引いては寄せる波の音。
海鳥達の鳴く声の音。
少ない人通りの話し声の音。
私は海際の遊歩道にあるベンチに座って、隣に座る彼と腕を絡めながら、静かなドーバーの海を眺めていた。
もうすぐ冬だ。
ドーヴィルの冬は寒いし、太陽が雲に隠れる事が多い。
冬の兆しを感じさせる空気に、私は少しブルリと身を震わせた。
すると、彼が私を包むように腕を背中から回して身体を寄せてくれる。
こういう気遣いが、とっても嬉しい。
私はやっぱり、彼の事が大好きなんだなって実感する。
寒いかい? と声を掛けられた。
私は、今凄く暖かくなったよ♪ と笑顔で返事をする。
結婚してもう何年も経つのに、私達は新婚のままみたいにイチャイチャしている。
でも仕方ないよね。大好きなんだし♪
そんな浮かれた事を考えてたら、もう一人の体じゃないんだからね? と彼から呆れたように言われる。
そう。私のお腹には新しい命が宿っている。彼との子だ。
まだまだお腹は目立っていないけど、確かにいるのを感じる私達の子供。
「それ」を知った時は、天にも昇るような幸せな気分になれたものだ。
わかってるよ、心配性だね。と彼に言葉を返す。
私の表情は、これ以上ない笑顔だった。
そういえば、名前はどうしようか? と聞かれる。
もう、気が早いんだから。予定日はずっと先だっていうのに。
でも私は、子供が出来たなら付けたい名前はもう決めてあった。
私は自分のお腹を摩りながら、彼にその名前を伝える事にした。
この子の名前はね――――――
――――――――――――――――――――
《……えへへ……タクヤぁ……》
「…………この子はもう……パークちゃん、起きなさい」
身体を揺さぶられる感覚。
私の意識が少しずつ浮上していき、瞼が薄らと開いていく。
《…………んぅ?……誰ぇ……?》
「……なんて言ってるのかわからないけど、私よ。同室のエキサイトよ」
半覚醒した私の目の前には、一人のウマ娘がいた。
見覚えのない……いや、ある。
トレセン学園に来てから同室になった、エキサイトスタッフさんというウマ娘の人だ。
……あれ? ……じゃあさっきのは?
私とタクヤの子供は? どこいったの?
私は寝ぼけながら、自分のお腹を摩ってみる。
……全然何の変哲もない、いつも通りの私のお腹だ。
…………あれぇ?
「……エキサイトさん。私の子供はどこいったのか知らない?」
「はあ?子供? ってあなた子供がいるの!?ウソでしょ!?」
エキサイトさんが、目玉が飛び出そうなくらい驚いている。
そのあまりの驚きように私もビクッとして、段々と意識がハッキリしてきた。
…………あー、そっか、夢かぁ……。
私は自分のベッドの上……じゃなかった。下でガックリと項垂れた。
どうやら、寝ている間にベッドから落ちてもいたらしい。
私って朝に弱いからなぁ。
「……どんな夢を見てたかは知らないけど……もう起床時刻よ。早く起きて準備したほうがいいと思うわ」
「…………はーい……」
「まったくもう……朝から心臓に悪い子ね。姉さんといい勝負してるわ……」
そう言って、呆れながらエキサイトさんは先に部屋から出ていった。
彼女の言う姉さんというのは、エキサイトさんの双子の姉の事だ。
サルサステップという名前のウマ娘だそうで、どうも私と同じく朝が弱いらしい。
今までは同室だったから起こすのを手伝えていたそうだけど、私が留学してきた事で彼女と姉はそれぞれ違う人と部屋を割りふられ直されたとの話だ。
エキサイトさんは、だらしない姉が新しい同室の人と面倒を起こさないか心配していたけど、どうもその新しい人が結構なしっかり者だったらしく、少し安心したらしい。
……この話を後でフォークインにしたら、頭痛を抑えるように額に手を当てていた。
何故かは私にはわからなかったけど。
それはともかく、エキサイトさんが言うようにもう起床時刻は過ぎている。
留学してきてから色々と問題行動を起こしているんだし、遅刻するわけにはいかない。
私は慌ててベッドの下から起き上がって、身支度を始めた。
――――――――――――――――――――
起床時刻は少し過ぎていたけど、実際にはまだまだ始業まで余裕がある時間だ。
私は寮を出て、周りの人達に挨拶しながらゆっくり登校していた。
……私が挨拶すると、なんだか物珍しいものを見るような視線がちょっと混ざってるのは気のせいじゃないだろう。
フランス出身の留学生というのは日本には中々いないらしいし、そういうものなんだろうけど。
でも、それだけじゃないような気がするんだよね……。
なんというか、浮ついてるというか色めき立っているというか。
何となく桃色?っぽい意思を感じる。
そんな事を考えながらテクテク歩いていたら、校門に着いた。
校門ではたづなさんが登校する生徒一人一人に朝の挨拶をしている。お疲れ様です。
「おはようございます。たづなさん」
「あら、ヴェニュスパークさん。おはようございます」
しっかりオジギをして挨拶を交わす。
日本じゃこれが目上の人に対する作法だと、以前にトレーナーから教わった。
トレーナーといってもタクヤの事ではない。ドーヴィルでの私のトレーナーの方だ。
トレーナーは、昔何度も日本に行った事があったので、長期に渡日する私に礼儀作法や常識を色々と教えてくれていた。
私が日本で恥をかかないように。とみっちり仕込まれたから、変な仕草にはなってないはず。
……そういえば、師匠がそこに悪ノリして、別れ際に変な事?を仕込まれそうになったんだよね。
なんだっけ。ヨトギ?とかいうのを教えられそうになったのを、トレーナーが必死に止めてた事があった。
あの時のトレーナーの剣幕は凄かったなぁ。
あんなトレーナー、今まで見た事なかったよ。
師匠だって凄いウマ娘なのに、トレーナーも一歩も引かずに睨み合ってたからね。
貴方ともあろうものが、子供になんて事を教えようとしているの!? とか、私はパークの為を思って……。 とか。
その時の私は、頭に「?」が浮かんでいただけだったんだけど。
「……聞いてますか? ヴェニュスパークさん。今日はあまり問題を起こさないでくださいね?」
「うっ……はーい。わかってます、たづなさん」
取り止めもなくそんな事を考えていたら、たづなさんに釘を刺されてしまっていた。いけないいけない。
今日こそは、私も品行方正な留学生にならなければ。
私を送り出してくれた皆のためにもね。
むん。
私は改めて気合を入れ直しながら、トレセン学園の校門をくぐって行った。
まだまだ
日本のフゼイに少し感じ入りながら歩いていると、突然私の目の前に一人の生徒がズザザーと靴音を鳴らしながら立ち塞がった。
「来たわねパーク!」
「あ、スイープちゃん。Bonjour♪」
「あ、うん。ボ、ボンジュール」
その子は魔女のとんがり帽子のようなものを被った、可愛らしい小さなウマ娘だった。
勢い込んで私の前に滑り込んできたけど、私がフランス語で挨拶すると少し気勢を削がれたように見える。
この子はスイープトウショウちゃん。
なんでも、見た目通りに魔女に憧れている女の子らしい。
この子が魔術の本場だと思っているヨーロッパから来た私に、留学初日から話しかけてきてくれた事から友達になった子だ。
もちろん私は魔術には詳しくなんてないから、彼女の期待には応えられずちょっとガッカリされたけど。
それでもそんな事に関係なく、私と仲良くしてくれている優しい子だ。
挨拶もそこそこに、スイープちゃんが腕を組んでコテンと首を傾げる。
「ところでパーク。アンタ、なんか昨日もまた騒ぎを起こしたらしいわね」
ギクッ。
「……うん、まあね……色々あったんだよ」
「アンタねぇ、留学してきたばかりなのにそんな問題ばっか起こして大丈夫なの?」
「大丈夫……だよ、たぶん……」
たづなさんにさっき釘を刺されたばかりです。とは言えなかった。
というか、なんか朝からチラホラと妙な目で見られてるのって、多分それが原因だよね……。
そんな風に悶々と考えていると、スイープちゃんの後ろから小走りで近寄ってくる生徒が見えた。
「ス、スイープさーん。待ってくださ〜い」
「あ、遅いわよキタサン。ちゃんと着いてきなさいよね」
「はぁ……スイープさんが突然走り出すからですよぉ……」
「キタサンちゃんもいたんだ。Bonjour♪」
「あ、パークさん。おはようございます!」
私に向かって元気よくペコリと頭を下げる、スイープちゃんより大分大柄な女の子。
キタサンブラックちゃん。この子もスイープちゃんと同じく留学初日から私と友達になってくれた子だ。
スイープちゃんが私に話しかけてきた時に、一緒にいた事から仲良くなった。
なんでも日本では有名な
最近本格化で急成長を遂げていて、私とも結構体格に差がある。
私も本格化で成長してるはずなんだけどな。
そんな事を思ってたら、キタサンちゃんが両手を胸の前に、ズズイッと私に向けて身体を乗り出してきた。
「パークさんパークさん。トレーナーさんともう担当契約したって本当ですか?」
「え、うん。そうだよ」
「うわぁ〜、やっぱり本当だったんですね! おめでとうございます!」
「あ、ありがとうキタサンちゃん」
キタサンちゃんに両手を掴まれて、ブンブンと上下に振らされる。
なんというか、感情表現がすごくわかりやすい子だなぁ。
「っていっても、それ関係でなんか問題起こしたらしいわよ?」
「え!? そうなんですか!?」
「アンタ知らなかったの? 遅れてるわねぇ」
フフーンと横で小さな胸を張るスイープちゃん。
そういう彼女だって詳細は知らないのに、何故か得意げだ。
尊大な態度を取っているのにどこか微笑ましいのは、彼女の子供っぽさのなせる技というかなんというか。
「ま、まあその辺は歩きながら話すよ。とりあえず教室に行こっか?」
「そうですね。一体何があったんですか?」
「アタシも聞きたいわ。何やらかしちゃったの?」
話をしながら、私達は三人並んで校舎に向かった。
校舎の入り口までそんなに距離もなかったし、私の留学条件の事は伏せて端折ったけど、二人は私が話すアレソレに色々な反応を示した。
私とタクヤの出会いや、担当契約の約束の経緯を話したら、二人は目をキラキラさせていた。
まあ自分で言ってても、昔交わした約束を守る為に国を越えてきた少女。なんてシチュエーションは、かなり女の子が好きそうな話だとは思う。
でも、実はもう一人私と同じ存在がいて、もろにその子とバッティングを起こした私はケンカをしてしまった。と言ったら二人は、ええー!? ともの凄く驚愕していた。
けどその後、私とその子はどっちがタクヤを自分の方の国に連れて帰るのか対立してる。という話をしたら、ん?連れ帰る……? と首を傾げられた。
何でだろう。変な事は言ってないはずなんだけど。
――――――――――――――――――――
三人で校舎の中に入る。二人とはクラスが違うので下駄箱でまた後で、と別れた。
何故か首を傾げたままの二人の背を見送り、私も自分のクラスの教室へ向かう。
教室の扉を横にガラガラと開けると、クラスメイト達はまだ
始業まではまだ余裕がある時間なので、教室のあちこちで談笑しているみたいだった。
おはよーパークちゃん
Bonjour♪ おはよーみんな
はよー朝から元気だねー
えへへ、ありがとー
パークちゃん昨日のアレ凄かったねー。すっごい噂になってるよ?
う……やっぱりそう? 恥ずかしいなぁ……
教室に入った私は、クラスメイトの子達とそんな挨拶を交わしながら自分の席に向かった。
……最後の一つで、顔が赤くなっちゃったけど。
自分の席に着いて座ると、隣の子が私に話しかけてきた。
「おはよう、有名人」
「……おはよースカーレット」
ダイワスカーレット。ボリュームのある赤毛をツインテールにしたクラスメイトのウマ娘だ。
彼女は呆れた顔をして、私をジト目で見つめていた。
「アンタ留学早々に何やってるのよ……もう学園中で噂になってるわよ?」
「ふ、フカコーリョクだったんだよ……」
「この間はトレーナーの腕を引っこ抜こうとして、今度は痴話喧嘩の末に制服でトラック爆走事件。何?フランスじゃそれが流行りなわけ?」
「そんなわけないよ……」
チクチクと私の罪状を並べ立てるスカーレット。
もう言わないでぇ……わかってるから……。
私が赤い顔で俯いていると、スカーレットを挟んで反対側に座っていた生徒も話しかけてきた。
「まあまあ、スカーレットもそのくらいにしといてやれって。どうせ会うヤツ皆から言われてんだろーしな。いいじゃねーか、そのくらい破天荒な方がカッコいいぜ?」
「ウオッカ。おはよー」
「おう、おはよーさん」
ちょっと変な角度からの援護射撃だったが、スカーレットにチクチクされていた私にはありがたかった。
ウオッカ。この子もクラスメイトの一人だ。
男の子っぽい感性を持っている子で、日々カッコいいとは何か。を追求しているというちょっと変わった子だ。
ちなみにバイクが趣味(持ってないけど)で、スカーレットとは同室なんだとか。
「そんなこと言って、甘やかしちゃダメよ。この子ちょっと天然っぽいところがあるし、ちゃんと見ててあげないと」
「母ちゃんかよお前は。パークだってちゃんと分かってるって。あんだけたづなさんに絞られたんだしな。な?パーク」
「そ、そうだね……もうイシダキは懲り懲りだよ……」
私は日本独自の刑罰であるイシダキの凄惨な恐怖を思い出し、ブルブルと身震いした。
……思い出したら、ちょっとだけ脚が痛くなってきた気がする。これが
イシダキこわい。
「……そういやあの石抱き用の軽石、どっから持ってきてんだろうな?」
「……さあ。トレセンのどこかにそういう部屋があるとか?」
「…………」
「…………」
「……この話はやめとくか」
「……そうね」
プルプル震えている私を他所に、二人は神妙な顔をしてお互いに何か協定を結んだようだった。
そんな事を話していたら、始業のチャイムが鳴って担任の先生が教壇に立った。
「おはようございます皆さん。では出席を取りますので、呼ばれたら返事をしてくださいね」
――――――――――――――――――――
午前中の授業も
私とスカーレットとウオッカは、三人で談笑しながら食堂へと移動する。
ウオッカは午後の授業だりーなぁとか言って、スカーレットにアンタ午前中ちょっと寝てたでしょとか小言を言われている。
凸凹だけど仲が良い二人だ。
まだ出会ったばかりなんだけど、遠くから留学してきて少し心細かった私も二人の優しさに随分救われている。
スイープちゃんやキタサンちゃんもいるし、トレセン学園は優しい人ばかりで本当に良かった。
それとここの食堂。ここのご飯が本当に美味しいんだよね。
タクヤの作ってくれたご飯も美味しかったけど、それに負けないくらい美味しいと思っている。
「じゃあ私が席を取っておくわ。私は日替わりAセットでよろしくね」
「おう、頼んだわ。んじゃパーク、行くか」
「
スカーレットが席取りをしてくれたので、私とウオッカの二人でご飯を取りに行く。
流石に生徒数が数千人もいるからか、注文口はちょっと混雑していた。それでもそれなりの速度で人が捌けていくから、職員の熟練具合が見て取れる。
私は列に並んでいる間、今日は何を食べようかな? と壁に架けられている日本語で書かれたメニュー表を読んでいると、気になる文字を見つけた。
ラーメンだ。
日本の国民食であり、ソウルフード。
私も向こうではよくカップヌードルを食べていた。
トレーナーにバレると怒られちゃうから、家でしか食べられなかったんだけど。
でもせっかく日本に来たんだし、本場のラーメンを食べてみたかったと思っていたので今日はそれにしようと決めた。
列も順調に進んでいき、私の番が来た。
列自体は2列だった為、そんなに待たされる事もなかった。良い匂いでお腹も空いてたし、ありがたい事だ。
ウオッカは私の前にいたので、先にスカーレットの分のご飯も持って席に向かって行った。
私も職員の人に向けて、笑顔で自分の注文を伝えた。
「「ラーメンくださ〜い」」
……見事に誰かと注文の声がハモる。
隣を見ると、私と同じ注文をした生徒もこっちをキョトンと見つめていた。
「…………」
「…………」
短い空白の時間。
同じ注文をした誰かとしばらく見つめあっていると、その人は私にニコッと笑顔を向けた。
私もなんだか可笑しくなってきて、二人の間で笑みが溢れた。
「あはは、奇遇だね〜」
「えへへ、そうですね」
笑い合っていると、注文したラーメンが乗ったお盆が同時に出されたので、それを持って二人一緒に列を離れる。
私がスカーレット達の席に向かおうとすると、ねえねえ。とラーメンの人から呼び止められた。
「君って、噂のヴェニュスパークちゃんだよね?ひょっとして貴方もラーメン好きなの?」
―――これが、今後長い間ラーメンの師匠としてお世話になる、ファインモーション師匠との出会いだった―――