北國で、駆けて 作:久保田
親離れ、仔離れ
秋の気配と、放牧地の静寂が山間を包みこんでいた。
風が止み、夕方の光が牧場を撫でていた。
斜陽のなか、ススキが群れをなし、銀白の穂が、馬たちの静かな食み音にそっと溶けていた。遠く牛舎から垂れる匂いは、川を染めていた。
ここは岩手県葛巻。葉山牧場。
戦後に入ってから開かれた中山間地のこの牧場は、牛や馬をともに飼う珍しい一帯で、今でも山に囲まれたまま、ひっそりと暮らしをつづけている。
電気柵などない。重機の音も届かない。空の音、風の音、草を踏む音。音はそれだけだ。
その放牧地の中央に、一頭、月毛の当歳馬が立っていた。
名はまだない。いや、呼ばれれば振り返る程度の狼星という呼び名はあるが、出生届けに記されるわけではない。外向きには、単にキクトモの1975と呼ばれる。彼は、母の菊友とともに、草の中に埋もれるように立っていた。
夕刻の牧場には、少し早い秋の気配が流れ込んでいた。
遥か彼方の山稜に沈みかけた陽が、ゆるやかに黄金色に変わりながら空を染める。空気は乾いていて、昼間に汗ばんだ背中を心地よく冷ましていく。
カッコウもセミも、もう鳴かない。代わりに、草の根から虫たちの小さな音が立ちのぼる。あのころ聴いた歌が、どこからともなく口ずさめるような、そんな黄昏だった。
狼星は黙って青草を噛んでいた。
菊友はその隣に寄り添いながら、自分の分の草には手を出さない。
まるで、子がどの草を選び、どれを残すかを確かめるように、息をひそめ、ただ見守っている。
狼星の口元に草が挟まれば、菊友はそっと鼻先で払い落としてやる。蜂が止まれば、また払う。その仕草は、どこか人間の母親にも似ていた。
遠く、川向かいの柵沿いでは、乳離れ前の仔牛が母牛を追って小走りしている。
馬の放牧地とは別だが、同じように、親子は一緒に季節を生きている。
「……あの子、他の子らと違って、母ちゃんに甘えたりせんのに……いなくなると、どこか探すんだよな」
そんな声が風に混じって聞こえた。
振り返ると、小泉が金網のすき間から腕を組んで眺めていた。顔にはやわらかい笑みが浮かんでいる。その目には狼星と菊友の寄り添う姿が写った。
小泉は葉山牧場の厩務員のひとりで、どの馬にも名前より早く性格を覚えてしまう。
「最初はね、近づくのも躊躇うくらいだった。けど……いまじゃ、あののっぺいやつ、カンナにも頭下げるんだ。ちょっとずつ、大人になるもんだなあ」
カンナというのは、繁殖牝馬を引退した老馬で、この群れでは保母役を任されている。経歴はよく分からず、牧場主の泰造がセールで選んできた牝馬である。
彼女は若い馬たちのなかに自然と溶け込み、ときに叱り、ときに守る。
仔馬たちは、群れとしての「秩序」を彼女から学ぶ。まるで一つの家族のようだった。
狼星は、そうした仲間に混じりながらも、どこか一歩だけ距離を置いている。
無口で、表情も読みにくいのか、鳴くことも少ない。しかし、目はいつも母の姿を追っていた。
その視線は、まだ子どもだった。
だが、小泉も田口も、そろそろと覚悟していた。この静かな夕暮れの連なりが、いつまでも続かないことを。
子馬は成長しなければならない。牧場もまた、成長させなければならない。
陽が落ちる。
草の先に露がつきはじめ、放牧地の輪郭がぼやける。空の赤はだんだん藍に変わり、もうすぐ一番星が光りはじめるころだ。
そのとき、狼星がふと頭を上げた。
彼の満月の顔が、夕闇に溶け込む寸前に、静かに草の匂いを吸い込むようにして、菊友を見た。
何も言わず、何も吠えず、ただ目で「ここにいるよ」と伝えるように。
――きっと、まだ知らないのだ。
この静けさの先に、自分ひとりだけの夜が待っていることを。
九月の気配が空にのぼる。
日中の暑さが少しだけ和らぎ、葉の先にほんのかすかな冷気が宿りはじめる。
けれども、放牧地に立つ馬たちは、なにかを感じとっていた。目には見えぬ、別れの気配を。
この日、最初の「間引き」が行われた。
母馬たちのなかから、2頭が別の放牧地へと移された。
それは、何気ない風景のようでいて、放牧地の空気をひと息で変えてしまう出来事だった。
群れは最初、気づかぬふりをしていた。
だが、柵の外に母馬の姿が見えなくなり、その匂いも風に消えたころ、仔馬たちは異変を感じ始めた。
まず騒ぎ出したのは、星雲だった。
鹿毛の身体に、額の白い星がくっきり映える、牧場がもっとも期待をかけている牡馬。
父はチャイナロック、母父はシンザンという血統で、筋骨の張りもすでに群れ一番だった。
その星雲が、空に向かって嘶いた。
ひと声、ふた声。母を呼ぶ声は、やがて嗚咽に変わった。
彼は放牧地の柵際を何度も何度も走り回り、草のなかに鼻を突っ込んでは、消えた匂いを探し続けた。
その目尻から、涙がつっと落ちた。
「……泣いとるな、あいつ」
見回りに来た田口が、つぶやいた。
小泉は言葉を返さず、黙って帽子を深くかぶった。
彼らにとって、この光景は決して初めてではない。しかし、何度見ても胸の奥がひりつく。
星雲はひとしきり叫んだあと、疲れたように地面に崩れ落ちた。
仔馬があんなふうに座り込むのは珍しい。
その横には、保母馬のカンナが近づき、ゆっくりと頭を下げ、星雲の背に鼻先を寄せた。
まるで「もう大丈夫だよ」と囁くように。
その様子を、少し離れた草むらから見ていたのが、狼星だった。
彼は、星雲のように嘶かない。走り回ることも、涙を見せることもなかった。
だが、彼の耳はずっと柵のほうを向いたまま、わずかに動き続けていた。
音を聞いていた。声を探していた。
人間にとってもそうであるように、悲しみは、静かに訪れることもあるのだ。
「……あいつが一番、表に出さんのよ。不安とか、寂しさとか……」
小泉が、ようやく口を開いた。
田口は無言でうなずき、放牧地の草をじっと見つめていた。
星雲の嘶きが落ち着いたころ、カンナがもう一歩、狼星のほうへと近づいていく。
狼星は、はじめて、ほんの半歩だけ前へ出た。
保母馬の匂いを確かめるように、草の陰から鼻先を差し出す。
けれど、触れない。まだ近づききれない。心の裾を、引きずるように立ち止まる。
――けれどそれでも、小さな一歩だった。
きっと、狼星なりの「反応」だった。
見守る人間たちには、それが分かっていた。
「でも、朝になると、あいつが一番に起きて、草んとこにいる。黙ってるけど、ちゃんと生きてんだ、あの子」
小泉の声は、どこか誇らしげだった。
この静けさを知っている者だけが言える、遠いふるさとの語り口のように。
夕陽が沈むと、山から冷えが降りてきた。
放牧地の空気は張りつめていたが、それでもどこか柔らかい。
ひとつの母子が離れていくたび、馬も、人も、少しだけ変わっていく。
その日はまだ、夜の入り口だった。
霧が降りていた。
牧場を包む朝の空気は、まるで白布のように低く垂れこめて、ひと声もなく馬たちの影を薄めていた。
露に濡れた草が、わずかにきらめきながら、早朝の陽の兆しを受け止めている。
葉山の夏は、静かに終わろうとしていた。
飯田が一人、柵のそばに立っていた。
革の長靴に朝露がつき、裾を濡らしても構わずに立ちつくしている。
手には小さな麻縄――菊友を引き出すための合図である。
「……行くか」
誰に言うともなく、そうつぶやいた。
人も、馬も、別れに慣れることはない。
だが、別れ方には、人それぞれのやり方がある。そう信じていた。
柵を開けると、薄い霧の向こうから、菊友の白い面がゆっくりと浮かび上がってきた。
その傍らには、狼星が立っていた。まだ脚は細いが、首元にはきれいな筋が浮かんできている。
狼星は母のそばを離れず、まるで牧草の甘さと母の匂いとを一緒に味わっているかのようだった。
飯田が近づくと、菊友は一度だけ狼星の顔を見た。
鼻先をすこしだけ寄せて、そして、自分の口を草へと戻した。
そのさりげない仕草のなかに、どれほどの葛藤と、伝えきれぬ愛情が込められていたことか。
菊友のハミに縄がかけられる。
彼女はおとなしくそれを受け入れた。まるで、自分の役目が今日で終わることを知っているかのように。
狼星は、初めは何も反応しなかった。
彼は、ただ立っていた。母が歩き出しても、目をそらしたまま、柵の外に向かっていくその背を見なかった。
だが、小さく、鼻が鳴った。
その声は、誰にも届かないほどに小さく、そして深かった。
飯田が振り返ると、狼星はまだその場に立っていた。
地面に落ちた霧が、彼の前髪にふわりと絡み、朝陽のかけらが瞳に淡く射し込んでいた。
少年が、初めての孤独を知る瞬間。
それは誰にも見せたくない時間だった。
「……今日の夜が勝負だろうな」
牧舎の陰で待っていた小泉がつぶやいた。
飯田はうなずきながら、柵の外に消えていく菊友の影を見送った。
「ええ……泣くかもしれませんね」
「泣かんよ。あいつは吠えん。ただ……寝ないんだ。あの子の我慢はそういうもんだ」
田口が、小さくつぶやく。
まるで、自分の少年時代に重ねるように。
その日の放牧地は、やけに静かだった。
星雲は、前日ほど嘶かず、保母馬のカンナの背中に頭を預けていた。
他の仔馬たちも、それぞれに草を噛みながら、時折柵のほうを振り返っては、また地面に視線を落とす。
そして、狼星だけが、動かなかった。
誰とも交わらず、草にも手をつけず、朝から晩まで、母が立っていた場所に佇み続けた。
彼のまなざしは空を仰がず、地を見ず、ただ、時間を抱え込むようにうつむいていた。
放牧地にぽつんと立つ仔馬の影は。
昭和のふるさとの風景画のなかに紛れ込んでしまいそうなほど、寂しく、美しかった。
孤独な夜に、青草の香に、まだ眠れなかった。
夜が、山に降りていた。
谷を抜ける風が一段と冷たさを増し、草の海を揺らしている。耳を澄ませば、木々の梢が微かに鳴り、どこか遠くで牛の鈴がひとつ、ころんと鳴いた。月はまだ高く、雲に隠れたり現れたりしながら、放牧地を仄かに照らしていた。
――昭和五十年、岩手県・葛巻。葉山牧場。
町の灯はとっくに山の向こうへと沈み、今はただ、夜の静けさだけが放牧地を支配していた。飼い葉舎の奥から漏れる橙色の灯と、風見鶏が軋む音だけが、かろうじて人の営みの名残を伝えている。
その光の外れ、牧草が背を低くしてうねる夜の片隅に、一頭の仔馬が、立っていた。
狼星である。
雨上がりのような匂いが空に満ちていた。降ってはいないが、空気の奥底が湿っている。青草のにおいは強く、そして、どこか寂しかった。
彼はまだ眠らない。
星雲も、菊友のいない夜にひどく嘶いたが、今はもう眠っている。保母役のカンナの傍らに身体を寄せ、安堵するように小さな寝息を立てていた。
ほかの当歳馬たちも、それぞれ草むらに身を沈めるか、ゆったりとした姿勢入っている。
しかし、狼星だけは違った。
彼は柵の近くに佇み、ひとつも動こうとしなかった。
じっと、何かを待つように。何かを耐えるように。
風が耳元を鳴らしても、虫の羽音が首元をかすめても、狼星は一歩も退かない。
――彼は、母を呼ばない。
――彼は、泣かない。
それは強さか、それとも、幼さゆえの耐え方なのか。人間には測れない。
昔――この山の中で、風が吹けば木の実が落ち、川の水音で日が暮れ、牛の乳を搾って一日が終わった。
そんな、暮らしのなかに、誰にも見えぬところで「生きる」ことを始める命があった。
歌われる山の姿、川の音、親の顔。
それらが、すべて無言でこの風景の中に息づいていた。
狼星はそれらを、何も言葉にせず、ただ立ち尽くしながら受け取っていた。
孤独というものは、時に命を鍛える。
この夜の冷たさは、母のぬくもりが失われたことを骨の奥に知らせる。
けれどもそれは、成長の始まりに過ぎない。
牧草の葉が風に鳴る。
柵の向こうの森がざわめく。
眠らぬ月が、仔馬の背に光を落とす。
そして、ついに狼星は、首をもたげた。
夜の空を、ひとときだけ見上げる。
それからゆっくりと、群れの中心――カンナのいる方へと歩き出す。
その歩みは、まだぎこちない。
けれど、戻らぬ何かを、心のどこかで受け入れた者の足取りだった。
――その背中はもう、若駒だった。
葉山の放牧地の夜は、深く、静かで、どこか懐かしい。
夜が夜であることを教えてくれる風と、眠らない命たちの気配が、まるで遠い昔の民謡のように、谷を包んでいた。
そして夢高き若駒は、静かに、自分の居場所へと歩み始めた。
それは一頭の仔が、駒へと変わる夜だった。