この調子で頑張って行こうと思います。
見てくださってる方、マジでありがとうございます。
暇潰しにでも見てもらえれば幸いです。
その日の朝。
「怜、アンタ最近帰り遅くない?」
朝食の味噌汁をよそいながら、叔母である小夜子が少し心配そうにこちらを見る。
怜は一瞬だけ動きを止めた。
最近、中央へ行く回数が増えている。
帰宅が深夜や早朝になることもあった。親友の死を引きずっていて1人になる時間が欲しいという、建前があるが流石に怪しまれ始めている。
怜は少しだけ視線を逸らした。
「……最近、バイト始めたんだ」
「バイト?」
「うん」
咄嗟に出た言葉だったが、ある意味間違いではない。
小夜子は少し驚いた顔をする。
「何の?」
「えっと……夜の清掃、みたいな」
「大丈夫なの? 怪しくない?」
「そんな毎日じゃないし、大変だけど頑張りようがあるかな」
怜はなるべく自然に笑う。心臓が少し痛い。
嘘を吐いている罪悪感。
でも、怪異対策機関の事なんて絶対に説明できるわけがない。
小夜子は少し困ったように笑った。
「まぁ、頼むから無理だけはしないでね」
その言葉に、怜は小さく頷くしかなかった
ーーーーーーーーーーーー
夕方。
学校帰りの怜は、駅前の自販機横でスマホを見下ろしていた。
『今から来れるか』
木庵から届いたメッセージはそれだけ。
相変わらず説明が少ない。
怜は小さく息を吐き、返信を打つ。
『どこですか?』
数秒後。
『本部前』
短い。本当に短い。せめて最低限の説明くらいは欲しい。
怜はスマホを制服のポケットへ突っ込み、駅前の人混みを歩き出した。
春先の夕暮れ。
学生達の笑い声。買い物帰りの主婦。信号待ちのサラリーマン。
そんな普通の景色を見ていると、自分がここ最近関わっていた“怪異”という存在が、逆に夢みたいに思えてくる。
だが、地縛荒神の時に味わったあの感覚だけは、今でもはっきり身体に残っていた。
身体を奪われる感覚。意識が沈んでいく恐怖。
怜は無意識に自分の腕を掴む。
そこへ、車のクラクションが短く鳴った。型落ちの年季の入った黒いコンフォート。
運転席の窓が下がる。木庵だった。
「乗れ」
怜は慌てて助手席へ乗り込む。
車内は相変わらず煙草臭かった。
「……もう、私も乗るんだからしっかり換気してくださいよ」
「文句あんなら降りるか?」
「降りません」
即答すると、木庵は小さく鼻を鳴らした。
車が走り出す。夕焼けの街並みが流れていく。
怜はシートベルトを締めながら尋ねた。
「今日は仕事ですか」
「あぁ」
木庵はハンドルへ片手を乗せたまま答える。
「ただ俺は別件だ」
「え?」
「今日中に地方に行く」
怜は少し目を瞬かせた。木庵がいない。
それだけで少し不安になる。
木庵はそんな怜を見もせず新しいタバコを咥えた。
「今回は由香が担当」
「由香さんが……」
「で、お前も同行だ」
怜の身体が僅かに強張る。木庵はライターを擦った。
火が灯る。
「下級案件だ。リハビリには丁度いい」
「……リハビリって」
「いつまでもビビって止まってるわけにもいかねぇだろ」
その言葉に、怜は返事を詰まらせる。確かに木庵の言う通りではあるが、正直、まだかなり怖い。
怪異を見るのも。現場へ行くのも。自分の中の“アレ”も。
だが木庵は、それを分かった上で連れて行こうとしている。
車はやがて中央本部前へ滑り込んだ。
そこには既に由香がいた。紫と白のツートンカラーの長髪。
派手な見た目。
黒いジャケットに黒いスキニーというラフな格好で、壁へ寄り掛かりタバコを吸っている。
由香は車を見るなり片手を上げた。
「お、来た」
怜が車から降りる。
由香はタバコの火を消し、車の中の灰皿に入れる。
「怜ちゃん表情固くない?」
「……いや、まぁ」
「そんな緊張しなくて大丈夫だって」
木庵は窓を開けたまま、ぼそりと言う。
「油断はすんなよ」
「分かってるって」
由香は軽く返す。
だがその直後、少しだけ真顔になった。
「……木庵」
「ん?」
「新人連れてく時くらい、もうちょいマシな案件寄越せって」
「下級だろ」
由香は諦めたように舌打ちする。
その空気を見て、怜は少しだけ気付く。
由香は明るく振る舞っているように見えて、かなり気を張っている。
木庵はそんな由香を見て小さく鼻を鳴らした。
「死なすなよ。貴重な人材だ」
「当たり前」
「それと一つ頼みがある」
「ん?何?」
最後の方は怜にはよく聞き取れなかったが、木庵が由香に何やら耳打ちをしていた。
なんとなくだが、怜にも現場の重さが伝わる。
木庵はそれ以上何も言わず車を出した。
黒いコンフォートが夕暮れの街へ消えていく。
怜はそれを見送りながら、小さく息を吐いた。
由香が横で言う。
「さてと、行きますか。“赤い部屋”」
ーーーーーーーーーーーーーー
木庵と別れた後、2人は社用車に色々な道具を積み込み、目的地へと向かっていた。
由香の運転する車は、街灯が増え始めた市街地を抜け、徐々に人気の少ない住宅街へ入っていった。
怜は助手席でシートベルトを握ったまま、ぼんやり外を見ていた。
車内には低く音楽が流れている。
古いロックだった。曲名は分からないがメロディから何となく伝わる独特の曲調。だけど、ついつい聴き入ってしまう懐かしさの曲だった。
昼間は普通だった景色が、夜になるにつれていくだけで妙に不安を煽ってくる。
「そんな硬くならなくていいって」
「……してません」
「してるしてる」
由香は笑う。
けれど笑っているようで、表情は少し真剣な眼差しだ。
都市から離れた郊外。
再開発区域から半端に取り残された古い住宅街の一角に、そのアパートはあった。
時間帯は夜に差し掛かっていた。
電線が蜘蛛の巣みたいに空を横切っている。古い自販機は片方だけ照明が死んだように真っ暗で、アスファルトには昼間の熱がまだ少し残っていた。
その中にポツンとある、3階建ての古びたアパートだけが、街灯に照らされているが妙に暗かった。
やがて由香がアクセルを緩めた。
「はい着いた」
怜が窓から顔を出す。
薄汚れた看板。ひび割れた外壁。黒ずんだ廊下。
その建物だけ、周りから浮いて見えた。
怜は無意識に息を止める。嫌な感じがする。
しかし、地縛荒神の時みたいな重圧ではない。
だが、人が近づいてはいけない場所特有の空気が、建物全体へ染み付いているように感じる。
由香は車のエンジンを切る。静寂が辺りを包む。
その瞬間、アパートの暗さだけが妙に際立った。
「……うわぁ」
「まぁ、見るからにって感じだよね」
アパートの名前は『ハイツ藤乃』。
築40年以上。
外壁は黒ずみ、ベランダには錆が浮き、窓ガラスもいくつか割れたまま放置されている。住人はいない。
だが、人がいない筈なのに。
どこかの窓で、カーテンが揺れた気がした。
怜の背筋へ嫌なものが走る。
由香はスマホを操作しながら言った。
「正式登録名称は“怨染棟”」
「……えんせんとう?」
「そ。機関側の分類名。通称は“赤い部屋”の方が有名だけど」
由香はアパートを見上げる。
その横顔から、普段の軽さが少し消えていた。
「元々、曰く付きの土地だったらしいんだよね」
「曰く付き……?」
「昔この辺、結構デカい火事あったらしくてさ。焼け死んだ人間もそこそこいたらしい」
由香は淡々と続ける。
「その後アパートを建てたんだけど、まぁ……立て続けに色々と起きた」
一家心中。飛び降り。孤独死。失踪。薬物。夜逃げ。事故。
怜は無意識にアパートを見上げる。
ただ古いだけじゃない。
建物全体が、どこか酷く暗いように見えた。
「最初は普通の事故物件扱いだった」
由香が呟いく。
「その内住人とか近所の人間が変なモンを見始めたらしくて」
「変なもの……」
短い言葉だった。
「夜中、部屋の壁が真っ赤に染まってたとか。誰もいない部屋から声がするとか。無人の部屋に人影いたとか」
思わずその光景を想像してしまい、怜は少し肩を縮める。
由香はそんな怜を横目で見ながら続けた。
「そしたら、いつの間にかネットで“赤い部屋”って呼ばれ始めた」
「……都市伝説」
「そ。まぁ猿夢ほど広がってはないけど」
由香は煙草を地面へ落とし、靴底で揉み消した。
「で、最近だと死人も出てる」
怜の表情が固くなる。
由香はスマホの画面を見せた。
そこには営業から送られてきた現場写真。
古いアパートの廊下。黄色い規制線。ブルーシートに覆われた中には血痕。
「先月、肝試しとかやってた大学生2人が失踪。んで今週、無断侵入した男が3階で死んだ」
「……原因って」
「不明」
由香は短く答えた。
「全身失血状態だったのに傷がない。なのに、目とか耳とか鼻から大量にドバッとね」
怜の喉が小さく鳴る。
由香はスマホをしまう。
「中央判断じゃ下級怪異。ただし油断すると普通に死ぬって感じ」
「が、頑張ります…」
由香は車内から小さなケースを取り出した。
中には耳栓みたいな小型機器。
「インカム。付けといて」
「ありがとうございます……」
怜が受け取る。
由香はそのままアパート前へ歩き出した。
「今回の役割だけど、私は外から索敵と怜ちゃんの援護。建物自体が怪異みたいな感じだから、本体がどこにいるか定まらない」
つまり。
怜が一つ一つ部屋を確認しなければいけない。
その意味を理解した瞬間、怜の胃が少し重くなる。
由香はそんな怜を見て、小さく鼻を鳴らした。
「そんな顔しないでよ」
「いや……しますよ普通に」
「まぁ、そりゃそうか。経験が浅いと大体そんな感じになるよね。分かる分かる」
「由香さんも、ですか?」
「勿論」
由香は即答した。
「私も最初、怪異相手に泣いたりゲロ吐きそうだったし」
怜は意外そうな顔をする。
由香は笑った。
「何その顔」
「いや……由香さん、もっと最初から平気なタイプかと」
「無理無理。私を何だと思ってんの?」
由香は鼻で笑う。
「最初の現場とか、入るだけで5分くらい掛かったし」
その言葉に、怜は少しだけ肩の力が抜けた。
由香は続ける。
「まぁ木庵はそんな私を無視して、普通に“早く行け”としか言わなかったけど」
「想像できます」
「アイツ、そういうとこあるからね。いつも自分のペース」
どこかの窓が、ギィ……と小さく軋んだ。
怜の肩が少し揺れる。
由香はそれを見て、小さくほくそ笑んだ。
そして、ほんの一瞬。
怜の姿が、昔の自分と重なった。
思い浮かぶのは古い廃墟、真っ暗闇の廊下。そこが初現場だった。
恐怖で足が竦み、中へ入れず立ち尽くしていた自分。
あの時の木庵は、今と変わらず気怠そうにタバコを吸いながら、
『早く行け。太陽拝むまで待つ気か?』
軽く言い放つ。怖くて。吐きそうで。逃げたくて。でも、逃げるのは悔しくて。
最後は、自分の意志で扉を開けて中に入った。
由香はあの時の光景を思い出して苦笑していた。だが、怜が見た彼女の横顔はどこか懐かしむような表情をしていた。
「無駄話しちゃったかな」
「安心しました。由香さんからそういう話聞けて良かったですよ」
会話が途切れたタイミングで車内から由香は手早く、道具一色を詰めたバッグを取り出し、怜に銃を渡す。銃を渡された怜はぎこちない手付きながら、マガジンの確認をして、自身が使う道具等が入ったポーチを腰に付ける。
「さっきも言ったけど今回厄介なのは、本体がランダムに部屋を移動する事」
「移動する事自体は普通そうな気がしますね」
「なんていうか、当たりの部屋を引くまで探し続けるみたいな?当たりと思ってもいつの間にかそこにはもういないみたいな?だから私が術式で探る。怜ちゃんは部屋を確認」
説明を受けた怜の表情が少し固くなる。由香はそれを見た。
数秒。
それから、少しだけ笑う。
「まぁ、いきなり全部一人でやらせたりしないから安心して」
その言葉は軽かった。
けれど由香自身、火を付けてはいないが口にタバコを咥えている。
怜はその部分に少しだけ違和感を覚えた。
未成年だという事もあり、怜の目の前でタバコを吸おうとはしていなかった。
由香も平気な訳じゃない。
新人を連れて現場へ入る。
その緊張感が、普段と違う行動にそのまま出ていた。
やがて準備を終えた由香が細長い筒のようなモノを取り出し、横に付いてある目盛りをキリキリと回す。調整を終え、筒を地面に打ち付ける。
五芒星の形をした印が浮かび上がる。役目を終えた筒を車内に仕舞う。
「よし、結界の範囲はこんなモンかな。私は向かいの建物の屋上から指示と索敵をするからここで待ってて。準備が出来たら連絡するね」
「分かりました」
由香はそう告げると荷物を背負い闇の中へと駆けていった。
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由香は雑居ビルの屋上へ出ると、フェンス際へゆっくり歩いていく。
夜風が強かった。錆びたフェンスが小さく鳴る。
向かいに見える『ハイツ藤乃』は、昼間よりさらに色を失っていた。窓は暗く、廊下は黒く沈み、建物そのものが、街の景色から半歩だけズレて見える。
由香は片膝をつき、ライフルケースを地面へ置いた。
チャックを開ける。
黒いスナイパーライフルが姿を現す。
慣れた手付きで動作確認をする。
マガジンを装填しボルトを引く音が、夜気の中へ小さく響いた。
由香はライフルを構えたまま、タバコを咥えて火を付けた。
火が一瞬だけ夜へ浮かぶ。
煙を肺へ落とし込む。
ゆっくり吐き出した白煙が、風へ千切れて消えていった。
「お待たせ。始めるよ」
その声と同時に。
由香の瞳がゆっくり細まっていく。
――固有術式。[千里眼・界渡]
視界が拡張される。壁が透ける。配管の奥。天井裏。放置された当時のままの家具。
そして残留瘴気。
術式範囲内の情報全てが、一気に由香の視界へ流れ込んでくる。
由香の眉が僅かに寄る。
「ッ……」
頭の奥を鈍く殴られたみたいな感覚。
由香は気を紛らわせようとタバコを深く吸った。
熱い煙が肺へ落ちる。呼吸を整える。
焦点を合わせ直す。
「デメリットの克服はまだまだか…」
思わず漏れた呟き。
由香が準備をしていたと同時刻。
怜はアパート入口の前に立っていた。
結界内で異界化した瞬間から、空気が変わっている。
外の世界が薄く遠ざかり、目の前の建物だけが異様に濃くなっていた。
古い湿気の空気。それに混じる、錆びた鉄みたいな臭い。
喉の奥へじわりと嫌な感覚が張り付く。
インカム越しに由香の声が聞こえた。
『まずは入口右。管理人室があるから、最初はそこを確認して』
「はい」
怜は小さく息を飲み込む。拳銃を握る手に汗が滲んでいた。
それでも、一歩踏み出す。
床板が軋んだ。その音だけで身体が強張る。
暗い廊下だった。外から見た時より長く感じる。
廊下の奥は黒く沈み、天井の蛍光灯は半分以上真っ暗だ。点滅する白い光が、壁の染みを不気味に浮かび上がらせている。
怜は管理人室の前で止まった。
ドアノブへ手を伸ばす。冷たい。
嫌な冷たさだった。触れた瞬間、背筋を虫が這うみたいな感覚が走る。
心臓の音が大きい。
それでも。怜はゆっくり扉を開けた。
ギィ……。
湿った空気が流れ出てくる。ライトに照らされる暗い室内。古い机。倒れたパイプ椅子。
壁へ貼り付いたまま変色したカレンダー。
そして。
天井の隅。赤黒い染み。
染みに怜の視線が止まる。そこにはただ広がった古い汚れにしか見えなかった。
だが次の瞬間。それが、ゆっくりと蠢いた。
ずるり、と。
湿った肉みたいな音を立てながら、染みが膨らむ。
怜の喉が引き攣る。
赤黒い塊が、天井から剥がれ落ちるように垂れてくる。
真っ黒い目。
上下が逆さまの曲がった首。
人間だった形を、無理やり残している“何か”。
『怜ちゃん』
由香の声が鋭く変わる。
『下がって』
天井からベチャッと嫌な音を立てながら、怪異が目の前に落ちてきた。
「ッ!」
怜は反射的に拳銃を構える。だが、引き金を引こうとするより先に管理人室の窓ガラスが砕け散った。
横殴りに飛び込んできた何かが、怪異の頭部を吹き飛ばした。
黒い液体が壁へ叩きつけられる。怪異の身体が床へ崩れ落ちた。
風に吹かれた砂のように、怪異が消えていく。
…ッッタァァァン…
唸るような音が夜空を切り裂く。
怜は息を止めたまま、その場に立ち尽くしていた。
インカムの向こうで、由香が煙を吐く音が聞こえる。
『今の感じで私が援護するから安心して』
「(早い…!私が構えた時にはもう撃ってたんだ…!)」
その声で、先程の怪異を一撃で葬ったのが由香による狙撃だと気付く。
『じゃあ怜ちゃん、とりあえず3階に移動してくれる?』
「は、はい!」
由香の指示を受けた怜は階段を上がり、
3階の廊下は、1階より更に空気が重かった。
湿っている。最初にそう思った。
まるで建物全体が水を吸って膨張しているみたいだった。
壁紙は黒ずみ、天井には赤茶けた染みが広がっている。どこからか水滴の落ちる音が聞こえていた。
ぽたり。
ぽたり。
その音だけが、異様に耳へ残る。
怜は拳銃を握ったまま、ゆっくり廊下を進んでいた。
『そのまま真っ直ぐ』
イヤホン越しに由香の声。
『本体は今308』
怜は廊下奥を見る。古びた扉。
"308"
部屋番号のプレートだけが妙に赤黒く見えた。
怜は息を整えながら近付く。
その時だった。
由香の声が急に低くなる。
『……いや、待って』
怜が止まる。
『移動した』
「え……?」
『今は307』
由香は屋上で舌打ちした。
界渡越しに見える瘴気が、部屋から部屋へ流れている。
まるで建物内部を血液みたいに巡回していた。
由香はスコープを覗き直す。
『307、いや違う。306』
赤黒い瘴気がまた移動する。
『チョロチョロすんなよ…』
由香はタバコを深く吸った。
視界の奥で、本体と思われる赤黒い残滓がちらつく。
頭痛が増してきた。それでも界渡を切れない。
怜を一人で中へ入れている以上、本体を見失うわけにはいかなかった。
『怜ちゃん、とりあえず306を確認』
「分かりました」
怜は扉の前へ立つ。
冷たい。
ドアノブに触れた瞬間、指先へじっとりした嫌な感覚が絡み付く。
ゆっくり開ける。
暗い。
誰もいない。古い布団。腐った畳。黒ずんだ壁。
部屋の空気だけが異常に重い。
怜は部屋を見回しながら、一歩踏み込んだ。
その瞬間、由香の声が飛ぶ。
『あ、移動した。次は305!』
怜が振り返る。そして気付く。
さっき開けた扉が、閉まりかけていた。
ギィ……。
古い蝶番が鳴る。
怜は反射的に扉を押さえた。そのまま、閉まらないように開け放つ。
すると。
由香の声が一瞬止まった。
『……あれ』
怜が眉を寄せる。
『待って』
界渡越しの瘴気の流れが変わる。
いや。何故か止まっている。
さっきまで部屋から部屋へ移動していた赤黒い靄が、305から動かない。
由香は目を細めた。
「……閉じた部屋しか移動しないのか?」
小さく呟く。
つまり。
扉が閉じている部屋だけ、本体は移動可能だと少ない材料から推測した。
逆に開放された部屋には移動出来ない筈。
由香はタバコを咥えたまま笑った。
『そういう事か』
怜がイヤホンへ小声で言う。
「由香さん……?」
由香の声が少しだけ軽くなる。
『怜ちゃん、今から部屋のドア開けっ放しで進んで』
「え?」
『多分、本体の逃げ道を潰せる』
由香は小さく息を吐く。
『頑張って』
「やってみます!」
その時だった。
廊下奥。ぐちゃり、と。
湿った音。怜が顔を上げる。暗闇の中。壁に張り付くみたいに、人影がいた。
使い魔だった。
首が裂けている。赤黒い顔。
それが、天井を這うみたいにこちらへ迫ってくる。
『怜ちゃん、使い魔。待ってて撃つから』
怜の呼吸が止まりかける。一呼吸置く前に怪異が飛び掛かる。怜は半歩横へ身体を流した。
風を裂く音が耳元を掠める。
避けた。
今までなら固まっていた距離。だが今回は違った。
怪異の動きが見えていた。
怜自身、一瞬理解が追い付かない。
だが、そのまま拳銃を構える。
引き金を引く。
パァンッ!!
狭い廊下へ銃声が炸裂した。
使い魔の肩を撃ち抜き、赤黒い液体が壁へ散る。
低く呻きながら、再び怜目掛けて飛び掛かってきた。
怜は今度は後ろへ下がった。床を滑るように距離を取る。
頭で考えるより先に身体が動いていた。
そして、2発目。
パァンッ!!
放たれた弾丸は使い魔の額を正確に撃ち抜いた。やがて黒い靄になり、崩れる。
静寂。
怜は拳銃を構えたまま、呼吸を荒くしていた。
今の動き。自分でも分からなかった。
だが明らかに、何故か以前より動けている。
由香はスコープから今の一連の行動を全部見ていた。
怪異の初動。怜の回避。反応速度。射撃。
全部。
由香はタバコを深く吸い、ゆっくり吐き出した。
「(…木庵の読み、当たりか)」
地縛荒神。
あの時、怜の身体は怪異に完全侵食された。
そして、木庵は事前に言っていた。
――“肉体側にも何か影響残ってるかもしれない”
だから今回は由香は怪異討伐だけじゃなく、“怜の状態確認”も兼ねていた。
そして今、答えは出た。
怜の身体能力は、確実に以前より上がっている。
ーーーーーーーーーーーーー
廊下へ、火薬の臭いが薄く残っていた。
黒い砂となって崩れた怪異の残滓が、床を這うみたいに消えていく。
怜は拳銃を構えたまま、その場で荒い呼吸を繰り返していた。
心臓の音がうるさい。耳の奥で脈打っている。
だが、今自分が何をしたのか、その感覚だけははっきり残っていた。
怪異の攻撃を避けた。そしてそのまま撃った。
反応出来た。今までなら絶対に間に合わなかった距離だった。
怜自身、一番それに驚いていた。
「……何、今の」
思わず漏れた声。
拳銃を握る手が少し震えている。怖い。
なのに、身体だけが勝手に動いた。
インカム越しに、由香が小さく煙を吐く音が聞こえた。
屋上。
ライフルを構えたまま、由香はスコープ越しに3階廊下を見ている。
そして、由香はゆっくり目を細める。
「(…なるほどね)」
小さく呟く。木庵の予想通りだった。
地縛荒神の件以降、怜の身体は変わっている。
筋力。反応速度。動体視力。神経伝達。
明らかに、人間離れした方向へ少しずつ寄っている気がする。
だが同時に、先程の管理人室で怜は反応出来ていなかった。
あの距離なら、今の動きが出来てもおかしくなかったはずだ。
由香は新しいタバコを咥え、火を点ける。
夜風の中で、小さな火だけが揺れる。
そして、スコープ越しの怜を見る。
拳銃を握る指先。まだ少し震えている肩。呼吸。
完全に怯えている人間のそれだった。
由香はそこでようやく理解する。
「(……身体は動く。でも怜ちゃん本人が追い付いてないのか)」
メンタルは、普通の女の子のまま。
怪異に慣れていない。死線にも慣れていない。だから最初は恐怖で硬直した。
だが、一度“身体が動く感覚”を掴んだ瞬間、今度は反応出来た。
地縛荒神。
あの怪異に肉体を乗っ取られた影響か恐らく、身体そのものが変質している。
だが怜自身は、まだその変化を使いこなせていない。
由香は煙を吐き出した。
「(……そりゃ怖いって言うか)」
身体だけ知らないものへ変わっていく。普通なら、気が狂ってもおかしくない。
由香は昔、木庵が言っていた言葉を思い出した。
『怪異に深く触れた奴は、元には戻らねぇ』
あの時は実感がなかった。
だが今、怜を見ていてなんとなく分かった。
怜はまだ普通でいようとしている。怖がって。悩んで。震えて。
それでも進もうとしている。
だからこそ、余計に危うく思えた。
インカム越しに、怜が小さく言う。
「……由香さん」
『んー?』
「今の……私、避けれてましたよね」
少し困惑した声だった。
由香は数秒黙った。それから、いつもの少し軽い口調へ戻す。
『まぁね』
「なんで……」
『多分、地縛荒神の件』
怜は一瞬戸惑う。由香は続けた。
『木庵も少し気にしてたんだよね。“肉体側に影響残ってんじゃないか”って』
夜風が吹く。由香のタバコの煙が流れる。
『で、今のでほぼ確定』
怜は何も言えなかった。
拳銃を握る手へ視線を落とす。
変わっていってる。自分の知らない所で、少しずつ。
由香はそんな怜を見ながら、小さく息を吐いた。
『でも、何があるか分からないから油断しないでね』
その声は少しだけ真面目だった。
『身体が動いても、ビビったら普通に死ぬと思う』
現場をよく知る祓い屋としての声だった。
『逆に、怖さを忘れた方が危ない。ビビってるくらいが丁度いい」
怜は小さく息を飲み込む。
由香はライフルを構え直した。界渡越しに、怨染棟内部の瘴気がまた動き始める。
赤黒い靄が、ゆっくり廊下奥へ流れていく。
『本体がまた動いた。さっき言ったようにドア開けっ放しでね』
ーーーーーーーーーーーーー
由香の指示通り、1階から順番に部屋のドアを開放していき、最初に入った308号室以外のドアは全て開けっ放しにしている。
本体の移動先を潰しながら徐々に移動範囲を狭めていく。
途中何度か、使い魔による襲撃を受けたが、由香の狙撃で難なく進めていた。
そして今、
『本体が308に固定された」
屋上。
由香はスコープ越しに308号室を睨んでいた。
ライフルを支える腕には、じわりと疲労が溜まっている。
千里眼・界渡をずっと維持し続けているせいで、頭の奥が熱い。
由香はその痛みを紛らわそうとタバコを深く吸う。
肺へ熱を落とし込み、無理やり意識を繋ぎ止める。
『怜ちゃん』
イヤホン越し。少し低い声。
『焦んないでね』
「分かっています」
『巻き込まないようにするけど気をつけて』
怜は小さく息を飲み込んだ。
扉一枚隔てた向こう側に、使い魔とは違う本体がいる。
それが感覚で分かる。
そして怜はゆっくりドアノブへ手を掛けた。
冷たい。
触れた瞬間、氷水へ腕を突っ込んだみたいな寒気が走る。
ギィ……。
扉が開く。暗い部屋だった。
畳は腐り、湿気で黒ずんでいる。
壁紙は剥がれ、天井には赤茶けた染みが広がっていた。
その部屋の奥。壁と床の境目。
そこに、"ナニカ"がいた。
"ソレ"は辛うじて人の形をしていた。
濡れた肉と泥を無理やり混ぜ合わせたみたいな、不定形の塊。
それが、ゆっくり蠢いている。
ぐちゃり。
ぐちゃり。
湿った音。
そして。
怜が一歩踏み出した瞬間。ソレは動いた。ゆっくりと立ち上がる。
長い髪。折れ曲がった首。異様に長い腕。顔は半分以上崩れているのに、目だけが異様に白かった。
怜の背筋へ悪寒が走った。
本体が動く。
「ッ!」
速い。
視界の端で赤黒いものが膨らんだ瞬間には、もう目の前まで迫っていた。
怜は反射的に引き金を引く。
パァンッ!!
だが、外れた。外した訳ではない。避けられた。
本体の身体が、不自然な方向へ捻じ曲がる。
人間なら背骨ごと折れるような動きだった。
赤黒い腕が横薙ぎに振り抜かれる。
怜は咄嗟に身体を引いた。爪先が制服の袖を裂く。
掠りはしたが、当たってはいない。
もし反応が遅れていれば、腕ごと持っていかれていたであろう攻撃。
畳へ赤黒い爪痕が走る。
本体が再び踏み込んできた。
だが、怜の目は今度はしっかりとその動きを追っていた。
本体の踏み込み。動き方。重心。
“どっちへ避けるか”
何となく。本当に、何となくだった。
怜は本体が避ける先へ向かって銃口を向けていた。
パァンッ!!
肩を撃たれた本体は仰反る。黒い液体が壁へ飛び散る。
本体が初めて大きく揺らぐ。
怜自身、息を飲んだ。当たった。
確かに速いが見えていた。
本体が低く唸る。
部屋全体の瘴気が膨れ上がった。空気が震える。
そして、本体が今度は真正面から飛び込んでくる。
怜は横へ流れるように体を逸らす。風圧が頬を掠める。
拳銃を握る腕が跳ね上がる。
パァンッ!!
被弾した腹部から黒い液体が噴き出す。距離を取ろうと身体が後ろへ跳ぶ。
畳へ着地した瞬間、本体の動きが変わった。
逃げる。怜は直感でそう思った。閉じた部屋はもうない。
このままでは別の部屋に移動出来ない。ならば残された出口は、一つ。
本体が窓へ向かって飛ぶ。
ガシャァンッ!!
窓ガラスが爆ぜる。
赤黒い身体が3階廊下側へ躍り出る。地面を這い逃げだそうと駆け出すのと同じタイミングだった。
『逃がさないっての』
次の瞬間。
赤黒い頭部が、空中で弾け飛んだ。
肉塊が崩れ、黒い砂になり、夜風へ吹き散っていく。
…ッッタァァァン…
遅れて発砲音が響いた時には既に怪異は消滅していた。
まるで最初から存在していなかったみたいに。
怜は荒い呼吸のまま、その場へ立ち尽くしていた。
その耳へ、インカム越しに由香の声が聞こえる。
『はい、おーわり』
「なんとかやれましたね…」
異界が解け始めたのは、本体が完全に消滅してから数分後だった。
重かった空気が、ゆっくりと薄くなっていく。
建物へ染み付いていた赤黒い瘴気も、夜風に削られるみたいに少しずつ消えていた。
3階廊下。砕けた窓ガラスが床へ散らばっている。
怜は壁へ背中を預けたまま、その場に座り込む。
全身から嫌な汗が出ている。
拳銃を握っていた右手は、今更みたいに震えていた。
怖かった。本当に。
最後の本体は、使い魔とは比べ物にならなかった。
少しでも反応が遅れていれば、危なかった。
インカム越しに、ガチャガチャと金属音が聞こえる。
由香がライフルを畳んでいる音だった。
『怜ちゃん』
「…はい」
『生きてる?』
少し笑った声。怜は小さく息を吐く。
「……なんとか」
『なら上出来』
その言葉の後、数秒だけ沈黙が落ちた。
由香もようやく緊張を抜き始めていた。
界渡を長時間使っていたせいで、頭痛が酷い。目の奥が熱を持っている。
それでも由香は、屋上のフェンスへ軽く寄り掛かりながらタバコへ火を点けた。
ライターの火が夜へ浮かぶ。深く吸い込む。
肺へ熱を落とした瞬間、ようやく身体の強張りが少しだけ抜けた気がした。
「……はぁ」
白い煙が夜空へ溶けていく。
本体消滅。瘴気減衰。異界崩壊開始。任務終了。
ようやく一区切りだった。
由香はスマホを取り出し、連絡先を開く。
数回の呼び出し音。
『はいはーい、中央営業部です』
軽い男の声だった。
由香はフェンスへ肘を置いたまま言う。
「もしもし、鷹宮です」
『あー、お疲れ様です。終わりました?』
「今終わったとこです。怨染棟の本体は祓いました」
『了解です。被害状況は?』
「建物内の損壊ちょい増えましたけど、異界内で収まってます。民間被害なし」
夜風が吹く。
由香はタバコを咥え直した。
「後処理お願いしていいですか?」
『了解しました。30分くらいで着きます』
「お願いします」
『新人サンは大丈夫です?』
由香はアパートの方を見る。砕けた窓の向こう。
廊下へ座り込む怜の姿が小さく見えた。
「大丈夫、無事ですね」
『それは良かったです」
営業の男は冗談っぽく笑う。
「そんじゃ、後は任せました。失礼しまーす」
通話を切る。
静かな夜だった。異界が薄れていくにつれ、遠くの車音が少しずつ戻ってくる。
現実が戻ってくる。
由香はタバコを吸いながら空を見上げた。
さっきまであれだけ濃かった瘴気も、もうかなり薄い。
由香は煙を吐きながら、小さく呟く。
「……ま、今回はまだマシか」
今まで祓ってきた最悪の案件じゃない。
死人も出ていない。怜も生きてる。それだけで十分だった。
ーーーーーーーーーーーー
数分後。
由香は3階廊下へ上がってきた。
ライフルケースを肩へ掛けたまま、砕けたガラスを踏んで歩く。
ジャリ、と乾いた音が鳴る。
怜は壁へ背中を預けたまま座り込んでいた。
制服の袖は裂け、呼吸もまだ少し乱れている。
由香はその横へしゃがみ込んだ。
「お疲れ」
怜は小さく顔を上げる。
「……由香さん」
「ん?」
少し沈黙。
怜は、自身の手を由香に見せる。
拳銃を握っていた右手。まだ少し震えている。
「……見てください。めっちゃ震えてます…」
茶化したような言い方に由香は少しだけ笑う。
「そりゃそう」
「私も今でも普通に怖いし」
怜が少し目を瞬く。
由香は廊下奥を見る。赤黒い染み。壊れた窓。
そういうものを見ながら、静かに言った。
「怪異慣れして平気になるってより、“怖くても動けるようになる”って感じかな」
夜風が吹く。
砕けた窓から、少し冷たい空気が流れ込んでくる。
「……まぁでも」
由香は怜を見る。
「今日の怜ちゃん、ちゃんと頑張ってたよ」
その言葉に、怜は少しだけ視線を落とした。
嬉しいとかじゃない。安心に近かった。
生きて帰れた。
その実感が、今になってゆっくり身体へ戻ってくる。
恐らくもうしばらすれば営業達による現場処理が始まる。
このアパートは取り壊しになるだろう。
ここで怪異が祓われたことも。人が死にかけていたことも。
誰も知らないまま、全部夜の中へ埋もれていく。
怜は暗い廊下を見つめる。
さっきまで、あれほど濃かった瘴気はもう消え始めていた。
だが3階最奥、"308"の数字プレートだけは、最後まで妙に赤黒く見えていた。
to be continued…
平均文字数がまぁまぁ長いのは自覚しているので、可能な限り削るなり調整はしたいですが、執筆初心者なんで調整が難しいです。アレも入れたいコレも入れたいが多くて…。
とはいえ、もうちょい短くなるよう頑張ります。
ここまで見てくださってる方ありがとうございます。
今後もよろしくお願いします。