北國で、駆けて 作:久保田
綺羅星の下で
「なかなか足が出てこないね、父さん……」
1975年、三月のある深夜。岩手・葛巻の外れ、馬淵川の流れが牧柵の隙間から聞こえる小さな牧場で、一頭のサラブレッドがまさに今、この世に生まれ出ようとしていた。雪国の夜更けは音という音を吸い込んで沈黙し、ただ風の唸りと馬の鼻息だけが、しんしんと降る雪の中に溶け込んでいた。この場において、少年はカーキ色の服に身を包んでいる。馬房の中で溶け込み、外の深々とした雪もあり、身は馬房に溶け込みそうだった。自分の息遣いは特に分からない。心臓の鼓動が聞こえてくる。
破水してから二十分が経とうとしていた。馬産において、通常は破水から五分以内に子馬の前肢が姿を見せる。だが、その常道からはすでに十五分以上も過ぎている。父が馬の後躯に手をかけて引き出そうと試みても、粘液が異様に多く、手が滑って掴めない。
「……初産にしては、随分かかってるな。あと三分、三分で足が出なければ、松前先生を呼ばなけりゃならん」
茂弘は、ぼんやりと小窓から外を見た。そこには、山と山とに囲まれた狭い谷地を、白いものが横殴りに吹き付けていた。屋根は軋む。風に煽られ、屋根のトタンがギシギシときしみ、積雪は容赦なく辺り一面を覆っていく。灯りは消えた馬房の壁にかすかに反射していたが、その温かな筈が冷たい光はまるで生まれくる命を憐れむ精霊の仕業のようでもあり、彼にはひどく不吉に思えた。
ラジオではつい一時間前、「この冬最後の寒波が峠を迎える」と言っていた。その言葉を聞いたときは特段の感慨もなかったが、今になってその凶兆めいた響きが耳奥で反芻される。もしかしてこれは、何か悪しきものの前触れではないか——そんなはずはないと反駁しつつ、そんな迷信めいた感情が少年の胸に、静かに広がっていく。
この繁殖牝馬「キクトモ」は、昨日まで確かに健やかに、蹄で雪を蹴りながら厩舎の周りを歩いていた。まだ春遠き北国の、凍てついた地面にも負けぬ力強さで。その記憶があまりに鮮烈であるがゆえに、目の前の苦悶する姿との乖離が、彼の胸を締め付ける。彼女はなぜここまで苦しまねばならないのか? 何の罪があって、今この吹雪の中、命の峠を越えねばならないのか? ——その問いが、少年の内側から湧き出し、胸を叩く。干し草の匂いは既に判然としない。
厩舎の隅では父と厩務員が小声で話していたが、寒さと緊張とで耳が遠くなっているのか、言葉は霧のように掴めない。ただ、「帝王切開」や「子宮捻転」など、過去に聞いた不穏な語彙が脳裏をちらつき、茂弘は不安に呑まれそうになる。
ふと、彼女の股のあたりに、かすかに赤味を帯びた棒のようなものが覗いた。茂弘は目を凝らす。足胞——仔馬の足が薄皮に包まれて産道に現れる、あの兆候だ。しかしそれは、通常の青白いものではなかった。赤い。血のような、警告の色。
「……足胞が、出た」
とっさに声が出た。少年の声に父が振り向く。そしてその目にも、赤い足胞が映ったのだろう、険しい表情を浮かべるとすぐに隣に指示をとばした。
「松男、ハサミを持ってこい」
父の声が空気を震わせた瞬間、茂弘の胸の奥にあった不安が確信へと変わった。昔、父が「助産の必要な場面」として話していた幾つかの例の一つ——赤い足胞。それは胎盤早期剥離や低酸素の兆候かもしれない。助けを呼ばねば。いても立ってもいられず、茂弘は父に告げた。
「父さん、俺、松前さんに電話する!」
「わかった! 急げ!」
厩務員がハサミを持って馬房へ駆け戻るのとすれ違いに、少年は脚に力を込めて飛び出した。
馬房を六つばかり駆け抜け、角にいた猫をぎりぎりで避けて滑り込み、雪の積もった縁に足を取られながらも、彼は電話のある管理小屋へ向かった。戸を開けると、木枠のガラスに凍りついた霜が白く浮かんでいる。室内の気温は外気とほとんど変わらず、吐く息が白く、受話器に指をかけるのも億劫なほど冷たい。
黒光りするダイヤル式電話は、父が昨年の冬に買い替えたばかりのもので、煤けた蛍光灯の下でじっと少年を待っている。電話の番号を一つひとつ、ゆっくりと確かめるように回しながら、彼は自分の焦りが手元にまで伝わっていることを感じた。
「電話してくるなんて……どうした、泰造。何があった?」
松前医師の声が、思ったよりもすぐに届いた。
「松前さん、大変なんだ。キクトモの足胞が……赤かった。父さんが今、切ってる……でも、すぐ来てほしいんだ」
言いたいことは山ほどあるのに、言葉がつかえて出てこない。口内が渇いて、喉が鳴る。焦燥が言葉を寸断する。息を整えようにも、心が急いてそれさえできない。
「なに……なんだって? 足胞が赤いのか!?」
「そう。出たのは出たんだけど、赤かったんだ……お願い、すぐ来て!」
受話器の向こうで、松前医師が何かを落とすような音がした。そして力強い声が返ってきた。
「わかった、すぐ行く!」
電話を切ると同時に、茂弘は駆け足で馬房へ戻った。父に連絡を終えた旨を告げると、父の顔にわずかながらも安心の色が差した。
そのとき、小窓の外にふと目をやると、一筋の流星が闇を横切った。雪雲の切れ間から、まるで宙を撫でるように。黄道付近……おとめ座流星群だろうか。つい先週の理科の授業で、その名を習ったばかりだった。流れる星が幾筋か、雪とともに空を滑り、ひとときだけこの世界に美をもたらした。
——美しさは、ときに残酷である。
少年の胸にそうした思いがよぎった。煌めく夜空とは裏腹に、この馬房の中には、生と死がせめぎ合う張りつめた空気が満ちていた。生まれてくる命が今、目の前で闇に攫われようとしているかもしれないのだ——。