パークはフランス版のちょっと成長したテイオーのイメージと言った人は天才だと思う。
数日後。
僕は一軒のアパルトメントの前に立っていた。
時刻は午前の8時。
ここに来るまでに通りかかった、オープンカフェからのモーニングの食欲をそそる匂いを感じながらやってきた訳だけど……。
今更ながらちょっと緊張してきた。
老トレーナーからの頼みとはいえ、一人暮らしの女の子の家にお邪魔する事になるとは。
……まあ、フォークインと同居してた僕が今更何をとは思うけども。
でも、彼女はどっちかというと家族みたいなものだったし。これから会うヴェニュスパークは友達だから心持ちが全然違う。
まあとはいえ、これはチームの為でもあるのだ。
僕は余計な事をできるだけ考えないようにして、気持ち深めに息を吸ってから、意を決して彼女の部屋のインターホンを鳴らした。
ピンポーン。
……。
…………出ない。
もう一度鳴らす。
ピンポーン。
…………。
…………………出ない。
……あれ? おかしいな。
僕が今日の朝来る事は、老トレーナーから連絡されてるはずなんだけど。
もう一度鳴らす。
ピンポーン。
…………。
…………やっぱり出ない。
どういう事なんだろうか。僕と入れ違いでどこか出掛けたのか?
いや、そんな事はないはず。老トレーナーからはしばらく外出を控えるように言い渡されてたし。
となると……。
―――まさか、意識を失って出られない状態なのか?
僕の顔がサッと青ざめる。
慌ててポケットの中にある老トレーナーから貰った鍵を取り出し、扉の鍵穴に差し込んで回す。
扉を勢いよくバンッと開いて、ヴェニュスパーク!大丈夫!? と家の奥まで届くよう声を掛ける。
……返事がない!
ごめん!お邪魔します! と言いながら寝室であろう部屋の前まで走り、部屋のドアを開ける。
いた!
ベッドの上に人一人が入っているかのように、こんもり膨らんだ毛布があった。
頭まで潜り込んでいるからか顔は見えない。
ヴェニュスパーク! と名前を呼びかけながらベッドに走り寄り、膨らんでいる毛布を剥いだ。
―――僕はこの時、失念していた事があった。
フランス人は、眠る時には薄着の人が多いという。
お国柄というか、寝る時にはいわゆる「自由」なスタイルを好む人が多いらしいという事を―――
毛布をガバっと上に
毛布の中から現れたのは、ムニャムニャと緩んだ顔で熟睡してるだけのヴェニュスパークだった。
そう、ただグッスリ寝ているだけのヴェニュスパークだったのだ。
……何も服を着ていない、という一点を除けば。
――――――――――――――――――――
―――本当に申し訳ありませんでした!
数十分後。
僕はヴェニュスパークの家のリビングで、日本式謝罪術奥義土下座を敢行していた。
僕の前には、顔を真っ赤にしてモジモジしながらソファーに座っているヴェニュスパークがいる。
ちなみに、もう服はちゃんと着ている。
《いや、私の方こそごめんね。私ってあんまり朝が得意じゃなくて……》
客観的に見ると、僕は無断で女の子の家に押し入り、寝てる彼女の裸を無理矢理見たゲス野郎だ。
しかし彼女は、そんなゲス犯罪者の僕を寛大な心で許してくれた。
だけど僕は、あまりの申し訳なさから土下座をそのままに彼女に平伏し続けていた。
《も、もういいから顔を上げて! タクヤは悪くないから!》
そう言われて、僕はようやく土下座をやめて顔を上げた。
まあトラブルはあったが、とりあえず彼女の容態に変化は何もないようで本当に良かった。
真っ赤だった彼女の顔も、徐々に元に戻っていった。
落ち着いて冷静になってきた僕は、ふと彼女の部屋の中をぐるりと見渡した。
……汚い。
いや、汚れているという意味ではない。
とにかく色んな物が散らかっている。
慌てていて気付かなかったが、あちこちに服や小物類や食事後の食器•袋などが散乱しているのだ。
まるでゴミ屋敷一歩手前の様相を呈している家の惨状に気付いた僕は戦慄した。
よくこれを踏まなかったなさっきまでの僕。
……そういえば、彼女の世話役が決まった日からチームの皆から憐れみの目を向けられていたような気がする。
まあ頑張れ……とか可哀想に……とか声を掛けられた覚えがあるが、その時の僕には何の事なのかさっぱりわからなかった。
が、僕は今その理由を理解した。
……彼女は私生活が凄くものぐさだったのだ。
フランスが生んだ、稀代の天才お姫様。
その真の姿を目の当たりにした僕は、なんだかモニョっとした気持ちになった。
――――――――――――――――――――
その日から僕は、ヴェニュスパークがチームに復帰するまでの休養期間中、彼女の家に足繁く通って世話を始めた。
部屋の掃除から料理の支度、洗濯、日用品の調達、etcetc……。
まるで彼女の執事になった気分だった。
いや、どっちかというとメイドか? まあどっちでもいいけど。
掃除しても掃除しても、次の日の朝に来ると何故か散乱している服や小物。
なんでやねん。と心の中でツッコミを入れながら彼女の世話を焼き続ける日々が続く。
服の山を仕分けしてたら、山の中から彼女の下着を引っ張り出してしまい、僕と彼女がキャーッと悲鳴を挙げるアクシデントもあったりしたが……。
まあ、僕としては概ね問題はなかった。と、思う。
というか、僕の事よりもヴェニュスパークの方に色々問題があった。
最初の日に、自分の怪我が原因なのに僕に時間を割かせて面倒を見てもらう事が申し訳ないから、と彼女は僕が家事をするのを遠慮しようとしたのだ。
それが仕事だから気にしないで。君こそ余計な事をせずに怪我を治すのに専念するのが仕事だよ。と僕は言って、手早くせっせと部屋の掃除を始めていった。
少しして彼女は所在無さげにしながらも、その日は寝室に戻って身体を休めてくれた。
それから一週間が経つと……。
《ねータクヤー。今日のお昼御飯なにー?》
キッシュとポトフだよー。
えー?またー? 私違うの食べたいなー。
ワガママ言わないのー。
ちぇー。
…………お母さんと娘の会話かな?
すっかり僕に面倒を見てもらう事に慣れたヴェニュスパークは、毎日毎日あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロ。
僕に心を許してくれたのは嬉しいが、最初の日の羞恥心はどこへ行ったんだろう……。
体力を出来るだけ落とさないよう軽い筋トレは欠かしていないが、基本的にリビングのソファーに寝転んでスマホを弄るかテレビを見てるか。
寝室のベッドの上で漫画を読んでるか。
ほとんどこの三つの行動しか見た事がなかった。
それでいて僕が帰ると、次の日にはまた伏魔殿が生まれるんだから、一体どういう事なんだよと思ったものだ。
ある日、リビングで筋トレをしているヴェニュスパークを横目に部屋の片付けをしていた時。
僕はふと違和感に気付いた。
彼女の筋トレのメニューは老トレーナーが指示したものだ。療養中の怪我人でもできる軽いメニュー。
だが彼女は本人も気付かぬ内に、トレーニングの負荷がかなり上がっていたのだ。
僕は片付けを中断して、ヴェニュスパークのトレーニングにストップをかけた。
《え?負荷が上がってる? うーん、でもトレーナーに言われたトレーニングって軽すぎるんだよね》
タクヤもトレーナーもこんな怪我で大袈裟だよ。と彼女はご不満の様子だった。
いやいや、仮にも君は療養中の身なんだからね……。
仕方ないなぁ。と思った僕は、一つの案を出した。
―――僕がトレーニングの補助をするから、多少は負荷を上げてもいい。
ただし、僕が見てこれ以上はダメ。と判断したらすぐにトレーニングをやめる事。
一応医療の心得があるからこそ僕はここに派遣されているわけで、それくらいの裁量は許されるだろう。とはいえちゃんと老トレーナーに許可は取るけど―――
僕がそう提案すると、ヴェニュスパークは快く受け入れてくれた。
早速スマホを取り出して、老トレーナーに連絡をする。短いコール音の後、老トレーナーが出てくれた。
―――その条件なら構わないわ。でもくれぐれも判断を誤らないように。それと何をしたか君が毎日報告をする事―――
という条件で許可をくれた。
《やったね。ありがとうタクヤ♪》
我らのお姫様の御機嫌は治ったようだった。やれやれ。
それからは、二人で一緒にトレーニングをするようになった。
僕もただ補助をするだけでなく、正しいトレーニングの仕方を彼女に補足する。
これをやる時はここを意識するのがいい。
このトレーニングにはこういう効果がある、などなど。
《なんか、タクヤって、トレーナーみたいだねっ……ッ》
トレーナー志望ですからね。
ほらほら、バランスが崩れてるよ。もっと腰を落として。
僕と彼女は一つ屋根の下で共に日々を過ごしていった。
暇な時は二人でゲームをしたり、お喋りしたり……。
思えば随分と僕との距離も近くなった気がする。
いつも一緒にいたせいで彼女も感覚が麻痺してきたのか。
風呂上がりにタオル一枚身体に巻いただけで浴場から出てきて、家中をペタペタ歩き回ったりもした。
僕はその時飲んでいた水をブーッ!!と吹き出してむせ返った。
はしたないからやめなさい!
――――――――――――――――――――
僕がヴェニュスパークの家に派遣されてから、数週間が経った。
明日は病院での再診査の日。これで診断に問題がなければ、晴れて彼女はチームに復帰だ。
僕は前祝いも兼ねて、少し豪勢な食事を用意した。
《
お褒めに預かり光栄でございますお姫様。
フランス人は舌が肥えていると言われるが、彼女の口に合っているようで良かった。勉強した甲斐があるというものだ。
幸い彼女の頭の怪我は、僕が診ている限りでは全く悪化することもなく、経過は順調。
これなら診察でも問題ないだろう。
そうしたら僕の任務も完了。今回の派遣も終了となる。
《…………》
……気が付くと、彼女の耳はペタンと倒れ料理を取る手が止まっていた。
どうかしたんだろうか。彼女が嫌いな物は入れてないはずだけど。
僕が訝しんでいると、彼女は眉を下げながら僕の目を見つめた。
《……ねえタクヤ。私がチームに復帰したら、タクヤはもうここへは来ないんだよね?》
僕は返答に詰まった。
老トレーナーから言われて始まった今回の派遣。
共に過ごした日々を思い返す。
奔放な彼女に振り回されながらも、楽しい毎日だった。充実していたと言ってもいい。
僕としても名残惜しい感情はある。
だから僕は、友達なんだからいつでも遊びにくるよ。と彼女に言った。
《…………友達……》
彼女の顔は晴れなかった。
僕は何故か、胸にチクリとした感覚を覚えた。
――――――――――――――――――――
翌日の病院。
久しぶりの診察。ヴェニュスパークの頭部の診断の結果、異常もなく復帰して問題なしと太鼓判を押してもらえた。
付き添いで病院に来ていた僕と老トレーナーは、ホッと一安心。
早速明日から貴方の鈍った体を叩き直してあげるわ。と老トレーナーが彼女に喝を入れる。
貴方も本当にお疲れ様。と、僕も今までの数週間に及ぶ苦労を
病院から出て、チームの事務所に向かう迎えの車に乗り込む。
僕とヴェニュスパークは一緒に後部座席に座った。
車が発進し、窓の外をドーヴィルの街並みが流れていく。
少し窓を開けると、ドーバーの潮風が車に入ってきた。
ヴェニュスパークは病院からずっと無言だった。
長い拘束を耐え忍んで、ようやくターフを走れるようになるというのに。
普段の明るい彼女とはまるで違う様子に、僕は訝しんだ。
そんな彼女に僕は声を掛けた。
無事にチームに復帰できてよかったね。
……その瞬間。ヴェニュスパークは寂しそうな笑顔を浮かべた。
思えばこの時、彼女のその笑顔の意味に気付いていれば、違う未来もあったんだろうと思う。
でも僕は気付かなかった。
だから未来は変わらない。
―――僕の想像以上に、僕は彼女に依存されていたのだ。