見るというより、もっと奥を探るような目だった。怜は思わず背筋を伸ばす。
「話は聞いてる。木庵さんの所の新人で、最近実戦に出始めたって」
「はい」
「後、中に何かいるって話も」
その言葉に、怜の喉が小さく動いた。
隠す必要はない。今日呼ばれた理由はまさにそれだ。
だが面と向かって言われると、自分の中にあるものが急に重くなる。
木庵が煙を吐く。
「境遇は違うがこいつは怪異を外から降ろす。お前は中にいるモンを抑え込んでる。だが、身体を取られそうになる感覚とかその辺りは参考になる筈だ」
洸太は怜を見たまま、少しだけ表情を曇らせた。
「俺のやり方がそのまま使えるとは思わない方がいいぞ。俺の場合、相手は狒々王っていう怪異で、仮面を通して段階的に降ろしてる。アンタの場合はもう中にいる。そこは全然違う」
「それでも呼んだ」
木庵が言う。
洸太は小さく息を吐いた。
「でしょうね。環さんも木庵さんも、無駄な事なら俺呼ばないだろうし」
そこまで言うと、洸太は怜へ向き直った。
「だからまず見る。どの程度反応するのか。怖かったら怖いって言ってくれ。でも止めるかどうかは木庵さんが決める」
怜は一瞬だけ木庵を見る。
木庵はいつも通りだった。
「死にゃしねぇよ」
「……それ、安心していい言葉ですか」
「少なくとも今日はな」
怜は少しだけ息を呑んだ。
数分後、3人は本部地下の訓練場へ移動していた。
訓練場は広かった。
壁も床も無機質なコンクリートで、部屋全体に結界術式が刻まれている。
普段なら人の声や訓練用の道具が鳴る音があるのだろうが、今日は静かだった。ここが安全な場所だとは思えない。怪異に対抗する為に作られた場所というだけで、空気が少し違う。
怜は訓練場の中央近くに立つ。
少し離れた位置に洸太。
木庵は壁際へ移動し、タバコを咥えたままこちらを見ていた。完全に立会人の位置だ。
洸太は腰のポーチから古びた仮面を取り出した。
赤黒い術式が刻まれた、狒々王の仮面。
それを見た瞬間、怜の肌が粟立つ。その仮面の奥に何かがいると分かる。
「まずは少しの力でいくから。狒々王の圧だけ少し出す」
洸太は仮面を顔へ当てる前に、怜へ一度だけ確認するように目を向けた。
「篠山、無理なら言ってくれ」
「……はい。大丈夫です」
怜が頷くと、洸太は仮面を顔へ当てた。
「――変身」
空気が変わった。
訓練場の床も壁もそのままだ。それなのに、怜には一瞬、深い山の底へ引きずり込まれたような錯覚が走った。
耳の奥で低い唸りが鳴り続ける。
湿った土と獣臭が肺の奥まで入り込み、見えない何かが肩へ覆い被さる。遠雷の前触れではない。山そのものが息を潜め、巨大な獣が目を開く直前のような圧だった。
洸太の身体から、赤黒い雷にも似た瘴気が滲み出る。その瘴気は揺らぐたびに空気を軋ませ、訓練場全体へ重い振動を広げていた。
『ギャハハハハハ!!』
笑い声が響いた。
その声は頭蓋の内側を直接掻き回すような濁った轟音だった。
鼓膜ではなく神経へ流し込まれる笑声に、怜の背筋が総毛立つ。
胸の奥が勝手に縮み上がり、身体が本能的に距離を取ろうとする。
洸太は仮面の奥から怜を見ている。
「これが狒々王だ。うるせぇけど、今の段階なら俺が抑えられる」
『おいおいおい、女だァ?こんなの相手にすんのかよ?ギャハハハハ――』
笑い声が途中で止まった。
ぴたりと不自然なくらい綺麗に。
洸太の身体から漏れていた気配が一瞬だけ固まる。
怜も感じた。
自分の胸の奥。
普段は押し込めている何かが、ほんの僅かに身じろぎしたような感覚。
"ソレ"は目を覚ました訳ではない。ただ、こちらを見た。そんな気がした。
その瞬間。
空気が沈み重くなる。深海の底へ沈められたような圧迫感が胸を押し潰し、呼吸の音さえ遠のいていく。
怜の内側から滲み出た気配は形を持たない。それなのに、そこに在るだけで周囲の空間を塗り潰していく。
狒々王の声が低くなる。
『……おい』
洸太の目が僅かに細くなった。
「どうした」
『なんだ、アレ』
先程まで笑っていた狒々王の声に、初めて警戒が混じった。
『中にいるヤツ。洒落にならねェぞ』
先ほどまで空間を揺らしていた怪異の笑声が、今は押し殺されたように低い。
『怪異の中でも俺は強い部類だと思ってるが、アレはヤバい』
怜の胸の奥から滲む気配は、獣のような荒々しさすらなかった。
ただ静かだった。静か過ぎるが故に異様だった。
巨大な何かが深い闇の底で身じろぎもせずこちらを見ている。その視線だけが、空間全体へ冷たい重圧として広がっていた。
『おい洸太、これ"アイツ"が本気で出て来たらお前死ぬぞ』
木庵は壁際でタバコを咥えたまま、静かにその様子を見ていた。
驚きはない。恐らく見た感じ怜の怪異の圧で狒々王がビビったのだろう。
地縛荒神の時に既にその力の片鱗を見ているからだ。
あの黒い甲冑の怪異がどういう存在なのか、木庵は今この場にいる誰よりも知っている。
洸太は仮面を外さないまま、怜を見た。
「……マジか。なら一筋縄じゃいかねぇな」
その声は洸太自身のものだったが、いつもより少し硬い。
「俺の狒々王がここまで警戒するの、初めて聞きましたよ」
「それで?」
木庵が言う。
洸太は小さく息を吐く。
「やります。ここまで来たら、やらない方が怖いし」
怜は思わず息を呑んだ。
洸太がマチェーテを抜く。
刃は訓練用に処理されている。それでも、振り下ろされればただでは済まない重さがある。
「殺す気はねぇよ。ただ、身体がどう反応するか見るだけだ」
怜の喉が鳴る。
怖い。
当たり前だった。
目の前に立っているのは人間でありながら、上級怪異の圧を纏っている。逃げ出したいという感覚が背中を押す。
だが、その奥で別の何かが静かに沈んでいる。
洸太が一歩踏み込んだ。
距離が詰まる。
速い。
怜の目では追い切れなかった。
洸太も手加減して本気で当てる気はないのだが、身体が先に動いた。
考えるより先に足が床を蹴る。
肩が捻れ、マチェーテの軌道から身体が外れる。風が頬を掠めた。振り下ろされた刃が、怜のすぐ横を通り過ぎる。
避けた。
自分が今、避けたのだと理解した瞬間、怜の足が震えた。
洸太も動きを止める。
「……今の、見えてたか?」
怜は首を横に振る。
「見えてなかったです…」
「でも避けた」
怜は答えられなかった。
壁際で木庵が煙を吐く。
「(これが由香の言ってた身体能力の上昇か)」
怜は自分の手を見る。
震えている。
怖い。
だが、身体は動いた。
自分の意思よりも早く。
それが救いなのか、恐怖なのか、まだ分からなかった。
洸太はマチェーテを下ろし、仮面越しに怜を見る。
「身体はもう反応出来てる。問題は中身だな」
「中身?」
怜が聞き返す。
洸太は仮面を外した。額には薄く汗が滲んでいる。
「怪異の力を使うっていうのは、ただ強くなるって話じゃない。自分の身体の中に別の意志がある。それを全部拒絶すると、いざという時に振り回される。でも受け入れ過ぎると、今度はこっちが呑まれる」
洸太は自分の仮面を見る。
「俺は最初、抑えるだけだった。押さえ付けて、閉じ込めて、使わないようにしてた。でもそれだけじゃ駄目だった。力を使うなら、どこまでなら自分でいられるかを知らないといけない」
怜は黙って聞いていた。
自分でいられる範囲。
その言葉が胸に残る。
木庵が壁際から言う。
「篠山は今、ソイツを精神力で抑え込めてる。だが実戦でそれだけじゃ足りねぇ。怪異の力を少しだけ引き出して、それでも戻って来る練習がいる」
怜は木庵を見る。
「少しだけ……」
「あぁ」
洸太が頷く。
「いきなり中の怪異を全力で出す必要はねぇよ。そんな事したら、俺も木庵さんも多分止められないし、まずさっきみたいに反応だけ引き出す。それを自分の意思でやる」
「自分の意思で……」
怜は小さく呟く。
それがどれほど難しいのか、まだ分からない。
だが、やらなければならない事だけは分かった。
洸太は少しだけ口元を緩める。
「怖いなら怖いでいい。俺も最初は怖かったからな」
怜は洸太を見つめた。
「怖かったんですか」
「当たり前だろ。身体の中であんなのが『身体を寄越せ』って笑ってんだぞ。怖くない方がおかしい」
その言葉で、怜の胸の奥が少しだけ軽くなった。
怖いのは自分だけではない。
制御している洸太でさえ、最初は怖かった。
それが、今の怜には少しだけ救いだった。
木庵は携帯灰皿に、タバコを押し込む。
「よし、次の段階に行くぞ」
「え、もうですか?」
怜が思わず声を上げる。
木庵は怜を見た。
「こっちの方が手っ取り早い」
洸太も頷く。
「俺も賛成です」
怜はまだ少し不安そうに木庵を見るが、当の本人はどこ吹く風でタバコを吸っている。
そんな怜を見て洸太が呟く。
「怪異は消えないし、居なくならない。だったら使いこなせるようにするしかない」
その言葉に重みがあった。
長い時間を掛けて辿り着いた答えなのだろう。
「だからアンタも同じだ。全部引き出す必要はない。ほんの少し、5%でいい。まずはそこからいってみるしかない」
怜は小さく頷く。
洸太はマチェーテを下ろした。
「よし、じゃあまずは目を閉じろ」
言われるまま目を閉じる。
「身体の奥にアクセスするような感じで」
洸太の声が響く。
「嫌な感情でもいいし、怖かった記憶でもいい。なんなら怒りでもいい。怪異が反応する部分を探しだせ」
怜は言われた通りに自分なりのイメージを構築してみる。
身体の奥。更に心の奥。
そこにはあるのは黒い感情。
親友である沙耶の死。
地縛荒神の時の死に感じた時。
身体を乗っ取られる恐怖。
何も出来なかった自分。
足手纏いの自分。
守られるだけの自分。
胸の奥が少し痛む。
その痛みに触れた瞬間、どこか遠くで何かが軋むような気配がした。
聞こえた訳ではない。
だが確かに感じた。
暗闇の向こうで、何かが目を開いたような感覚。
その瞬間、何かが反応する。
ぞわり。
背筋を冷たいものが這う。
訓練場の空気が揺れた。
木庵が目を細める。
洸太の顔からも笑みが消える。
「そこだ」
低い声。
「今の感覚を離さすなよ」
怜は必死に掴もうとする。
暗い感情のその奥。それよりももっと深い場所。
沈んでいく。
潜っていく。
底が見えない。
どこまで続いているのか分からない闇の中へどんどん意識を沈めていく。
そこにあるのは感情だけではない。
何かがいる。
ずっと奥で静かに待っていた何かが。
その時、耳鳴りが走る。
キィン、と金属を擦り合わせたような不快な音が頭蓋の内側で暴れ回った。
呼吸が覚束ない。
足元の感覚がじわじわと消えていき、訓練場の景色が遠ざかる。
まるで世界そのものが引き剥がされていくようだった。
視界がぐにゃりと歪む。
閉じていたはずの瞼の裏に黒い亀裂が走る。
その亀裂の向こうから、得体の知れない気配が滲み出してきた。
本能が警鐘を鳴らす。"ソレ"に触れてはいけない。
"ソレ"を覗いてはいけない。
だが意識は"ソレ"に引き寄せられる。
世界が暗転する。
徐々に景色が先程より遠ざかっていく。
洸太も、木庵も、何もかも。
現実が丸ごと引き抜かれたような違和感に、怜は思わず息を呑む。
思わず目をギュッと瞑る。
再び目を開けた時、気付けば怜は一人だった。
静寂。
風も無く、音も無い。
どこまでも続く闇。
上下の感覚すら曖昧だった。
立っているのか、浮いているのか。
それさえ分からない。
恐怖がじわりと胸を締め付ける。
だが同時に、不思議な高揚もあった。
そしていつの間にか、目の前に一人の男が立っていた。
何の前触れもなく、最初からそこに居たかのように。
黒い霧を纏った甲冑姿の男。あの時、荒神を斬った存在。
闇の中にありながら、その姿だけが異様な存在感を放っていた。
男は静かに怜を見下ろしていた。
やがて口を開く。
『我が力を望むか』
低い声だった。今まではノイズが走ったかのように、その声はよくは聞き取れなかったが今は何故かハッキリと聞き取れる。
その一言だけでこの空間全体を震わせる。
怜は黙った。
怖くない訳ではない。
むしろ恐ろしい。
存在そのものが圧倒的だった。
だが、その恐怖の奥で、心が妙に澄み渡っていた。
逃げるつもりも無かった。
「欲しいです」
即答だった。
武士の眉が僅かに動く。
『何故だ』
怜は拳を握る。
「アナタが出てきた時、私は何も出来ませんでした。ただ身体を奪われて勝手に暴れていた」
あの時は何も出来なかった事が本当に悔しかった。
「それが嫌なんです」
武士は黙る。
怜は続けた。
「黙って居座るだけなら、今後は何もしないでください」
武士の目が細くなる。
『……ほう』
「そうじゃないなら」
怜は真っ直ぐ見上げる。
恐怖を見据えたまま、一歩も逸らさずに。
「力を貸してください」
長い沈黙。
やがて、武士がポツリと呟いた。
『面白い』
その声は闇に溶ける。
『力を求める者は多い。だが、その重みまで望む者は少ない」
静かな声が響く。
『お前はどこまで背負う』
「そんなの分かりませんよ。私が背負える範囲でやります」
問いとも独白ともつかない響きだった。
武士は振り返る。
『よかろう』
怜の心臓が跳ねる。
『まずは一欠片、我が影を預ける』
その瞬間、闇が崩れた。
世界が割れる。
武士の姿も風に吹かれた砂が散るように光へ溶ける。
視界が白く染まりだした。
凄まじい浮遊感に胃が持ち上がる。
身体がどこかへ投げ出されるような衝撃。
耳鳴りと眩暈。
そして、怜の意識は再び訓練場へ戻った。
肺へ空気が一気に流れ込み、怜は大きく咳き込む。
コンクリートの冷たい空気。
さっきまで当たり前だった現実が、妙に生々しく感じられた。
目の前には洸太。
壁際には木庵。
長い間、あの場所にいた気がする。だが体感では、ほんの一瞬だった。
怜は荒い呼吸のまま目を見開く。
今の出来事が幻覚ではないと、身体の奥に残る確かな感触だけが告げていた。
そして、その感触は消えなかった。
胸の奥の心臓の更に裏側。
そこに冷たい何かが静かに沈んでいる。
異物感はあるが拒絶しない。
そこに意識を向けた瞬間、闇の中で誰かがこちらを見返したような錯覚が走る。
「……成功したのかな?」
怜が掠れた声で問う。
洸太は即答しなかった。
仮面の奥から怜を見つめる。
その沈黙だけで十分だった。
木庵もタバコを口に運びかけたまま止まっている。
やがて洸太が小さく息を吐いた。
「少なくとも、何かあったって感じだな」
軽い調子の言葉だったが目は笑っていない。
怜は立ち上がろうとして、ふと足を止める。
訓練場の隅。
誰もいないはずの暗がりが、一瞬だけ深く見えた。
まるでそこだけ別の夜へ繋がっているように。
瞬きをすると元に戻る。
気のせいだと思おうとしても、胸の奥の何かが静かに脈打った。
どくり。
自分の鼓動とは僅かにずれた拍動。
怜の背筋を冷たい汗が伝う。
平常へ戻ったはずだった。
訓練場もさっきのままで洸太も木庵もそこにいる。
何も変わっていない。
――変わっていないように見えるだけだった。
怜は無意識に胸へ手を当てる。
その奥で確かに何かが息を潜めていた。
眠っているのか、見守っているのか。
それとも、ただ待っているのか。
答えは分からない。
ただ一つだけ確かな事は、あの闇は終わっていない。
あの武士の怪異が残した影は、今も怜の内側に在り続けているという事だった。
訓練場の照明が、一瞬だけちらついた。
静寂が落ちる。
洸太が最初に違和感へ気付いた。
怜が動かない。
目を閉じたまま立っている。
だが。
先程までとは違う。纏う雰囲気が自信に近いモノに変わっていた。
肌に触れる空気がわずかに重くなり、訓練場の広い空間が不自然なほど張り詰める。
まるで怜の内側にいる何かが、静かに目を覚ましたような感覚だった。
木庵もタバコを咥えたまま目を細める。
「…出たな」
小さく呟く。
怜の肩が僅かに震えた後、ゆっくりと瞼が開く。
それを見ていた木庵の表情が変わった。
赤い。
血が滲んだような赤色の瞳。
地縛荒神の時のような異様な変化ではない。
だが確実に変わっている。
怜の内側にいる存在が表へ近付いた証のようだった。
『おい』
頭の奥で狒々王が低く唸る。
『出てきやがった』
洸太は怜から目を離さない。
「篠山」
怜が顔を上げた。
意識はあるし、目も合う。
暴走している訳じゃない。
だが、その赤い瞳の奥には別の気配があった。
狒々王が警戒するほどの何かが。
「どんな感じだ?」
怜は自分の手を見る。
手のひらを握り、開く。その動作を何度か繰り返す。
身体が軽い。
景色も妙にはっきり見える。
訓練場の壁に床の傷、そして木庵のタバコの煙。
細かなものまで自然と目に入ってくる。
耳も敏感になっていた。
タバコの燃える微かな音。
誰かの衣擦れ。
自分の呼吸。
全てが近くで鳴っているように感じる。
「……分かりません」
正直に答える。
「でも変わったっていうのが理解出来ます」
洸太が頷く。
「それで十分だ」
マチェーテを持ち上げる。
「続けますよ、木庵さん」
木庵は何も言わない。
止めないという事は続行だ。
洸太はゆっくり構える。
『やめとけ』
狒々王が言った。
いつものヘラヘラした態度ではなく本気だった。
『その中のヤツ、マジでヤバいぞ。刺激し過ぎんな』
洸太は眉をひそめる。
狒々王がここまで言うのは珍しいが、ここで止める訳にはいかない。
「よし、さっきより速くやるぞ」
怜は頷いた。
緊張しているのが見ただけで分かる。
そして洸太が踏み込んだ。
ドンッ、と床が低く鳴った。
25%分を引き出して、上昇した身体能力で一気に距離を詰めると同時にマチェーテが横薙ぎに走った。
風が頬を叩く感触。銀色の刃が視界を横切り、鋭い風切り音が耳を裂く。
だが怜には見えていた。
洸太の動きと踏み込んだ足の位置。そこから生まれる刃の軌道。
筋肉が収縮する瞬間まで、全てが自然に理解できる。
怜が身体を横へ流した刃は、鼻先を掠めるように通過し空を切る。
ヒュン、と空気が鳴った。
洸太の目が開く。
「(25%でもう見切り始めてるのか…)」
怜自身も驚いていた。先程までの反射じゃない。攻撃の軌道を読んで。
その結果として避けられた。
「次いくぞ!」
洸太は止まらない。
最初の横薙ぎを振り抜いた勢いのまま踏み込み直し、二撃目の振り上げへ繋げる。
怜はその動きを見て半歩後ろへ下がった。
直後、刃先が目の前を駆け上がり、冷たい気配だけが頬を撫でた。
さらに洸太は振り上げた刃を返し、今度は鋭い突きを放つ。
靴底が床を擦る音と共に切っ先が一直線に胸元へ伸びる。
怜は上体をズラした。
その反応だけで突きは外れる。
鋭い切っ先が胸の前を通過し、空気が弾けるような音を立てた。
横薙ぎには身を流して、振り上げには後退して回避。
最後の突きには身体をズラして避けた。
どの回避も最小限の動きで回避が出来ていた。
木庵が煙を吐く。その目は細くなっていた。
かなり予想以上だった。理解してからの動き方が尋常ではない。
『おいおいおい』
狒々王が先程までの余裕は無い。
『なんだコイツ、本当に人間か?』
洸太も同じ事を思っていた。
だからもう一度試す為、マチェーテを握り直す。
革の柄が軋む。
25%のまま、次は本気の速度で振り抜く。
踏み込みと同時に床が爆ぜるような音を立て、空気が裂けた。
轟音が響き、銀閃が一直線に怜へ迫る。
刃が来る瞬間、怜の視界の中で洸太の動きが急激に遅くなった。
踏み込み。重心移動。腕の振り。刃が到達する軌道。
全てが鮮明に見える。
だから怜は避けるのではなく逆に前へ出た。
迫る刃が届くより先に一歩踏み込み、洸太の懐へ滑り込む。
風圧を突き抜けるような動きだった。
そしてすれ違う瞬間、怜はマチェーテが振るわれた腕を掴む。
筋肉質の硬い感触が掌に伝わる。
洸太は目を見開いた。
木庵もタバコを咥えたまま動かない。
なにより怜自身が一番驚いていた。
何をしたのか、一瞬自分でも理解が追い付かない。
ただ、分かっていた。今なら完全に見えると思ったタイミング。
「……マジか」
最初に口を開いたのは洸太だった。
呆れと驚き、どちらも混じっている声。
怜は慌てて手を離す。
「す、すみません」
「いや」
洸太は首を振る。
まだ信じられないものを見る目だった。
「謝らなくていいけどよ」
木庵のタバコから、灰がこぼれ落ちた。
「どうだ」
洸太は怜を見て、苦笑した。
「思ったよりヤバいと思いますね」
「だろうな」
「正直」
洸太は頭を掻く。
「ここまで早いとは思ってませんでした」
怜はまだ混乱していた。自分が何をしたのか。
どうやって出来たのか分からない。
赤い瞳もいつの間にか元へ戻っている。
姿は見えない。声も聞こえない。
それでも確かにそこにいる。
そして先程の力は、その存在が表へ近付いたことで引き出されたものだと、怜はぼんやり感じていた。
木庵は新しいタバコへ火を付け、赤い火が小さく灯る。
「今日はここまでだ」
訓練場の緊張が少しだけ解ける。
洸太はマチェーテを鞘へ戻した。
鞘へ収まる金属音が静かに響く。
「5%でこれなら上げ過ぎると危ないな」
怜を見る。
その目には先程まで無かったものがあった。
期待だ。
「篠山」
「はい」
「多分だけど」
洸太は少し笑う。
「思ってるより才能あるんじゃねぇかな」
怜は何も言えなかったが、胸の奥が少しだけ熱くなった。
怖さは消えていないし不安もある。
それでも今日初めて。
ほんの少しだけ前へ進めた気がする。
訓練場の照明が静かに3人を照らしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーー
訓練場を出る頃には、すっかり日が傾いていた。
本部の廊下には夕陽が差し込み、窓際の床を赤く染めている。
怜は木庵の少し後ろを歩いていた。
疲れていて足取りも重い。
だが不思議と気分は悪くなかった。
訓練を終えた筈なのに、力だけはまだどこかへ向かって伸び続けている。
その感覚に高揚が混じる一方で、説明のつかない薄い寒気もあった。
今日一日で起きた事を思い返す。
自分の中にいる怪異に意識を向けた。あの武士は何も言わない。
ただ静かにそこにいるだけだ。なんの思惑があるか依然として謎のままだ。
それでも、意識を向けた瞬間だけ、自分とは別の何かが微かに脈打った気がした。
「木庵さん」
怜が声を掛ける。
木庵はタバコを咥えたまま振り返らない。
「なんだ」
「私……」
少し迷うが言葉は自然と出た。
「こんなに早く上達出来ると思ってませんでした」
木庵はしばらく何も言わなかった。
やがて小さく煙を吐いた。
「よくやった」
短い言葉だったが怜にはそれで十分だった。
「思ったより動けるようになったじゃねぇか」
怜は少しだけ笑う。
褒められるとは思っていなかった。
だからこそ嬉しかった。
「ありがとうございます」
木庵はそれ以上何も言わない。
ただタバコを咥え直す。
その横顔を見ながら怜は胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
その時、廊下の窓ガラスに映った自分の姿が一瞬だけ見えた。
見慣れたはずの顔なのに何故か、視線を逸らした後には違和感だけが残った。
――早過ぎるくらいだ。
木庵は内心でそう思う。
身体能力の向上に怪異との接触。力を引き出してそれを多少は制御した。
どれも予想以上だった。もっと時間が掛かると思っていたからだ。
だが怜は違った。
まるで最初から道を知っていたかのように、一歩目を踏み出している。
それが良い事なのか悪い事なのか、まだ分からない。
木庵はタバコの火を見つめる。
赤い火が静かに揺れていた。
ふと、訓練中に怜が見せた動きを思い出す。
あれは教えた技術ではない。
本人は気付いていないようだったが、その動き方は熟練の達人のようだった。
ーーーーーーーーーーーーー
一方その頃。
本部の地下駐車場。洸太はバイクに跨る前にスマートフォンを取り出していた。
発信先は一つ。
数回の呼び出し音の後、繋がった。
『終わったか』
開口一番だった。相変わらずの様子に洸太は苦笑する。
「終わりましたよ」
『そうか』
短いやり取りだが環らしい。
洸太はバイクの側面に背中を預ける。
『どうだった』
環が聞いてきた。
洸太は少し考える。そして正直に答えた。
「マジでヤバかったです」
『ほう』
「ちょっと焦りました。25%しか出してないとはいえ、まさか完全に見切られるとは思わなかった」
電話の向こうで環が笑う。
珍しい。本当に僅かだが確かに笑った。
『そうか』
「笑い事じゃねーんですって」
『だが面白いじゃねーか』
洸太は否定出来なかった。
確かに面白いがそれ以上に危険だ。だが少しだけ興味がある。
『引き続き頼む』
「断ったら?」
『拒否権あると思ってんのか』
「すいませんないです」
即答だった。
洸太は深い溜め息を吐く。
「横暴だなぁ……」
『お前が1番良く知ってんだろ』
そう言い残し、通話が切れる。
駐車場へ静寂が戻った。
洸太はスマートフォンをポケットへ仕舞う。
あの少女。篠山 怜。その中にいる怪異。
"アレ“は確かに危険だが、どこか底が見えなかった。
怪異の方も底が見えないが、そして"アレ"を抑え込める精神力。
それが妙に引っ掛かっていた。
「……俺も鍛え直すか」
小さく呟いた後、バイクにキーを差しエンジンを掛けた。
そして猿渡 洸太は夕日が沈む中、バイクを走らせた。
to be continued…
11話目見てくださった方ありがとうございます。
暇潰しになれば嬉しいです。
次回は祓いパートとか無しで、日常回にしようと思います。
今後もよろしくお願いします。