北國で、駆けて   作:久保田

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旅立ちは

――札幌・大日本外科学会 晩餐会にて

 

 札幌の夜、ホテルの最上階にある宴会場は、黄金色の照明と穏やかな音楽に包まれていた。外は薄曇り、窓の向こうに夜景がちらちらと瞬き、街の息づかいが遠くにかすむ。エゾアジサイをあしらったテーブルには、白ワインと前菜が静かに並び、医療関係者たちの談笑があちこちで咲いていた。

 

 浅沼榮次郎は、会場の中央から少し離れた円卓に静かに座っていた。

 

 背広の胸元には医学校をでた頃にはまだなかった、銀白色を縁に帯びるフィルムバッヂが光る。政治家としての顔よりも、医師としての面影のほうが今日の彼には強く宿っていた。

 

 午後に登壇したシンポジウムでは、札幌を中心とした北海道の医療行政について、議員として、また医療人としての立場から真摯に語った。病床数の地域差、外科医の慢性的な不足、若手医師の流出――そのすべてを真正面から捉えた誠実な提言に、聴衆からは満場の拍手が送られた。政治の言葉ではなく、現場の熱で語った稀有な演説として、後に多くの医療誌にも取り上げられることとなったという。

 

 グラスの水を口に含んだとき、向かいの席に、柔らかく懐かしい笑みをたたえた男が腰を下ろした。

 

「……やっぱり、こういう席でも立ち姿は変わらんのう。あんたの話、久しぶりに医者の口から出た言葉らしい言葉だったわ」

 

「……大島か」

 

 浅沼の表情が、ほんのわずかに緩んだ。

 

 二人は医学校時代からの旧友であり、研修医時代には同じ外科チームで汗を流した仲だった。いまや大島は札幌市内の大病院で外科部長を務める一方で、道営競馬の馬主としても名を知られている。互いに多忙な身ながら、毎年季節ごとに自作の漢詩を送り合うような、どこか古風ながら希有な友情が続いていた。

 

「事前に配られた資料に演題が医療行政と地域構造って出てたから、政治家モードで来るかと思っていたけれど……しゃんと医者の顔だったな」

 

「政治も医療もな、人の体温を抜きにして語っちゃいかんと、ようやく思うようになってきた。おまえが時折よこす漢詩が、それをふと思い出させてくれるんだ」

 

「おや、それは詩人冥利に尽きるな」

 

 テーブルの上の酒が進み、やがて会話は、互いの近況から、道営競馬の話題へと移っていった。競馬場の観客減少、預託料の高騰、育成環境の偏在。どれも簡単には片づけられない問題ばかりだ。

 

「……それでもね、馬ってのは、時々、人の都合なんて全部すり抜けてくるんだよ。血統も、調教師の思惑も、全部」

 

 大島がグラスを置き、目の奥を細めて言った。

 

「最近、一頭だけ、そういう馬がいた。狼星って名前だ」

 

「……なんだと?」

 

 浅沼がゆっくりと顔を上げた。耳に残る名前だった。

 狼に、星。冷たいようでいて、どこかに熱を秘めた音の連なりを感じ取れた。

 

「生まれるときの、出産の状況がかなり悪かったそうで、生後直後に立ったものの、後で脚の悪さが分かった馬だ。母馬も難産のせいで産後の肥立ちが悪くて、まともに育てられると思われてなかった。けれどな、葉山牧場ってところで……ある高校生が、懸命に世話をしているらしい」

 

 浅沼は黙って耳を傾けた。語られる言葉の端々に、大島の感情の濃度が見て取れる。友情に根差した信頼ではなく、動物としての命の気配に触れた人間の、本物のまなざしだった。

 

「最初はね、誰も見向きしなかったらしい。でも、脚が伸びて、削蹄もうまくいって、眼の代わりに耳がすごく利くらしい。で、あの馬、目の奥がね――負けてねぇんだよ。誰にも」

 

 浅沼の胸の内に、どこか懐かしくも忘れかけていたざらりとした熱が広がった。それは若き日の情熱とも、政治の場で鍛え上げられた冷徹さとも違う――もっと直感的で、直情的で、名もない衝動だった。彼はかつて、大学の研究室で、一頭の馬の鼓動に耳をすませた日のことをふと思い出していた。

 

 それは政治でも、医学でも、まして競馬でもない、もっと原初的な感覚だった。

 

 目に見えない存在に対する、直感的な感応。

 

「……ロウセイ、か。どんな漢字を当てるんだ?」

 

「狼に、星だ。そのまんまよ。夜を駆けるような名前だろう?」

 

 浅沼は頷き、どこか遠い目をして、そっと口の中で呟いた。

 

「……狼星出野林、冷光宿眼前……ってところかね。まだ詩にはならんが」

 

「ほう……その一句、覚えておこう。いつか返歌するかもしれないしな」

 

 ふたりは笑い合った。

 そしてその夜、浅沼榮次郎の胸には一つの名前が、確かに刻まれた。

 狼星――忘れがたい、運命の呼び名として。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 七月中旬、薄曇りの空の下。洞爺湖を望む旅館「湖翠邸」の大広間には、北日本各地から集まった地方議員たちの談笑が満ちていた。

 

 障子越しに差す西陽は、湖面を黄金色に染め、蝉の声がかすかに襖の隙間から忍び込む。座卓には塩焼きにされた支笏の鮎、噴火湾のホタテ、そして厚岸から届いた昆布出汁の鍋が並び、酒の香りとともに、しばし政の場を離れた男たちの顔に緩やかな笑みを浮かばせていた。

 

 その一角、浅沼榮次郎はゆったりと座布団に身を預け、グラスに満たされた冷や酒を傾けていた。長年、北海道南部を中心に政治の現場を歩いてきたこの男にとって、こうした非公式の親睦会は、緩やかにして深く人脈を結び直す場でもある。

 

 その浅沼の隣に、ひときわ声の明るい男がいた。

 

「いやあ、浅沼先生、お変わりなくて。こちらにいらっしゃると伺って、ほっといたしました」

 

 海部誠一郎。岩手県県議、今農業支援に回っている男だ。数年前、ある地域振興シンポジウムで隣席したのをきっかけに親しくなり、互いに年賀状のやりとりを続けていた。歳も近く、酒の好みも似ていることから、久々の再会を二人とも心から楽しんでいた。

 

「まあ、少しばかり肩の荷を下ろしたと思ってくれりゃええ。そっちはどうだい、相変わらず岩手の山中を歩きまわっとるのかい?」

 

 浅沼が目を細めると、海部は照れたように笑って杯をあおった。

 

「実は最近、息子に連れられて牧場へ行きましてね。葉山というところなんですが」

 

「ほう。岩手にも馬をやってるところがあるのか」

 

「ええ、そう広くはないんですが、ちょっと変わった若馬がいまして」

 

 海部は懐から一枚の紙を取り出した。ざらついた画用紙に水彩で描かれた、月毛の馬の顔。背景はぼかされ、馬の瞳だけが印象的に強調されていた。どこか厳しくも、理知的な光を帯びていた。

 

「……君の息子さんの絵か?」

 

「はい。智則と言いまして、今春から八戸高校に入りました。思春期の難しい年頃でして、まあ、私にはあまり話さないのですが……この馬のことだけは、自分で出してきたんです。狼星という名前らしいですよ、この馬」

 

 ――狼星。

 

 浅沼は思わず、顔を上げた。つい数週間前、札幌で開催された大日本外科学会の晩餐会で、旧知の大島から同じ名前を聞いたばかりだった。

 

「……奇遇だな。その名前、ついこの間も耳にしたよ。札幌で、大島君から」

 

「えっ、大島先生が……?」

 

 海部が驚いたように眉を上げる。浅沼はうなずき、杯を置いた。

 

「彼が所有を検討していた馬の話だったかな。詳しいことまでは聞いていなかったが……偶然にしては、出来すぎている」

 

 少しの沈黙があった。外では、湖から吹く風が旅館の簾を揺らしていた。

 

「葉山の牧場では、どうも牧場主の息子さんが一人で世話をしてるそうで。うちの息子と同じ歳くらいのようでした。息子は、あの馬は、自分にしか近づいてこなかったなんて嘯いたりして、子どもらしいことを言ってましてね」

 

 語りながらも、海部の声はどこか誇らしげだった。政治のことを語るときとはまったく違う声音。浅沼にはそれが可笑しく、愛しく思えた。

 

「おまえさんも、すっかり親バカになっとるじゃないか。いや、それでこそ親だ。……にしても、妙なもんだな。同じ名の馬が、札幌と岩手と、まったく別の筋から話が出てくるとはの」

 

 浅沼の視線は、卓上の絵に落ちた。馬の瞳の奥に何かが潜んでいる。理屈ではなく、理性でもなく――もっと深い、直感に近いところで、何かに引かれていた。

 

 まるで見えない糸が、ゆるやかに、自分の手の中へと巻き込まれていくような感覚。

 

 浅沼はひとつ息を吐き、そっと呟いた。

 

「名前がいいな。狼星。北の夜空にしか見えない星の名か……あるいは、北の大地でしか育たない何かかもしれんな」

 

「先生、そんな詩人じみたことを……」

 

 海部が笑い、酒を注ぎ足す。浅沼も笑った。だが心のどこかに、既に狼星という名が、凛とした旗のように立ち始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 蝉の声が途切れ、夏の光が葉の間にまだらな影を作っている。風は湿り気を含みながらも涼やかで、どこか高原らしい透明さを帯びていた。

 

 葉山牧場の放牧地。その縁に立つ浅沼榮次郎は、草の香りに包まれながら、黙って柵に手を置いていた。

 

 彼の隣には、案内役の泰造と、同じく来訪中の大島の姿があった。大島はすでに何度かこの地を訪れており、きょうは浅沼を伴っての再訪だった。

 

「まさか、ここであの馬に再会するとは思わなかったよ……」

 

 浅沼の低い声に、泰造が笑みを浮かべる。

 

「菊友ですね。先生もご存知でしたか」

 

「ご存知どころかね……私は彼女を、ずっと追っていたんだ」

 

 菊友――栗毛の牝馬。中央競馬時代、流星のように短くも強烈な印象を残した馬。1973年の暮れにオープン戦を走ったあと、忽然と表舞台から姿を消した。引退したという情報はなかったが、その行方を知る者は少なかった。

 

 彼女が、ここにいた。

 

 数年越しの再会。だが、その老いた姿にはかつての覇気よりも、穏やかな気品が漂っていた。やや白さを帯びた顔に、長いまつ毛が静かに揺れている。

 

「歳は取ったが、眼はまだしっかりしてる」

 

 浅沼がぼそりとつぶやくと、菊友はその声に応えるように、ゆっくりと首を持ち上げた。しばし、視線が絡む。かつてパドック越しに交わした、あの一瞬の光が、今もどこかに残っている気がした。

 

 と、そのときだった。

 

 菊友の背後、丈の高い草の陰から、もう一頭の馬が姿を現した。

 

「……あれが、狼星です」

 

 泰造の声が低く響いた。

 

 光が反射して、まるで闇夜の獣のように黒々とした毛並み。しかし、光の反射か、光っている。引き締まった肩、まだ若く線は細いが、骨格には無駄がない。そして――

 

 その瞳に、浅沼は心を撃ち抜かれた。

 

 黒曜石のように光を抱いたその目には、どこか人間めいた、否、人間以上に明確な意志があった。

 

 子馬特有の無邪気さがないわけではない。だが、芯に宿るものが、違っていた。

 

 ――これは、偶然ではない。

 

 その直感が、雷のように全身を貫いた。

 

「浅沼さん……?」

 

 隣の大島が、気遣うように声をかける。だが浅沼は、その声に応えることなく、ただ放牧地の内側に目を凝らしていた。

 

「……この馬は、来るな」

 

 それは、自身でも説明のつかない言葉だった。だが、確信だった。

 

 その一言が、自分でもなぜ出たのか、浅沼には分からなかった。けれど、その口をついて出た言葉の重みが、骨の奥にまで沈んでいくようだった。

 

 まるで、あの菊友が何かを託したかのように――その血の中に、かつての記憶と夢が流れ込んでいるように思えた。

 

「菊友の仔か。道理で、あの目だ」

 

 そう言いながら、浅沼は一歩、柵に近づいた。狼星はその動きに気づき、ぴたりと足を止める。そして、警戒するようでもなく、ゆっくりと浅沼のほうを見た。

 

 ――これは、出会いだ。

 

 その一言が、浅沼の心に明確に立ち上がった。

 

 泰造は浅沼の表情を横目でうかがいながら、心の中でうなっていた。

 

 この放牧地に立って、馬を見ただけで何かを感じとる――そんな男がどれだけいるだろうか。政治家としての顔しか知らなかったが、今、目の前にいるのは、まるで別人のようだった。

 

 泰造が口を開いた。

 

「……もし、ご興味をお持ちでしたら、先生」

 

「買うよ」

 

 言葉は、ためらいなく出た。

 

「金は出そう。ただし、ひとつだけ条件がある。菊友の血を引く馬だということを、競馬に関わる者どもに、骨の髄まで思い知らせるような走りをさせねばならんのだ」

 

 大島が「ふっ」と鼻で笑い、泰造は少し目を丸くした。そして、何より狼星が、浅沼から視線をそらさなかった。

 

 北の放牧地には、夏の終わりを思わせる風が静かに吹いていた。日が傾きかけた空は、青というより薄墨色で、遠くで雲雀の声が弱々しく残っていた。陽光が長く伸びる影を地に描き、狼星の脚がそれにぴたりと重なる。まるで、大地と彼とのあいだに、静かな契りが交わされたかのように。

 

 運命の糸が、一本、しっかりと結ばれた瞬間だった。

 

 

 

 

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