少なくとも僕が国籍変更するのは決定事項な件   作:筵針

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8話 女神の庭園 過去編③ ※微ヤン注意

 

 

 

 ―――ヴェニュスパークの様子がおかしい。

 

 老トレーナーのその言葉に、僕は自分の耳を疑った。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 ある日のチーム事務所。

 僕は雑用で、倉庫内にあるチーム備品の整理をしていた。

 

 ヴェニュスパークがチームに復帰してから、数週間が経過していた。

 彼女は今、ドーヴィルの街をロードワークで走りに出掛けている。

 しばらくは事務所に戻ってこないだろう。

 

 僕は備品の在庫管理の為、タブレットに入力された個数と実際の在庫に差異がないかを調べていく。

 

 30分ほど作業を続けていると、不意に事務所内から僕を呼ぶ声が聞こえた。

 呼ばれた僕は作業を中断して、事務所内に戻る。

 すると、老トレーナーがトレーナー室から顔を出して手招きしているのが見えた。

 

 なんだろう? 急ぎの仕事かな。

 

そう思いながら、僕はトレーナー室に入っていった。

 

 

 

 ―――座りなさい。

 

 若干威圧的に、僕に着座を促す老トレーナー。

 その姿に、僕は少し狼狽した。

 

 ……僕が何かミスをしてしまっただろうか? 心当たりはあまりない……はずだけど……。

 

 考えてもわからなかった。

 ……僕が何かマズイ事をしましたか?と、直接老トレーナーに聞いてみた。

 

 

 ―――……ヴェニュスパークの事よ。

 彼女が復帰してから、明らかに調子が悪い。

 いや、おかしいと言った方がいい。

 それは数週間のブランクのせいだとか、そういうものではない。

 もっと違うもの。メンタル面のものよ―――

 

 

 老トレーナーは、ヴェニュスパークの最近の走りがおかしい。という話を切り出してきた。

 ……そんなバカな。彼女は才能溢れるウマ娘だ。

 性格だって明るいし、そうそうメンタル面に不調を抱えるようなウマ娘ではないはずなのに。

 老トレーナーの話はまだ続いた。

 

 

 ―――……先に言っておくわ。貴方を責めるわけじゃないの。

 これは彼女の問題だから。

 療養中の彼女の世話を、貴方に任せたのは間違っていなかった。

 貴方は私の想定以上に働いてくれたわ。感謝している。

 実際に、療養前と後でフィジカルにほとんど影響が出ていないのは貴方の手腕のおかげよ。

 貴方は、よくやってくれた。

 ……やりすぎてしまうほどに―――

 

 

 僕は老トレーナーの話を聞いて、頭が真っ白になった。

 やりすぎた? 僕が?

 彼女を献身的に支えた事が悪い事だったと?

 

 

 ―――ヴェニュスパークは今、貴方がいる時といない時で、ハッキリとコンディションに差が出ている。

 まずはこれを見てちょうだい―――

 

 

 そう言って、老トレーナーが差し出してきた書類。

 そこには、ヴェニュスパークの復帰後のチーム内での模擬レースデータが記録されていた。

 僕はそれを手に取って、目を皿にして読み込んでいく。

 

 そこに記されていたのは、ヴェニュスパークの天稟(てんびん)が遺憾無く発揮された走りのデータ。

 いや、今までの彼女と比べても圧倒的に上回る、ともすれば異常とさえ言えるデータだった。

 

 精密無比なラップタイム、巧みな位置取り、レース勘、爆発的な上がり3ハロンの末脚。

 どれを取っても現役の競走ウマ娘に勝るとも劣らない。

 今のこのチームの、エースウマ娘にも引けを取らないデータだった。

 

 次はこれよ。と、老トレーナーが差し出してきたもう一つの書類。

 そこにも、ヴェニュスパークの復帰後のデータが書かれていた。

 

 

 ……トレーナー見習いの僕が読んでも、酷いものだとわかる。

 同じコースを走っても走破タイムは全く安定せず、刻んだラップはガタガタ。

 爆発的な末脚なんて見る影もない。

 とても天才ウマ娘と呼ばれている彼女のものとは思えない。素人が走ってもこうはならないだろうと言えるほどだった。

 

 ……なんだ、このデータは? 本当に同じウマ娘のものなのか?

 

 日付を確認すると昨日。

 もしかして……。

 

 

 ―――わかったようね。

 そう、それは貴方が昨日彼女を見ていなかった時の、模擬レースのデータよ。

 そして、1枚目の方は貴方が見ていた時。

 貴方は調子の良い彼女しか見てないから、わからなかったんでしょう。

 ……大事を取ったはずが、まさかこんな事になるなんてね。

 私の失態だわ―――

 

 

 僕は、もう何が起きているのかわからなかった。

 どうして?なんで? と思考がグルグルと頭を回る。

 混乱している僕の肩に、老トレーナーは皺の目立つ手を置いた。

 歴戦の老トレーナーの顔は、悲痛に歪んでいた。

 

 

 ―――今の彼女の心は歪み、壊れかけているのよ。

 繰り返すけれども、これは貴方のせいじゃないわ。

 ヴェニュスパークの才能ばかり見て、彼女の未成熟な心を理解しきれていなかった、私の責任なのよ―――

 

 

 老トレーナーは、僕の肩に手を置いたまま僕を慰めてくれた。

 しかし、僕にとってその慰めはなんの労りにもならなかった。

 こんな事態を引き起こしてしまった僕の心の内は、困惑と混乱に満たされたままだった。

 

 

 ―――貴方にやってほしい事があるの。

 こんな状態で、しかもまだ子供の貴方に頼むのはとても心苦しい。

 でも、今の彼女の心を守れるのは貴方しかいないのよ。

 私が今から貴方にお願いするのは、対処療法よ。ともすれば悪手にすらなりかねないかもしれない。

 それでも、私が彼女を真に救える方法を見つけ出すまで、彼女を守ってちょうだい―――

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

  

 

 僕は失意に沈んでいた。

 

 ヴェニュスパークの為を想い、彼女を支えたつもりだった。

 その結果がこれだ。 

 老トレーナーからあのデータを見せられたあと、僕は何も考えられなかった。

 一体どうして、なんでこんな事になってしまったのか……。

 

 ……僕は今、彼女の家に向かって街を歩いている。

 老トレーナーに、再び彼女の世話を頼まれたからだ。

 ……確かに、対処療法だ。僕は彼女に依存されているらしい。

 そして、いきなりそれを取り上げたから、彼女はおかしくなった。

 ならば再びそれ()を与えてやれば、一時的に元に戻るだろう。

 

 ……こんなやり方は絶対に良くない。それくらいは僕にもわかる。

 だが他に良い方法もない。このまま放置しても、歪んだ彼女の心は治るどころか、さらに壊れていってしまうだろう。

 老トレーナーとしても、苦渋の判断だったはずだ。

 

 本当に、どうしてこんな事になってしまったのか。

 

 あんなに溢れんばかりに輝いていた宝石のような彼女に、僕がこの手で取り返しの付かない傷を付けてしまったのだ。

 

 ポツ、と僕の頭に雨粒が当たった。

 空を見上げると、分厚い雨雲が頭上に広がっている。

 雨脚がどんどん強くなってくる。

 僕は傘も刺さずに、それを受け止めていた。

 

 ……僕には、この雨が罰に思えた。

 いっそこのまま雨に溶けて、消えてしまいたい思いだった。

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

《いらっしゃいタクヤっ♪ ってビショビショじゃない!? どうしたの!?》

 

 ―――聞き慣れた声だ。

 僕は雨に濡れたまま、ヴェニュスパークの家に到着した。

 インターホンを鳴らすと、彼女は待ち兼ねていたかのようにすぐに出てきてくれた。

 

《風邪引いちゃうよ!? こっちに来て!》

 

 僕は彼女に手を取られ、家の中に引っ張られていく。

 僕は彼女になされるがままだった。

 服を脱がされ、無理矢理浴室に押し込まれる。

 ……シャワーの蛇口を捻ると、暖かいお湯が流れ出した。

 大分体が冷えていたのだろう。心は沈んでいても、体は暖かさに癒やされているようだった。

 そのまま流れるお湯に当たり続ける。

 

 

 体を温めて浴室から出ると、リビングのソファーにヴェニュスパークが座っていた。

 テーブルの上には、湯気が立つカップが置かれている。

 彼女が僕の為に暖かい紅茶を淹れてくれていたようだった。

 

《はいタクヤ。これ飲んで》

 

 僕もソファーに座り、紅茶を頂く。優しい温かさだった。

 一心地つき、カップをテーブルに戻すと、彼女が身体をスッと寄せてきた。

 

 僕と彼女の間には、全く隙間がない。

 彼女は僕の手を握り、満面の笑みを浮かべて僕の顔を覗き込んでいた。

 

《トレーナーから聞いたよ? また私と一緒に暮らしてくれるって》

 

 僕は、そうだね。と返事をした。

 彼女の笑顔に、僕の胸はズキリと痛んだ。

 

《嬉しいなぁ。ほら、私って復帰してからあんまり調子が良くない時があって。でもタクヤがいてくれるなら大丈夫! また頑張れるから!》

 

 鈴を転がすような彼女の明るい声が、頭を通り抜けていく。

 ……僕は、彼女にちゃんと笑いかけれているのだろうか?

 

 彼女はずっと僕の目を見つめ続けて、楽しそうに喋りかけてくる。

 やがて僕は、その視線に耐えられなくなり、顔を俯かせた。 

  

 その時ふと、ガラスのテーブルに反射している僕の顔が目に入る。

 そこには、引き()った半笑いの僕の気味の悪い顔が映っていた。

 

  

 俯いたまま震える声で、ヴェニュスパーク。と名前を呼ぶ。

 

  

《パーク》

 

 ―――え?

 

《パークって呼んでよ》

 

 

 平坦な声。

 さっきまでの、嬉しそうな声とはまるで違う。

 

 彼女と繋がっている手が、ギュッと握られた。

 僕はハッとなり、俯いていた顔を上げて彼女の目を見た。

 

  

 彼女の綺麗な青い瞳は、(くら)い色に変わっていた。

 

 

 

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