北國で、駆けて   作:久保田

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夢、定まり

 

 夏の陽が傾き始め、放牧地に射し込む光は金色を帯びていた。

葉山牧場の柵の内外に立つ三人――浅沼榮次郎、大島、泰造。

しばし静寂が流れていたが、先ほどの浅沼のひとことは、その場の空気を決定的に変えていた。

 

「買うよ」

 

 小さな沈黙のあと、大島が少し笑いを含んで言った。

 

「相変わらず、決めると早いな、榮次郎」

 

「出会いに明日を持ち越すのは、損だ。――それが、馬でもな」

 

 浅沼はそう言いながら、懐から長財布を取り出した。風格のある革の財布。年季が刻まれ、どこか古い書斎の香りすらただよわせている。

 

 その中から静かに、一枚の小切手帳が姿を現す。

 

「えっ……せ、先生?」

 

 泰造が目を丸くした。 

 

「ここでですか……?」

 

「ここで、だ。目を見て買いたいから、ここで買う。事務所で数字を並べるだけの買い物なら、あんな眼は見えん」

 

 泰造は言葉を失ったまま、狼星と浅沼のあいだに流れる気配を見つめた。

 

 若馬―狼星―は、菊友の背後でまだじっと立っていたが、その瞳だけは、浅沼から一瞬たりとも離れていなかった。

 

 そして――その馬がふいに、鼻を「ふん」と鳴らした。

 

「……今、相づちを打ちましたよね?」

 

「うむ。良い返事だ」

 

 浅沼はポケットから万年筆を取り出した。古ぼけた、しかし手入れの行き届いた一本。

 

 蓋を開ける動作にすら、どこか礼節のようなものがあった。

だが、インクがかすれているのか、書き出しに少し詰まった。

 

「……先生、ペン先が乾いてます」

 

「わかっている。こういうのはな、まず手を温めてから使うものだ」

 

「そういう理由ですか?」

 

「少なくとも私はそうだった」

 

 浅沼は一呼吸おいて、ようやく筆先を紙に落とした。

 

 その所作を横から見ていた泰造が、焦ったように声を上げる。

 

「ま、待ってください! まだ牧場の帳簿もありますし、うち、放牧地で即契約っていう例が――」

 

「泰造さん」

 

 浅沼の声は、しかし柔らかかった。

 

「この馬を見て、買いたいと思った。この風の中、この空の下で。だから、ここで買う。もし牧場の方針と合わないというなら、あとで帳尻を合わせてくれたらいい」

 

「……いえ、そういう意味では……」

 

「それに、どうせ今から事務所で話すんだろう? なら、ひとまず気持ちだけ置かせてくれ。あとで正式に帳簿に乗せてもらえばいい」

 

 泰造は浅沼の真剣な眼差しに一瞬たじろぎながらも、しばらくして静かにうなずいた。

 

「…3000万円です。こればっかりは…」

 

「安いな」

 

 浅沼は少し震えながら、1枚小切手を千切り取り、さらさらと万年筆をたわませた。

 

 横で泰造が、そっと控えの用紙を差し出す。

 

「こちら、控えです……あ、これ印鑑……まだ乾いてませんね……」

 

「かまわん。風にあてて乾かす」

 

 風格と即断、そのあいだにひとつの小さな混乱が生まれていたが、不思議と不協和音にはならなかった。

 

「……承知しました。では、まず事務所へ。牧場としての帳簿や、譲渡に伴う確認もございますので」

 

「それでいい。それが筋だ」

 

 浅沼はゆっくりとうなずき、小切手帳を閉じた。

 

「狼星、だっけ」

 

 その名をもう一度、確かめるように口に出すと、柵の向こうで若馬の耳がぴくりと動いた。

 

「君はここで育った。だが、この出会いは偶然じゃない。――そう感じるのは、政治でも馬でも同じことだ」

 

 浅沼の目はもう一度、狼星の瞳を捉えた。その奥にあったのは、未来の鼓動だった。

 

 

 

 ――そして数分後。

 

 三人は放牧地を離れ、葉山牧場の古い木造の事務所へと向かっていた。

 

 まだ夏の日差しは明るかったが、木々の間からはヒグラシの声が微かに聞こえ始めていた。

 

「……榮次郎、その万年筆、まだ使ってるんだな」

 

 ふと大島が笑いながら言った。

 

「昔、あんたが選挙で落ちた夜、酔って床に投げたやつだろ?」

 

「覚えてたか。投げたのは記憶にないが、拾ったのは覚えてる」

 

「丈夫な奴だ。あの夜も、お前も、そしてたぶん……この馬もな」

 

 その音は、どこか静かな鐘のように響き――

 

 新たな物語の幕開けを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕日が放牧地の端に沈みかけていた。オレンジがかった光が、馬房の古い木材の節々に染み込むように差し込む。風が抜けるたび、乾いた藁の匂いと、ほんのわずかに残った飼料の甘い香りが空気に混ざった。

 

 馬房の奥では、飯田が古びたブラシで使い込まれた革の鞍をゆっくりと磨いていた。ぎし、と鞍架がきしむ音が、小さな虫の羽音と重なって消えてゆく。

 

 作業を終えた小泉は、スコップを壁に立てかけ、麦藁帽子を外して額の汗を袖でぬぐった。そして、乾きかけた藁の山に腰を下ろす。彼のズボンの裾には、いつの間にか藁屑と、わずかな泥がくっついていた。

 

「……まさか、本当に買ってくれる人が現れるとはな」

 

 その声は、半ば自分に言い聞かせるようだった。帽子でハエを一つ払いながら、小泉は誰にともなくつぶやいた。

 

 飼桶を片づけていた田口が顔を上げる。桶の水を裏返して切った彼は、ズボンの裾を軽く払ってから、小泉の言葉にくしゃりと笑った。

 

「さっき親方の話、聞こえましたよ。政治家らしいっすね。大島さんの紹介で来たとか……。あの人、最初っから狼星に目をつけてたっぽいっす」

 

 小泉はうなずき、帽子を膝に乗せたまま視線を放牧地へ向けた。夕光を浴びながら、馬たちがのんびりと草を食んでいる。その中に、ひときわ白い馬体が、菊友の影からふと姿を見せる。狼星だ。

 

「馬を見る目があるやつだったな。筋も骨も、気性の底も……あの馬の芯の強さを、きちんと見てた。うちの坊と同じようにな」

 

 言いながら、小泉は腰の後ろの木柱に手を回し、何かを指先でなぞった。そこには、かつていた馬の名が小さく彫り込まれている。狼星のではないが、その隣には新しく浅く、見覚えのある名があった。

 

 田口が鼻で笑った。

 

「坊って、茂弘くん? そりゃもう。あの馬のことなら、家族より詳しいんじゃないすか。こないだも、馬房の柵に狼星の落ちたたてがみ、拾って大事そうに持ってってましたよ」

 

 そのとき、奥で飯田が手を止めて口を開いた。彼は使い込んだ蹄鉄を古布で拭きながら、ぽつりとつぶやいた。声は低く、湿気を帯びた木材に吸い込まれていくようだった。

 

「……あの馬、ひとつの運がついたかもな」

 

 しばし、誰も返事をしなかった。ちょうどそのとき、一陣の風が馬房を抜けていく。小さな藁くずがふわりと舞い、飼葉桶の金具がわずかに揺れて鳴った。どこか遠くの放牧地で、別の馬がひと声、嘶いた。空の端が群青色に沈み始め、明かりの灯っていない厩舎の影が、じわじわと夜の匂いを連れてくる。

 

 小泉は黙って狼星の方を見ていた。あの馬が今朝まで過ごしていた馬房の床には、まだ少しだけ藁が乱れて残っている。蹄で蹴り崩された跡。朝のうちに暴れたわけではない、ただ、何かを考えていたような……そんな風に見える乱れ方だった。

 

 誰もが、ただ“よかった”と言うだけでは済まされない感情を抱えていた。誇り、安堵、羨望、そして、ほんの少しの寂しさ。それでも、心の奥で確かに思った。

 

 ──あの馬は、どこかへ行くべきだったのだ、と。確かにそう思った。

 

 次第に夕暮れが深ま。、馬房の影も長くなっていった。

 

 飯田が使っていた古い箒を壁に立てかけ、静かに手を払う。その仕草に、小泉と田口もつられるように動きを止めた。一先ずの作業を終えたあと、ひと息の時間。だが、今日はどこか、空気の温度が違っていた。

 

 馬房の中はすでに片づけられていた。飼桶は水で洗われ、干し藁も新しく敷き直されている。だが、まだ生々しい気配が残っていた。

 

 狼星が菊友と収まる馬房、柱の一角には、狼星が噛んで削ったあとがある。木のささくれがわずかに反って、夕光を反射していた。

 

 田口がそれに気づいて、小さく笑う。

 

「……あいつ、よくここ齧ってましたよね。朝来ると、いつも木くずが散っててさ。茂弘くん、怒ってたなあ。飾りじゃないんだぞって」

 

 誰も返事をせず、ただ視線をそこに重ねた。やがて、小泉が一歩、馬房の中に足を踏み入れる。

 

「……これ、残しておくか」

 

 そう言って、小泉は柱の傷を撫でた。節のように盛り上がった部分を指先でなぞりながら、声を落とす。

 

「癖が治った馬なら削って埋めるがな。――まあ、こいつのは、どちらにせよ消さなくてもいい」

 

「記念っすか?」

 

 田口の軽口に、小泉は肩をすくめた。

 

「跡があるってのは、悪いことばかりじゃねえよ。残ったもんに、気持ちが宿ることもある」

 

 その言葉に、飯田がふ、と鼻を鳴らした。

 

「上野の連中は、こういうのを爪痕って呼んでたな。うるさい馬ほど、忘れられん」

 

 小泉は笑いかけたが、すぐ口をつぐんだ。

 

 静かだった。馬たちが放牧から戻る時間が近づいてきていた。

 

 外から、別の若手が「戻しまーす」と声をかけてきた。放牧地の方から、蹄の音がかすかに響いてくる。乾いた音が、土と木のあいだを軽く弾んだ。

 

 小泉は馬房を出ると、引き戸を静かに閉めた。

 

「さあ、いつものが始まるぞ」

 

 田口と飯田も、それぞれの位置についた。馬たちは順々に戻され、空の馬房が次々と埋まっていく。鼻を鳴らし、首を振り、飼桶に顔を突っ込む馬たち――

 

 戻される馬たちのひとつひとつが、何かを知っているかのように、静かだった。

 

 夜が降りてくる前の、ほんの束の間の、敬意のような時間。

 

 最後の馬が納まり、戸が閉まる音が響いたとき、厩舎の中には、またいつもの夜が訪れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜風が縁側をすべっていく。蚊帳の外で、障子の紙がそよりと揺れた。

 

 夕方までの暑気をまだ幾らか引きずっていたが、夜の空気はほんの少し、季節の境を告げるような涼しさを孕んでいた。茂弘は湯上がりの素肌にタオルをかけ、火照った身体を持て余しながら、ちゃぶ台の脇に腰を下ろした。

 

 耳の奥に、まだ湯気の名残が残っているような、ぽうっとした感覚があった。髪からしたたる一滴が頬を伝い、畳に落ちる前に、そっとタオルで拭う。

 

 麦茶の入ったコップが、卓の上でうっすらと汗をかいていた。氷はもう半ば溶けていて、ひと口含んだ冷たさが、喉をすべって、胸の奥にゆっくりと沈んでいく。

 

 ちゃぶ台の向こうで、父の泰造が湯呑を手にしていた。湯呑の縁から立ちのぼる湯気が、薄く細く、夜気に溶けていく。まるでその湯気が父の呼吸と混じっているように、静かで、ゆったりとした時間が流れていた。

 

 背後の台所から、煮物の火を落とす小さな音が聴こえる。母がそっと蓋をずらし、火加減を確かめているのだろう。湯気と出汁の香りが、廊下を伝ってここまで漂ってくる。

 

 ──夏の夜だった。どこか満ち足りていて、そして、何かが去っていこうとしている予感が、まだ言葉にならないかたちで、空気の中にあった。

 

「……狼星、な。売れたぞ」

 

 不意に、父の声が空気を震わせた。まるで気象予報のように淡々と、しかしその声音の奥に、隠しきれない高揚があった。声を発したあとの沈黙が、妙に長く感じられる。

 

「……え? ほんとに?」

 

 茂弘は思わず、持っていた茶碗をちゃぶ台に置き、身を乗り出すようにして訊き返した。

 

「ほんとだ。今日な、牧場に来たんだ。浅沼って人だよ。前に言ったろ?大島さんのつながりで、昔から競馬見てるらしい。放牧地で狼星を見たとたん、小切手切った」

 

 その瞬間、茂弘の中で何かが静かに跳ねた。狼星──あの仔馬の名を聞いたとたん、頭の中に、あの夏草の香りが満ちる放牧地が広がる。日差しの中、首を振りながらこちらを見ていた大きな瞳。土と青草の匂い。鼻先のぬくもり。

 

「……そっか」

 

 喉の奥が熱くなったのを誤魔化すように、笑顔をつくった。声はかすかに震えていたが、必死に抑え込んだ。

 

「やっと……見つけてくれたんだな、狼星を」

 

 泰造は頷いた。どこか誇らしげで、どこか寂しげな表情だった。眼差しは茂弘を見ているようで、もっと遠く、放牧地の向こうに沈む夕陽を見ているかのようだった。

 

「まだ成長も不十分だ。血統だってしゃんと評価されてるわけじゃない。でもな、馬を見る目のあるやつが、ちゃんと拾ってくれた」

 

 ちゃぶ台の上で、味噌汁の湯気が、父の言葉に静かに応えるようにのぼっていた。どこか、夕餉の余熱と重なるように、ぬくもりが部屋を満たしていた。

 

 ──もう、ただの牧場の馬じゃないんだ。

 

 松崎先生も、片桐さんも喜んでくれる。確かに狼星は認められたのだって。

 

 その瞬間、茂弘の心に、ひとつの輪郭が浮かび上がる。育てたという実感。見つけられたという誇り。まだかすかに、名残惜しさは残っていたが、それを上回る静かな充足があった。

 

 泰造の話は、まるで一本の古い道をゆっくり辿るように、ぽつりぽつりと続いた。

 

「浅沼って人はな、歳のころは六十そこそこってとこだった。派手じゃないが、馬の前に立ったとき、目つきが変わった。ああ、こりゃわかってる人間だなって思ったよ」

 

 父の声は、あくまで淡々としていたが、言葉の端々に、確かな手応えとわずかな昂ぶりがあった。いつも無口で、感情をそう多く語る人ではなかった。だが今、語る言葉の奥には、まるでそれが茂弘自身のことのように、誇らしさがにじんでいた。

 

「狼星がな、放牧地で草を食ってた。人が近づいても逃げない。浅沼さん、柵のところで黙って見てて……そしたら狼星の方から寄ってきたんだ。鼻を伸ばしてな」

 

 泰造は一度、湯呑を置き、その指で卓の木目をなぞるようにして間を取った。

 

「この馬は、自分を見てくれる人間がわかるって言ってたよ。嬉しそうな顔してな。そのまま、即決だった」

 

 茂弘の胸の奥で、何かがゆっくりと沈んでいく音がした。

 

 狼星が――自分たちの手で生まれ、自分の掌で名前をつけ、育ててきたあの仔が、誰かの目に、価値あるものとして映った。そのことが、驚きよりも先に、じわじわと感情の輪郭を広げていった。

 

 嬉しい、というよりは、救われたような気持ちだった。

 

 狼星の未来が、この小さな牧場の放牧地を越えて、もっと広い世界へと開かれていく。そう理解できると同時に、自分の手の中から静かに何かが離れていく感覚も、同時に襲ってきた。

 

 自分が信じていたものが、ちゃんと伝わったのだ。

 

 胸の内にふと、小さな光が灯る。それは「別れ」の火ではなく、「始まり」の灯のようだった。

 

 父と並んで座ったちゃぶ台の上、静かに立ちのぼる湯気が、その光を優しく照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夕食の後、部屋で少し勉強してから居間に戻ると、薄手の服を羽織りながら母が新聞に目を落としている。その顔には、何も変わらぬような、けれど何かをすでに知っているような、そういう不思議な静けさがあった。

 

 茂弘は、何かを言おうとしたが、喉の奥に言葉がまとまらず、そのままちゃぶ台の端に腰を下ろした。母は特に顔を上げることもなく、新聞の端をそっとめくった。

 

 火を落としたあとの煮物の匂いが、部屋の隅にまだ残っている。蚊帳の向こう、風鈴がひとつ、夜風に鳴った。

 

 しばらくの沈黙が流れる。

 

 やがて、母がぽつりと言った。

 

「……あの子、あんたより先に旅立つのね」

 

 声には抑揚がなかった。悲しみも、喜びも、そこにはない。ただ、どこまでも穏やかで、どこまでも受け入れている声音だった。

 

 まるで、それがずっと決まっていたことのように。

 

 茂弘は、思わず母の顔を見た。

 

 新聞から目を離したその瞳には、特別な光も陰もなかった。ただ、その奥に、ゆるやかな波のような感情の広がりを感じた。

 

 言葉を返そうとしたが、何も出てこなかった。

 

 「あの子」は狼星のことだと、すぐにわかった。そして、「旅立つ」という言葉の意味も。

 

 ──先に行く。自分よりも早く、見えない場所へ向かっていく。

 

 それは、別れではあるけれど、喪失ではなかった。

 

 「……うん」とだけ、茂弘は言った。

 

 蚊帳の中の障子が、またそよいだ。

 

 母は新聞をたたみ、立ち上がった。そして、何事もなかったかのように台所へと戻っていった。包丁を洗う水音が、夜のしじまの中で小さく響く。

 

 残された茂弘の中には、さっきまでの名残惜しさに、ようやく輪郭が与えられていた。

 

 それは、寂しさではなく、人生のなかに時折訪れる──静かな通過点のようなもの。

 

 母の言葉が、感情に名前をつけてくれた。だから、もう大丈夫だった。

 

 狼星は旅立つ。そして、自分はここにいる。

 

 でも、ふたりの間にあった時間は、どこへも行かず、確かにここにあったのだと、そう思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜も更け、居間の灯りが落ちて、家じゅうが静まりかえっていた。

 

 茂弘は、自分の部屋の薄い布団に身を横たえながら、瞼の裏に何度も狼星の顔を浮かべていた。草を噛みながら、じっとこちらを見ていたあの目。小さなときに夜中こっそり厩舎へ様子を見に行った、冬の息白い夜。放牧地で泥だらけになった背中を洗った夏の日。

 

 ──そうだ、ずっと、見てきたんだ。

 

 その記憶は、今になって押し寄せてくるというよりも、初めから身体のどこかに染みついていたかのようだった。

 

 目を閉じても、眠れない。

 

 時計の針の音が、いつもより大きく聞こえる。遠くで、庭の木が風に軋む。

 

 いつのまにか、眠りに落ちていた。

 

 ──夢の中、彼は広い草原に立っていた。

 

 空は紫と橙がまじる黄昏の色で、風が草の海を撫でてゆく。その風にたてがみをなびかせ、狼星がいた。子馬のころとは比べものにならないほど、たくましい肢体。澄んだ瞳。一目で狼星とは気づけなさそうだか、分かった。より白く染まる背中には誰も乗っていなかった。

 

「おい、狼星!」

 

 茂弘は手を伸ばす。すると、馬はゆっくりと歩き出す。やがて、足が早まり、草原を駆け出す。

 

 茂弘は、その背に飛び乗るようにして追いすがる。手綱も鞍もないが、不思議と落ちる気はしなかった。風を切りながら、ふたりはひたすらに走った。

 

 だが、走るうちに、狼星の体がふっと霧にとけるように遠ざかっていく。

 

 茂弘の手が、宙をつかむ。

 

「まって……!」

 

 その声に、狼星が一度だけ、振り返った。

 

 そして──ゆるやかに顔を前に戻し、霧の向こうへと消えていった。

 

 その一瞬の振り返りに、何かが確かに伝わった気がした。

 

 あれは、さよならではなかった。

 

 ──もう、大丈夫だという、眼差し。

 

 夢から醒めると、部屋はすでにほんのりと白んでいた。障子の隙間から、夜明けの薄明かりが差し込んでいる。

 

 額に少し汗をかいていた。

 

 隣の部屋では新聞を広げる音、味噌汁の出汁をとる音。日常が、変わらず流れ始めている。

 

 だが、茂弘の中では、何かが確かに、昨日とは違っていた。

 

 狼星は行く。

 

 そして自分は、見送る側の人間になったのだ。

 

 その胸の奥には、不思議と寂しさはなかった。

 

 あの夢が教えてくれた。

 

 ──狼星は、もう自分のそばにいなくても、どこかでちゃんと走ることができる。

 

 その事実が、なによりも心を強くしてくれるのだった。

 

 縁側の方は、朝の光が差し込んでいた。

 

 茂弘は、眠ったのかどうかも曖昧な頭を起こし、ゆっくりと布団をたたんだ。母が台所で皿を洗う音が聞こえる。父はすでに納屋へ出たのか、家の中に気配はなかった。

 

 寝間着のまま縁側に出ると、庭の朝露がやわらかく陽を反射していた。草の匂いが、ほのかに鼻をくすぐる。夜に降ったらしい小雨が、木々の葉を濃く濡らし、まだどこかに、夢の名残のような湿り気が残っている。

 

 足元にしゃがんで、茂弘はそっと草に触れた。掌にひんやりとした水の感触が移る

 

 それでも朝は来る。時間は止まらず、進んでいく。

 

「……行ってこいよ」

 

 誰に聞かせるでもなく、彼はそうつぶやいた。

 

 その声に応えるかのように、一陣の風が庭を渡り、垣根の向こうで小鳥が一声、囀った。

 

 それは、まるで何かの始まりを告げるかのようだった。

 

 茂弘は立ち上がり、肩にかかる寝間着の襟を軽く直した。そしてひとつ、深呼吸をした。

 

 草の匂い。湿った土の香り。朝焼けに照らされた納屋の屋根。

 

 すべてが、いつも通りなのに、どこか違って感じられた。

 

 だがそれは、空っぽではなかった。

 

 その不在の輪郭が、むしろ茂弘の胸に、確かな重みとなって残っていた。

 

 そして、その重みこそが──きっと、何かを受け継いだ証なのだと思えた。

 

 ゆっくりと家に戻り、茶の間に足を踏み入れると、母が味噌汁の鍋に火をかけていた。

 

「起きたの? ご飯、すぐできるわよ」

 

「……うん」

 

 短い返事をして、茂弘はちゃぶ台に座った。

 

 湯気の立ちのぼる味噌汁の香りが、また一つ、日常の輪郭を取り戻していく。

 

 狼星はもう、身内だけの馬じゃない。

 

 ──けれど、自分の中に、確かに残っている。

 

 そして、これからも。

 

 その思いと共に、少年の一日は始まっていった。 

 

 

 

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