《さあレースも終盤に突入する! 先頭集団が最終直線に一団となって入って来たぞ! おっとここで5番ホットシューが集団から抜け出した! そのまま逃げる逃げる! 懸命に粘っている!》
《しかし来た!来た!来たぞ1番人気3番ヴェニュスパークだ! 中団から外に抜け出してとんでもない末脚で飛んでくる! なんて脚だ!これが本当に未デビューのウマ娘の脚か!?》
《そのまま5番との先頭争いに……ならない!! 一気に5番を抜き去ったッ!! そのまま2バ身、3バ身! これは決まった!完全なセーフティだ! 今3番ヴェニュスパークが圧倒的リードでゴールイン!! これがフランスの未来の《
大きな歓声に沸き立つドーヴィルレース場。
観客達のスタンディングオベーションによる、拍手の雨がターフに降り注ぐ。
今日はドーヴィルレース場で、まだデビューができる段階まで身体が成長をしていないアマチュアの競走ウマ娘達による、レース大会が開催されていた。
こういうアマチュアのレース大会は、フランス各地で開催されている。
デビュー前の競走ウマ娘達による
日本にもそういう大会はあるが、やはり本場だけあって開催規模は比べ物にならない。
フランスの国土は広い。聞いた話では地方独自の発展を遂げた珍妙奇天烈な大会なんてのもあるくらいらしい。
……あの日から、1年が経っていた。
ヴェニュスパーク……パーク、は今日のドーヴィルのレース大会に参加した。そして今僕の目の前で、その天才性を発揮し圧倒的な実力を示した。
実況の中でも言われていたが、今世間では僕達チームメンバーが彼女を呼ぶ時にたまに使っていた《お姫様》という呼び名が定着している。
未来のヒロインとして、そしてその呼び名に相応しい可愛らしさと愛嬌を持つ彼女を、フランス中が注目しているのだ。
実際に話題の彼女を一目見ようと、多くの観客がドーヴィルレース場に押し掛けており、とても一地方のアマチュア大会とは思えない盛況ぶりとなっている。
彼女の圧倒的な勝利に沸き立つ観客達。
世間での評判通りの実力と可憐さを、満天下に知らしめる彼女に、観客達は魅了される。
ウイニングランの最中でも、彼女はファンサービスを欠かさない。
愛嬌たっぷりに笑顔で観客に手を振り返す彼女は、まさしく《お姫様》のようだ。
それを見てまた一人、一人と彼女の
……だが、僕は知っている。
彼女の天使のような、その笑顔の裏に秘められているものを。
《タクヤー! 私勝ったよ♪ ちゃんと見ててくれた?》
ウイニングランを終えて、僕の元へ戻ってきたパーク。
勝利によってご機嫌な彼女の耳は忙しなく動き、尻尾は大きく左右に揺れている。
すごく良い走りだったよ。お疲れ様、パーク。と、僕は彼女に労いの言葉をかける。
僕の言葉に再び天使の笑顔を浮かべた彼女は、そのまま僕に抱き付いてきた。
走り終えたばかりの、彼女の熱い体温が僕に伝わってくる。
そして彼女は、自分の頬と僕の頬を合わせてきた。ビズというやつだ。
彼女にされるがままに、僕はそのビズを受け入れた。
そのまま何秒経ったのか。
ビズをやめて、彼女の顔が僕から少し離れる。
《……タクヤ……》
熱っぽい彼女の吐息。
レースの熱で浮かされて、上気した顔が僕の目の前にあった。
……あの時と同じ、昏い瞳だ。
彼女の顔が、正面から僕に近づいてくる。
僕と彼女の影が、ゆっくりと重なっていく。
……僕は顔を背けて、それを拒否した。
《…………あ……》
それは最後の一線だった。
彼女の顔が、悲しみに歪むのが見えた。
僕の心が、またズキリと痛む。
《……むう、タクヤったら「オクユカシイ」なんだから》
どこでそんな日本語を覚えたのか。
気が付くと、いつもの彼女に戻っていた。
パークは頬をプーっと膨らませて、可愛らしく拗ねている。
だがそれも一瞬の事で、すぐにパークは花が咲いたような笑みを浮かべた。
《いいよ、私はいつまででも待ってるからね》
その言葉に、僕は何も返事を返せなかった。
彼女は僕の横をすり抜けて、自分の控え室へと入っていく。
僕はその背中が見えなくなっても、その場から一歩も動けなかった。
――――――――――――――――――――
あの日から1年の間に、パークの心の歪みには様々なアプローチを行ってきた。
僕と老トレーナーは、思い付く限りの様々な精神療法やカウンセリングを彼女に受けさせた。
自分がそこまでの治療対象だという事に納得がいかず、不満そうにする彼女を宥めるために随分と骨を折ったりもした。
だが全てが空振りに終わり、今も彼女は僕に依存したままだ。
彼女の世話も1年以上続いてしまっている。
毎朝彼女を家まで迎えに行き、夜まで彼女と共に行動する。半同棲のような生活だ。
半同棲であって、同棲ではない。つまり彼女の家での寝泊まりまではしていなかった。
老トレーナーがそれを許さなかったからだ。
トレーナーというものは、ウマ娘を鍛える者というだけではなく、他人様の子供を預かる教育者でもある。
そもそも僕は未成年で、親と共に暮らしている。
いかに色々と緩い欧米国といえど、自分の失態のせいでただでさえ迷惑をかけてしまっている子供に、さらに親元を離れさせるなどという、これ以上の苦労をさせてはいけないと老トレーナーは思っていたのかもしれない。
パークも一応はそれに納得してはいたものの、僕が夜になって帰る時になると、とても寂しそうな表情を浮かべていた。
僕は時間の許す限り、パークといつも一緒にいた。
そして贖罪のように、甲斐甲斐しく彼女の世話をし続けた。
その結果、彼女が《お姫様》と呼ばれ始めてしばらくすると、僕の事を《お姫様の執事》と呼ぶ人が現れ始めた。
何も事情を知らない人からすれば、僕は未来のヒロインである彼女に、身を粉にして仕える忠誠心の高い付き人のように見えたのだろう。
実際あながち間違いではない。だから僕は否定も肯定もしなかった。
……パークだけは、僕のその呼び名を聞いて嬉しそうにしていた。
姫とその従者。まるで漫画の登場人物のようなその関係に、少女としての感性を揺らされたのだろう。
僕はパークの嬉しそうな顔を見て、複雑な自分の心を押し込めた。
僕と一緒にいる時のパークは、まさに「無敵」だった。
どんなレースでも、どんな相手でも負けることはない。常勝無敗の最強ウマ娘。
もちろんそれはアマチュアの話で、現役の競走ウマ娘を相手にすれば話は別だったが。
しかし、そんなステージが違う相手ですら食らいつく事ができるほどの異常な強さだった。
本格化を迎えてすらいないのに、現役で活躍するウマ娘に勝つことすらある、まさに天に選ばれたとしか思えないほどの才能。
僕は、そんな稀代の天才を歪めてしまった元凶として、いたたまれない気持ちにずっと
そうして、二人の歪な関係の日々は過ぎていった。
――――――――――――――――――――
ドーヴィルの大会から数ヶ月後。
僕はパークのトレーニングを見ている時に、老トレーナーから呼び出しを受けた。
パークに僕が少し離れる事を伝えると、彼女の耳はシュンと倒れ、尻尾の動きが止まる。
彼女が僕のそばに来て、僕の服の裾をギュッと掴む。
彼女の昏く青い瞳が、不安気に揺れていた。
……最近は、彼女の僕への依存がより酷くなってきた。
少し前までは、ここまでではなかったのに。
―――私はいつまででも待ってるから。
彼女は先日のレース大会で、僕にそう言った。
しかし今の彼女からは、まだ余裕があったあの時の雰囲気がほとんど失われている。
……こんなにも、悪化するなんて。
僕は一体、どうすればいいんだろう……。
……ごめん、すぐ戻るから。と彼女に言って、僕の服の裾を握る彼女の手を離し、背を向ける。
彼女の悲しげな視線を背中に感じ、後ろ髪を引かれながらも老トレーナーの元に向かう。
事務所のトレーナー室に入ると、そこには老トレーナーだけでなく、もう一人スーツを着た壮年の男性がいた。
まったく見覚えのないその男性に僕は一瞬
お疲れ様、いつもごめんなさいね……。
と、老トレーナーから労られる。
……最近は、いつもこんな感じだ。
ここしばらく、老トレーナーから「ありがとう」などの明るい言葉を聞いた覚えがない。
僕と顔を合わせる度に、老トレーナーには謝罪の言葉を言わせてしまっている。
僕のやってしまった事が、老トレーナーに心労をかけ続けている事に、やるせない思いだった。
貴方に紹介したい人がいるの。と老トレーナーに言われ、僕は向かいのソファーに座っていたスーツの壮年男性に目を向ける。
僕と目線を合わせた男性は、僕に挨拶をし始めた。
―――初めまして。君がかの《お姫様の執事》かね。君の事は噂でよく聞いているよ―――
僕は男性のその言葉を聞いて、心の中で顔を
その呼び名は、僕にとっての罪のようなものだ。
あまり聞きたいとは思えない言葉だった。
すると、その雰囲気が伝わってしまったのか。
男性は僕に頭を下げて、気を悪くさせたなら申し訳ない。と謝意を示した。
いえ、大丈夫です。気にしていませんから。と僕は慌てて返す。
……一体、この人は何者なんだろうか?
僕がそう思っていると、男性は僕に名刺を差し出してきた。
その名刺には、男性がパリのレースチームのトレーナーである事が書かれていた。
……パリのトレーナー? この人が?
それを見て、ますます僕の中で疑念が湧いてくる。
パリのチームが、面識も何もないこの僕に一体何の用があるというのか?
そう思っていると、男性が今回ここへ来た訳を話し始めた。
―――それを見てもらってわかる通り、私はパリのとあるチームのトレーナーを務めている。
今回君に会いに来たのは、もちろん《お姫様》ヴェニュスパークの件だ。
彼女はここのトレーナーに聞く限り、心に病を抱えているそうだね。
……ヴェニュスパークはフランスの至宝となり得るウマ娘だ。是が非でも完癒してもらわなければならない。
私のチームならば、それをなんとかできるかもしれない。
正確には、チームに所属する一人のウマ娘だがね。
そこで君にはヴェニュスパークに帯同し、一緒にパリに来て欲しいのだよ―――
僕は男性の話を聞いて驚愕した。
僕とパークが一緒にパリに?
パークの事をなんとかできるウマ娘?
そんなウマ娘が本当にいるのか?
様々な疑問が、僕の頭の中を埋め尽くしていく。
そんな事を考えていると、老トレーナーが男性の話を補足し始めた。
―――貴方は「共鳴」と呼ばれるものを知っているかしら?
……知らないわよね。当然だわ。
ウマ娘にはまだまだ未解明な部分が多い。
ウマ娘には、他のウマ娘と「共鳴」と呼ばれる現象を引き起こすケースがあるの。
レース中でも、同等のレベルのウマ娘同士が競り合うと、稀に起きると言われているわ。
それはウマ娘の魂を震わせ、更なる飛躍を遂げさせることもある現象なの。
ヴェニュスパークは、類い稀なる才能の持ち主。その「共鳴」を引き起こす為には、それ相応の力を持つウマ娘でなくてはならない―――
僕は老トレーナーから初めて聞いたその言葉に、しばらく理解が追いつかなかった。
「共鳴」……ウマ娘同士が、魂を震わせ合うという現象。
これをパークに引き起こす事ができれば、彼女の心の病がどうにかなると?
老トレーナーの事は信じている。
だが、あまりにも突飛で荒唐無稽な話に、僕の頭の中は混乱していた。
話の内容に困惑していると、老トレーナーは僕の手を握って、目を合わせながら真剣な声で僕に語りかける。
―――……これは、賭けよ。
この1年と数ヶ月。あらゆる方法で彼女を治療しようとしたけれど、全て徒労に終わったわ。
このままだと、彼女も貴方も共に倒れてしまう。
それは私にとって、トレーナーとしても一人の人間としても絶対に許されない事よ。
彼女がこの「共鳴」によって、傷ついた魂を復活させる。
残された可能性は、ここにしかないのよ―――
僕は、老トレーナーの秘められた悲壮な決意を知って、衝撃から思考が止まっていた。
言葉を失ってしまった僕の目を、老トレーナーの真剣な眼差しが射抜いている。
ふと老トレーナーの両手に包まれた、自分の手に目を落とす。
……老トレーナーの手は、小さく震えていた。
歴戦のトレーナー。大勢のウマ娘を育ててきたその手が、細く頼りなく見えてしまう。
……僕が招いてしまったこの事態は、ここまで深刻になってしまった。
賭けるしかない。
それがどんなに突飛で荒唐無稽な話でも、パークが助かるにはもうそれしかない。
僕は決意した。
わかりました。パリに行きます。
僕は二人にそう告げた。
―――……ありがとう―――
老トレーナーは