見てくださった方の暇潰しになれば幸いです。
サムとディーン、シーズンの終わりにどっちか死ぬか行方不明になってて草
どくん。
倉庫の中で、ナニカが脈打っていた。
それは怪異の胸の奥にある筈なのに倉庫全体に響いているように感じられた。
飛散した黒い血が逆流していく光景は、水が低い方から高い方へ戻るような不自然な動きだ。
まるで意思を持った液体が、這い戻っているようにも見えた。
肉片は蠢きながら傷口へ吸い寄せられ、焦げた断面の奥で赤黒い塊がまた一つ脈打つ。
その度に辺り一面の空気が重くなった。
周辺の音が遠のいていく。非常灯の赤だけが妙に濃くなり、視界の端へ粘つくように残る。
まるで光そのものが腐り始めているかのようだった。
由香は舌打ちした。
「2人共下がって!」
その声が自分でも驚くほど低くなった。
由香の警告を受け、洸太とミーコはすぐに今いた場所から数歩後退した。
彼等も異変には気付いている。
さきほど怪異を斬った時の感触が、まだ手の中に残っていた。
肉を裂いたはずなのに、刃先が何か柔らかい膜に弾かれたような嫌な手応え。
今まで何度も怪異を斬ってきた中で、硬いだけの怪異は色々いたが、こんな感触は知らない。
マチェーテを構え直した洸太の腹の奥へ、怪異の胸から漏れる鼓動が響いてきた。
それは鼓動というより、ナニカがこちら側へ侵入しようとするノックのようだった。
自分の力が通じないかもしれないという不安が、胸の奥でじわりと広がる。
後方では、ミーコは袖を握り締めていた。
その前に立つハルは低く唸り、周囲を警戒している。
普段なら強気なアキも、今はミーコの肩の上で尻尾を膨らませたまま黙っていた。
怖い。この場そのものが怖い。
怪異そのものよりも、何かがこの場所の規則を少しずつ書き換えているような感覚の方が怖かった。
重力の向きや距離の感覚が、ほんの僅かにズレていく。
立っている筈なのに、どこかに暗い穴の底に落ち続けているような錯覚が足元に纏わりつく。
逃げ出したい衝動と、仲間を守らなければという責任が胸の中でぶつかり合う。
「……アレ、まだ動きますか」
ミーコの声は掠れていた。
「ちょっとコレはヤバいな…」
由香はスコープから目を離さないまま答える。
千里眼・界渡が捉える熱が変わっていく。
一つだった熱源が膨張し、怪異の全身へ染み出すように広がっている。
自然な再生ではない。
傷が塞がっているのではなく、傷口の奥にある何かが怪異そのものを作り替えている。
熱は均一ではなく、脈動に合わせて形を変え、まるで別の生き物が内側から皮を押し広げているようだった。
怪異の身体がゆっくりと仰け反った。
骨が軋む音がする。その音は内側から押し広げられ、器に合わないものを無理矢理詰め込まれているような音だった。
湿った裂け目が広がる音が混じり、聞いているだけで歯の裏がむず痒くなる。
胸の裂け目が広がり、そこから黒い腕が一本、床へ垂れた。
次にもう一本。
更にその奥から、まだ形になりきっていない肉が膨らむ。
元々そこにあった怪異の形を捨て、別のものへ作り替えられている。
形が定まらないまま、何度も試行錯誤するように歪み、やがて一瞬だけ元の形のような輪郭を取り、すぐに崩れた。
洸太は奥歯を噛んだ。
「……中級って話だったよな」
「営業に文句言うのは後」
由香の返事は短かったが、余裕がある訳ではない。
彼女自身も、この変化の意味を測りかねていた。
怪異が成長することはある。
人に見られ、恐れられ、噂が膨らめば、怪異は強くなる。
だが目の前のそれは違う。
時間を掛けた成長ではない。
外から無理矢理、何かを注ぎ込まれている。
しかもそれは、こちらの理解できる"ナニカ"ではない。
判断が遅れれば全員が死ぬかもしれないという焦りが、冷静さの裏で静かに燻っていた。
その疑念が形になる前に、怪異の頭部が持ち上がった。
裂けた口の奥が暗い。闇というより、底のない穴だった。
覗き込めば、視線そのものが吸い込まれて戻ってこないような、存在の欠落。
由香はスコープ越しに、その口腔へ熱が集中していくのを捉える。
攻撃が来る。
そう判断した瞬間、引き金より先に声が出た。
「避けろ!」
由香の警告と同時に、怪異が口を開いた。
黒い奔流が吐き出される。
炎でも光でもない。
濁った瘴気と圧力の塊が、倉庫の床を抉りながら一直線に3人へ迫った。
それは流体でありながら固体のように重く、触れた場所の輪郭を曖昧にしていく。
瘴気の迫り来る音は床が削れる音ではなく、触れれば存在が削り取られるかのような嫌な予感が伴っていた。
最前線にいた洸太は即座に左へ跳び、離れた。
後方のミーコを守るため、ハルはミーコを咥えて飛び上がると同時に瘴気が脚に触れる。
触れた毛並みの一部が触れた箇所から色を失い、輪郭がぼやける。
「ハル……!」
ミーコが叫ぶ。
だがハルは振り返らない。ただ唸りながら主を守る為に全神経を集中させその場から離れた。
しかし怪異の攻撃はそこで終わらなかった。
次は避けられない。
そう判断したハルはミーコを放り、庇うように前へと出る。
瘴気の奔流がさらに膨れ上がり、ハルの巨体を横へ弾き飛ばす。
吹き飛ばされたハルはコンテナへ激突し、鉄板を大きくへこませた。
ミーコの顔から血の気が引いた。
「ハルッ!」
倒れたハルを見た瞬間、怒りより先に身体が動く。
一歩前へ踏み出し、札を構える。
「アキ、ハルの側へ!」
『分かってる!』
アキが白い残光となって飛び出し、吹き飛ばされたハルの元へ向かい、瘴気を浴びた脚に治癒の術式を施す。淡い光がハルの脚を包む。
その間にミーコは震える指で新しい札を抜き、息を吸った。
宗近の声が頭の奥で響く。
ー怖いなら、怖いまま考えろ。だが考えるのをやめるなー
彼ならきっとそう言う。
だからミーコは、泣きそうな顔のまま怪異を睨んだ。
一方、回避した洸太も怪異を観察していた。
ハルを吹き飛ばした怪異は、その場から殆ど動いていない。
動かずにこの圧だ。
25%では足りない。50%でもだ。
そんな事は身体が一番よく分かっていた。
仮面の奥で狒々王が笑っている。
もっと寄越せと、胸の奥から声がする。
それは声というより、血の流れに混じる異物のように、じわじわと意識を侵食してくる。
洸太は息を吐いた。
使えば楽になる。
力を上げれば届く。だが同時に、あちら側へと近付く。
環が嫌になるほど言っていた。
ー力に呑まれるな。自分で線を引けー と
「……あー、クソ。やるしかねぇな」
マチェーテを握る手に力が入る。
笑みは浮かんでいたが、さっきまでの軽さは無かった。
「面倒な事になってきたな…」
由香はスコープ越しに戦況を確認する。
洸太は健在。
ミーコも戦意を完全には失っていない。
吹き飛ばされたハルも起き上がろうとしている。
戦線はまだ維持できる。
だが、さっきまでと同じ戦い方では押し潰されるだろう。
怪異の胸では、まだ鼓動が続いていた。
どくん。
どくん。
どくん。
鼓動の度に怪異の輪郭が少しずつ変わっていく。
境界が曖昧になり、存在が固定されないまま揺らぎ続ける。
由香はその光景を眺めながら唇の端を噛み、ライフルを構え直した。
撃てば肉の壁は破壊出来る。
だが、この状況下で核を破壊出来るかどうか。
そして、核を破壊したとして確実に"アレ"を祓えるのか。
今までのパターンから外れる為、セオリーが通じるか分からない。
"アレ"を中級として見れば死ぬ。
どういう条件で覚醒したのかは不明だが、恐らく今の"ヤツ"は上級クラスに匹敵するだろう。
由香は即座に役割を組み立てる。
先程と同じ様に前衛は洸太。支援と足止めはミーコ。
自分は現状把握と狙撃。それくらいしかベストな案が浮かばない。
「ミーコ、ハルを下げすぎないで。洸太の横に付けて」
「…分かりました!」
ミーコは返事をすると、立ち上がろうとするハルへ視線を向けた。
「洸太」
「なんだ?」
怪異を見据えたままの洸太へ、由香が続ける。
「次、足止めするから合わせろ」
由香が怪異の動きを止める。
その隙に洸太が踏み込む。
意図はそれだけで伝わった。
洸太は怪異から視線を外さないまま、口元だけで笑った。
「任せとけ」
3人の間に細かい段取りの確認はいらなかった。
それぞれが自身の師から叩き込まれた役割を理解している。
恐怖も違和感も飲み込んで、今この場で最善の事を選ぶしかない。
倉庫の奥で、変異した怪異がゆっくりと一歩踏み出した。
その足音だけで床が沈む。
いや、沈んだのは床ではなく、空間の方だったのかもしれない。
どくん、と一つ鼓動を刻む音が倉庫へ満ちる瘴気が濃くなっていく。
湿った鉄の臭いに混じり、鼻の奥へ纏わりつく腐臭が少しずつ強くなる。
鼓動音が響く度に怪異の肉体が変異していく。
裂けた口が開く音は、肉が裂ける音というより、濡れた布を無理やり引き千切るような不快な響きだった。
その口から黒い瘴気が溢れ落ちる。
床へ触れた瘴気は霧にならず、黒い影となって倉庫中へ広がっていく。
「当然このクラスなら術式を使うか…」
呟いた瞬間、立ち上がった。
輪郭だけを持った黒い人影が、倉庫の床一面から静かに起き上がる。
その全てが顔を持たない。それでも3人を見ている事だけは分かった。
ぞくり、と背筋を撫でる寒気が走る。
ミーコは札を握る指へ自然と力が入った。
「ハル!」
声を掛けると、黒い巨体は一歩前へ出る。
低く唸りながら人影を睨みつける姿に迷いはない。
肩へ止まっていたアキも耳を伏せ、周囲を見回していた。
死人の残骸が迫り来る中、アキも影から触手を伸ばし蹴散らしていく。
『ヤバいヤバい!囲まれてるぞ!』
珍しく軽口のない声だった。
ミーコも同じ事を感じていた。
人影そのものは大した力を持っていない。
それでも、あれは時間を掛けて精神を削る類の術式だと直感出来た。
周囲の人影が一斉に動く。
音もなく距離を詰め、腕を伸ばしてくる。
掴まれる。
そう思った瞬間、人影は身体をすり抜けた。
冷たい。
氷水へ胸まで浸かったような冷気が全身を走る。
耳元で誰かが囁くが聞き取れない。
だが意味だけは伝わる。
――助けてくれ。
――逃げろ。
――死にたくない。
ーーお前も死ねよ。
頭の奥へ直接流し込まれる呪詛だった。
ミーコの呼吸が一瞬だけ乱れる。
胸の鼓動が速い。
身体が重い。
それでも目は閉じなかった。
宗近の顔が浮かぶ。
ー 見えてるモンを全部信じんな。怪異はそういう隙も突いてくるぞ ー
昔、言われた事を思い返す。何度も聞かされた言葉だった。
ミーコは唇を噛む。
怖い。怖いからこそ考える。これは本物じゃない。
揺さぶる為の術式だ。
「ハル!」
呼び掛けると同時に、巨体が地面を蹴った。
影へ飛び込み、大きく前脚を振るう。
爪が黒い人影を裂く。
裂けた影は煙のように散り、また床へ溶けていく。
そして怪異が振り上げた巨大な腕をミーコ目掛けて振り下ろそうとする。
防御も回避も間に合わない。
「ミーコ、そのまま!」
「ッ!」
由香の意図を理解したミーコは、自身を叩き潰そうとしている腕を前にその場に踏み止まった。
由香はライフルの引き金を引いた。
ズッッドォォォォン…‼︎
轟音が倉庫全体に響き渡り、怪異が振り下ろそうとした腕から肩口までを吹き飛ばした。
肉片と共に黒い血が飛び散るが、散った傍から再生が始まっていく。
だが、動きは止めれた。
それだけで十分だ。
その様子を横目で確認した由香は、怪異から視線を外さないまま常叫ぶ。
「洸太!」
返事はすぐ返ってきた。
「ギアを上げる!」
その一言で由香も同じ結論へ辿り着いていた。
更に怪異の圧が変わった。
今の怪異へ正面から食らいつけるのは洸太しかいない。
由香は短く答えた。
「じゃあ、任せた!」
それだけだった。
洸太は口元を少しだけ緩める。
「これでダメなら死ぬしかねぇな!」
『ホラ見ただろ!50じゃ無理ならギアを上げるしかねェよなァ!50以上は久しぶりだ!楽しもうぜ!』
身体の奥から湧き上がる衝動は、さっきまでとは比べ物にならない。
洸太はゆっくりと息を吸い込んだ。
「75%だッ!」
再度、仮面へ触れた指先へ力が入る。
次の瞬間、身体の内側で雷鳴が轟いた。
血流を雷に似た熱いモノが流れる。
筋肉が熱を帯びる。
皮膚の上を青白い電流が走り、足元のコンクリートへ細かな亀裂が広がった。
「どっちが先にくたばるか勝負といこうじゃねェか!ギャハハハァァ‼︎」
この高揚感だ。そうだ、コレがやりたかった。
ただ、目の前の敵を叩き潰す。それだけだ。
獲物を前にした獣のような鋭さだけが、その表情へ宿っていた。
「鷹宮ァ!」
「何⁉︎」
「テメー等は下がってろ!」
「ムカつくけどそうするしかないか!」
怪異から目を離さないまま続ける。
「ミーコ」
「はい!」
「見ての通り、洸太の前には絶対出るな。巻き込まないと思うけど何とも言えない。私達は隙があれば援護で」
「分かりました…!」
洸太が前で暴れ回るなら充分だ。
下手に動いて洸太の邪魔をする方が足を引っ張ってしまう。
自分達は隙を見つけて援護が出来ればそれでいい。
怪異が咆哮する。
床へ広がった影が再び蠢き始めた。
今度は人影ではない。
無数の黒い腕だった。
床から伸びた腕が洸太の足首を掴もうとする。
その瞬間、青白い雷が爆ぜる。
だが、洸太は止まらない。
何故なら腕は触れる前に焼き切れたからだ。
「汚ねー手で触んじゃねェよ!」
一歩踏み込む。
その一歩だけで倉庫の空気が震えた。
雷は身体へ纏わり付くだけではない。
背後で巨大な影を形作る。
青白い雷が獣の輪郭を描く。
盛り上がった肩。
牙を剥く猿の異形。
狒々王の姿が、洸太の背後でゆっくりと立ち上がる。
「――雷獣降ろし!」
低く呟いた瞬間、狒々王が咆哮した。
轟音が倉庫を揺らす。
狒々王の術式の1つ、雷獣降ろし。簡単に言えば、抑え込んでいる狒々王の力を更に解放し、爆発的な身体能力の上昇をする為の術式。
洸太と狒々王。1人と一体は完全に重なり、怪異へ一直線に飛び込んでいった。
「こんなモンじゃねェぞ!どんどん行くぜ!」
雷を纏った洸太が吼える。
その声に呼応するように、倉庫の鉄骨がビリビリと震えた。
青白い雷光が薄暗い空間を何度も照らし、その度に怪異の異形な姿が浮かび上がる。
洸太はゆっくりと息を吐いた。
身体は軽い。
いや、軽過ぎた。
足へ力を込める前に身体が動く。
視界へ映る怪異の動きは、さっきまでとは別世界みたいに遅い。
それほどまでに75%という領域は身体能力を押し上げていた。
同時に、自分の中で何かが少しずつ軋み始めている事も分かっていた。
『なァ楽しいよなァ!獲物を叩き潰すのはよォ!」
「今だけはテメーに同意してやるぜ!」
仮面の奥で狒々王がゲラゲラと下品な声で笑う。
洸太は吐き捨てるようにそう言うと同時に床を蹴った。
砕けたコンクリート片が舞い上がる。
一歩で怪異の懐へ飛び込み、振り下ろされた腕を難なく躱す。
振り抜いたマチェーテが怪異の脇腹を深々と裂き、返す刃で肩口まで斬り上げる。
そして、腰のホルスターから抜いたリボルバーを傷口に突っ込んだ状態で引き金を引いた。
ゼロ距離で強力な一撃を喰らい、着弾した箇所の肉片が弾け飛ぶ。
「オラオラ!いい声で鳴いてみろよ!」
傷口の箇所から血と肉片が飛び散る。
「しぶてェ野郎だな!」
洸太が距離を取るより早く、その霧が床へ落ちる。
黒い影が無数に膨らんだ。
今度は人影ではない。
獣のような異形が、瘴気だけで形を成し、背後から洸太目掛けて一斉に飛び掛かってくる。
「ハル!」
ミーコが叫ぶ。
真正面から瘴気の獣へ体当たりを叩き込み、その巨体で纏めて吹き飛ばす。
アキも二股の尾を翻しながら頭上を駆け、術式を使いながら瘴気の流れを乱していく。
取り回しが悪い対物ライフルを置き、由香はサブマシンガンで迎撃する。
一体を祓えば二体現れ、二体を祓えば三体が立ち上がってきた。
「倒してもキリがないです!変な術式使いますね!」
「とは言っても、どうしようかな!」
怪異は瘴気を媒介に、呪詛を実体化させている。
倒しても終わらない。
術式の核を止めなければ、際限なく湧いてくる。
「鷹宮ッ!」
洸太が叫ぶ。
怪異の拳にマチェーテを突き立てながら怪異と押し合う。
「分かってる!」
由香はサブマシンガンを放り、再度対物ライフルを構えた。
だが撃てない。
洸太との距離が近過ぎる。
少しでも角度を誤れば巻き込む。
スコープの中で怪異だけを追い続ける。
傷口が脈打つ。
――違う。もっと奥。
由香は眉をひそめた。
怪異が動く度、瘴気の流れが一瞬だけ途切れる場所がある。
心臓ではない。
肉塊でもない。
更に奥。
背骨へ沿うように埋め込まれた、小さな黒い塊。
それだけが、他と違う脈動を刻んでいた。
「捉えた」
アレだ。アレが核。
あそこを撃ち抜けば終わる筈だ。確証は無いが賭けるしかない。
だが撃とうにも洸太が近過ぎる。
怪異が洸太の首を掴もうと腕を伸ばす。
洸太は懐へ入り込み、怪異の肘を斬り裂く。
身体が僅かに開く。
その一瞬で、由香の瞳が細くなった。
射線が通る今なら撃てる。
「洸太、右へ跳べ!」
洸太は由香の声だけで意図を理解した。
床を蹴り、身体を横へ投げ出す。
ズッッドォォォォン…‼︎
次の瞬間に工場に響く、轟音。
対物ライフルが火を噴く。
倉庫の空気そのものを震わせるような重低音と共に、20mm弾が一直線に怪異へ突き刺さる。
胸を貫き、背中を突き破る。
その奥に隠れていた黒い塊を、まとめて吹き飛ばした。
怪異がダメージに耐え切れずに止まった。
身体中で暴れていた瘴気が、一瞬だけ静止する。
由香は撃ち終えた反動を肩で受け止めながら、小さく息を吐いた。
「今だ!」
その声へ反応するより早く、洸太はもう走っていた。
狒々王の雷が咆哮を上げる。
身体中を巡る雷がマチェーテへ集中していく。
青白かった雷が、眩い白銀へ変わる。
狒々王の術式の更に解放した。
雷獣は洸太の背後から飛び出し、巨大な顎で怪異へ喰らい付いた。
同時に洸太も跳ぶ。
「終わりだッ!」
渾身の一撃が振り下ろされる。
雷鳴が轟いた。
眩い閃光が倉庫を包み込み、怪異の咆哮が途中で途切れる。
膨れ上がっていた瘴気が一気に霧散し、黒い身体は音もなく崩れ始めた。
腕が崩れ始め、頭部が砕けていった。
崩れていった肉が砂になっていく。
最後まで脈打っていた肉塊も、静かにひび割れ、そのまま砂となって風へ溶けた。
そして残ったのは静寂だった。
つい数分前まで銃声と咆哮が響いていたとは思えない程、辺りは静まり返っている。
耳鳴りだけが残る倉庫の中で、洸太はゆっくりと仮面へ手を添え外した。
75%まで解放していた狒々王の力が、少しずつ身体から引いていく。
「(75%でなんとかギリギリか…)」
2人の支援があったとはいえ、どうにか100%を使わずに済んだ。
100%は制御出来る限界が1分な為、それで仕留め切れなかった場合、終わる。
そして1分という引き際を間違えれば、自分が自分でなくなる。
『次は100だ、100!楽しかっただろ!獲物をブチ殺すのはよォ!』
狒々王の笑い声が遠ざかっていくのを感じながら、ゆっくりと力を戻した。
全身を満たしていた熱が嘘のように消え、代わりに全身に鉛でも流し込まれたような重さが四肢へ戻ってきた。
息を整えながら振り返ると、由香は既にライフルを下ろしていた。
ミーコもハルの首筋へ手を添え、安堵したように大きく息を吐く。
誰も喋る余裕が無い。
それでも3人共分かっていた。
なんとか生きている。それだけで充分だ。
「なんとか祓えた…のかな」
「何にせよ、終わったんだからいいじゃねぇか」
「そりゃそうか」
「…もう疲れました…早く帰りましょう」
思わず顔を顰める洸太を見て、ミーコが小さく笑う。
ようやく緊張が解けた。
その笑みも長くは続かなかった。
由香が怪異の消えた場所へ歩き始めたからだ。
「由香さん?」
「……ちょい待って」
ライフルを背中へ回し、黒い灰が積もる床へしゃがみ込む。
怪異は完全に消滅した。
それは間違いない。
なのに違和感だけが残っている。
千里眼・界渡で視る景色には、まだ僅かな残滓が漂っていた。
怪異の残滓ではない。
もっと人工的な、悪意を持ったモノだった。
由香は手袋越しに砂を払い除ける。
黒く焼けた床。
砕けたコンクリート。
その隙間へ指先が触れた。
紙だった。
砂の中へ半分埋もれた、一枚の呪符。
「……これ」
洸太とミーコも近寄る。
由香が慎重に摘み上げると、それは見た事のない呪符だった。
黄ばんだ和紙は、ただ古びているというよりも、長い年月の中で何度も湿り、乾き、ヒラヒラと風に吹かれて揺れている。
指先で触れた瞬間、紙とは思えない感触が手袋越しに伝わり、まるで生き物の皮膚に触れたかのような嫌な感触が残った。
その瞬間、由香の背筋に冷たいものが走り、無意識に指先を引っ込めようとした。
だが離せば何かを見失う気がして、逆に力を込めてしまう自分に気付き、胸の奥がざわついた。
呪符に描かれた術式は、濁った暗赤色に近く、ところどころが乾ききらずに光を鈍く反射している。
線は均一ではなく、太さも濃さもばらばらで、まるで何度も書き直され、上から塗り潰されてきた痕跡がそのまま残っていた。
その色を見た瞬間、洸太の喉がひりつくように乾き、理由もなく舌に鉄の味が広がる。
視線を逸らそうとしても、なぜか目が離れない。
普通の呪符とは明らかに違う。
幾重にも重なった術式の上から、さらに別の術式が無理矢理書き加えられている。
その線同士が互いに侵食し合うように滲み、見ているだけで視界が歪むような錯覚を覚える。
焦点を合わせようとすると、"危険だ"と脳が理解を拒む。
ミーコは思わず目を細めるが、こめかみの奥を針で刺されたような痛みが走り、息が詰まる。
封印でもなければ、結界でもない。
ましてや怪異を呼ぶ術式でもない。こんなモノは見た事がない。
由香は眉を寄せる。
その表情はいつもよりも明らかに強張っており、無意識に呼吸が浅くなっているのが自分でも分かった。
「今までこんなの見た事ない。アンタ等は見た事ある?」
「む、宗近さんならもしかしたら…」
「右に同じ」
ミーコも覗き込むが、すぐに一歩だけ距離を取る。
胸の奥がざわつき、理由もなく心拍が速くなる。
「何の術式なんでしょう……」
誰も答えられない。
洸太は腕を組みながら呪符を眺める。
「怪異が持ってたって感じじゃねぇな」
「そうだね」
由香も頷く。
「誰かが怪異の中に"コレ"を仕掛けた」
その一言で3人とも黙った。
自然発生した怪異なら、こんな物は存在しない。
誰かが意図的にこの呪符を怪異へ埋め込んだ。
その結果が、あの異常な変異だった。
風が吹く。
呪符の端が小さく揺れた。
その動きは紙の軽さによるものではなく、僅かに遅れて、まるで内部から何かが反応しているかのような不自然さを伴っていた。
風とは別の、何かに見られているような感覚が、確かにそこにあった。
その裏側へ由香の視線が止まる。
墨が滲んでいる。
何か文字が書かれていた形跡だけが残っていた。
だが焼け焦げていて読めない。
焦げ跡はただの焼損ではなく、文字の部分だけを選んで削り取ったように歪んでおり、そこだけが異様に黒く沈んでいる。
触れれば崩れそうなのに、なぜか形を保っているその様子が、余計に不気味だった。
視線を向けているだけで、そこから何かが滲み出してくるような錯覚に襲われ、由香は思わず眉間に皺を寄せた。
証拠だけを残し、肝心な部分だけ消されている。
「……気持ち悪いですね」
ミーコがぽつりと漏らす。その声は少し震えていた。
恐怖というより、理解できないものに触れてしまった嫌悪と、本能的な拒絶が混ざっている。
怖いからではなく、理解出来ないからだった。
怪異を祓う。
それが祓い屋の仕事だ。怪異を呪詛師が使役する事はあるが今回のは初めてだ。
怪異に意図的に仕掛けを施した何者かがいる。
その考えが頭を離れなかった。
由香は呪符を袋へ仕舞った。
スマホを取り出し、営業の白石に電話をかけ始める。
その動作はいつも通りの筈なのに、指先が僅かに緊張している自覚があった。
3コール目で白石に繋がる。
「お疲れ様です、白石さん」
『お疲れ様です』
「怪異は祓いました。ただ一つ、現場で妙な物を見付けました」
『妙な物?』
「怪異の内部へ埋め込まれていた呪符です。今までこんなの見た事がないっつーか」
電話の向こうが静かになる。
数秒の沈黙。
『……回収して絶対に漏れ出ないように持ち帰って下さい』
「分かりましたー」
『戻ったら本部で解析に回します』
「お願いしまーす。そんじゃ」
通話が切れる。
3人はもう一度だけ、怪異が消えた場所を見つめた。
その場には何もない。
本当に何も残っていない。
残っているのは、床へ刻まれた戦いの跡と、回収した一枚の呪符だけだった。
ーーーーーーーーーーーーー
2日後。
中央怪異対策機関、本部。
白石が机へ並べた資料を見つめながら、小さく息を吐く。
解析結果は出たが、術式の構造が複雑過ぎる。
古い陰陽道に類似点は多少はあるものの、現代の術式とも違う。
誰かが全く新しい術式を構築したとしか言いようが無い。
「こんな術式……誰が」
その問いへ答える者はいない。
部屋の扉が開く。
「捗ってるかー?」
「お疲れ様です。本部に戻られていたんですね」
「しばらく前に帰ったばっかだ」
環がいつものように無愛想な態度全開で入ってきた。
白石は回収した呪符を机へ置く。
環は無言でそれを手に取り、数秒だけ眺める。
その瞬間、いつもの余裕そうな笑みが消えた。
その代わりに、ほんの一瞬だけ、眉間に深い皺が刻まれる。
指先で触れた瞬間、僅かに表情が歪み、すぐにそれを押し殺す。
「帰ったばっかでムカつくが現場に行くぞ。なんか手掛かりが残ってるかもしれねぇ」
「私も同行します。今の環さんの反応を見て、早急な対応が必要だと判断しました」
「じゃあ、運転任せた。私は景気付けに一杯引っ掛ける」
「…分かりました。準備します」
「酒飲むなって顔すんな」
「す、すみません…つい」
環は静かに呟いた。
「……どこのバカだ、こんな真似が出来るヤツは」
誰へ向けた言葉でもない。
その声だけは妙に低かった。
言葉と同時に、部屋の空気が少しだけ重く沈んだように感じられ、白石は無意識に息を詰める。
誰かが怪異を変異させた。
何の意図があったのか、それともまだ別の目的があるのか。
答えはどこにもない。
だが一つだけ確かな事があった。
誰かが、どこかで人知れず怪異へ手を加えた。
そして、その影は静かに中央怪異対策機関へ近付き始めていた。
不穏さを物語るように、呪符に刻また術式が不気味なまでに目立っていた。
to be continued…
14話目後編です。見てくださった方ありがとうございます。
今後共、よろしくお願いします。
今回の怪異。
等級的には中級だが、埋め込まれた呪符に蓄積された呪いにより上級怪異に覚醒。
術式を使用する怪異と共通のモノを使用するが、基本的な術式が出力強化された状態。
瘴気から使い魔を呼び出す他、呪詛で対象の精神を削り、恐怖を増幅させる。複合混成型の怪異の特徴として、核を破壊すれば死ぬが呪符の効果で
砂になって消えるまでに瘴気と呪詛を垂れ流す為、核破壊後に早急に消滅させる必要がある。
こんな感じで描写出来なかった設定とか後書きで書ければなと。