北國で、駆けて 作:久保田
午後四時を過ぎると、窓辺に淡く射し込んでいた陽も傾きはじめ、蛍光灯の冷たい光が書架の影を長くした。夏の気配はまだ遠く、かすかに開けられた窓からは、潮の混じった八戸の風がすうっと流れ込んでくる。
その風に、静かにめくれるページの音が重なる。
鉛筆の芯が紙をなぞる、乾いた音もまた、沈黙に溶け込んでいた。
茂弘は校舎の隅にある自習席にいた。無機質な木目調の天板に、文庫ほどの厚さの問題集が一冊、開かれている。鉛筆の芯は幾度も削られ、手の中で少しだけ短くなっていた。
参考書の背には「数学Ⅲ 実力錬成」と印字されており、ページの上には、微細な文字と複雑な記号が幾重にも並んでいた。彼の眼差しはその上を静かに滑っていたが、決して漫然と追っているのではない。一つ一つの問いに、呼吸の深さで応じるように、解法を組み立て、問題の類型を推測し、解法を仮定して結論を頭の中でつなぎ合わせていく。
問いに集中するほど、世界の音は遠のいていった。
ページの余白に書かれた自分の字が、どこか他人のもののように見える瞬間すらある。
周囲にはほとんど誰もいない。期末考査が終わったこの時期、多くの生徒たちは気を緩め、早々に帰宅するか、街に繰り出している。そもそもこの自習室は校舎の端にあり、誰もこの静けさを必要としていない。
だが茂弘にとって、この沈黙は必要だった。静かに考えを進める時間は、身体の奥に溜まったものを少しずつほどくようでもあり、時に一種の「逃避」にも似ていた。
数式という無機質な記号たちを、まるで地図をなぞるように追っていると、不思議と呼吸が整ってくる。黙々と計算し、失敗し、誤答をバツ印で覆う――そんな行為の繰り返しが、彼にとっての「休息」でもあった。
茂弘にとって、ここは学校の数少ない「休める場所」だった。
その静けさを破るように、足音が近づいた。すうっと椅子が引かれ、誰かが隣に腰を下ろす。
ふと顔を上げると、智則がスケッチブックを小脇に抱えて、こちらを見ていた。
「……それ、狼星?」
茂弘が目を細めて尋ねた。
智則は無言で頷くと、そっとスケッチブックを開いた。そこには、何枚かのデッサンが並んでいた。まだ線の荒いラフもあるが、1枚――狼星が伏し目がちに立つ姿を捉えたものは、特に印象的だった。たてがみは風に流れ、口元はわずかに開き、しかし右目――見えないはずの眼差しの側が、どこか光を吸い込んでいるように描かれていた。
その右目の部分に、なぜか視線が引き寄せられる。
光のない影であるはずなのに、そこだけが微かに明るいようにさえ見えるのだった。
「特に、右目を描きたくて」
智則がぽつりと言った。
「そこが……誰にも見えてない気がするから。馬も、人も。そういうとこ、あるじゃん。見えない方ばっかり、隠されててさ」
言葉が、図書館の天井に消えていく。
茂弘はスケッチブックを見返す。それが、どこか自分自身の心のうち――言葉にならなかった思いの深部を覗かれているようで、奇妙な気持ちがした。
右目。
いつからだろう、誰かと話すとき、自分も無意識にそっち側を隠す癖がついていた。
「……なんか、気持ち悪いほどよくわかる気がするよ」
「俺も、最初はただ珍しい馬って思ってただけなんだけどね。会うたび、なんか気になってくる。あいつ、静かなくせに、目の奥、雰囲気がうるさいっていうか……変な言い方だけど」
智則の声は、図書館の空気よりも柔らかく、遠く響いた。
言いながら、彼はもう一枚のスケッチを取り出した。それは、狼星の顔を斜め後ろから捉えた構図だった。描かれた鼻先は風を嗅ぐように持ち上がり、口元にわずかに弛みがある。口の毛が丁寧に描かれていた。だが、その背後にある茂弘らしき人物――作業着姿の影――の方が、むしろ強い印象を与えていた。
「これは……俺?」
「うん。たぶんだけど。狼星ばっかり描いてたら、いつのまにか、そこにいる誰か――お前も描かないと成立しない気がして」
智則は、少し照れくさそうに笑った。
茂弘は言葉を失い、そのページをしばらく見つめていた。
スケッチの人物の視線は、まっすぐには向いていない。斜めに逸れ、何かに対して静かに距離を取るような目だった。それが、鏡のように、自分の気持ちの形を写し返している気がした。
何かを見つけたような気がした。けれど、それが何なのかは、まだうまく言えない。
「……変な話だけど、あいつの夢、最近見るんだよ」
智則がふと呟いた。
「夢の中で、狼星が柵の外から俺を見てる。ただ立って、何も言わないで。それだけなのに、起きると、なんか……空気が濃くなってる気がするんだ」
「……狼星が、夢に?」
「うん。たぶん、本当は俺らが見られてる側なんじゃないかって思うときがある。俺たちは描くとか飼うとか言ってるけど、実はあいつの方が……見てるし、選んでる」
その言葉に、茂弘はふと、自分の指の関節に染みついた青草の匂いを感じた。
言葉にしなかった日々が、ひとつずつ音を持って、胸の奥に浮かんでくるようだった。
茂弘は言葉を失い、そのページをしばらく見つめていた。何かを見つけたような気がした。けれど、それが何なのかは、まだうまく言えない。
不意に智則が、開きっぱなしの数学Ⅲの問題集に目をやった。
「……これ、3年のだよな。お前、ここまでやってんの?」
「……ああ、まあ。牧場で使える時間が限られてるから。学校じゃ早めに片付けたくて」
「凄いな。いや、ほんとに」
智則は素直に感嘆の声を漏らし、それから、やや真面目な表情で続けた。
「でも……ちゃんと寝てる?」
その問いかけに、茂弘は少し目を伏せて、笑った。答えはなかったが、その沈黙が答えのようでもあった。
図書館の時計が、午後五時を告げる鐘を小さく鳴らす。廊下の奥から、掃除用具の車輪の音が、カラカラと鳴っていた。
「そろそろ……母が迎えに来るかな。先に失礼」
席を立とうとした茂弘に、智則がふと声をかけた。
「……また、狼星のとこ行ってもいい?」
「ああ、もちろん。あいつ、智則の声、たぶん好きだからさ」
そう言って、図書館の扉を開けると、潮風がほんのりと生ぬるく頬を撫でていった。外はもう、夏の入り口に足を踏み入れていた。
掲示板の前には、昼休みになると自然と人だかりができていた。七月に入り、進学校らしく期末考査の成績優秀者が早々に貼り出されたのだ。白地に黒いゴシック体で印刷された「成績上位者一覧表」は、名札よりもはっきりと「この学校における位置」を刻みつける。
「……あれ、三位って……」
「……葉山?」
「本当で? あいつ、授業中寝てなかった?」
ざわつきが広がる。驚きの声に、軽い笑いも混じるが、そこにはあからさまな侮蔑や悪意はなかった。むしろ、淡い動揺が教室の空気を薄く震わせていた。
「農家の子なんだろ? 馬、世話してるって……そんな時間、どこにあるんだ?」
「……逆にすごくね? 朝とか、牧場で働いてんだろ?」
彼らは、ただ純粋に理解が追いつかないのだ。毎日顔を合わせていたクラスメイトが、実は自分たちの遥か先を静かに歩いていたという事実。それは、日々積み重ねてきた自信の足場を、音もなく揺らす。
教室に戻った茂弘は、ざわめきを感じながらも表情を変えず、自分の席へ向かった。特別視されたくて勉強したわけではない。けれど、自習室の静けさと、馬房の藁の匂いに包まれた朝の時間は、確かに彼にとっての「学び」の場所だった。
「……葉山、すげえな」
ぽつりと、誰かが呟いた。非難でも称賛でもなく、ただの事実の確認のように。敬意とも違う。ただ、認めざるを得ない、という空気があった。
教室は決して冷たくなかった。誰かが避けるわけでも、嘲るわけでもない。ただ、茂弘が歩いている道が、彼らと少し違っているというだけだった。
その距離は、静かに、確かに存在していた。
視線を感じた。真正面ではなく、斜め後ろ、窓際の席の方から。
智則だった。目が合うと、彼はゆっくりとまぶたを下ろした。何も言わず、何も問わず。ただ、そのまなざしだけが「わかっている」と告げていた。
茂弘は立ち上がり、ノートを閉じて教室の隅の窓際へ向かった。誰にもぶつからないよう、音もなく歩く。古い木枠の窓を開けると、外の風がふわりと入り、カーテンを少し揺らした。
風に乗って、どこかから牛の声が聞こえてきたような気がした。いや、錯覚だ。学校の周囲にはもう牧草地などない。だが、その声は確かに、何かを呼ぶようだった。
目を閉じると、土の匂いが鼻の奥をくすぐった。
葉山牧場の朝――水で濡れた蹄の匂い。風に乗って流れてくる青草の香り。そして、狼星が小さくいななく声。
教室の喧噪が遠ざかっていく。
このまま、窓を越えて歩いていけたらと思った。黒板でも机でもなく、蹄の音が響く土の上を、まっすぐに。
チャイムが鳴った。次の授業が始まる。
茂弘はゆっくりと、席に戻った。誰も彼を見てはいなかった。だが、どこかに狼星のいななきが、まだ残っているように思えた。
――それはまだ、風が冷たかった春の終わりのことだった。
県議選での再選を果たし、当選のお礼参りに葛巻を回っていた誠一郎が、葉山牧場に立ち寄ったのは、選挙から一週間ほど経った午後のことだった。用件は、牧場に遊びに来ていた息子・智則の迎えだった。
誠一郎が牧場の敷地に足を踏み入れると、すぐに牧場主の泰造が出てきて挨拶をした。作業着のまま深く頭を下げ、牧場特有の土と草の混じった香りを纏っていた。
「お迎えですか? 坊ちゃん、いま馬房の方に」
「そうか、案内を頼む」
牧場の奥、木製の梁がむき出しになった馬房の一角。藁の敷かれた一室に、智則の姿があった。制服のまま、馬の横でスケッチブックを抱え、鉛筆を走らせている。
「あれが狼星です」
泰造が言った。
誠一郎は、馬をちらりと見やった。両目が閉じられた若馬が、智則の近くで静かに草を噛んでいた。四肢はすらりと伸びているが、どこか線の細さが目についた。
「目が悪いらしいな」
「ええ、生まれたときの難産かはわかりませんが……。けれど、いい子ですよ。頭もいい。乗る者次第じゃ化けるかもしれません」
「そうか」
それきり、誠一郎は多くを語らなかった。馬に長居する様子もなく、智則を促して牧場を後にした。
日が傾きはじめた帰りの山道、誠一郎の愛車であるセドリックの車内には、ラジオの音が微かに流れていた。ニュースは連日、統一地方選の結果や、ベトナム戦争の国際情勢ばかりを報じていたが、誠一郎はダイヤルに手を伸ばすことなく、ただ運転に集中していた。
助手席の智則が、不意に話しかけた。
「さっきの馬――狼星って言います」
「聞いた」
「視野が狭いそうです。脚にも癖があったけど、最近は矯正が効いて、まっすぐ走れるようになってきてるみたいです」
「……ほう」
誠一郎は一言だけ返し、ハンドルを切った。
「でも、血統がよくないから、誰も欲しがらないって。調教師たちも、見向きもしないって……茂弘くんが、そう言ってました」
「茂弘?」
「彼が、狼星の世話をしてるんです。同じ学年で、同じクラス。家は酪農家で……普通なら農業高校に行くような子です。でも、うちと同じ八高に来た」
それを聞いた誠一郎の眉が、わずかに動いた。
「……馬の名前に星をつけるのは、競馬の世界じゃ珍しくはないが…。ああいう年頃なら大抵は天や王、あるいは栄冠にすがるような名前をつけたがるもんだが」
「茂弘くんは、星は見えなくても、そこにあるからって言ってました」
誠一郎は黙ってハンドルを握り直した。ダッシュボードの上を陽の名残が滑っていた。
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。
やがて誠一郎は、ぽつりと呟くように言った。
「血統ってのはな、分かる奴には敗北の証明でもある。あれだけの種牡馬を並べて、それでも走らない馬は、どれだけ血を重ねても意味がないってことを示してしまう」
智則は言葉の意味をすぐには理解できなかった。ただ、父の声の奥に、どこか苦い響きがあるのを感じ取っていた。
「けれどな、あの馬……狼星。あの目の奥には、負けてないって光が、わずかにあるような気がした」
誠一郎の視線は、道の先ではなく、少しだけ遠い記憶を見ているようだった。
それきり、再び二人の間に言葉はなかった。だが智則にはわかった。父が、ほんの少しだけ狼星に心を引かれたことを。
七月の夜。
葉山牧場は、昼の喧騒が嘘のように静まり返っていた。牛舎の奥で、搾乳機のかすかな音が遠くに響き、風が干し草の束をすり抜けていく。馬房の方からは時折荒い鼻息が聞こえてくる。
茂弘は厩舎の片隅で、狼星の寝わらを新しく敷き直していた。藁の香りが手のひらにまとわりつく。作業着の袖をまくると、うっすらと汗が浮いていた。昼の熱がまだ地面に残っていて、夜気になっても涼しさは感じられなかった。
狼星は、眠るでもなく、ただじっと彼の動きを見守っていた。片方の眼に反射する月光が、まるで問いかけるように揺れていた。
「……なあ、誰も見なくても、ちゃんと光ってるよな」
ぽつりとつぶやいた声は、藁に吸い込まれるように消えた。
茂弘は、ゆっくりと立ち上がった。腰に手を当てながら首をまわし、ふと天を仰いだ。
牧場の上空は、まるで墨を流したような濃紺だった。そのなかに、ぽつんと一つ、星が光っていた。
瞬いているわけでもなく、煌めいているでもなく、ただ確かに、そこにあった。
狼星。
名前を与えられたその夜空の一粒が、まるで呼応するように、彼の心に沁み込んでくる。
家に戻ると、居間には母が洗濯物をたたんでいた。テレビはすでに消されていたが、茶箪笥の上の黒電話だけが、そこにあるべき存在のように鎮座していた。
風呂から上がった茂弘が髪を拭きながら居間に入ると、まるでその瞬間を待っていたかのように黒電話が鳴り出した。
ジリリリリリ――
夜の静寂を破るその音に、母は少し驚いたように顔を上げた。
「……はい、葉山です」
受話器をとった茂弘の耳に、どこか聞き覚えのある声が届いた。
『あ、俺。海部。』
「……智則?」
『うん。夜遅くにごめん。でも、ちょっと伝えたくて。』
茂弘は、濡れた髪をそのままにして、受話器を持つ手を少し強く握った。
『父さんがね、狼星のこと……気にしてる。お前とあの馬の話、前に少ししたらさ。さっき伝えてきたんだけれども、来週、牧場に行ってみたいって』
「……ほんとに?」
『ああ。興味があるって。もしかしたら、話をするかも。いや、まだ分からないけど――少なくとも、無視できない存在だって言ってた』
電話の向こうからは、風の音がかすかに聞こえた。智則の家の庭木が揺れているのか、それとも遠くの町の音か。
『……目に、何があるか。父さんは負けてない目だって言ってた。だから、たぶん、何かが始まる気がする』
茂弘はしばらく黙っていた。
居間の天井に反射する裸電球の光が、少しだけ揺れていた。
「……わかった。来週、牧場で待ってる」
『じゃ、また』
受話器を置くと、黒電話は再び静かに沈黙した。
外に出ると、風が少しだけ涼しくなっていた。
納屋の陰から再び空を仰ぐと、さっきよりも星が増えていた。
そのなかで、茂弘は一つの星だけを、じっと見つめた。